第118話 ……あぁ、尊厳ポイントが……
朝の山は、やけに眩しい。
昨日よりも霧が薄く、谷の空が真っすぐに落ちてくる。霧の合間から漏れる光は、どこか神々しいというより“容赦がない”。まるで「今日も逃げ場はないぞ」と言わんばかりの照りつけ方だった。
ガルヴァの山郷の空気は、たしかに澄んでいる。吸い込むだけで心が洗われる――なんて思いたい。思いたいのだけれど。
「ミナさん! そこ左! 今のは右じゃなくて左です!!」
「え、ええ!? でも私の感覚ではこっちが“右”だし……!!」
「感覚じゃなくて現実で動いてください!!」
厨房から飛んでくるライルの声と、飛んでいく私の手元の皿。
そして――
「ミナさん! そっち“お皿置き場”じゃなくて、“生ごみ桶”です!」
「えっ!? きゃぁぁあ!?!?」
――もう、朝からカオスである。
昨日、ちょっとだけ“できたかも”って思ったのは夢だったのかもしれない。
全身の筋肉痛を引きずったままの出勤(という名の早朝集合)、
半分眠った状態で布巾と桶を持ったその瞬間から、今日という日は波乱に満ちていた。
「くっ……昨日あれだけがんばったのに……!」
そもそも私の人生計画では、
“優雅に旅をして、さりげなくゼン様と再会して、控えめに距離を縮めていく”――そんな胸きゅん展開になるはずだった。
なのに、現実は。
「ライルくーん! お皿が逃げたーっ!!」
「逃げません! それは滑ってるだけです!!」
「……でも、今“カタン”って音して、明らかに方向転換した気が……」
「皿に自我はないです! ないっすからね!!」
完全に戦場である。
厨房の中は、戦線のど真ん中。
霧水茶の仕込み、灰豆の浸水、炊きあがった蒸籠の搬出、出汁用の骨整理――そして私の叫び声。
「お、お吸い物の汁ってどこまで入れていいんだっけ!? ここ? もっと? 多すぎると怒られる!?」
「……ミナさん、それは“水”じゃなくて“煮込みスープ”です」
「ぎゃあああ!?!? えっ、誰!? どこから現れたの!? えっ、サリーちゃん!?」
「……横にいましたよ、最初から」
魔法か何かでフェードインしたんじゃないかと思うくらい、彼女は自然に出てくる。
しかもその手元は完璧。
私が一歩遅れた瞬間さりげなく箸を添えてくれるし、トレーの角度まで直してくれていた。
(くっ……完敗……!)
一方で、厨房の奥。
「クレア、煮汁の火、少し強めろ」
「はい」
「次、野菜を刻んだら三番の鍋に回せ」
「了解」
「仕込み終わったら客席の確認、頼む」
「承知しました」
――何この人。指示の鬼? それとも訓練された軍人?
そう思ったのも無理はない。
クレアは相変わらず、恐ろしく完璧だった。
立ち姿は静かで、動きには無駄がない。
ゼン様の指示に一切の遅れもなく、むしろ彼の言葉が終わる前にもう半分くらいの作業は終わっている。
まるで、彼の思考を読んでいるかのように。
包丁の音、鍋の音、湯気の音――
忙しない厨房の喧騒の中で彼女の周囲だけが妙に研ぎ澄まされていて、空気がピンと張っているように感じられた。
「……くっ、同じ“女性”として、なんという差……!」
泡だらけの手で皿を落としかけたミナは、思わず悔しげにそう呟いた。
別に、勝ちたいわけじゃない。
比べたいわけでもない。
でも、どうしても比べてしまう。
クレアは動じない。失敗しない。乱れない。
ゼン様の右腕として、そしてこの店の一員として、あまりにも“様になりすぎている”。
(私だって! ……やればできるはず! たぶん! きっと! おそらく!!)
もう心の中で何回このセリフを叫んだかわからない。
でも、クレアの動きを見れば見るほど自分のちぐはぐさが際立ってしまって……なんというか、乙女のプライドがチクチクと痛む。
というか毎度毎度思うけど、クレアって本当に人間なの?
元エリート兵士っていうか、あれはもう“人型補助機”じゃないの……?
洗い場の片隅でそんなことを思っていたとき――
「よし、じゃあミナは配膳を頼む」
その一言で、空気が変わった。
「は、はいっ! おまかせくださいっ!!」
来た! ついに来た! 名誉挽回のチャンス!
泡を拭ってエプロンを直し、慎重に皿を手に取る。
(よし、ここでこけなければ勝ち!)
いつも通りやれば大丈夫。
そう、自分に言い聞かせながら、一歩、また一歩と客席へと歩み出す――
「お待たせしました! “本日の気まぐれ定食”でございますぅぅぅっっ!!」
――ドンッ。
やってしまった。
ちょっとだけ勢いをつけすぎた。
皿の上では、山菜の天ぷらがひとつ、重力の存在を思い出したかのように傾き――
……ふわり。
私の袖の中に、吸い込まれるように着地した。
「――熱っっっ!?!?!?!?!?!?」
「ミナさん! 天ぷらは服じゃなくてお皿に乗せてくださいーっ!」
「ひゃああああああああああああ!!!」
……あぁ、尊厳ポイントが……またゼロになった。
視線を感じて振り返ると、厨房の奥でゼン様が片手を額に当てていた。
「おい、ミナ。落ち着け。配膳は戦じゃねぇ」
「は、はいぃぃぃぃ……」
「……お前が来てから厨房の音が三倍になった気がする」
「気のせいですっ!!」
その横で、ライルが呟いた。
「……うるささも三倍です」
「ライル!?聞こえてるからね!? しっかり!」
客席からも笑いがこぼれる。
ゼン様が小さくため息をついたが、顔はなぜか少しだけ和らいで見えた。
……うん、わかってる。
私、まだまだ全然ダメだ。
昨日の終わりにちょっとだけ芽生えた“私、いけるかも”という希望は、今朝のスリップ事故と共に霧散した。
体は重い。頭は回らない。足元の動線すらふらついている。
「ミナさん、ちょっと休憩入れてください! 紅茶いれます!」
「い、いや……まだ、やれる……っ」
「立ち方が“ゾンビ”になってます」
「ちょっと前のめりになっただけだもん……!」
倒れる寸前、ライルに椅子へと座らされてしまった私は、紅茶の湯気に包まれながら天井を見上げた。
木の梁の隙間から差し込む陽光が、どこか懐かしいようで……でもやっぱり、遠い。
(こんなはずじゃなかった……)
私が目指したのは“憧れの人とのほのぼのスローライフ”。
でも現実は、“お皿に追い回される新米スタッフ”。
厨房に立つゼン様の背中が時折視界に入る。
黙々と火を見つめ、鍋の音に耳を傾け、調味壺から香草を一摘み。
(……かっこいい)
今でも、思わず見惚れてしまう。
昔と変わらない。…いいや、変わったはずなのに、根っこの部分はまるで昔のまま。
だからこそ、なんだ。
「……この距離、どうやって縮めたらいいの?」
つい呟いてしまった言葉は、紅茶の湯気に紛れていった。
……ちょっと、落ち着こう。
そう、まずは深呼吸からだ。吸って、吐いて。
「……ふーっ」
一旦思い出すのよ、私。
あの、帝都の王宮で過ごした日々を。
誰よりも背筋を伸ばして、誰よりも丁寧に礼を尽くしていた、数日前の“フェルミナ王女”を。
(だって私、王族だったんだから……!)
誰に笑われたって構わない。事実なのだから。
薔薇の回廊を歩くときの足の運び。
階段を下りるときの姿勢。
盃を持つときの角度。
笑うときの視線の柔らかさ。
それらは確かに自分の中に“刻まれて”いる。
何年も女官や侍女たちと共に、礼儀作法を身体に染み込ませてきたあの頃――
(あのときの私にできて、今の私にできないはずがない)
私はぐっと足に力を込め、椅子から立ち上がった。
手のひらには、まだほんのりと紅茶の温もりが残っている。
――そうよ、所作よ。
動きの一つ一つを、呼吸に合わせて“整える”。
たとえば一礼するとき。
背中をまっすぐに、目線を低く、でも姿勢は崩さず。
指先まで意識を行き渡らせて、まるで絹の布をたたむように。
「……私にだって、できる」
小さく呟いたその声に、誰かが振り向いた気配がしたけれど、私はもう前しか見ていなかった。
そうよ。今日の私は、“灰庵亭のスタッフ”であると同時に、“ルミナス聖皇国の第七王女”。
あの王宮で学んだことは、飾りでも気取りでもない。
――“自分を立たせる術”だったんだ。
「エプロンは、腰の真ん中で結ぶ。緩ませないように、でも呼吸の妨げにならないように」
声に出しながら、一つ一つ動作を確認する。
これまでの私は、“早くやらなきゃ”と焦ってばかりで基本的な所作を忘れていた。
「トレーは両手で。腕の高さは胸の位置、肘を張らず、脇を締めて。……よし」
そう、王女としての立ち居振る舞いも、接客の所作も――
“人の前に立つ”という意味では、何も違わない。
違うのは服装と場だけだ。
心のあり方さえ同じなら、私の“癖”は必ず身体に戻ってくる。
(よし、もう一回。……ちゃんとやってみよう)
そう思った瞬間、ふと耳元で声がした。
「……ミナさん、目つきが急に王族に戻ってますけど、だ、大丈夫ですか?」
……ライル。
「失礼ね。いつでも王族よ、私は」
「いや、でも今朝“スライムにビビってた人”とは思えない威圧感が……」
「朝のことは忘れなさい」
肩で風を切る勢いで、私は厨房に戻る。
目標はただ一つ。
――“自分で納得できる仕事”をすること。
勝ち負けじゃない。
クレアと比べるんじゃなく、昨日の自分より今日の自分。
(フェルミナ王女は、ここからやり直すのです)
その瞬間、背後からサリーの声が飛んだ。
「ミナさん、囲炉裏の四番、追加の霧つぼみ入りました!」
「了解、行きます!」
返事の声も、自然と通るようになっていた。
トレーを手に取り、鍋の前で慎重に蓋を開ける。
香りを逃さぬよう、湯気を読んで、一瞬の“香気の立ち上がり”を意識する。
「……よし」
客席に向かう足取りは、さっきよりも少しだけ軽くなった気がした。
◆
そして、休憩の終わり。
午後の部の営業が始まる頃には、私は再び戦場へと立っていた。
エプロンを締め直し、髪を束ね直し、意識を一点に集中させる。
「はい、囲炉裏の五番席、お味噌追加でーす!」
「ミナ、外庭席に霧水茶2。あと厨房入口の野菜籠、誰か蹴ったか? 配置が崩れてた」
「……犯人は……お皿だと思います……」
「お皿が歩くな!!」
――こんなにもボロボロになりながら、それでも立ち上がるのは。
(……とにかくここに“いたい”と思ったから)
そう。
完璧じゃないけれど。
誰よりも下手くそだけれど。
私はこの場所に関わっていたい。
ゼン様の作る“あの味”に、自分の何かを重ねていきたい。
この空気の中に、私も“ひとり”として混ざっていきたい。
働くって、完璧な動作のことじゃない。
誰かに何かを届けようとする気持ちと、それを失敗しながらでも繰り返すこと。
それもきっと、“この場所で生きる”ってことなんだと思う。
だからもう一歩、前に出る。
「囲炉裏六番さんに、追加の煮浸し入りまーす!」
今日もまた、走って、転んで、立ち上がって。
たとえ、まだ皿洗いすらまともにできなくても。
王女としてではなく“ひとりの人間”として、
彼の隣に立てるようになりたい。
そう願いながら、
彼女はまた新しい皿を手に取った。
……次こそは、割らない。
(たぶん。)




