表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
170/197

第125話 自由の代償



王宮を覆っていた喧噪が少しずつ薄れ、光泉の間にもようやく余白が戻り始めていた。光泉の間を出入りしていた官僚たちの足音も途絶え、建物そのものが深く息をひそめたかのようだった。


各部署の官僚や兵団の将校が三々五々と退出していく頃には、王宮全体が朝よりも深く重たい静けさに沈んでいく。


その静けさは決して落ち着きをもたらすものではない。

むしろ割れ目を布で無理やり覆い隠した陶器のように、どこかに手をかければ一気に崩れ落ちる――そんな緊張を孕んでいた。


七世は会議が散じたあともしばらく光泉の縁に置かれた白石の腰掛に身を預け、揺らめく光の筋をぼんやりと眺めていた。


泉のほとりを満たす温かな光はいつもなら彼に瞑想の時間を与えてくれるはずのものだったが、今はその輝きすらどこか遠く、頼りなかった。


長い治世の間、七世は幾度も国内外の難局に直面してきた。

反乱の兆しも、大陸間の摩擦も、条約を巡る諍いも経験した。

しかし――“娘の行方が分からない”という事態は、そのどれとも質が違っていた。


政治ではなく国の威信でもなく、ただ「父としての痛み」が胸に深く刺さっていた。


泉の水面が誰かの気配を察したようにかすかに揺れる。


そこへ、衣擦れの音が小さく響く。


「……お父様」


柔らかな声。

七世はその声を聞き、驚くことなくゆっくり振り返った。


そこに立っていたのは――

第2王女、アナスタシア・ルクレティア。


王宮の者であれば誰もが認める“静謐の姫”。

朝の喧騒の際には姿を見せなかったはずの彼女が、今は深い静けさを纏ったまま立っていた。


「アナスタシア……来ていたのか」


七世が問いかける声には、父としての安堵と政治的緊張の残滓が混ざっていた。


「はい。……お父様のお気持ちが少し落ち着かれるのを待っておりました」


アナスタシアは一歩近づき、七世の表情に一瞬で全てを読み取った。


父が国王ではなく、ただ“娘を案じる父親”として座っているのだということを。


アナスタシアはそっと腰を落とし、七世の隣に膝をつく。

光泉の柔らかな輝きが彼女の白金の髪に反射し、静穏な光の粒を天井へと散らした。


「……お父様。

フェルミナのことを案じておいでですね」


その言葉に、七世の肩がわずかに震えた。

短い、しかし深い沈黙が落ちる。


七世は長く息を吐いた。

肩の力がほんのわずかに抜けた気配が泉の光に揺れ、その横顔に刻まれた深い皺が父としての苦悩を静かに浮かび上がらせた。


「……あの子は、もう二十になる。

成人して、王族としての務めを誰より真面目に果たしてきた。

礼儀作法も政治教養も幼い頃から強いられて……それでも一度たりとも、不満を口にしなかった」


七世はそこで言葉を区切り、泉の底へ視線を落とす。


「だが国は、その娘に“均衡”という名の鎖を掛けようとしている。

条約のための婚姻……大陸の均衡維持……。

二十歳の誕生日すら、政治儀礼のために家族として祝うこともできぬ。

……そんな人生を、私はあの子に歩ませたかったわけではない」


その声音は、王ではなく一人の父のものだった。

為政者としての冷静さはそこには欠片もなく、ただ長年押し殺してきた悔恨が滲んでいた。


「本来なら、私が守らねばならんのだ。

娘が自分の人生を選ぶ権利くらい……私が、奪わせてはならなかった」


アナスタシアは胸が締めつけられた。

フェルミナの苦しみを知っていたからこそ、七世の苦悩も痛いほど分かった。

彼女は膝の上で組んだ指をきゅっと握りしめ、静かに言葉を返す。


「……お父様。

今朝、私が先に報告した“フェルミナの行き先”……

あの件、本当に……よろしかったのですか?」


七世は頷く。


フェルミナは昨夜、密かにアナスタシアの部屋を訪れ、誰にも言えなかった胸の内を吐き出した。


『――私、自分自身で選びたいのです。

たとえ短い時間でも、偽りではない“私の人生”を……』


その言葉に、アナスタシアはただ抱きしめることしかできなかった。


そして彼女は、フェルミナが“どこへ向かうつもりか”を知っていた。


――ガルヴァ山系の向こう。

――王宮の手が届かない、あの麓の村へ。


「……あの子はおそらく、心の底でお父様を信じていました。

自分の行動を知っても、急いで追わせたりはしないと」


七世は目を閉じた。


「だからこそ、私は“待つ”と決めた。

父としてのわがままかもしれぬが……

あの子に、ほんの少しでいい。

影のない世界を歩ませてやりたい」


アナスタシアはそう言う父を見つめ、胸に温かく痛いものが広がるのを感じた。


だが、同時に別の影も胸に落ちる。


「……ですが、お父様」


「……カシアンのことだな」


七世が静かに言うと、アナスタシアは息を飲んだ。


彼女はうなずき、言葉を選びながら続けた。


「はい。カシアンは……

今日の会議でも、見事に場をまとめてみせました。

誰も彼に反論できないほど理路整然として。

ですが――」


「“目的がどこにあるのか分からぬ”……か」


アナスタシアは驚いたように父を見た。


七世は苦笑する。


「アナ。

お前ほどではないが、私にも分かる。

あの子は手段を誤らぬが、同時に“正しさを信じすぎる”。

それが時に、人を追い詰めることにもなる」


アナスタシアの眉がかすかに揺れた。


「……カシアンが動けば、

捜索は“妹の保護”でなく“影部隊の権限拡大を正当化するための実績作り”になってしまう。

私はそれが怖いのです」


七世は目を細め、娘を見た。


「お前は、カシアンがフェルミナを害すると考えているのか?」


アナスタシアは首を振る。


「いいえ。カシアンは妹を“傷つけよう”とはしません。

ですが……

あの子の心を“理解しよう”とも、しないでしょう」


七世は深く息を吐く。


「……それが、あの子の限界なのだろう。

だが同時に、それが“あの子の役割”でもある」


アナスタシアの瞳が揺れた。


七世は静かに続ける。


「国には光と影が必要だ。

お前は光だ。だが、カシアンは影として必要なのだ」


その言葉に、アナスタシアは反論できなかった。


それでも、譲れない想いがある。


「お父様。

捜索は……最小限にしてください。

フェルミナは追われるために旅へ出たのではありません。

自由を求めたのです。

たとえ一時でも、それを奪っては……」


七世はそっと彼女の手に触れた。


「分かっている。

アナ、お前の言葉があったからこそ、

私は“待つ”と決めたのだ」


アナスタシアは息を飲む。


七世は微笑んだ。

年老いた、しかし深く澄んだ光のような微笑。


「……そして、カシアンが動き始めた今も。

私はあの子に“急ぎすぎるな”と伝えてある。

フェルミナが見える場所まで行っても、

決して急かすな、と」


アナスタシアの表情がわずかに緩む。


「……お父様」


七世は再び光泉を見つめ、その光越しに呟く。


「フェルは、自分の足で歩こうとしている。

ならば私は――

父として、その背中をそっと押すことしかできない」


アナスタシアは静かに頷いた。


「……フェルミナはきっと、戻ってきます。

その時、どうか……

“王女”ではなく、“娘”として迎えてあげてください」


七世は微笑した。


「当然だ。

あの子は、私の娘だ。

それ以上の立場など、あの子には必要ない」


二人の間に静かな光が満ちる。



七世が再び光泉へ視線を落としたとき、その瞳には別の像が浮かび始めていた。

泉に揺れる光は刻の粒を反射し、まるで遠い記憶の底を照らす灯火のように、七世の思考を静かに奥深くへと誘っていく。


「……ゼン・アルヴァリード」


その名は、声に出ずとも確かな重みで七世の胸中に形を成した。


国家の象徴として、幾千の臣下の上に立つ者として、

彼が一個人の名をここまで鮮明に思い描くことは珍しい。

だがゼンだけは例外だった。


終焉戦役のあの日々――

七世は今でも、あの長い戦の中で見た光景を鮮烈に思い出すことができる。


焼け落ちた戦線。

魔神族の瘴気で濁った空。

祈りを捧げても応えない神々。

国家も軍も均衡を失い、すべてが沈みゆく泥濘の中で、ただ一人、灰色の戦士だけが静かに立っていた。


ゼン・アルヴァリード。


神の加護を持たず、属性にも属さず、だがその身一つで七属性の奔流を受け止め、人々の絶望をただ正面から引き受けた男。


七世はその姿を、戦場の最前で確かに見ていた。


――あの時ほど、自分が“王であること”を悔いた瞬間はなかった。


政治も軍略も、神々の権威でさえ例外なく瓦礫の下に沈んでいく中。

必死に命令を紡ぎ、国境線の崩壊を食い止めようとする一方で、彼は見たのだ。


人知を超えた戦乱の渦中、己の命を顧みず、ただ目の前の誰かを守り抜こうとするゼンの姿を。


その姿は“英雄”という語では収まらなかった。

もっと別の何か――

人が本来持ちうる最も強い意志の形そのもののように思えた。


七世は光泉の揺らぎの中にその記憶をぼんやりと映しながら、静かに息を吐く。


「……本当に、あのような者が人の世に生まれたのか、と……

あの時の私は、そう思っていた」


アナスタシアは驚いたように父を見る。

七世がゼンについて語る時だけ、その声音には王としての威厳ではなく一人の“人間”としての敬意が滲む。


彼は続ける。


「ゼンは力を誇らなかった。

奇跡を起こしたとも思っていなかった。

ただ……目の前のものを壊さぬために、立っていただけだ」


戦後ゼンが歴史から“忘れられた英雄”となったのは、政治的な事情でも、軍事的な都合でもない。

彼自身が望んだことだった。


七世は知っている。


あの戦の後ゼンは勲功も地位も辞退し、ただ静かな山間へと去っていった。

「自分を語る必要はない」と、そう言い残して。


政治家でも軍人でも理解しがたい、だが確かに本物の気持ちと“意思の強さ”が、そこにはあった。


七世の胸に、微かな笑みが浮かぶ。


「……もしフェルが、本当にゼンの元へ向かったのなら」


アナスタシアの眉が柔らかく動く。


「お父様……」


七世は静かに頷いた。


「ならば、心配はいらぬ。

あの男ほど、誰かの“選択”を尊重する者はいない。

あの子を力で引き留めることも、王女として扱うこともないだろう」


フェルミナが幼い頃、

熱に倒れ窓辺で外を見つめていたあの日――

彼女の瞳に映った蒼竜騎士団の行進。

そして先頭を歩いていた青年の姿。


七世は、その時の娘の表情を覚えている。


あれは一目惚れではなく、

“憧憬”というより深い、未来への希求だった。


光の神の加護を受けて生きるはずの王女が、

自分の人生の光を“人”の中に見つけてしまった瞬間だった。


「ゼンは……あの子を縛らぬ。

そして、あの子の弱さも強さも、ただ受け止めてくれるだろう」


七世の声は泉の水面に反射して柔らかに揺れ、その響きには確固とした信頼が滲んでいた。


「戦場であれほどの強大な力を受け止めながら、

決して傲ることなく、人としての温かさを失わぬ者だ。

……あれほど信頼できる者は、世界を見渡しても多くはない」


アナスタシアが静かに問う。


「……彼を、そこまで信頼しておられるのですね」


七世は微笑んだ。

それは政治の表情ではなく、長い時代を共に生き延びた者への尊敬に満ちた微笑だった。


「私が信じるのではない。

あの戦場で――

“世界が彼を信じた”のだ」


アナスタシアは言葉を失った。


七世は続ける。


「そしてフェルは、その記憶を覚えている。

彼女が目指しているのは、ただ一人の英雄ではない。

“自分が憧れた世界”そのものだ」


泉の光が、七世の手の甲に淡い反射を返す。

老いたその手にはこれまで積み重ねてきた政治の重さと、父としての後悔が静かに刻まれていた。


「……フェルは必ず帰って来る。

その時私は、王ではなく父としてあの子を迎えるつもりだ」


アナスタシアは深く頷いた。


そして二人の周囲に満ちる光は政治的緊張でも王権の影でもなく、ただ“家族の静かな願い”そのものとなって光泉に溶けていった。



だがその一方で――

七世の胸の奥底では、

微かに冷たい現実の影が形を成しつつあった。


ゼンを信頼できるからこそ、

あの子の身は当面安全であろう。

しかし、帝国を取り巻く情勢はそう単純ではない。


影部隊、枢機院の強硬派、ネプタリアの反応、そして“均衡条約”の緊張の綻び。


フェルミナが選んだ自由は、

同時に国家の秩序を揺るがす可能性も孕んでいる。


それでも――七世は静かに目を閉じた。


(ゼンよ……

どうかあの子の選んだ道が、あの子自身の足で歩めるものであるように……

お前の静かな強さが、どうかあの子を守ってくれるように)


その祈りは神々の沈黙した世界において、

父として彼が唯一捧げることのできる、最後の願いだった。


光泉の輝きは、その祈りを包み込むように揺らめいていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ