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第123話 錯綜する情報

────────────────────────



フェルミナ失踪から半日が過ぎた。


王宮は静かだった。

だがその静けさは、凍りついた湖面に走る細い亀裂のように危うく、

どこを触れても崩れ落ちそうな緊張を孕んでいた。


長い白石の廊下を、急ぎ足の連絡官たちが切羽詰まった顔で行き交う。

手に持つ書簡はすでに何度も読み返された跡があり、

封蝋の一部は焦りで指の跡が白く擦れている。


「至急、枢機院へ! 王女殿下の所在に追加情報!」

「外交院はまだ集まらないのか!? 遅れているぞ!」

「白影兵団第四隊、配置換え命令! 南門を封鎖、出入りを厳重に!」


声が重なり、反響し、それでも王宮全体の空気はどこかひどく“静か”だった。


混乱しているのに静か。

それは、言葉にしてはいけない重大な危機が

宮殿の壁に張り付いているからだった。



王宮東棟、情報局臨時詰所。


普段は書記官が資料整理を行う小部屋だが、今は十数名の官僚と神官、影兵が詰め込み状態で情報を交換していた。


地図が机に広げられ、

ろうそくに照らされた光の線が帝国南街道へ伸びている。


「ネプタリア王国にはまだ知られていないのか?」

「情報封鎖は維持されています。しかし……時間の問題です。

王女殿下ほどの要人が半日も姿を見せねば、必ず外交筋が嗅ぎつけます」


「条約上、“均衡婚姻”は国家義務だぞ。破綻すれば……」


「他大陸に付け入る口実を与える。特に雷大陸は――」


「必ず動くな。帝国の弱点として利用するはずだ」


その言葉が落ちるたび、部屋の温度は下がる一方だった。


七極均衡条約――国家同士の平和の“鎖”が、

ひとりの王女の決断で断ち切られるかもしれない。


それを誰もが理解していた。


だが、理解することと受け止められることは別だった。



扉が勢いよく開き、白影兵が息を切らして入ってきた。


「情報局より最新報告――

王女殿下は帝国南街道を移動中とのことです!」


部屋の空気が一気に揺らぐ。


「行き先は? 目的は?」

「護衛は? 同行者は?」

「ネプタリア側に漏れていないか!?」


質問が次々に飛ぶ中、報告官は苦い表情で続けた。


「……行き先は、ガルヴァ山系の方向かと」


「ガルヴァ……? あの山域には村も少ないはずだ。

何故そちらへ向かわれる?」


「おそらく、王宮を避けたい殿下の心理が――」


「心理に推測を入れるな! 根拠のない分析を報告に混ぜるな!」


官僚の怒声が響き、室内の空気が揺れた。

だが誰も反論はしなかった。

今は推測より“事実”が求められている。


ガルヴァ山系――

山脈は険しく、街道から離れればすぐに深い森林地帯が続く。

人の目を避けたい者が向かうには最適な地形であり、

逆に言えば捜索が極めて難しくなる場所でもあった。


「山系へ向かったというのは確実なのか?」

「街道沿いの商人や中継所の証言から総合した結果です。

ただし、どこを最終目的にしているかまでは……」


「当然だ。あのあたりには拠点らしい拠点がない。

となれば、殿下は明確な目的地を持っての行動ではなく、“王宮の追跡網を避ける”ことを優先した可能性が高い」


別の官僚が低く呟く。


「……つまり、捜索は難航するということだな」


誰も反論できなかった。


ガルヴァ山系は、地形的にも政治的にも、

“追いかけにくい領域”として知られている。


険しい地形、薄い人口、監視網の未整備。

どれも王女捜索には最悪の条件だ。


だが、この場の誰も “なぜそこへ向かったのか” を確信を持って語れない。

王女が何を考えていたのか、そこにどんな理由があるのか、

政治的背景と本人の心情のどちらが強く働いたのか――

すべてが曖昧なままだった。


それこそが、事態をより複雑かつ不明瞭にしていた。


情報局長は重い声で言った。


「……ガルヴァ山系へ向かったのは事実。しかし、

目的も意図も不明。よって当面の判断は“行方不明”のまま扱うしかない」


情報局長の声が大広間に響いたあと、

空気は重く沈んだまま、しかし水面下でざわめきを孕んだ。


すぐに、官僚たちの間で低い声の“憶測の応酬”が始まった。


「なぜあえてガルヴァなど……。殿下ほどの方が、もっと安全な街道を選ばない理由が分からん」


「追跡回避を目的とするなら、普通は東の交易路に向かうはずだ。山系は危険が多い」


「迷った可能性は?」


「いや、殿下は地誌の授業で山系の危険度を理解している。

“知らずに向かった”という推測は無理がある」


誰も確信を持てないまま、次々と意見が飛ぶ。


「使用人らしき同行者がいたという報告もある。

計画的だったのではないか?」


「だとしても、なぜ山だ?

ネプタリアとの婚約を嫌って逃げるなら、整備が整っている西へ出れば海路に繋がる。

北山系に向かう理由がない」


「……誘導された可能性は?」


その一言に、場がわずかにざわついた。


「誰に?」


「分からん。だが殿下自身が“誰かの助言を受けた”可能性は考慮すべきだ」


「そんな形跡があるのか?」


「形跡はない。しかし普段あれほど温厚な姫が、唯一監視の薄いルートを正確に選んでいるのが不自然だと言っている」


沈黙のあと、別の者が低く呟く。


「……つまり、殿下は追跡されづらいことを理解したうえで、意図的に山へ入ったと?」


「そうなる。あの道は兵站も薄いし、魔獣の出没率も高い。普通の王女なら避けるはずの場所だ」


しかし、また別の派閥が反論する。


「いや……殿下は幼い頃から王宮の閉塞感に苦しんでおられた。

“人の少ない場所へ行きたい”という感情的動機で十分では?」


「感情で山に入るのは無謀すぎる。殿下は性格こそ優しいが、判断力に欠けてはいない」


「では他大陸の関係者……?」


「まさか! そんな接触があれば、黒鐘局が黙っているはずが――」


「黙るだろう、必要があればな」


空気が重く軋む。

誰もが“それ以上踏み込めば政治問題になる”と理解していた。


そこへ、外交院側の官僚が口を開く。


「……一つ気になる点がある。

ガルヴァ山系は、現在いくつかの国境監視線の“盲点”だ。もし姫が他大陸へ向かうつもりなら、あの霧を抜けた先の海域は一つの候補となるだろう」


「姫が……国外脱出……?」


信じられないというように声が震えた。


「あり得ん。殿下には目的がない。

国外に出ても庇護は受けられん。危険すぎる」


「危険を承知の上ならどうだ?」


「……“追われる身”になれば、どこが安全だと思う?」


沈黙が落ちる。


王宮の誰もが理解していた。

フェルミナが“追われる”と感じていた可能性を――

しかしそれを口にすれば、王族が王族を追い詰めたことになる。


それは政治的自殺行為だった。


別の官僚が声を絞る。


「だが……誘拐ではないことは確かだ。殿下は自分の足で歩いて出た。つまり、殿下は“何かから距離を取りたかった”」


「婚約か?」


「プレッシャーか?」


「王宮の監視か?」


三つの言葉が重なり、誰も続けられなくなった。


王女の失踪は、王宮全体が見ないふりをしてきた“積み重ねた歪み”を容赦なく突きつけていた。


情報局長が最後に締める。


「理由が何であれ――殿下は追跡の難しい道を選んだ。

それだけは事実だ。

これは、軽い家出でも気まぐれでもない。“覚悟のある行動”だ」


重い沈黙が落ち、誰もが皆息を飲むことさえ忘れた。


フェルミナ王女が選んだ東の山道は、ただの逃走ルートではなかった。


それは、王宮が決して踏み込んでこない“自由の道”だった。


そしてその道を選んだ理由だけが、誰の憶測にも届かない場所にあった。



別室では各影兵団の配置調整が行われていた。


「第三隊、王都外周を巡回。不審者がいれば即刻報告せよ」

「情報隠匿は徹底だ。王女殿下が“誘拐された”と外部に思わせるな」

「“自発的失踪”を知られれば外交問題になる。――気を抜くな」


兵団長が怒号を飛ばせば、若い騎士たちの表情は緊張で硬くなる。


「……しかし、王女殿下は本当に帰還を望んでおられるのでしょうか?」


その呟きに、周囲が一瞬固まった。


誰も答えない。

もし「望んでいない」と認めれば、

王女を無理に連れ戻す行為が“人権侵害”や“政治の失敗”として非難される。


しかし――現実は誰より王女自身が分かっていた。


彼女は帰りたいのではなく、一度でいいから“自分の足で歩きたい”だけだったのだ。



さらに王宮北塔では、外交院が緊急招集されていた。


厚い扉の内側で、官僚たちが机に向かい合い、過剰なほどの緊迫した声が交錯している。


「ネプタリアの王太子に知られれば、同盟破綻は免れぬ」

「いや、まだ嘘の説明はできるはずだ。“療養”などの名目で――」

「信用できるか!? 先方は帝国を疑っているのだぞ」

「条約上、婚姻は外交義務だ。破談になれば評議会が――」


「七極評議会が帝国非難を開始する可能性がある」


部屋が凍りついた。


七極評議会――

世界で最も大きな“光と闇のバランス”を監視する機関。


そこが帝国を非難すれば、世界の国際情勢は再び緊張へ傾く。


官僚たちは顔色を失い、

「どうする」「どう誤魔化す」「どの派閥が責任を取る」

という小さな利害に囚われ始める。


光泉の間には王宮中枢の要人たちが続々と集まり始めていた。


――行政院長官、外交院筆頭官。

――枢機院の高位神官。

――白影兵団将校。

――王族側付きの侍従官。


本来なら聖皇が祈りと瞑想を捧げる静謐の聖域で、椅子の脚が磨かれた石床を擦る音が緊張の音として響く。


会議の名目は“情報確認”。

だが実際は、誰もが口に出せない焦燥を共有するための場に近かった。


「――殿下の所在、いまだ確定せず。

目撃情報は帝都南門を出た以降、途絶しています」


情報局の書記官が報告書を読み上げる。

紙の端は何度も握られたせいでしわが寄り、声もどこか乾いていた。


「護衛も連れずに……? 本当に自発的な外出なのか」

「侍女のひとりが同行しているようですが、行方は共に不明です」


「……やはり、逃げたと?」


誰かがそう言った瞬間、会議室の空気がぴたりと止まる。

“逃亡”という言葉は、王族に使うにはあまりにも重すぎた。


神官の一人が低く咳払いする。


「我らが聖皇家の姫に対し、そのような表現は――」

「だが実際、所在不明なのだ!」


行政官が苛立ちを隠せず言い返す。


「街道封鎖を出すにも、公式な理由が必要だ。

“お忍びの旅”などと説明して通用する状況ではない!」


誰もが互いを責めるでもなく、ただ焦りの矛先を探していた。


書記官が震える指で地図を差す。


「南街道を東へ進んでいけば、すぐガルヴァ山系に入ります。

あの山は……地理的に監視が難しく、結界も薄い。

追跡隊を送るなら、早急な判断が――」


「だが聖皇陛下の許可なしに動かせぬ」


枢機院の高官が首を横に振る。


「姫を“保護”するにしても、軍を動かせば外部が騒ぐ。

外交院がまだ状況を掌握していない今、

噂が広まれば、国外に“婚姻破談”と受け取られる危険がある」


「つまり、何もできんのか?」


苛立ちがにじむ声があがる。


白影兵団副長が立ち上がった。

鎧の金具が軽く鳴る。


「せめて街門と街道の監視網を再構築すべきです。

殿下が本当に東のルートに進んでいるなら、必ず足跡が残るはず」


「兵を出せば噂が立つ!」

「出さねば失踪が長引く!」


言葉がぶつかり、会議の場に微かな熱がこもる。

その間にも書記官たちが走り、光泉の周囲に新たな報告を運び込む。


「――帝都南区で“王族の馬車らしき影”を見た者が」

「“聖女に似た娘が”という噂が市井で広まっております」

「市場の記録では、殿下の紋章入りの衣装箱が一つ――」


情報が錯綜し、事実は薄まっていく。

それでも会議は止められない。


静かにその場を見守っていた聖皇セント・ルクレティア七世が、やがて小さく息を吐いた。


「……皆の意見は理解しておる」


立ち上がった七世の声は、年老いた身体に似合わぬほど澄んでいた。


「だが、フェルミナを追い詰めるような真似はするな」


短い言葉。

だが、その響きに全員の動きが止まった。


父としての声音――。

だが同時に、それは“国家の決断をためらう”危うさでもあった。


行政院長官がためらいながら口を開く。


「陛下……。お気持ちは痛いほど理解いたします。

しかし、殿下のご婚約はすでに国際条約の一部。

もしこのまま消息不明が続けば、ネプタリアに誤解されるおそれが――」


「誤解など、最初からある」


七世の言葉は冷ややかだった。


「世界は常に帝国を疑っておる。

いま大切なのは……娘を、ただ“見つける”ことだ」


その言葉に、誰も即答できない。

“連れ戻す”でも“拘束する”でもない――。

聖皇の言葉はあまりに個人的で、この場の政治とは噛み合わなかった。


やがて一人の神官が小さく問う。


「……陛下、では、どのような規模で動くべきか」


七世は答えず、ただ泉を見つめた。

揺らぐ光がその瞳に反射し、まるで沈黙そのものが形を取ったかのようだった。


会議の空気は、もはや誰も主導できない“待機”の気配に包まれていた。


そして、その重たい沈黙を破るように――

扉の外で控えていた近衛が静かに一礼し、告げる。


「陛下、第六王子殿下がお見えです」


室内の空気が、ぴんと張りつめた。


誰もが顔を上げる。

その名を聞くだけで“場の温度”が変わる。


光泉の大扉が、きしみもせず開いた。


光が差し込み、

白い外套が揺れる。


足音は静かでありながら、

その場に立つすべての者の心を指先のようにつかむ。


振り返った者たちは、

息を呑んだ。


――第六王子、カシアン・ルクレティア。


白銀の髪。

淡い微笑。

完璧な所作。


彼の登場は、

まるで“影そのものが光の中心へ歩み出した”かのような異様な静けさを伴っていた。


ざわめきは起こらない。

理由はただ一つ。


彼の姿は、

混乱を“終わらせる者”のそれだったからだ。


緊張と沈黙が光泉の間を満たす中、カシアンは歩みを止めない。


まっすぐに、会議の中心へ向かって。


そして静かに口を開いた。


「――状況はすべて把握しました」


その声が落ちた瞬間、光泉の水面がわずかに震えた。


会議は、次の段階へ進もうとしていた。

帝国の“影”が、ついに姿を現したのだ。



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