第121話 光の底に沈む影
「殿下……まさか、ご自身が捜索に出向かれるおつもりで……?」
不安を滲ませた問いが飛ぶ。
カシアンは柔らかく微笑んだ。
その表情は慈愛にも見えるし、虚無にも見える。
見る者によって意味が変わる掴みどころのない微笑だった。
「もちろんです。王族の失踪は重大な緊急事態。誰かが中央の責任を持たなければ」
議員たちは息を呑む。
「ですが……危険が……!」
「殿下は影部隊の指揮官、もしものことがあれば……」
「護衛部隊は別に編成すべきでは……!」
しかしカシアンは静かに首を振る。
「護衛と追跡だけでは不十分です。
殿下がどこに向かわれたのか、
なぜこのような行動を取られたのか――
それを解き明かすためには、ただ“追う”だけでは足りません」
その言葉は実にもっともらしく理性的で、誰も反論しがたいものだった。
大広間の空気が、少しずつ彼に傾いていく。
カシアンは続ける。
「……フェルミナ殿下は衝動的な方ではありますが、
同時に非常に繊細で、考え深い方です。
突然の失踪には、必ず理由がある」
そう語るその声には、
まるで妹を気遣う兄のような優しい響きすらあった。
――だがその内側で、
彼が全く別の計算を巡らせていることをこの場の誰も知らない。
フェルミナが向かった先がどこであれ、カシアンにとって重要なのはただひとつ。
王女の追跡任務を“自分が担ぐ”という事実。
それによって彼は、
・王宮外へ自由に動ける権限
・影部隊の実質的全権指揮
そしてなにより、
・彼自身が監視下にある“ある人造魔導兵”の投入理由を公式に手に入れる
ことができる。
その真意を悟る者は誰一人いない。
議員たちはカシアンの言葉の“表面”だけを受け取り、その冷静さと理性に安堵すら覚えていた。
「殿下がご出陣なさるのであれば……」
「影部隊も本格的に動ける……」
「王女殿下のご無事は確実だろう……」
そんな声が広がる。
事態の収拾が近い、そう思いたかったのだ。
だが。
カシアンが求めているのは収拾ではなく、“機会”だった。
王族失踪という前代未聞の異常事態は、帝国の最深部を動かすための絶好の口実。
普段ならどれほどの理由を並べても開かない扉が、
“王女捜索”の四文字で容易く開く。
(……これでいい。これで、ようやく動かせる。)
静かに伏せた睫毛の影で、彼の思考だけが冷たく輝き続けていた。
“影”の権限は、危機にこそ最大化される。
王女の失踪は――
彼にとって最大級の追い風だった。
枢機院の議員が問う。
「殿下……早急に準備を整えますか?」
カシアンはゆっくりと顔を上げた。
柔和な微笑。だがその奥には、鉄の意志が潜む。
「ええ。捜索の網を広げるためには、通常では動かせない部署も――
“特例として”稼働させる必要があります」
議員たちは勢いよく頷く。
「特例……確かに今は非常時だ……!」
「殿下が指揮を執られるのであれば問題ない!」
そう、彼らは理解していなかった。
“特例”という言葉が、この国で最も危険な意味を持つことを。
カシアンは一礼し、大広間の中心から静かに下がっていく。
その背を見送りながら、議員たちは混乱の収束を期待して胸を撫で下ろした。
――しかし。
彼が歩みを進めるほどに、王宮の空気は確実に“別の方向”へと動き始めていた。
光の帝国の未来を揺るがす、深く冷たい影の方向へ。
◇
王宮の奥――陽光すら届かぬ地下一二層。
そこには、皇族でさえ立ち入りを禁じられた場所が存在する。
名称は《深層魔導区画:アンダーセクション》。
だが、研究者たちはこう呼んでいた。
“光の底に沈む影の層(Shadow Stratum)”
ここには、終焉戦役の残骸から生まれた“禁忌の研究物”が並ぶ。
その中心に鎮座する巨大な円形室――
黒曜石に似た魔導素材で壁が覆われ、
内部には透明な魔導槽がいくつも浮遊していた。
浮遊している、という表現が正しい。
重力は微弱に調整され、液体を満たした球状の魔導槽が、まるで星のように空間を巡っていた。
その一つが、淡い脈動を繰り返している。
《プロトタイプ011号:アーク・レムナント試験体》
本来なら、封印されているはずの研究体。
だが、本日付で“外部運用の承認”が下りていた。
発行者の署名は、
――第六王子 カシアン・ルクレティア。
その署名が刻まれた封蝋を、ひとりの人物が愉悦の笑みを浮かべながら眺めていた。
白衣は光脈油でまだらに汚れ、指先は紫色の染料にまみれている。
金属製の義肢を装着した指が書類をトントンと叩いた。
「ふふッ。ついに、王子サマが“本物”を外に出す許可をくださったわけだァ。
いやあ、待ちくたびれましたよ、殿下」
男の名は――
ドクター・ヴァリス・アマリスタ。
深層魔導区画 《アンダーセクション》の主任研究者。
天才、異端、狂人、天災。
呼ばれ方は様々だったが、その魔導工学の才は帝国随一である。
彼は一目で“常軌を逸している”と理解できるほど、特異な美学を纏っていた。
頬には金属片を埋め込んだような義皮膚の装飾が走り、瞳の片方は琥珀色の魔導義眼で絶えず回転しながら周囲を解析している。
長い黒髪は薬液の蒸気でところどころ色が抜け、白髪のような筋を作っていた。
白衣は本来の清潔さを完全に失い、魔素インクや光脈油の斑点が抽象画のように散っている。
彼の歩み一つ、指先の動き一つが、周囲の研究員に不安と畏怖を同時に抱かせるのだ。
彼の創るものはどれも精緻で、美しく、しかしどこか生理的嫌悪すら誘うほどの歪さを孕んでいる。
未知へ向かうときの彼は、まるで芸術家が未完の大作に触れたかのように高揚し、自らの理解を超える現象に出会えば瞳を輝かせ、頬を紅潮させ、狂気的な歓喜を示す。
そして“制御できないもの”と判じれば、執拗に、粘りつくような執念で解体し、解析し、支配しようとする。
知性と狂気が紙一重の場所で同居する――
それが、深層区画主任ヴァリス・アマリスタという男だった。
魔導槽の液体が青白く泡立つ。
内部で人造魔導兵――試験体011号がゆっくりと目を開く。
「おやァ、起きましたね。おはよう、私の可愛い実験体」
ヴァリスが指を鳴らすと槽に張り巡らされた魔導紋が応じ、青白い光が脈動した。
011号の瞳は淡い水色。
それは無垢であり、同時に“どこにも属さぬ魂の火種”のようにも見えた。
彼(あるいは“それ”)は光源に反応し、次に周囲の魔導計器へ向けて波動を返す。
言語や感情ではない。
純粋な環境解析――
人ではなく、“構造物としての反応”だった。
ヴァリスの笑みが深まる。
「見なさい殿下。すばらしい感応性です。
通常兵士の三百倍はある。“未完成”? いやいや、これは芸術です」
背後から歩み寄る足音が響く。
白い外套、静謐な足取り。
その姿を見るだけで周囲の研究員たちが息を飲んだ。
カシアン・ルクレティアである。
彼はヴァリスの誇張めいた賞賛にも眉一つ動かさず、ただ槽を見つめた。
「……試験体011号の安定化工程は、まだ終わっていないはずです」
「ええ、終わっていませんともッ!」
ヴァリスは愉快そうに笑う。
「魔神細胞の逆流も、零位模造核の人格片も、まッだまだ暴れます。
この坊やを外に出した瞬間、どんな“悲鳴”が聞けるやら」
彼の狂気じみた声に、多くの研究員が顔色を失う。
だがカシアンは、逆にうっすら微笑んだ。
「では――最適です」
「おやァ? “最適”ときましたか」
ヴァリスは黄金の義眼をカシアンへ向ける。
その視線は常に対象を“分解しながら観察する者”のそれだった。
「殿下はやはり、“あの男”と接触させる気なんですね?」
実験室の空気が一瞬止まったように感じられる。
その名は深層区画において禁忌でも、恐怖でもなく――
“最高の興味対象”として扱われている。
世界の理に属さぬ《零位種》。
魔導体系すべての計算式を破壊する“穴”。
観測不能の存在。
カシアンは淡々と答える。
「011号の波動は、まだ“未完成”ゆえに敏感。
だからこそ、彼と接触したときの反応を正確に計測できる。」
「ふふ……良いですねぇ殿下。
危険性を理解したうえで、それでも進める判断……その狂気、私は好きですよ」
ヴァリスの声は狂気を孕みながらも、極めて理性的だった。
だからこそ“ただの狂人”ではない。
槽内部で011号の呼吸が深くなる。
生命とも人工ともつかぬ“曖昧な律動”が全身を走る。
ヴァリスが計器を見て囁く。
「ほう……。環境刺激に対する位相反応、逸脱値。
殿下、011号は“外界を恐れている”ようです」
「自我が形成されかけているということですか?」
「逆ですとも」
ヴァリスの舌なめずりが聞こえそうな声音。
「これは“世界を理解する前の魂”の反応ですよ。
何も知らない、だからこそ何にでも染まり得る。
完璧な白紙――いや、透明な結晶だ。」
「ならば、ゼン・アルヴァリードの波動を観測するには最適ですね」
「ええ。“最高の試験体”ですよ、殿下」
ヴァリスが口元を綻ばせる。
彼にとって、恐れられるべき異常値は“宝石”だ。
カシアンの声は静かで揺るがない。
「王女フェルミナを追跡しながら、彼を観測する。
それが011号の任務です」
「ほォ……“表向きの任務”は王女捜索、“真の目的”はゼンの波動解析。
いいですねぇ、実に帝国らしい」
カシアンはヴァリスを見た。
あくまで柔らかい笑みを保ったまま。
「帝国が光を保ち続けるためには、
新しい均衡を構築しなければいけません」
その言葉は、祈りではない。
覚悟でもない。
“計算済みの未来宣告”だった。
ヴァリスは笑う。
「殿下は、人を兵器に変えるおつもりで?」
「いいえ」
カシアンははっきりと告げた。
「兵器とは“自分で決断するから危険”なのです」
そして、微笑のまま真の目的を語る。
「――私は、“決断する必要のない人類”を作りたいのです」
深層区画の空気が凍りつく。
しかしヴァリスだけは――
その狂気を称賛するように拍手を送った。
「素晴らしい思想だ。
実に、美しい結論ですよ、殿下」
◇
議員の一人が、おそるおそる声をかけた。
「……殿下。
それほどまでにご決意が固いのであれば……
我々は、どう対応すべきでしょうか?」
その問いに、カシアンは微笑みを深めた。
「簡単です。
速やかに追跡部隊の準備を。
それと――」
光の反射が、彼の瞳の底に冷たい氷色の層を映し出す。
「必要な“特別戦力”を、私が選抜します」
誰も、その言葉の真意を悟れなかった。
それが王宮という“光の巣”に潜む最大の盲点であった。
こうして王女失踪の混乱の中、
最も早く動き、
最も静かに影を伸ばしたのは――
常に微笑む第六王子カシアンだった。
王宮大広間を満たしていたざわめきが、ふいに吸い込まれたようにしんと止んだ。
誰かが合図を出したわけではない。ただ、自然と――まるで時間そのものが息を潜めたかのように。
理由はひとつ。
白の柱廊の間を、軽やかでありながら威厳を帯びた足音が近づいてきたからだった。
光脈結晶の床を踏むたび、金の粒子がふわりと舞い上がる。
朝の光を受けて揺らめく白金の髪。湖面に差す光のように澄んだ淡金の瞳。
静謐という言葉がそのまま形になったような気配をまとい、彼女は大広間へ進む。
――第2王女、アナスタシア・ルクレティア。
“知慧の光姫”と呼ばれるその人物が姿を現した瞬間、
重々しい緊張が波紋のように広がり、場の空気がぴんと張り詰めた。
彼女に対し、宮廷の者たちは深い敬意を抱いている。
しかし同時に恐れもあった。
アナスタシアの思索は揺るがず、判断は鋭い。
彼女が一歩動けば、政の風向きが変わり、
一言発せば、帝国の方針すら傾き得る。
だからこそ――
大広間の中心に佇む“影”の王子へ向かって歩み寄る彼女の姿に、誰もが固唾を飲んで見守った。
アナスタシアは円形床に立つカシアンを見つけると、わずかに歩みを緩めた。
その瞳は曇りのない意志を湛えながら、どこか痛みを含んだ静かな金色。
短い沈黙ののち、彼女は柔らかな声で口を開いた。
「……第六王子殿下。フェルミナの失踪を聞き、急ぎ参りました」
丁寧で落ち着いた言葉。
だがその底には、疑念と探求の鋭さが隠されていた。
声を聞くだけで、彼女が“真実を見極めようとしている”のが分かる。
カシアンは変わらぬ穏やかさで微笑み、恭しく頭を下げた。
「お姉上。ご心配には及びません。
私はすでに追跡部隊の編成に着手しております」
「……追跡部隊、ですか」
アナスタシアはさらりと視線を大広間に流す。
慌ただしく走り回る官僚。
責任を押し付け合う神官。
命令を待ちながらも不安を隠しきれない騎士。
そこにいる全員の顔が、混乱と困惑と恐れに染まっている。
彼女はすぐに悟った。
この宮殿にいる者たちの中で――
フェルミナの行動の意味を理解している者は、誰ひとりとしていない。
周囲の推測はどれも表面的だ。
衝動、反抗、逃避、誘拐。
だが、それらは本質に触れない。
アナスタシアだけが知っている。
前夜、フェルミナが涙をこらえながら口にした言葉を――。
『アナお姉様……どうすれば、私は“私の人生”を生きられるのでしょう……?』
その問いに、彼女は何も答えられなかった。
答えは、フェルミナ自身が探すしかない。
だからこそ、フェルミナは王宮を出た。
追われるためではなく、
自分で歩くために。
――追ってはならない。
――見守るべきだ。
それがアナスタシアの静かな信念であった。
しかし、この場でそのまま口にすれば、
「職務放棄」
「王族の義務を理解していない」
「帝国に背く思想」
と、即座に政治の渦に巻き込まれる。
フェルミナの立場はさらに悪くなり、彼女が望まぬ拘束へと追い込まれるだろう。
だからアナスタシアは息を整え、慎重に言葉を選んだ。
「……情報局からの連絡があった通り、フェルミナは恐らく、強制的に連れ去られたわけではありません。
だからこそ“追跡”は必要ですが――」
一拍。
カシアンが微笑んだまま、ほんのわずかに視線を傾ける。
その仕草は丁寧にも見えるし、観察にも見える。
アナスタシアはそれを理解していた。
言葉のひとつひとつを、彼は情報として解析するのだ。
それでも退くつもりはない。
アナスタシアは続けた。
「過度な圧力をかけるべきではないと考えます。
無理やり連れ戻せば、かえって殿下を追い詰めてしまう。
彼女には……“1人になる時間”が必要です」
王宮の空気が揺れた。
官僚たちは理解できず、
神官たちは判断に迷い、
騎士たちは命令の方向性を失ったように互いを見合った。
しかしカシアンだけは違った。
金色の瞳がゆっくりと細められ、その内側に“静かな計算”が輝く。
微笑はそのまま保たれている。
だがその奥には氷で縁取られたような影が一瞬だけ揺らぎ、周囲の空気をひどく冷たくする。
「もちろん、尊重しますよ。
お姉上のご意見は常に正しい」
言葉だけを取れば敬意そのもの。
しかし声の底には、誰もが言葉にできない異物が漂っていた。
――まるで、「あなたの狙いはすべて理解している」
と、穏やかに告げるかのような。
アナスタシアはその含意を敏感に察知した。
彼女は普段、衝突を避けるように柔らかく微笑む。
だが今、返した微笑には珍しく“強い芯”が宿っている。
「……カシアン。
あなたが自ら捜索に出向くという案、私は簡単には賛同できません」
瞬間、広間の空気が張り詰めた。
議員たちはざわめくことすら忘れ、息を呑む。
アナスタシアが他者の行動に公然と異議を唱えるなど、王宮でも数えるほどしか前例がなかった。
その相手が、第六王子――
“影の策略家”と知られ、
諜報と裏の政治を束ねる男であるとなればなおさらだった。
カシアンは変わらぬ微笑のまま、少しだけ首を傾げてみせた。
「理由を伺っても?」
アナスタシアは一度だけ小さく息を整え、
言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「あなたが指揮を執れば、
追跡は“保護”ではなく“作戦”へ変質してしまう恐れがあります。
フェルミナは軍事行動の対象ではありません」
その声は穏やかだが、決して退かない。
聖学院の最高教導官としての知性と姉としての優しさ、その両方が滲んでいた。
“作戦”という語が投げられた瞬間、広間にいた誰もがカシアンの背負う影を意識する。
白影諜報部。蒼光庁。
裏切り者の粛清。異端の消去。
王族を守るためと言いながら、
その裏で数えきれぬほどの“影の仕事”をこなしてきた男。
アナスタシアの懸念は、誰の耳にももっともだった。
――しかし、そのもっともらしさが、
最もカシアンに嫌われる。
――“影の策略家”と呼ばれる第六王子と、
――“知慧の光姫”と讃えられる第二王女の対峙。
沈黙を破ったのは、案の定カシアンだった。
「……誤解なさらないでください、お姉上」
彼は静かに歩み寄り、柔らかく言う。
「私はただ、妹を案じているだけです」
その声音は完璧だった。
理性的で、美しく、何一つ乱れがない。
だが、その「美しさ」が異様なのだ。
アナスタシアは、ほんのわずかに目を細めた。
彼女は知っている。
この弟が人の感情を理解しないことを。
人の心をただの“情報”として見ていることを。
だからこそ、彼女は静かに告げた。
「あなたが案じているのは、本当にフェルミナでしょうか。
それとも……あなた自身の“興味”でしょうか」
その一言が落ちた瞬間――
広間は凍り付いた。
議員たちは青ざめ、互いを見ることすらできない。
神官たちは祈りの言葉を呟きはじめる。
第二王女が、王家の“影”に正面から踏み込んだのだ。
それは聖皇国において、最も慎重であるべき禁忌の領域だった。
カシアンはゆっくり、アナスタシアへ歩み寄った。
足音は静かだが、なぜか重い。
白い壁に反射する光が、彼の影を濃く伸ばす。
近づくにつれ、彼の瞳から色が失われていく。
微笑はそのままだというのに、視線だけがまるで深淵へ落ち込んだように冷たい。
「さて……どちらでしょうね」
答える気はない。
答える必要もない。
答え自体に意味がない。
そう告げるような声音。
肩を軽くすくめたその仕草でさえ、天使のようにも悪魔のようにも見える。
まさに“白影王子”と呼ばれる所以だった。
誰もが息を止めている中、カシアンはふっと踵を返した。
白い外套が揺れ、光の反射の中へ彼の背が溶けていく。
「追跡部隊の準備が整い次第、私は出立します。
……どうか、ご安心を」
その背には揺らぎがなかった。
だが、ただの王族の背ではない。
その歩みは海の底へ沈む黒い潮のように静かで、同時に底知れぬ深淵を引きずっていた。
アナスタシアは動かず、ただその背を見つめ続ける。
そして、誰にも聞こえぬほど小さく呟いた。
「……フェルミナを本当の意味で守れるのは、あなたではないはずよ、カシアン」
柔らかな光が広間へ差し込む。
だがその光の中には、
王族たちの影が長く伸びていた。
光と影――
その均衡の狭間で、
第七王女の旅路はすでに静かに動き始めている。
誰にも知られぬうちに。
誰にも止められぬように。
そして、その影の先には――
あの男の名が、確かに揺らめいていた。




