第120話 光の王宮
ルミナス聖皇国の中心、帝都セレスティア。
その最奥に聳え立つ〈皇環セレスドーム〉は、
七層の光に守られた白亜の宮殿である。
夜明け前の蒼が残る空の下、王宮の壁面はゆっくりと光を帯びていく。
これは石材に刻まれた“光脈結晶”が、太陽の到来を察知し、周囲の魔力を吸い上げて輝きを返すためだ。
まるで、神々が眠った後もなお、この国が光そのものを食べて呼吸しているかのようだった。
薄金色の光が宮殿の塔を舐め、尖塔の先にある“暁の宝珠”が煌めく。
巨大な聖堂を連結するように、王宮の回廊が弧を描き、七神を象った柱廊が整然と並ぶ。
そこに刻まれるのは歴代の光導師たちの祈りの文言と、帝国の歴史が積み重ねた文明の痕跡。
【神聖にして静謐】
――それが、この王宮が千年にわたり誇ってきた姿であった。
千年帝国――そう呼ばれるにふさわしく、セレスドームは光と戦乱の歴史を幾度もくぐり抜けてきた。
王宮の創建は今からおよそ一千二百年前、
七神戦争が終結し、世界が七つの大陸へ分かれた直後の時代である。
当時の人々は神々の沈黙を畏れ、
“再び神々の怒りが降りかからぬように”と祈るため、
地上で最も強い光脈が集うこの高原に宮殿を建てたと伝わる。
初期の王宮は今ほど巨大ではなく、石壁と塔がわずかに並ぶだけの小さな祈りの拠点だった。
しかし、周囲の大陸が互いに争う時代へ突入するにつれ、この祈りの場所は「秩序の象徴」として求心力を増していく。
光の神ルミナへの信仰が帝国法の基礎に組み込まれ、祭祀と政治がひとつに統合された瞬間、祈りの拠点は宗教国家へ、宗教国家は帝国へと変貌を遂げた。
やがて王宮は三たび増築された。
最初の増築は、帝国の版図が急速に拡大した“黎明期”。
第二の増築は、魔導文明が飛躍し、光脈結晶による建築技術が確立した“黄金期”。
そして第三の増築こそ、先帝セント=ルクレティア六世の治世で行われたものである。
先帝は「光は遍く照らすべし」と宣言し、帝国の威光を示すために王宮を象徴的な“七層構造”へ再編した。
七神を象徴する七つの回廊、七つの塔、七つの儀礼殿。
すべてが「光による秩序」を体現するよう設計され、
民衆はこれを“七環聖宮”と呼んだ。
その雄大な建築様式は、大陸中の建築技術者と魔導師が導き出した結晶であり、今やただの宮殿ではなく、ひとつの文明記念碑として扱われている。
王宮の内壁に刻まれた紋様は帝国が辿ってきた戦乱と和平、栄光と悲嘆の歴史を語る石碑でもある。
光導師たちの祈りの詩文、
初代聖皇の法典、
反乱の鎮圧を示す英雄像、
そして近代では、終焉戦役を収めた“蒼竜騎士団”の紋章が静かに刻まれた。
いずれの痕跡も光脈結晶に刻み込まれており、朝日が差し込めば、文字が淡く浮かび上がり、まるで王宮そのものが「歴史を語り返している」かのように見える。
宮殿文化もまた、千年の積み重ねで形作られてきた。
王族の礼法は“光の三礼七式”と呼ばれ、
すべての礼は「相手を照らすように」行うことが規範となる。
衣装は白と金を基調とし、身に着ける装飾には属性結晶が埋め込まれている。
それは装飾でありながら、同時に魔導式の補助具としても機能する。
王宮での日常は、祈りと学問、儀礼と政治が混ざり合う独自の文化圏であり、まさに“光の文明”そのものだった。
しかし、この美しく均整された千年の宮殿には、もうひとつの側面もある。
光が濃くなればなるほど、影は深くなる。
王宮の地下には、王族史に残せぬ事件や、
異端審問、諜報、秘密裏の研究が積み重なってきた痕跡がある。
その出入口のひとつが、何の変哲もない石壁の奥に隠されているという噂も絶えない。
華々しい表層の下に、帝国の闇が脈打つ場所――
それがこの王宮でもあった。
歴代の王族たちの足跡は、光の道と影の道、その両方に刻まれている。
そして今、現聖皇セント=ルクレティア七世の治世に至るまで、この宮殿は常に国家の中心として呼吸してきた。
王女フェルミナもまたこの宮殿の中で育ち、光の象徴として扱われながら、同時に“自由への渇望”という影を抱え続けていた。
この巨大な王宮は、千年の歴史をもってしてもなお、
ひとりの少女の心までは照らしきれなかったのだ。
そしてその静謐はこの日の朝、破られた。
最初の異変に気づいたのは、
王族区画を警備する〈白影兵〉のひとりだった。
「……王女殿下の部屋が、空?」
扉は施錠されたままだった。
窓にも異常はない。
だが、部屋そのものが主を失ったように静まり返っていた。
侍女たちが駆け込み、小さく悲鳴を上げる。
「い、いません……! 王女殿下がおられません!」
その声は、王宮の中庭で朝の警備準備をしていた兵士の耳に届いた瞬間、
火がつくように広がっていった。
「王女殿下が、失踪された!」
駆ける足音。
ひらめく白の外套。
明け方の光が増すたび、王宮の内部はざわめきの波に呑まれていく。
王宮内部は外観と対照的に静かで、白壁に描かれた金色のレリーフが光を受けて揺らめいていた。
だがその壮麗な美も、今はただ騒ぎを映し出す鏡にすぎない。
長い赤絨毯の敷かれた廊下を神官服を纏った者たちが走り、書記官たちは慌ただしく書類を持ち寄る。
侍女たちは半ば泣きながら口々に言う。
「昨夜は、いつも通りお休みになられまして……!」
「まさか、独りで王宮を抜け出していたなんて……!」
だがその“まさか”ができるのが第七王女フェルミナである。
幼い頃から病弱だった彼女は、王族にしては珍しく、自由に憧れ、窓外の景色ばかり見つめて育った。
侍女の一人は、震えながら思い出す。
――昨夜の彼女は少しだけ、眼差しが遠かった。
まるでどこか決めた人のように。
それを、誰も気づけなかった。
王宮中央の〈暁光の大広間〉では朝礼の準備中だった枢機院の議員たちが慌てふためき、どれほどの規模で捜索を行うべきか議論していた。
「すぐに全軍を動かすべきだ!」
「いや、これは外交問題に発展しかねない。慎重に……」
「報道禁止を出せ! 他国に知られれば弱点とみなされる!」
「王族が失踪するなど、一大事ではないか!」
議員たちの声がぶつかり合い、白い石壁に反響する。
その混乱の空気の中でも金色の陽光は大広間の上方にある巨大ステンドグラスを通り、ゆるやかに床を照らし続けていた。
聖皇国は“七神が見守る都市”だという建前は、今ほど虚ろに響いたことはない。
ほどなくして王宮全体を揺らすざわめきの渦の中へ、ひとりの王族が静謐をまとって姿を現した。
――第6王子、カシアン・ルクレティア。
白銀の髪は朝の光を受けて淡く輝き、柔和な微笑を湛えた顔立ちはこの混乱の場にあって異様なほど落ち着いていた。
彼が暁光の大広間の敷居を跨いだ瞬間、書記官も議員も神官も、まるで合図を受けたかのように動きを止めた。
カシアンは普段、影部隊の司令官として表舞台に出ることは少ない。
だがその希少性こそが、彼が姿を見せた“事態の重大さ”を無言で語っていた。
「……殿下。フェルミナ様の失踪については……」
声をかけた枢機卿の言葉は、
不安と責任感とが入り混じった震えを帯びている。
カシアンはわずかに目を伏せ、まるで祈りでも捧げるかのような静かな所作で息を吐いた。
「ええ、報告は受けています」
彼の声は穏やかで、だが微かに冷えた響きを含んでいた。
「まず、捜索部隊を編成すべきでしょう。
フェルミナ殿下は王族であり、無事を確認するのが最優先です」
その言葉に議員たちが動揺のざわめきを返す。
「は、はい! ですが……」
「手がかりがあまりにも少なく……」
「殿下がどこへ向かわれたか推測すら……」
そう。
この瞬間、王宮の誰一人として――
フェルミナが“ある人物”の元へ向かったなどとは思っていなかった。
そもそも王宮の者たちは、
フェルミナが“会いに行く相手”など存在しないと思い込んでいた。
彼女の婚約への抵抗、衝動的逃走、
あるいは誘拐――その程度の推測しか出てこない。
ゼンの名前は誰の口からも出ない。
引退後、消息を絶った元蒼竜騎士団長。
英雄として記録から消えたわけではないが、
“もうどこにも属さぬただの男”として扱われて久しい。
第七王女がその男にひそかに憧れていたことなど、宮廷の誰も真剣に捉えていなかった。
だからこそ――
この場で唯一真実に触れている者の存在感は際立つ。
カシアンは、議員たちの動揺を静めるように一歩前へ進んだ。
光差す円形床の中央――
神聖な祈りの場として使われるはずのその場所に、まるで“影が歩くように”彼は進み出る。
その動きには指揮官としての自信というよりむしろ、“場を支配する術を熟知する者”の自然さがあった。
「皆さま、どうか落ち着いて。“情報が少ないときほど、冷静であるべき”です」
柔和な声。
しかしその下で、彼の思考は冷酷な計算を続けていた。
(――フェルミナ殿下は、予定通り動いている。
灰庵亭に到達するまで、およそ二日。
追跡は既に黒影部隊が確保済み。
問題は……ゼン・アルヴァリード。)
彼にとって、王女の逃亡はむしろ好都合だった。
“あの男”を観測するための絶好の機会。
表情には一切出さず、彼は淡い微笑だけを浮かべながら議員たちを見渡した。
「捜索は私の方でも調整を進めます。
王女殿下は必ず見つけ出します。――ご安心を」
その声には奇妙な説得力があった。
まるで初めから結果を知っているような、
“彼だけが真実を握っている”響き。
その瞬間、王宮のざわめきは嘘のように静まった。
だが――
静まったのは音だけだった。
王宮の真に揺らいだ部分はむしろ、この青年の落ち着きに気づかぬまま“光”に酔い、“影”の存在を理解していない帝国そのものだった。
カシアンは最後にもう一度、柔らかく微笑む。
「光が乱れたときこそ、影が均すのです。」
それは、彼の“信仰”とも呼べる思想。
そして帝国を包む巨大な渦は、この静かなる王子の一歩に確実に導かれつつあった。




