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第119話 きゃぁぁぁぁ!!! 虫ぃぃっ!!



あの頃の私は、たぶん“完璧”だった。

いや、少なくとも周囲はそう思っていた。


ルミナス聖皇国第七王女フェルミナ・ルクレティア。

王立神殿での礼儀作法は百点満点、

舞踏会では拍手喝采、

政治学では講師を論破し、

毎日の朝食は銀の皿に盛られた白桃と蒸留水。


……要するに、“何もしなくても褒められる人生”だった。


けれど今、私の手には――


「ぎゃああっ! また棘が刺さったぁぁ!!」


――雑草。


「ミナさん、抜くときは根元を持たないと」

「持ってるつもりよぉぉっ! でもこの雑草、反撃してくるのっ!!」

「それは“ヒリ草”です。刺激性の樹液が――」

「先に言いなさぁぁぁい!!」


……うん。

王女として生まれて二十余年、

今が人生で一番“庶民の痛み”を実感している。



ゼン様の畑は、店の裏手に広がっている。

段々畑みたいに山肌を削って作ったもので、上の段からは霧の海が見える。

景色だけなら王都の離宮にも負けないくらいの絶景だ。


でも現実は――


「ミナさん、手が止まってます」


「止まってない! 動いてるように見えないだけっ!」


「……どういう理屈ですか?」


「量子の観測理論っていうのが、大人の世界にはあるのよ!お子様にはわからないでしょうけど」


「屁理屈を覚えるよりも先に鎌の使い方を覚えてください」


はい、今日もライルの一撃が心に刺さります。


クレアは畑の向こう側で、信じられない速度で鍬を振るっている。

髪一筋乱さず、まるで“農作業の剣舞”。

それに比べて私は――もう、土と格闘しているレベル。

というか、土に負けてる。

全身泥だらけ。


「ミナさん、それ、植えたのじゃなくて埋めたのでは?」

「ち、違うわ! 根を守ってるのよ! 愛情込めてるの!」

「……愛情で植物は呼吸できません」

「ぐぬぬぬぬ!」


土まみれの手で額を拭う。

汗と泥で化粧も髪型も跡形もない。

まさか、自分がこんな姿になる日が来るなんて。


(……宮廷の鏡が見たら、絶対卒倒してる。)


でも――不思議と、嫌じゃない。


風の匂い。

土の冷たさ。

手の中で“命が動いてる”感触。

王都の宝石よりも、なんだかずっと“生きてる”感じがする。


「ミナ、もういい。交代だ」


「えっ!? まだ頑張れますよ!」


「顔が“死にかけ”だ」


「うそっ!? そんな顔してます!?」


「してる」


「してるんだ……」


ゼン様はため息をつきながらも、自分の手ぬぐいをぽんと投げて寄越した。


「ほら。汗、拭け」


「っ……はいっ!」


手ぬぐいが頬に触れた瞬間、心臓が変な音を立てた。


(うわぁ……何この距離感。なにこの破壊力。心臓が爆発しそう。)


だめだ、心の平穏が危うい。

農作業どころじゃない。


ほんの数秒前まで、私は畑と戦っていたはずだったのに。

今や完全に“恋する乙女モード”突入である。


息がうまくできない。

喉が渇く。

手ぬぐいのちょっとだけ男っぽい香りが、想像以上に破壊力がある。

汗と土の匂いの向こうに、ゼン様の日常が混ざっている気がして――


(うわ、だめ、これ……これ……やばい……)


冷静でいられるわけがなかった。

むしろ今ここで倒れたら、その理由は熱中症でも過労でもなく、

「フェロモン過剰摂取による意識混濁」って診断されるレベルである。


そして私は確信した。


農作業は、体力だけの戦いじゃない。

むしろこれは精神の修行だ。精神力の限界試験だ。


ゼン様と“距離ゼロ”で同じ空間にいること。

あの穏やかな声を間近で聞くこと。

そして、ふとした瞬間に向けられる、あまりにも自然な優しさに――

心が簡単に揺れてしまう。


王女として培った冷静さ?

貴族的余裕?

そんなものは、ゼン様の手ぬぐい一枚で吹き飛んだ。


だめだ……


頬に残る手ぬぐいの感触。

それは過去の憧れと現在の想いをまるごと炙り出すような熱で、心の奥をもっと熱くしていった。



畑の端の石に腰を下ろして、ふう、とフェルミナは一息吐いた。


さっきまで土と格闘していた手にはまだ泥が残っていて、爪の間に土の黒が見える。

それでも頬に触れる風は冷たく心地よくて、鼻の奥をくすぐるのはほんのりとした薬草の香り。

その香りの元は、すぐ目の前の畝に植えられた“霧香草”――この谷でしか育たない、ほのかに甘い香気を持つ草だった。


視線を巡らせると、畑には色とりどりの葉が揺れていた。

この時期、夏野菜はもう抜かれていて、今残っているのは寒さに強い根菜類や香草類が中心だ。


赤紫色の“霧大根”。

地面すれすれに葉を広げる“玉皮芋”。

小ぶりながらも実が詰まった“谷麦”。

そして、薬効の高い“星苔根”(せいたいこん)や“細茎ニラ”、さらに香り高い“灯芽草”(とうがそう)。


どれも初めて見るような植物ばかりだけれど、妙に整った列とふっくらした土が「ここがちゃんと“育てられている”場所なのだ」と教えてくれる。


畑の中央には、ひときわ目を引く“石柱”が立っていた。

魔力循環柱――そう呼ばれるらしいそれは、人の背丈よりも少し低い灰青色の石で、表面には淡く光る魔術文字が刻まれている。


「この柱が、畑の“心臓”なんだって」


昨日、サリーがそう教えてくれた。

土に触れる者なら誰でも、ここが“ただの畑ではない”とすぐに気づくはずだと。


水と土に、微弱な魔力を還元する。

自然の力を乱すのではなく、少しだけ手を添えるように循環を促す。

そうすることで、厳しい山の気候でも植物たちはのびのびと根を張れるのだという。


“無理をさせない育て方”――それが、ゼン様の流儀なのだ。


畑の一角からは、水車小屋の音が微かに聞こえてくる。

カラコロと優しい音を立てて回るそれは、川の力を使って粉を挽き、時には照明用の魔力灯にも電力を供給する。


夜になると、水車はほんのりと青白く輝くのだという。

水に含まれる魔素と木の羽板に刻まれた共鳴紋が反応して、まるで蛍のように淡い光を放つらしい。

昨日は忙しくてその姿をまじまじ見る機会がなかったけれど、きっとそれは――この谷に流れる静かな時間そのもののような光なのだろう。


畑は、まさに“生きるための場所”だった。


ただの食材ではなく、

ただの道具でもない、

ここで育つものすべてが――誰かのために、誰かの食卓に届けられる。


畑の土には、ゼン様の手が。

水車の音には、この谷に根差す暮らしの時間が。

そして育つ作物のひとつひとつには、確かに“誰かの営み”が染み込んでいる。


私はそっと足元の霧大根の葉を撫でてみた。

柔らかい葉の裏に、朝露がまだ少しだけ残っていた。


(……すごいな、これが“自給”ってことなんだ)


ただ畑を見ているだけなのに、胸の奥が少しずつ温かくなっていく。


かつては宮廷の厨房で「今日はどんな果物がいいか」なんて贅沢を言っていた自分が、今こうして土の香りを吸いながら畑の風景に見惚れてしまっている。


ずいぶん遠くまで来たんだな、と。

だけどやっぱり、不思議と――“悪くない”って思えるのだ。



(…そういえば今頃、王宮はどうなっちゃってるんだろう…)



……ふと、胸の奥がちくりとした。


(……リサ、今ごろ絶対に泣いてるよね。)


王宮を抜け出した時のことが、急に胸によみがえった。

あの子はいつも私の味方で、私の愚痴を一番最初に受け止めてくれる存在だったのに。

あの子だけには、せめて……ひと言くらい伝えてから出るべきだった。


(……ごめんね、リサ。本当にごめん。)


あの子の慌てた顔が、容易に想像できてしまう。


まずは私の部屋の扉をノックして、

返事がないことに気づいて、

ゆっくり、でも確かめるように扉を開けて――


その先に、誰もいない。


きっとリサは蒼白になって、その場でへたり込みそうになるはずだ。

だってあの子、普段は控えめだけど責任感は人一倍強い。

私がいないと分かった瞬間、

「どうしよう……どうしよう……!」って、涙目で走り出している。


そこへ見習い侍女たちが慌てて集まり、

「フェルミナ様がお部屋にいらっしゃいません!」「寝具も乱れていません!」

「着替えもひとそろい消えています!」「靴も一足足りません!」

――と、まるで何かの怪事件みたいに騒ぎ立てる。


(うわぁ……絶対、王宮中パニックになってる。)


さらに問題は――そう、第六王子カシアン兄様だ。


……あの人は絶対、笑ってない。

いや、むしろ笑顔のまま静かに怒るタイプだ。


きっと影部隊を呼び集めて、冷えた声で言う。


「――七王女フェルミナ。失踪だ」


“失踪”。

その言葉が王宮の廊下を走り抜けるように広まっていく光景が目に浮かぶ。


侍従長は倒れそうだし、

枢機院の長老たちは「これだから末姫は……!」と机を叩いてそうだし、

外交官たちは顔を青くして

「ネプタリア王室にどう説明する!?」「これは国際問題だぞ!」

と騒ぎ、

神殿の高司祭たちは

「これは……“神の沈黙以来の大凶兆”かもしれん……」

などと意味不明なことを言い出すに違いない。


(いやいやいや、私がひとり外に出たくらいで“凶兆”扱いしないでよ……!)


でも実際、あり得るから困る。


兄姉たちは皆それぞれ反応が違うだろう。


第二王女のシリエラ姉様は、

「フェルミナならやりかねないわね……」と優しく苦笑するだろうし、

軍務を司る第三王子リエン兄様は、

「どうして見張りを増やしておかなかった!」と護衛を怒鳴りつけるはずだ。


そして……父上。

光皇。

帝国の頂点。


彼は怒鳴らない。

静かに目を閉じ、

「――あの子は、どこへ行ったのだ」

と深いため息をつくのだろう。


(…………やっぱり、悪いことしちゃったな。)


胸の奥がぎゅうっと痛んだ。

私が求めた自由は、リサや皆の心労の上に成り立ってしまったのかもしれない。

それでも戻れない。

戻ったら、また“誰かが敷いた未来”に縛られてしまう。


(だけど……せめて、いつかちゃんと謝りたいな……)


リサに。

兄姉に。

父上に。

迷惑をかけた全員に。


――そう思うと、少しだけ寂しい。

ほんの少しだけ、胸がきゅっとなる。


でも同時に、私は確かに“自分の足”でここまで来た。

土に触れて、汗をかいて、泣き叫んで、笑って。

これまで触れられなかったものに触れ、空気を吸い込んで――

ようやく“生きている”と感じられる場所に立っている。


王宮の騒動は、きっと今ごろ最高潮だろう。

でも私は――いまはまだ振り返らない。


視線を前に向ける。

目の前には、谷の土と、揺れる緑と、穏やかな風。

振り返るには、まだ早い。


そして、その小さな決意の余韻の中で――



「あの、ゼン様」


「“様”はやめろ。気恥ずかしい」


「じゃあ……ゼン親父?」


「もっとやめろ」


「じゃあ、“団長”?」


「やめろっつってんだろ」


「……じゃあ、ゼン!」


「……好きにしろ」


(わぁ……許可が出た……! “ゼン”って呼んでもいいって言われた!!)


「……で、何だ」


「え、あっ、いやっ、特に用事は……!」


「ないのかよ」


ゼン様が肩をすくめ、鍬を土に立てる。

風が山を抜け、草を揺らす。

それだけでどこか胸の奥が温かくなる。


この場所の空気は帝都とはまるで違う。

政治の匂いもしないし、噂話もない。

誰も“誰の娘”なんて気にしない。


(……もうずっとこのまま、ここにいられたら…)


ふと、そんな言葉が口をつきそうになって――

代わりに、くしゃみが出た。


「へっくしゅんっ!!」


「ほら見ろ。やっぱり限界だ」


「ま、まだ戦えます!」


「農業は戦いじゃない」


「いえ、今日の敵は雑草です!」


「……勝てる気がしねぇな」


クレアが鍬を担いだまま、遠くからぽつり。


「団長、ミナ様は一度決めたら最後までやり通すお方です。気持ちはすごく強い方なので」


「……見りゃわかる」


(………ほ、褒めてるよね?!)




作業を終え、腰を下ろして見上げる空はとても広かった。


土まみれの手を膝に置き、息を整える。


(王城の庭より、こっちの土の方が綺麗かもしれないな……)


思わず口に出していた。

ゼンが隣で振り向く。


「ん?」

「い、いえ! なんでもありませんっ!」


慌てて視線を逸らす。

でも、本音だった。

泥も、汗も、痛みも、全部が“自分のもの”って感じがする。

誰かのためじゃなく、自分のために動いてる。

それだけで、なんか生きてる気がする。


彼は黙って腰を下ろし、麦茶の入った水筒を差し出してきた。


「飲め。水分補給はしっかりな」


「ありがとうございます!」


口に含むとほんのり冷たくて、土の香りが混ざっていて――

思わず、笑ってしまう。


「……なんか、不思議です」


「何がだ」


「宮廷で飲んでた高級な茶や水より、ずっとおいしいんです」


「そりゃあ、汗かいた後だからな」


「それもありますけど……たぶん、“自分で働いた後”だからです」


彼が目を細めた。

少しだけ、笑ったような気がした。


「……気のせいかもしれないが、だいぶ顔つきが変わったな」


「え?」


「最初に来たときより、少し“人間”っぽくなった」


「えっ!? い、今までは人間じゃなかったんですか!?」


「貴族の顔をしてた、ってことだ」


「なっ!? それ、遠回しに“気取ってた”って言ってます!?!」


「遠回しじゃなくて、直球だ」


「ひどいぃぃぃ!!!」


ライルが後ろで笑っている。


「でも、親父の“人間っぽくなった”って、褒め言葉ッすよ」


「そうなの!?」


「うん。少なくとも“一人前扱い”ってことだけは確かっす」


…まじか

めちゃくちゃ嬉しいというか、頬が少しだけ熱くなる。


土にまみれて、髪も乱れて、

王族の気品さなんてもうどこにもないのかもしれないけれど――

それでも今、確かに私は“わたし自身”でいられている気がした。



(ここに来て、よかった)



そう思える場所が、この谷にはあって。

私の“輪郭”を少しずつ取り戻してくれる人たちがいて。

やっと私は、自分を「名前で呼んでもいい」と思えるようになってきた。


“フェルミナ・ルクレティア”ではなく、

“ミナ”として、ただの一人として――。



私はずっと――本当にずっと、“自分って何なんだろう”って考えてきた。


王女として笑えば「品がある」と褒められて、黙れば「威厳がある」と持ち上げられて、困っている人に手を伸ばせば「政治利用しやすい」と評価される。

私が何をしても、そこには“王女としての価値”しか見られない。

私自身がどう感じているかなんて、誰も気にしなかった。


(私は……誰なんだろう?)


そんな問いが胸の奥でずっと渦巻いていた。

でも答えは出なかった。だって、私が何かを選ぶ前に、いつも周りが“正解”を決めてしまうから。


今日みたいに土まみれになって、汗を流して、息を切らして――そんな生活なんて、王宮では一度もしたことがなかった。

泥を踏む音すら、禁止されていたんじゃないかな。

私は王女である前に、一度も“ただの人間”として扱われたことがなかったのだ。


だから自分を知る機会なんて、最初から与えられていなかった。


(強くあらねばならない)

(優雅であらねばならない)

(誰からも愛されねばならない)


そんな“〜ねばならない”の鎖で、私はがんじがらめになっていた。


けれど今――畑で土に負けて、汗で髪が額にはりついて、膝も泥だらけで。


“王女”としては最低評価でも、

“私”としては……なんだかすごく満たされている。


(ああ、これが……“生きている”ってことなのかな)


心臓がいつまでもポカポカしていて、胸の奥がゆっくり膨らんでいくような感覚。

誰かの期待のためじゃなく、誰かの評価のためじゃなく、“私のために”体を動かすってこと。


もちろん王女として育ってきた自分が、いきなり全部脱ぎ捨てられるわけじゃない。

しっかりしなきゃって思う癖が出るし、何か言われるとすぐ背筋が伸びてしまう。

けれど――それでも少しだけ、自分の殻を破れた気がしていた。


ゼンの「人間っぽくなった」という言葉。

クレアの、静かなけれど確かな支え。

ユファが向けてくれた“旅人ミナ”としての笑顔。


その全部が、

“王女の私”ではなく“フェルミナ”という“ただの私”を見てくれている気がして――

胸がじんわり熱くなる。


(私って……こういう顔もできたんだ)


そんな小さな発見が、たまらなくうれしい。


もし私が王宮に残っていたら、

“自分の顔”を知ることもなかったのかもしれない。


ここでは転んだら笑われるし、失敗したらゼン様に真顔で怒られるし、クレアには呆れられるし、ユファには匂いで心情を暴かれるし――

でも、それが全部“私の人生の一部”になっていく。


王宮にいた頃は、毎日が“完成された私”でなければならなかった。

でもここでは、“未完成の私”でいていい。

間違えても、泥だらけでも、情けなくても。


――きっと私はずっと、“未完成の私”を誰かに許してほしかったんだ。



◇ ◇ ◇



ルミナス聖皇国――

七神のうち〈光の神ルミナ〉を最高神として崇める、

信仰と権威の国。


その中心、帝都セレスティアの高台に建つ“白光宮”こそ、

聖皇国王家の象徴であり、

同時に「王族を閉じ込める箱庭」でもあった。


その宮殿の一角、

陽の当たる回廊の向こうに、フェルミナ・ルクレティアの居室がある。


彼女の一日は、いつも同じ音から始まる。


「王女殿下、起床の時間でございます。」


銀盆を持った侍女長リサの声。

彼女はフェルミナが物心ついた頃から仕えており、

表情は常に穏やかだが、その瞳は鋭い。

“王女を導く者”という自負があり、

フェルミナの“人間らしさ”を、何より恐れていた。


「本日のお召し物は、午前が式典用、午後が晩餐会用です。」

「また晩餐会……」

「政務日でございますから。」


フェルミナの小さな溜息を、リサは無表情のまま飲み込んだ。

王族が自由を口にすることはこの国では“不敬”に近い行為だからだ。


身支度にかかる時間はおよそ一時間。

侍女三人がかりでドレスを整え、髪は毎日異なる意匠に結い上げられる。

食事は全て銀食器。

パンひとつ口にするにも、執事の合図を待たねばならない。


「本日の朝食は、神殿より賜った聖蜜パンと果実酒でございます」

「ありがとう……あの、リサ」

「はい、殿下」

「たまには……普通のパンとか、食べてみたいなって思うの」

「“普通”とは?」

「ほら、庶民の食堂で出るような、焼きたての香ばしいやつ」

「……そのようなものは、殿下のお口には合いません」

「そうなのかな……」


その会話を、執事長のカイネルが遠巻きに聞いていた。

年配の男性で、寡黙だが誠実。

彼は心のどこかで、王女の素朴な言葉に救われていた。


――この国に“光”があるとすれば、

それはこの娘の心だろう、と。


だが、その“光”も、政治の檻の中で少しずつ曇っていった。



フェルミナには、姉が二人、兄が四人いる。

いずれも聖皇家の主要な政務を担い、

王族としての「見本」とされた存在だ。

特に長姉アナスタシアは、

外交と神殿運営の両面を支える完璧な王女であり、

フェルミナにとって“到達不可能な理想像”だった。


「妹よ。王族とは、“己を消す者”のことです」


そう言って微笑んだアナスタシアの顔が、フェルミナの記憶に深く刻まれている。


その言葉の意味を彼女は理解できなかった。


(自分を消す……?

じゃあ、私の“好き”や“夢”は、どこに行くの?)


答えは、誰もくれなかった。



日課は午前の祈祷と午後の講義。

剣術も馬術も、王族として身につけねばならない。

夜は晩餐会。

政略結婚の話題が飛び交い、

名の知らぬ貴族たちが笑顔で手を差し出す。


「第七王女殿下は、将来、水大陸の交易王子に嫁ぐのだとか。」

「光と水の盟約……神々もお喜びになるだろう。」

「羨ましいものだ、伝統ある婚姻など。」


笑顔の中に潜む打算。

フェルミナはそれを理解していながら、

何も言えなかった。


笑うこと、頷くこと、

それが“王女としての務め”だから。


けれど夜、一人きりになった寝室で彼女はしばしば鏡の前で呟いていた。


「――これが、“わたし”なの?」


窓の外、月が雲を割って覗く。

柔らかな光がカーテンの隙間から差し込み、その光に照らされた瞬間、彼女はふと幼い頃の記憶を思い出す。



十数年前。

戦乱の時代。


帝都の広場を埋め尽くした群衆の中で、一人の少女は、鎧をまとった男の背中を見上げていた。


剣を掲げ、

血に濡れ、

それでも笑っていた男――ゼン・アルヴァリード。


あの笑顔は、王族が決して見せない“生きた笑顔”だった。


あの時、彼女は決めたのだ。


(わたしは、あの人みたいに生きたい。)


でも、それを誰にも言えなかった。

言った瞬間に、きっと“王女らしくあれ”と周りから厳しく言われてしまうから。



フェルミナ・ルクレティアという名を持つ娘は、

生まれた瞬間から――いや、生まれる前からすでに――

“触れてはいけないもの”に囲まれていた。


火は危ない。

刃物は危険。

土は汚れる。

汗は不潔。

日焼けは品位を損なう。


結果彼女の十八年間は、ほとんど“触れない人生”で構成されていた。


食器を持つときは白手袋。

ドレスの裾が地面に触れれば侍女が飛び、

風で髪が乱れれば、専属の侍女が三人がかりで再整形。


寝る前には香油、起きたら聖水、寝癖がついたら大司教の祈祷。


――これでもかというほど徹底された「王女の管理」。


そんな環境で育てば、世界がどれほど“光”に満ちていようとも常に薄い影がべったりと貼りつく。


リサの目。

カイネルの目。

神殿付きの祈祷師、教育係、護衛兵。


とにかく“目”。

彼女の周囲には、いつも誰かの視線があった。


彼らは皆、善意ではあった。

しかしフェルミナを守る手は、同時に“見張る手”でもあった。

誰もが彼女を「王家の資産」として扱ったのだ。


「殿下、余計な外出はお控えを。」

「民の前に立つ際は、笑顔をお忘れなく。」

「――婚約の件、正式に承諾を。」


命令と予定と期待が、きっちり詰められた箱に押し込まれるように届けられる。

そのたびフェルミナは、胸の奥で小さく呟くのだった。


(……誰かが決めた未来ばかり。)


光に満ちたはずの世界は、彼女にとって“自由のない暗さ”で満ちていた。



フェルミナが暮らす王宮――白光宮は、外から見れば清らかな輝きを放つ大伽藍だ。

だが内側は、光の粒が細かすぎて呼吸を奪う“白い牢”だった。


広すぎる回廊。

一歩進むたびきらめく大理石の床。

どれも歴史と伝統の象徴でありながら、フェルミナにとっては“足音の反響を通して監視される空間”にすぎなかった。


それはまさしく、“光の帝国”の象徴として建てられた建築の一つだった。

外壁は白金石と呼ばれる特殊鉱石で、朝日を浴びれば淡く金色に輝き、夜になれば月光を受けて青白く発光する。

旅人たちは皆、その姿を見て驚嘆するという。


――あれほど美しい宮殿に住めるなんて、どれほど幸せだろう、と。


けれど、その感想がどれほど外側の幻想に満ちているかを、フェルミナはよく知っている。


白光宮は光を集めすぎるのだ。

廊下、天井、柱、扉。そのすべてが“光を返す素材”で造られているため、陰という陰がどこにも存在しない。

王族の影すら淡く溶けてしまうほどだ。


影が薄ければ、自由も薄くなる。


廊下の天井は異様なほど高い。

冷たく響く靴音は、どこまでも延びていき、まるで誰かが常に背後から聞き耳を立てているような錯覚を生む。

それは実際、錯覚ではなかった。

王宮には護衛と侍従と監視役が絶えず巡回し、誰がどこへ向かったのか、何を話したのか、逐一記録されている。


窓は広いが、外気はほとんど入ってこない。

魔導結界が施されているため、風も音も遮断される。

だから風に触れることも、雨の音を聞くこともできない。

静寂ではなく、閉ざされた“無音”。

それは、柔らかなブランケットではなく、透明な檻だった。


庭園は美しい。

整いすぎている。

花は香りを抑制され、色彩も一定に保たれ、すべてが“儀礼のための背景”として管理されている。

自然ではなく、王族のために計算された自然。

春の花が咲く時期すら、宮廷魔導師が調整してしまう。


そこには風まかせに揺れる草も、季節に合わせて枯れる木も存在しない。

すべてが“正しい姿”のまま固定される。


(……どこにも、本当の世界の匂いがしない)


フェルミナは何度もそう思った。

白光宮の空気は清潔すぎて、温度に変化がなく、季節の気配すら薄い。

夏の夜は涼しく、冬の朝も暖かい。

それは贅沢なのかもしれないが、同時に“世界から切り離される感覚”でもあった。


広いはずの宮殿は、フェルミナにとっては狭かった。

部屋の外に一歩出れば、必ず“役割”が追いかけてくる。

一人になれる時間はほとんど存在しない。


白光宮の壁は厚く、扉は重く、鍵は多い。

外敵を防ぐための構造だが、同時に“内側の者を閉じ込める仕組み”でもある。


その象徴が――“階層構造”だった。


上階は神殿区画、中央は政治区画、下階は王族の居住区。

王女は外へ出るにも許可証が必要で、階段ひとつ移動するにも護衛が三人つく。


ほんの少し散歩したいだけなのに。

ただ風に当たりたいだけなのに。

ただ“人でいたい”だけなのに。


自由とは、白光宮において最も希少な資源だった。


そんな宮殿で育ったフェルミナだからこそ、

“日の光が好き”ではなく、“風に触れたかった”。

“花が好き”ではなく、“香りのする土が欲しかった”。

“光の象徴”ではなく、“自分の影を見つけたかった”。


だが王宮は、そのすべてを“不要”と断じた。


白光宮は確かに美しい。

だが、その白さは――王族の心までも漂白してしまうほど強かった。


だからフェルミナは気づいていた。

この宮殿にいる限り、自分は“自分”ではいられないと。



王族の生活は、起床と食事と祈祷だけでは成立しない。

そこには“神の代行者”としての儀礼、“国の顔”としての振る舞い、そして“聖皇国の象徴”としての絶対的な威厳が求められた。


――だが、それを最も強く押しつけられるのは、

政治の中心にいない王族ほどだ。


末姫という立場は、自由に見えて自由ではない。

責任は軽いようでいて、実際には“誰よりも政治の道具にされやすい”。


それを、フェルミナは幼い頃から無意識に理解していた。


午前の講義は形だけは華やかで整っているのに、空気はどこまでも重い。

王族学、外交史、聖典解釈、魔力学、立ち居振る舞い。

並んだ科目はいずれも「七王女が国の恥にならないため」の知識で満ちている。


講師たちは優秀だ。

正確で、冷静で、失敗を許さない。

だが――彼らはフェルミナ・ルクレティアを“ひとりの人間として扱うこと”を禁じられていた。


「殿下、“感情”で判断してはいけません。“形式”が優先されます。」


授業のたびに聞かされるその言葉。

もはや呪文のように耳に残って離れない。


感情があるからこそ人間なのに、

王族には形式が先に立つというのだ。

感情は二の次、三の次。

それはまるで、心を一枚の薄い紙に押しつぶしてしまうような抑圧だった。


午後に入れば外交儀礼の訓練が始まる。

微笑みの角度、座る位置、呼吸のリズム、声の抑揚、杯を持つ手の高さ――

些細な乱れでも、すぐに鋭い指摘が飛ぶ。


「殿下、視線が少し上を向いております。」

「手首を曲げすぎです。気品が損なわれます。」

「笑顔が硬い。敵国の王子に誤解されますよ。」


(……私って、なんでこんなに“間違えちゃいけない”存在なんだろう?)


できないのではない。

怠けているわけでもない。

ただ――私は、私自身のままでいたいだけなのに。


その“当たり前の願い”が、

王宮ではいつも「不適格」の烙印と隣り合わせだった。

誰も口にはしないが、空気がそう告げていた。

「あなたは素のままではいけない」と。



王宮の暮らしには、もうひとつ重くのしかかる拘束がある。

祈りの儀式――聖皇国の象徴行為。


ルミナス聖皇国は光の神ルミナを最高神として崇めている。

だが神は数百年前から沈黙したままだ。

返答も、啓示も、加護もない。

それでも儀式だけは毎日続けられる。


理由は簡単だ。

祈りは宗教ではなく、政治である。


フェルミナは毎朝、神殿の奥で光柱の前に立ち、

「聖皇国の安寧のために」と祈りの詞を唱える。

その所作は他国への威厳の誇示であり、

国内貴族たちを安心させるための“見せる祈り”でもある。


だがフェルミナの心は毎度静かに問う。


(……神様。本当に私の声なんて届いているの?

もし聞こえているなら、こんな苦しい祈りを続けさせたりしないんじゃない?)


問いは胸の中に沈んだまま形にならない。

王女が疑念を口にすることは、許されない。

彼女の言葉はすべて“国家の声”として扱われる。

軽はずみに呟くことすら、政治的影響を持ってしまうのだ。



夜になれば晩餐会が始まる。

光のシャンデリアの眩い輝き、磨かれた銀器の反射、

貴族たちが口元だけ笑わせながら杯を掲げる社交の時間。


フェルミナはその場で“第七王女としての象徴席”に座らされる。

そこに彼女がいるだけで外交上の意味を持つ席だ。


「第七王女殿下は、神々の祝福を最も多く受けておられる。」

「政略婚は帝国に新たな未来をもたらすでしょう。」

「ネプタリア王太子殿下とは、文化的にも相性が良いと聞きますよ。」


それらは祝福の言葉の形をしている。

だが実際は“諦めの押し付け”のように響く。

まるで「あなたの気持ちは無関係」と言われているようだった。


(どうして……どうして誰も、私の気持ちを聞いてくれないの?)


胸の奥で、ひどく静かな痛みが広がる。

けれど王女である限り、反論は許されない。


彼女ができることは一つだけ――

完璧な笑顔で応対をこなすこと。


笑う。

頷く。

杯を持つ。

形式どおりに振る舞う。


それが「王女の義務」。

ただそれだけ。



そして晩餐が終わり、夜が深まるころ――

フェルミナの心の中には、必ず同じ疑問が落ち着かずに揺れている。


(私は……いつまで“誰かが決めた未来”を歩き続けなきゃいけないんだろう?)


問いは答えを持たず、

その夜もまた、静かに胸へ沈んでいった。




だが、フェルミナが本当に苦手なのは、

こうした政治や儀礼ではなかった。


“王宮の空気そのもの”が、彼女には息苦しかった。


白光宮は美しい。

けれどその美しさは“静止した美”。

季節も匂いも、人の温もりさえも薄い。


彼女はいつも窓の外を眺めながら、“風の匂い”を求めていた。


土の匂い。

草の匂い。

焼きたてのパンの匂い。

人の暮らしの匂い。


どれも白光宮には存在しない。


(わたし……生きてる感じがしない。)


そう思ってしまう自分に罪悪感を覚えながら、

それでも心は“外の世界”に憧れ続ける。


そんな彼女が唯一安心できた場所は、自室の片隅。

そこに――幼い頃にこっそり買った小さな絵本があった。


その絵本は、本来なら王女が持つべきものではなかった。


子ども向けの安い紙質。

表紙の角は丸まり、ところどころ滲んだ跡がある。

手に取れば、王宮の豪奢な本とは違い、どこか“人の体温”が残っているような感触がした。


タイトルは――


『光の神ルミナと七つの風』


白光宮の図書庫にある公式の聖典とは違い、これは民間の語り部が残した素朴な神話集だった。

物語は誇張され、説明は抜け、筆致は粗い。

けれどフェルミナにとっては、この質素な絵本こそが

“光の国に生まれた自分は何者なのか”を教えてくれる、たった一つの手掛かりだった。


彼女は幼いころから、その本を何十回、何百回も読み返している。


ページをめくると、最初に描かれているのは――


「光の神ルミナの誕生」


それは、星すらまだ名前を持たなかった太古。

闇しか存在しなかった世界に、ただ一粒の光が生まれた。

光は震え、揺れ、やがて息をした。


その息こそが“最初の風”となり、

世界に“動き”と“時間”をもたらした、と絵本は語る。


しかし、公式の聖典はこう教えている。


――光は絶対であり、揺らぎもしない。


絵本の中の“生まれたばかりの弱い光”は、聖典が語る“完璧な光”とは違っていた。

だからこそフェルミナは、この素朴な絵本のほうに、より強く惹かれたのかもしれない。


ページをめくると次に――


「七つの風の誕生」


ルミナの息は七方向に広がり、七つの風として形を持った。


それぞれの絵は幼いタッチで描かれているのに、どこか胸が熱くなる。


・東風 《はじまりの風》

・南風 《いのちの風》

・西風 《かなしみの風》

・北風 《ゆきの風》

・宙風 《みちびきの風》

・影風 《おわりの風》

そして最後に、

・中央の風 《ひとの風》


この“ひとの風”だけは、他の風と違って人の形をしていた。


絵本はこう語る。


――七つの風はすべて、ルミナの想いから生まれた。

だが“ひとの風”だけは、ルミナが世界に与えた最初の願いだった。


「どうか、世界を照らすのは私ではなく、お前たちであれ。」


フェルミナはその一文が大好きだった。

王宮では誰ひとりそんなことを言わないのに、

神だけが“人間を信じている”ように思えたからだ。


この絵本のルミナは、

“完璧で遠く冷たい光”ではなく、

“世界に期待して微笑む温かい光”なのだ。



さらに読み進めると、物語はこう続く。


「世界が動き、文明が芽吹き、やがて争いが生まれた」


ある日、七つの風は互いにぶつかり合い、

大陸を裂くほどの嵐を生み出した。


絵本には、戦う風たちが子どもの落書きみたいに描かれている。

そんな挿絵なのに、フェルミナの胸はいつも締めつけられた。


争いあう風たちの中心に、

ルミナがゆっくりと降り立つシーン。


光は泣いていた。

公式の聖典では決して語られない描写。


「どうして争うのですか。

世界はお前たちのものなのに。」


その涙が大地に落ち、

光の泉 《ルミナ・スプリング》となり、

やがて人々に“癒し”と“安らぎ”を与える源となった――


というのが、この物語のクライマックスだった。


フェルミナにとってこの場面は、幼心を救った“最初の光”だった。


なぜなら――


“完璧ではない神”が、そこにはいたから。


泣き、迷い、祈り、

それでも世界を愛そうとする存在。


王宮で押しつけられる“無謬性”とは違う。

そのどこか不完全な光の姿に、フェルミナは“自分の居場所”を見つけていた。


物語の終盤には、こんな言葉がある。


「光は照らすだけではなく、

ときに影を生み、

ときに影を受け入れる。

それが世界のかたちである。」


フェルミナはこの部分を読むたび、胸が温かくなると同時に切なくなった。


白光宮の人々は決してこうは言わない。

光は清らかで、影は邪悪で、闇は排除するものだと教え込まれる。


けれど絵本のルミナは違った。


光は、影を抱きしめるためにある。


その考え方は、彼女が“王女として窮屈に感じる理由”のすべてを優しく肯定してくれる気がした。



「神が沈黙しても、

光は消えていない。

それは、お前たちの中に宿るからだ。」



フェルミナはこの一文を読み返すたびに、

“神はもう声を返さない”という王宮の常識が不思議と怖くなくなる。


光は外から降るものではない。

内に宿すもの。


そう思えるだけで、

他の誰にも肯定されなかった“私という存在”が、

ようやく世界と繋がる気がしていた。


 

白光宮で誰にも理解されなかった想い。

声に出せなかった息苦しさ。

“決められた未来”への反発。



その全ての根っこには、

この小さな絵本があった。


光は強くなくていい。

完璧でなくていい。

ただ、世界を照らすでも押しつけるでもなく、

静かに寄り添うためにある。


そんなルミナの姿を、

フェルミナはずっと胸に抱き続けていた。


そして――


彼女が王宮を飛び出し、

“光の届かぬ谷”ガルヴァを目指した時も。


その心を支えていたのは、この絵本に描かれていた


「光は遠くではなく、足元にある」


という、たった一つの物語だった。



次第にフェルミナは、王宮という“光の牢”が

耐え難いほど狭く感じるようになっていった。


閉ざされた窓。

通いなれた祈祷堂。

毎日同じ食卓。

同じ礼儀。

同じ顔ぶれ。


彼女の世界は、一度も自分で選んだことのない道だけで構成されていた。


(このまま……誰かが敷いたレールの上で一生を終えるの?

そんなの、いや……。

わたしの人生は、わたしが選びたい……!)


その願いは、まだ誰にも言えない。

けれど――その想いが“逃げる”力になるまで、

もうそう遠くはなかった。




◇ ◇ ◇



完璧さを求められ、“光の象徴”として歩き方一つにも気を張っていた王女が――いま、裸足で畑を掘っている。


「う、うぅぅ……冷たいっ! 足の指がっ……指がぁぁ……!!」


ガルヴァの土は冷たい。

冗談抜きで冷たい。

裸足に容赦なく侵入し、王都の絹靴下の概念を粉砕してくる。


フェルミナは震えながらスコップを構え、

「いける……いけるわ……!」と謎の気合を入れ、

勢いよく振り下ろした。


「おりゃあああああああぁぁぁっっ!!」


――ガンッ。


結果:スコップ、地面に刺さらず跳ね返る。

まるで土のほうが「やめろ」と拒絶したかのように。


「……え? なんで!? 地面が反撃してくるんですけど!!」


隣でじっと観察していたライルが、無表情のまま淡々と言う。


「ミナさん、それ“石”です」


「なんで地面に石があるのよ!!」


「地面だからです」


「理不尽よ!!!」


王女、自然の構造に敗北した瞬間である。


この村の畑には、特殊な“魔土まど”が使われている。

魔力を吸収する土で、手入れを怠るとすぐに“雑草の暴走”が始まるのだ。


つまり――一瞬でも気を抜けば、草が反撃してくる。


「ミナ、足元気をつけろ。魔根がある。」

「まこん?」

「蔓が絡んでくるやつだ。」

「え、それって――」


――ずるっ。


「ぎゃああああ!?!?!?!?!?」


フェルミナ、転倒。

そしてダイブ。

見事なフォームで畑の中央に着地。


泥。顔面。ドレス(※既に作業着に格下げ)。終了。


「ミナさん、もう顔、全部土色です」

「ううううう……これ、化粧じゃ隠せないやつぅぅぅ……!」


クレアが無言でハンカチを差し出す。


「……大丈夫ですか、ミナ様?」

「見ないでぇぇぇ!!!」

「いえ、直視します。これが現実です」

「つらいっ!!!」



この畑仕事という儀式。

ゼン曰く――


「野菜の育て方を知れば、人生の味がわかる」


らしい。


だがフェルミナにとっては、完全に

「人生の重さを知る時間」 である。


鍬はやたらと重い。

土は容赦なく固い。

虫は本気で多い。

そして太陽は、王宮のバルコニーで眺める上品な朝日とは違い、

“真顔”で照りつけてくる。


「きゃぁぁぁぁ!!! 虫っ!! 虫ぃぃぃぃぃ!!!」


フェルミナの魂の叫びが谷に響きわたる。

ライルは落ち着いた声で補足した。


「ミナさん、それはカブトムシの幼虫です。」


「う、動いてるっ!! なんか丸いっ!!」


「虫ですからね」


「わかってるけどぉぉぉぉ!!!」


人間、畑に立つと心のストッパーが全部外れるらしい。

フェルミナが叫ぶたび、谷の霧がびくっと揺れるような気さえする。



とはいえ、慣れというのは恐ろしい。


数刻後には、彼女の動きにもわずかなリズムが出始めた。

スコップを構え、泥を避け、蔓を払い、腰を入れて――


「……あれ、できた?」


ライルが目を丸くする。

「ミナさん、ちゃんと掘れてます!」

「やった!! 掘れた!! 見てゼン様! ちゃんと穴ができたわ!!」


厨房の方からゼンの声が返る。


「……そりゃ畑だからな。掘れなきゃ困る」

「そういう問題じゃないんですぅぅぅ!!!」


フェルミナ、努力が評価されず。


だが彼女の表情は不思議と明るい。

額には汗、手には泥、背筋は痛い。

それでも、顔には確かに“生気”が宿っていた。


(こんなの初めて……!)


今までの生活にはなかった感覚。

汗が流れる。

呼吸が荒い。

心臓が速い。

土の匂いが服に染みついていく。


けれど、それが気持ち悪くない。

むしろ――嬉しい。


「ミナさん、顔に泥ついてますよ」

「えっ!? ど、どこ!?」

「全体的に」

「そんな範囲で!?」


クレアが小声で言う。

「……ミナ様、泥まみれでも笑ってますね」


ライルが笑う。

「たぶん、今がいちばん王女らしくないんじゃないっすか?」


「ふふっ、確かに」


そしてふたりは見た。

その中心で、必死に鍬を振るいながらも、

顔を上げて笑っているフェルミナの姿を。


――まるで、陽の光そのものみたいだった。


山の麓にも聞こえそうな大騒ぎの中でも、フェルミナの胸の奥にはほんの微かな温かさが生まれ始めていた。


指先に伝わる土の冷たさ。

汗がこめかみを伝う感覚。

風が頬をなでるたび、髪が乱れても誰も怒らない世界。


触れてはいけないものだらけだった人生が、

今はむしろ“触れなければ進まない時間”で満ちている。


泥で汚れた足。

重すぎる鍬。

跳ねた土が頬に当たる感覚。


どれも王宮では決して許されなかったものばかりだ。

なのに――胸は不思議と軽かった。


(……変なの。汚れてるのに、苦しいのに……なんでこんなに気持ちいいの?)


もちろん次の瞬間には、


「ぎゃああああ!! 今度はなんか細い虫ぃぃぃ!!」


と叫ぶのだが、それでもこの谷の空気は、

彼女にとって少しずつ“生きている感覚”を取り戻してくれる。


その様子を眺めながら、ライルは小さく肩をすくめた。


「……にぎやかだなぁ、今日は。」


畑の上には、

悲鳴と笑いと、少しだけ混ざった自由の匂いが漂っていた。



ゼンは店の軒先からその光景を眺めていた。

湯呑を片手に、ぼそりと呟く。


「……まったく、なんでこんなことになってるのやら」


それでも、口の端はわずかに上がっていた。


あの笑顔。

戦場にも、帝都にも、王宮にもなかった種類の笑顔。

見ているだけで、妙に安心する。


「……ま、悪くねぇな」


そう言って、ゼンは湯を一口すする。

遠くでまたフェルミナの声が響く。


「わぁぁぁっ!? 今度はカエルぅぅぅぅ!!!」


そして、クレアのため息。

「……王女、カエルも国民です」

「違う意味でっ!!!」


ガルヴァの山郷には今日も平和な騒がしさが広がる。

英雄と、弟子と、王女と、少年。

その日々はまだぎこちなく、

けれど確実に――温かかった。


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