表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
177/197

第126話 野菜を切るのがどうしてこんなにも難しいのか


挿絵(By みてみん)




野菜というのは、もっとこう……

“貴族の食卓に出てくる彩り担当の引き立て役”

くらいの存在だと思っていた。


味より見た目、色より配置、

「この向きが美しい」と侍女が言えばその向きが正解で、

「切り方が違います」と料理長に叱られればそれはもう反論の余地なくNGで、

なんというか――

要するに“完成品の野菜”しか知らなかった。


だが今の私は知る。

それらがすべて “切れてる状態の野菜は別の生命体” という前提で成り立っていたのだと。


なぜなら。


「ミナさん、指がっ! 指が危ないです!!」


「わ、わかってます! わかってるつもりなんですけど!!

なんでこのにんじん、こんなに暴れるのよ!?!?」


「暴れてません! ミナさんが滑らせてるだけです!!」


……はい、これが現実である。


にんじんは逃げない。

動かないし、走らないし、反撃もしてこない。


なのに――

なぜか私は一度も、きれいに切れたことがない。


包丁を握るたびに、

手元では“バトル”が始まるのだ。


ライルがため息をつきつつ説明してくる。


「まず、押さえ方が違うんですよ。ミナさん、へんに指立ってるじゃないですか」


「だって……折れたら嫌じゃない……?」


「折れないっすよ!?!?」


「だってっ……貴族の“指先”って、割と大事なのよ!?社交界とか……手袋とか……扇子とか……!」


「ここは山奥っす!!」


「知ってるわよぉぉぉ!!」


キレそうになるが、ライルのツッコミは正しい。


貴族社会では、指先ひとつで印象が決まる。

優雅に見えるか、幼いか、緊張しているか、嘘をついているか――

いや、そんなことはどうでもいいのだ。


今必要なのは、にんじんを等間隔に切る技術。

王女教育で習った刀剣術や舞踏のステップは、

野菜の前では役に立たない。


(剣の方がまだ扱いやすい……!!)


心の中で叫びつつ、私は再び包丁を握った。



すると背後から、ふいに影が差した。


「……ミナ」


「ひゃッ!!?」


振り返るとそこにはゼン様が。

苦戦する私を見下ろすように腕組みしたまま、厨房の入口に立っていた。


なぜ……なぜあなたはいつもそんな“静かなド迫力”で現れるの……

心臓に悪い……

でも好き……(何を自白しているの私)


彼は近づいてきて、私の包丁の持ち方をじっと見た。


「……なんで“剣を握るみたいな持ち方”してんだ」


「へ? 違います? 合ってると思ってたんですけど……!」


「剣は突くものだが、包丁は押すものだぞ」


「お、おす……?」


「そうだ。“斬る”んじゃなく、“押して切る”。力でねじ伏せようとするから逃げるんだ」


「にんじんが……?」


「にんじんが逃げるんだ」


ゼンが真顔で言うものだから、私はほぼ信じかけた。


ライルが慌てて補足する。


「いや! 逃げませんからね!? 親父が比喩で言ってるだけっすよ!?」


彼がちらっとライルを見る。


「……本気で逃げるやつもいるけどな」


「逃げるんすか!?!?」


「嘘に決まってるだろ」


「ちょっと!!!」


完全に弄ばれている。



思えばここ最近の私は、ずっと“負け続けて”いる。


畑では土に負け、

石に負け、

虫に負け、

そして今――にんじんに負けている。


しかもこのにんじん、別に手強い相手ではない。

牙もなければ、毒もない。

魔法を使うわけでも、意思疎通を拒むわけでもない。

ただそこに転がっているだけの、橙色の細長い野菜だ。


なのに私はその前で毎回息を詰め、肩を固くし、

包丁を構えた瞬間に全身がこわばってしまう。


失敗したらどうしよう。

指を切ったらどうしよう。

変な切り口になったら笑われるだろうか。


――そんな考えが、刃より先に手を止めてしまう。


王宮での失敗は、常に“誰かの目”と結びついていた。

一度の失態が噂になり、

一言のミスが評価を落とし、

「王女として相応しくない」という烙印になる。


だから私は、できる限り失敗しないように生きてきた。

いや、正確には――

失敗しそうなことに最初から触れないようにしてきた。


切られた野菜は、失敗しない。

すでに誰かが整え、誰かが安全を保証した結果だ。

そこにあるのは「食材」ではなく「完成品」。


でも今、私の目の前にあるにんじんは違う。

泥がついていて、太さもまちまちで、

切り口の正解なんてどこにも書いていない。


――どう切ってもいい。

――でも、どう切るかは“私の責任”。


その事実が、怖かった。


包丁を持つ手が震えるのは、指を切るのが怖いからじゃない。


「自分で決める」ことに、ただ慣れていないだけなのだ。


(……ああ、そうか)


胸の奥で、何かが静かに腑に落ちた。


私はずっと、

安全に整えられた人生を“食べる側”だった。

誰かが育て、誰かが選び、誰かが切った未来を疑いもせずに口にしてきただけ。


でも今は違う。


このにんじんは、私が切らなければ先に進まない。

失敗しても、誰も怒鳴らない。

切り口が歪んでも、命までは奪われない。


それでも――

怖い。


怖いけれど、それ以上に不思議と胸が熱い。


だってこれは、

“誰かの許可を待たずに踏み出す”という、

人生で初めての感覚だから。


私は深く息を吸い、包丁を置き直した。


完璧じゃなくていい。

上手じゃなくてもいい。

まずは――切る。



そんな調子で指導が始まった。


「にんじんを押さえる時は指を丸める」

「猫の手だ」

「包丁の刃は落とすように、すっと下げるんじゃなく“押す”」

「刃が仕事をするように動かす」


……あの。

ゼン様って、料理の説明までカッコいいんですけど?


いやいや、落ち着け。

これは料理指導であってプロポーズではない。


「やってみろ」


促されて、私は深呼吸をし――


すっ……

トン。


静かに、にんじんが切れた。


「……え」


「ほら。できるじゃねぇか」


「……切れた……切れた……!!

 切れました!?!? 見ました!?!?」


ライルが頷く。


「初めて、まっすぐ切れましたね」


クレアまで言う。


「ミナさん今のは“成功”です。おめでとうございます」


嬉しさが胸いっぱいに広がる。

もう、にんじん一個でこんなに幸せになれるなんて思わなかった。


私が嬉しさを噛みしめていると、ゼンがぽつりと言った。


「……まぁ、切れるようになるまでは、ここから千本だな」


「せ、せんぼんッ!?!?」


「“慣れ”ってのは、数だ」


「す、数……!」


ゼンは肩をすくめる。


「お嬢様育ちは関係ねぇ。

料理に貴族も庶民もねぇんだよ」


「……っ!」


胸の奥に、ぐっと響いた。


それは王女としての肩書きでも、

家柄でも、見栄でもない。


“私自身”への期待だ。


だから私は真っ直ぐ言った。


「やります!! 千本でも一万本でも!

いつかゼン様を越えるくらいの、最高の料理人になります!!」


ゼンの目が一瞬だけ大きく開いた。


「お、おう……気合は買うが……越えなくていいぞ」


「越えます!!」


「越えなくていい……!」


「越えます!!!!」


ライル(巻き込まれたくない)

クレア(団長、頑張ってください)



フェルミナはにんじんを手に取り、

再び構えた。


(千本なんて怖くない。

 だってこの場所で生きたいって思ったから。

 ゼンの隣に、胸を張って立てるようになりたいから――)


すっ……トン。


今日、二本目の成功。


「よぉし! 次もいくわよ!!」


ライルが言った。


「……ミナさん、今日、一番元気っすね」


ゼンが呟く。


「……元気なのはいいが、集中しろよ」


そして、クレアが静かに微笑む。


「――ミナさんは、きっと強くなれます。

 料理も。心も」


灰庵亭の厨房に、今日も温かい音が響いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ