第124話 白き影
光泉の間に満ちていた情報の混雑と“停滞”が、まるで形を変えて引き締まっていく。空気が一枚薄い膜を張ったように研ぎ澄まされ、そこへ立つ者たちは無意識に背筋を伸ばした。声を上げる者はいない。だが沈黙が、まるで巨大な鐘の余韻のように重く響く。
彼はまだ何も命じていないのに、視線が自然と道を開けるのだ。
行政院の長官は手にしていた書簡をそっと伏せ、枢機院の高官は胸元で指を組み直す。白影兵団の将校たちですら、武具の金具が音を立てぬよう姿勢を正す。
――この男が動き出した時、王宮という巨大な装置は“勝手に整う”。
そう理解している者ばかりだった。
政治的な序列でいえば、彼は第六王子。王家の中では決して高位ではない。
だが“影部隊の統括者”という立場は、序列では語れぬ重さを持つ。
国家の裏側を動かすのは、いつだって光ではなく影。
ゆえに、彼は序列以上の存在感を持っていた。
誰もが混乱の渦中にいながら、同時に“これで方向が定まる”と直感した。
その安堵がまだ言葉になる前に――カシアンの冷静な一言が落ちたのだ。
「私が行きましょう、父上」
彼は深々と頭を下げ、静かに言葉を添える。
「王女殿下のご安寧を第一としつつ……
王宮の混乱を最小限に抑えるためにも、迅速な行動が必要です」
父である七世は沈黙し、泉の光を映す瞳で息子を見つめる。
叱責でも、賛同でもない。
ただ「何を考えている?」と静かに問いかけるようなぼんやりした視線だった。
カシアンはわずかに微笑んだ。
その微笑みは七世にではなく、“場の全員”に向けられたものだった。
「……もちろん、大規模な動員は致しません。
父上が懸念されている『王宮を騒がせる行為』には、私も反対です」
安堵がひとつ、部屋のどこかで息のように漏れる。
その瞬間すら、カシアンは見逃さない。
彼は人が発する“感情のほつれ”を読むのが異常に上手かった。
「ゆえに――必要最小限、かつ“公にできる理由が整った部隊”のみを動かすべきです」
行政院長官が眉をひそめる。
「公にできる理由……とは?」
「王族護衛任務です。
ただし“定時巡回の拡張”として扱えば、国外はおろか国内にも余計な憶測を生みません」
枢機院の神官が頷く。
「なるほど……“特例の軍事行動”ではない、と?」
カシアンは微笑を深めた。
「ええ。あくまで“影部隊の内規”として対応するのです。
条約にも外交にも、一切抵触しません」
それは、王宮における“最も安全で、最も危険な言葉”だった。
――影部隊の内規。
それは、王族の私的権限でありながら
軍事にも行政にも干渉できる極めて曖昧な枠組みだ。
帝国にとって必要不可欠でありながら、
同時に最も監視しづらい領域。
(だからこそ、この状況では誰も反論できない)
議員たちは理解していた。
この混乱の中、最も傷が少ないのは“影の権限”を使うことだ。
そしてそれを最も的確に扱えるのが――目の前の王子だった。
七世が静かに問いかける。
「……お前が動く必然性は、あるのか?」
「はい。
影兵団は私の指揮体系で動いております。
他者を立てれば無用の混乱を生みますし……」
カシアンは淡々と続けた。
「――私自身が追うことで、最も“静かに”事態を収束させられます」
行政院の官僚が目を伏せ、枢機院の神官がため息を漏らす。
誰も反論はしない。
反論できない。
なぜなら彼の言葉は常に“最も理性的で、公的で、反論の余地がない形”に整えられているからだ。
だがその美しさは、どこか底の見えない湖のようだった。
七世はゆるく目を閉じる。
「……カシアン。
お前は、フェルミナをどう扱うつもりだ」
その問いに、室内が再び凍りつく。
どの議員も息を呑む。
神官たちは祈りの言葉すら飲み込む。
だがカシアンは迷わず答えた。
「保護するだけです。拘束も強制も致しません。
陛下の御心――“追い詰めるな”という命を、必ず守ります」
その言葉を受け、七世はすぐには答えなかった。
視線を落とし、泉の揺らぎを映す瞳は深い水底のように沈む。
――父としての感情。
――聖皇として背負う政治。
そのふたつが絶えずぶつかり合う場所に、いま彼は立っていた。
沈黙が長く落ちる。
だがその沈黙の中にある「重さ」を最初に破ったのは、意外にも行政院長官だった。
「……陛下。
王女殿下を“追わぬ”という判断は、私も理解いたします。
ですが、放置し続けるわけにもいきませぬ。
影兵団を動かすにしても、王族の中から“適切な指揮者”が必要です」
“適切”。
その言葉に、自然と多くの視線がカシアンへ流れた。
枢機院の神官が表情を曇らせつつも、静かに言葉を足す。
「……王族の中で、影部隊の組織構造と地上・地下双方の網を把握しておられるのは、第六王子殿下だけ。
我ら神官には、その指揮体系を理解しきれておりませぬ」
今度は白影兵団副長がうなずいた。
「影部隊は特殊任務ゆえ、外部の干渉なく動ける利点があります。
大規模動員は避けたい――陛下の御意を守るには、最も整合が取れましょう」
七世はその意見にすぐ返すことはなかったが、
“第三者の視点としての賛同”が積み重なるほど、判断の基盤が静かに形成されていく。
それらを聞きながら、カシアンは微笑を深めるでもなく、変わらぬ静けさを保ち続けていた。
「説得する」のではなく、「自然と周囲が納得する形」を作り上げる――
彼の常套手段だ。
七世はゆっくりと、息子へ視線を向ける。
「……ならば問おう、カシアン。
お前が動くことで、王宮の混乱は本当に収まるのか?」
問いは厳しいものだった。
父ではなく“聖皇”としての言い方。
カシアンは、まるでこの瞬間を待っていたかのように滑らかに答えた。
「はい、陛下。
私が前に立てば、下の者たちは“責任者が明確になった”と理解します。
混乱の原因は失踪自体よりも、“対応方針の不在”なのです」
議員たちがわずかに頷く。
たしかに――
現場の混乱は、王女の不在そのものより「命令系統の空白」によるものが大きい。
カシアンはさらに静かに言葉を重ねた。
「私は権限を濫用しません。
事を荒立てる気もありません。
ただ、陛下の御心を守るために必要な部分だけを整えます」
七世は眉根を寄せる。
「……フェルミナは、行き先すら分からぬ。
追い込むどころか、こちらの動きが重すぎれば、かえって脅かすことになる」
「承知しております。
ゆえに、大規模な動きではなく、
“痕跡を拾い、必要があれば接触するだけ”の最小限に留めます。
もし殿下が本当に『静かな時間』を望まれているのなら、私はその静寂を決して壊しません」
七世の瞳がかすかに揺れる。
父として、その言葉ほど救われるものはなかった。
しかし、聖皇としてはもう一段の根拠が必要だと分かっていた。
「……お前が行くことに、他勢力は異を唱えぬだろうか」
「唱えません」
カシアンは断言した。
「王族自ら動くことで、“情報を外に出さない”という姿勢を示せます。
外交院も納得するでしょう。
むしろ、誰も動かねば“放置”と受け取られ、国際批判の火種となります」
行政院長官も重々しく頷いた。
「……確かに。
最も批判が少ないのは、“陛下の信任を受けた王族の最小行動”ですな」
七世は静かに息を吐く。
息の震えは、彼がいかに葛藤しているかを示していた。
カシアンは、その揺らぎを逃さず補強するように言う。
「父上。
私はフェルミナを道具として見ておりません。
彼女は――私の、愛すべき妹です」
その声音だけは、ひどく柔らかかった。
その柔らかさが“本物か否か”を判断できる者はいないが、少なくとも七世の胸の奥には確かに届いた。
再び長い沈黙が落ちる。
そして――ついに。
七世は静かに、しかし確固とした声音で言った。
「……ならば、任せよう」
その言葉が落ちた瞬間、議員たちの肩から一斉に緊張が抜けた。
空気がふっと軽くなる。
だが、その安堵の裏で。
カシアンの影が――わずかに、だが確かに揺らいだ。
彼は恭しく頭を下げる。
「感謝いたします、父上。
……付随して、もう一つだけお願いがあります」
「申せ」
「――影部隊の“第三補助連絡網”を、私の裁量で使えるように」
場がざわめく。
第三補助網は、通常は災害や魔獣対策などの非常時限定の情報網。
王族が個人的捜索のために使う例はほとんどない。
行政院長官が困惑を隠せず言う。
「しかし……それは“非常時扱い”と捉えられかねませぬ。陛下が望まれぬ“大事”へと繋がる恐れが……」
カシアンはやんわり首を振る。
「大事にはしません。
外部にも漏らしません。
これはあくまで、“静かに準備を整えるための内部網”です。
兵を動かすためではなく――情報を整理し、動きを最小化するために必要なのです」
枢機院の神官の瞳が揺れる。
(……なるほど。
つまり殿下は“騒ぎにしないために、あえて影の網を使う”と……)
論理としては完璧だった。
七世はしばし考え――そして言った。
「……よかろう。
ただし、表沙汰になるような使い方はするな」
「もちろんです、父上」
その瞬間、誰も気づかなかった。
カシアンの瞳の奥で、淡い微笑の裏に潜む“青い冷光”が静かに沈んでいったことに。
――これで動ける。
――誰にも知られず。
――誰にも止められず。
「では、準備へ移ります」
彼は光泉を背に歩き出す。
白い外套が揺れ、その影が床に伸びる。
背後から聞こえる声々は、どれも甘く、無防備で。
「殿下が行かれるなら安心だ……」
「やっと収束へ向かう……」
「影部隊が動けば間違いはない……」
その声を遠ざけながら、
カシアンはゆっくりと瞳を伏せた。
(安心……ですか。
人は本当に――見たいものだけを見る)
白い影は、王宮を静かに、しかし確実に塗り替え始めていた。




