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第117話 働くということ



朝の静けさは、あっという間に過ぎ去った。


開店と同時に次々と客が訪れ、囲炉裏の間も板間の個室もひととおり埋まり始める。まだ霧が山の裾を漂っているというのに、玄関の外にはすでに「並び待ち」の列が形成されていた。


「ミナさん、三組目のお茶、お願いしまーす!」


「はっ、はいっ!」


私は腰をかがめて一礼し、すぐに霧水茶を載せたお盆を持ち上げた。両手はピシッと水平、でも緊張しすぎると手首が固まってお茶が揺れる。さっきライルに教わったばかりの“滑らせるように置く”コツを思い出しながら、客の前へ――


「こちら、霧水茶でございます。どうぞごゆっくり――」


……と、優雅に言うつもりが、口から出たのは妙にカスれた声だった。


「あっ、す、すみません! えっと……のどが……!」


客の若い女性がくすっと笑ってくれて、私は顔から火が出そうになりながらその場を後にした。


厨房へ戻ると、ゼン様が鍋の蓋を開けて炊きあがった麦豆をかき混ぜていた。さすがに声はかけられない。というか、近づくだけで香りで胃袋を引っ張られるような誘惑がある。


「配膳、次。ミナ、霧つぼみの和え物、囲炉裏の六番席に!」


「はいっ!」


次の配膳を引き取り、走らないように小走りで席へ向かう。霧つぼみは繊細で、香りが飛びやすい。お椀の蓋はお客の前で外すのが基本。


でも、でもね――


(緊張するのよ、コレ!)


今日の六番席は、帝都から来たらしい学者風の初老男性。なんというか、こう……間違ったら、やり直せって言われそうな雰囲気。


「こちら、霧つぼみの和え物でございます。蓋を、失礼いたします……」


慎重に蓋を持ち上げる。湯気がふわりと広がる。その一瞬の香りの立ち上がりに、男性が「おお」と目を細めてくれたのを見て、私は心の中でガッツポーズした。


(よし、ひとつ成功……!)


が、束の間の安堵は長く続かない。


「ミナさーん、入口でお客様が足元すべらせて……タオル持ってきてくださーい!」


「ええっ!? はいっ!!」


バタバタと走り、玄関先で片膝をついている年配の女性の元へ。大事には至らず、足を滑らせただけで済んだらしい。サリーがすでに介抱しており、私は手拭きと温かいお茶を持ってサポートに入る。


「す、すみません……ちょっと焦ってしまって」


「いいえ、足元が滑りやすくて……ああ、このお茶、おいしいですねえ……」


「ふふ、ありがとうございます」


……と、笑いかけた瞬間、サリーが耳元で小声。


「ミナさん、帯、ちょっとずれてます」


「……はっ!? ま、またですか!?」


やってしまった。


結び方が下手なせいか、帯がよく緩む。王宮時代は女官が毎朝着せてくれたから気にしたことなかったけど、今は自分で結ぶしかない。


「あとで締め直してきます……」


「あ、わたしやりますよ。後で裏に来てください」


サリーは笑顔で頼もしい。年下なのに、なんかすごく“大人”に見える瞬間がある。てきぱきと接客をこなしながら空気も読むし、フォローも早い。私よりずっと灰庵亭に馴染んでる。


(……ちょっと、悔しい)


そんなことを思ってしまった自分に軽く自己嫌悪しながらも、私は気を取り直して再び客間へ。


昼のピークが押し寄せていた。


「囲炉裏席、追加のお吸い物!」

「霧つぼみ、追加できますか?の問い合わせ!」

「団体のお客さん、五人から六人に増えたって!」


情報が錯綜し、頭の中もぐるぐる。もはやこれは戦場。でも、ライルが笑顔で言っていた。


「テンパった時ほど、呼吸っすよ。まず、吸って、吐く!」


そう。吸って、吐く。


(落ち着け、落ち着け……料理は、火から離れた瞬間から味が落ちる……)


私はゼン様の言葉を反芻し、動きを整える。あの人の料理に、私の焦りを乗せて運ぶわけにはいかない。


それから数時間――


どうにか嵐のような昼営業を乗り切った頃、囲炉裏の間には落ち着いた静けさが戻ってきていた。最後の客が器を下げ、香炉の香りがまた静かに空間を包む。


「……終わった、かも」


思わず壁にもたれた私の隣で、サリーが麦茶を片手に言った。


「慣れましたね、ミナさん。出だしよりもずっと動きがスムーズになってます」


「えっ、そうかな……?」


「うん。なんか“灰庵亭っぽい動き”になってますよ」


そう言ってにこっと笑われた時、ようやく心から力が抜けた。


エプロンはびしょ濡れ、髪はふわふわ、手は皿洗いで真っ赤。

全身筋肉痛寸前――でも、不思議と嫌じゃない。


ライルが横に腰を下ろして笑う。


「最初はみんなそうですよ。俺も最初はテンパりすぎて鍋ひっくり返しちゃったし」


「…え、そうなの?!」


「結局団長には“鍋が歩いた”って笑われましたけど」


フェルミナは思わず笑った。


「ライルはすごいよね。私より全然年下なのに、どこか肝が座ってるっていうかさ?」


「ミナさんも、案外根性ある人っすね」


「“案外”って何よ!」


そのとき。


「おい、お前ら」


振り返ると、ゼン様が盆を片手に立っていた。木の盆の上には湯気の立つ茶碗が四つ――そしてその隣に、白いおにぎりがいくつも並んでいた。


「働いた分のまかないだ。……食え」


盆をテーブルの中央に置くと、湯気がふわりと立ちのぼった。茶碗の中は山菜と麦の味噌汁。香ばしく、そしてどこか懐かしい香りが広がる。笹の葉に包まれた小ぶりのおにぎりは、艶のある白い粒がしっかりと握られていて見るからに美味しそうだった。


「これ……おにぎり、ですか?」


そっと手に取ったおにぎりはほんのり温かかった。米の一粒一粒が、まるで淡い光を纏っているような艶を放っている。


――ふわり。


口の中に広がったのは、ふくよかな“甘み”ともっちりとした柔らかさ。咀嚼するごとにほんのり香ばしさと粘り気が増して、ほんのり塩が効いた海苔の風味がそれを包み込む。


「……おいしい……っ」


思わず言葉が漏れた。まるで体の中まで洗われていくような、不思議な安堵感。味噌汁のやさしい塩味があとから追いかけるように喉を潤してくれる。


「味噌汁の具材は?」


「山菜と麦。それに少しだけ、出汁に霧つぼみを使ってる。風味がやさしくなる」


「……あの、すごく、あったかいです」


私は思わず目元を押さえてしまった。味噌汁の湯気で霞んだ目の奥で、込み上げてくるものがあったからだ。


「そりゃ、湯気出てるからな」


「そうじゃなくて……心が、です」


その言葉に彼は一瞬きょとんとして、それから照れくさそうに頭をかいた。


「……くだらねぇ感想だな」


「でも、本当です」


私の指先はまだおにぎりの温もりを感じていた。まるで人の手から直接伝わってきたような優しさ。整った形ではないが、確かに“手で握った”という実感のある正直なおにぎりだった。


――ああ、これが“生きる味”なんだ。


英雄だった人の、いまの味。

戦いのない、平和な味。

誰かを傷つけない、誰かを満たすためだけの味。


おにぎりと味噌汁。

それだけなのに、こんなにも心が満たされる。


湯気の向こうでゼン様がほんの少しだけ笑ったのを見た気がした。

静かな、でも確かな微笑み。


それは彼が「誰かのために」ではなく、

「ここにいる人たちと分かち合う」ために作った味だった。


そしてあたたかい味噌汁と輝く星粒米のおにぎりは、この谷に集う者たちを確かに“ひとつの場所”へと繋いでいた。


――きっと、明日もまたこの味に会いたくなる。


フェルミナはもうひと口、そっと口元におにぎりを運ぶ。



きっと今日も失敗はいっぱいあった。声は裏返るし、帯もずれたし、霧つぼみは一度ひっくり返しかけた(未遂で済んだけど!)。でも、それでも。


私は――この場所で、誰かの「ひととき」に関われた。


(……悪くなかったかも)


ゼン様が炊いた豆の香りが、まだ厨房の奥から漂っていた。





夜の谷は静かだった。

昼間の喧騒が嘘のように消え、灰庵亭の周りでは霧が風に揺られてゆっくりと形を変える。遠くで水車が小さく軋む音がして、その規則正しいリズムがまるで今日の一日をなだめる子守歌のように聞こえた。


私は夕食で食べた“山獣と根菜の味噌煮込み”の余韻がまだ身体の芯に残ったまま、川辺のロフト棟に戻った。


小川のせせらぎを背に木の扉を開けると、暖炉の残り火がほんのり橙に揺れていた。

室内には乾いた薪とハーブの香り。天井の梁から吊るされた音鈴が夜風にかすかに触れて鳴る。

靴を投げ捨てるように脱ぎ捨てた後、厚板の床を静かに踏みながら足早に奥へ進む。


寝る前に少しだけ整理をしようと、居間の片隅にある机に腰を下ろした瞬間――


「――遅かったですね、フェルミナ様。」


静かな声が上から降ってきた。


顔を上げると、ロフトの縁からクレアが覗き込んでいた。

屋根裏の寝台の上――彼女は片腕で腕立て伏せをしていた。

…片腕。

しかも呼吸ひとつ乱れず、まるで鍛錬場のような集中力で。


「……な、なにやってるの、クレア」


「筋力維持です。今日の勤務は動きが細かかったので、全身の軸が少しぶれています」


「ぶ、ぶれてた……? あんなに完璧だったのに……?」


腕立て伏せの“最後の一押し”みたいな体勢のまま、クレアは静かに答える。

彼女の影が暖炉の灯りを背に、床へすっと長く伸びていた。


「完璧などありません。戦も接客も、必ず改善点があります」


そのストイックさに私は思わず背筋を伸ばした。

昼間、誰よりも滑らかで誰よりもテキパキと仕事をこなしていたというのに、まだ“改善点”。

本当にこの人、…何者なんだろう。


クレアは数回ゆっくり腕を曲げ伸ばしし、最後にふっと息を吐いて床に膝をついた。


「……さて。今日の振り返りをしましょうか」


「ひ、振り返り!?」


私は小さく跳ねた。

まるで帝国の作戦会議に呼び出された兵士みたいに。


クレアは汗をタオルで拭いながら、少しだけ柔らかい表情になった。


「そんなに構えなくていいですよ。……ミナ様はよくやっていました」


「……ほんと?」


「ええ。初日にしては十分以上です」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわり温かくなった。

だけど同時に、喉の奥に引っかかるものがある。


「でも……ね」


私は思わずつぶやいてしまった。


「クレアは全部ちゃんとできてたじゃない。運ぶのも声をかけるのも、補助に入るのも……なんかすごく“慣れてる人”みたいで……」


俯いた私の前で、クレアは少しだけ静寂を置いた。

その上で丁寧に言葉を選ぶように口を開く。


「慣れているわけではありません。……ただ、私には“任務としての経験”がありましたから」


「任務……?」


「城では王族の動線管理。戦場では隊長の支援。日常の中で“誰かの動きを補う”ことは、私にとって自然な行動なのです」


さらりと言ったけれど、その言葉の奥にある重さは痛いほど伝わった。



昔、クレアが話してくれたことがある。


あれは確か、帝都の外壁で風を避けながら二人で昼食をとっていた日のことだ。

クレアは普段、自分の過去についてほとんど語らない。言葉少なだし、必要だと思わないことは一切口にしないタイプだから。

でも、その日は珍しく……いや、ほんとうに雪でも降るんじゃないかと思うくらい珍しく、クレアが自分から話し始めたのだ。


「……私は、生きるために“誰かの動きを読む”必要があったんです」


最初にそう言ったとき、その言葉の意味が私はよくわからなかった。


けれど、彼女の話は静かに続いた。


クレアは、帝都地下の“影市かげいち”と呼ばれる孤児街で育った。

日の光がほとんど差し込まず、石壁の冷たさと湿気だけが友達のような場所。

そこは音を立てるのも、子どもらしく泣くのも許されない世界だったそうだ。


「騒げば、場所を失う。泣けば、取り上げられる。

……だから、私は音を殺すことを覚えました。

人の気配、怒りの匂い、足音。

全部聞き分けないと生きられなかった」


想像もできない日常とその言葉たちに、思わずハッとなってしまったことを覚えている。

だってその話の数々は、王宮の暮らしの中で“当たり前に守られてきた日常”とは、あまりにも違いすぎていたから。


当たり前だけど、そうじゃないこと


例えば私が転んだら侍女が駆け寄ってくれること。

間違えたら教師がやさしく教え直してくれること。

泣けば兄様たちが、怒れば父上が――誰かが必ず助けてくれること。


でもクレアには、そういうのが一度もなかった。


聞けば聞くほど、私が住んでいる世界が“どれだけ贅沢な世界で幸福な場所だったか”を、痛いほど思い知らされた。


「影市では、“一回の失敗”が命を落とす理由になることもあります」


いつも通り無表情なのに、そう言ったときの彼女の横顔はほんとうは泣いているみたいに見えた。

感情がないわけじゃない。

クレアはただ、“感情を出す場所”を知らなかっただけなんだ。


それは思いもよらない出来事だったそうだ。


ある日――

彼女が奴隷として飼われた年の、ある季節の変わり目――


クレアが十歳のときに、戦場の瓦礫の中でたまたまそこに居合わせたゼン様に拾われたのは。


「……あの日、私は初めて“誰かに助けられる”という経験をしました」


影市には、誰かに頼るという発想すらない。

だからクレアにとって“誰か”に助けられるというのは、“世界の構造がひっくり返るほどの衝撃”だったのだと言う。


クレアがゼン様のことを語るとき――彼女の声は不思議な温度を帯びる。

それは熱でも涙でもなく、もっと深いところで灯っている火種のようなもの。普段は隠されているその色が、あのとき初めて――私の目の前で静かに揺れた。


「……あの人は世界で初めて、私を“人間”として見た人でした」


その一言は、彼女のすべてを象徴していた。


クレアが瓦礫の中で拾われた日のことは、断片的にしか語られなかった。

けれど、その断片ひとつひとつがあまりにも鮮烈で、どうしようもなく胸を締めつける。


戦場――灰と血と焦げた魔素が混じり、地面そのものが呻いている場所。

その瓦礫の中に、ひとりの少女が倒れていた。


まだ十歳。

人として扱われたこともなく、商品として運ばれ、死ぬまで「道具」として生きることを強要させられた小さな命。


泣き方も、助けの求め方も知らなかったという。

泣いても無駄、叫んでも叩かれるだけ――そんな世界で育った子どもだったから。


そんな彼女に向かって、ひとつの影が膝をついた。


「……生きてるな。よし、掴めるか」


それがゼン様の第一声だったという。


命令ではない。

所有でもない。

子どもを静かに包む、ただの“ひとりの大人の声音”。


クレアはそのとき初めて「掴む」という行為に、“誰かに頼って良いんだ”という気持ちが芽生えたそうだ。


「手を取ったら、ほんの少しだけ…世界が温かくなった気がしました」


彼女の指を包んだのは、傷跡だらけの固くて荒れた掌。

それなのに、その手の感触は“力”や“武”の象徴ではなく――


“存在そのものを受け止めてくれるもの”だった。


「背中は……とても大きかった。

でもそれ以上に……どこまでも柔らかく優しい背中でした」


瓦礫の上を跳ぶたびにゼン様の呼吸がわずかに乱れ、胸当てが軋み、刃の風が耳元を過ぎる。

それでも彼は何度も振り返って、抱えた少女に言葉をかけた。


“痛くないか”

“眠るな”

“大丈夫だ、ここにいる”


誰かの言葉が“自分のためだけ”に向けられたことなど、クレアには一度もなかった。


だから彼女は言った。


「……あの人の背中を見て、少しずつ思えるようになったんです。世界には“ちゃんと言葉を向けてくれる人がいるんだ”って」


ゼン様は彼女を騎士団に引き取り、食事を与え、眠る場所を作った。

商品の管理番号ではなく、“クレア”という名前を。


「名前を呼ばれるたびに、胸が痛くなりました。

呼ばれることが嬉しいと知ったのは、あの人が初めてでした」


クレアの声は静かだったが、その静けさの底には震えるほどの真実があった。


だが、彼女が語るゼン様は“英雄”ではなかった。

もっと違う――失われたものを抱えながら、それでも前に進んでいた確かな“人”の姿。


――それこそが、影市の闇の中で一度も見たことのなかった“光”だった。


「戦が激しくなるにつれて、あの人の背中は……少しずつ沈んでいくように見えました」


仲間の死、帝国の方針、神々の沈黙、そして魔神族との戦い。

重荷を背負い続けた背中は、いつしか“守るために立つ背中”ではなく、

“誰も傷つけないために距離を置く背中”へと変わっていった。


「それでも、私を見放さなかった。

剣の握り方も、呼吸も、足捌きも……“生きる技術”として教えてくれたんです」


剣技ではなく、生存の哲学。

戦うためではなく、“死なないための戦い方”。

それこそが、クレアが受け継いだ“ゼンの教え”だった。


「……あの人がいたから、私は影のまま終わらなかった。

影ではなく、“影の外にある光の世界を知れる”ようになれました」



――“あの人の歩き方が、私の生き方になった”。

――“私は今でも、あのとき見た背中を追っている気がする”。



ゼン様の側で修行するようになってからは、クレアはずっと“彼の役に立ちたい”と思い続けていた。

助けられた恩があるからというだけじゃない。

彼女にとってゼン様は命の恩人であり、「目標」だった。

あの人と同じ歩幅で並んで歩けるように、自分を鍛えるしかないと思っていた。


「……時々、届かないって思うんです。近くにいるのに、どこか遠くを見てる気がして。でも、それでも、あの人の背中を追い続ける限り、私はもう“影”には戻らないって、不思議とそう思えるんです」


それを語る彼女の瞳は、どこか遠くを見つめていた。



――ああ、そうだ。


クレアの“普通”は私の“普通”とは違う。

私みたいに、失敗しても笑って許される場所で育っていない。

失敗すれば誰かが怒鳴る。

怒鳴られれば、次は食べる物が減らされる。

そんな連鎖が当たり前の世界。


だからだ――だから彼女は、あんなにも完璧なんだ。


私が皿を落とせばクレアは自然と動線から外れ、

私が声のボリュームを間違えれば、客に聞こえないようさりげなく距離を取る。

私が迷っていると気づけば、さりげなく必要な道具を手に持っている。


全部、自然。

全部、呼吸みたい。

そうしなきゃ死んでいたから、体に染みついてしまった“生存の技術”。


彼女から聞いた子供の頃の話を不意に思い出し、思わず泣きそうになった。

だって、そんな日常を生きてきた人が、いま私のすぐそばで――

“わたしを守るために動いてくれている”のだから。


なのに私は今日、仕事で失敗したことばかり気にして落ち込んでいた。


……馬鹿みたいじゃない、私。


クレアは私の失敗を笑わなかった。

怒りもしなかった。

呆れさえしなかった。


なぜなら彼女にとって――

“失敗しても誰かが助けてくれる”世界は、むしろ優しい世界だと言えるものだから…



「フェルミナ様」


「……なに?」


「あなたは今日、“初めてのこと”を山ほど経験しました。それでも逃げずに動き続けました。それは――とても強いことです」


じん、と胸が熱くなる。


クレアはタオルをたたみながら続けた。


「働く、というのは……ただ作業をこなすことではありません。周囲を見て、足りないものを補い、誰かの時間を少し整える。そういう連続です」


「……誰かの時間、を……?」


「ええ。お客様が安心して食事できる時間。仲間が動きやすい時間。店全体の流れを途切れさせない時間――」


そこでクレアは、私の目をまっすぐ見た。


「そして、あなた自身が“自分で選んで生きている”と実感できる時間も含まれます」


はっと息が止まった。


胸のどこか深いところに、その言葉が触れた気がした。


「今日、あなたは確かに“働いて”いました。皿洗いも、配膳も、失敗も……全部、働くという行為の過程です。だから――」


クレアは微かに口元を緩め、言った。


「あなたは足手纏いではありませんよ。少なくとも、私はそうは思いません」


「……クレア……」


…うう。

いよいよ泣きたくなっちゃうじゃん。

失敗ばかりで、迷惑ばかりかけて……そう思っていたからさ?


クレアは立ち上がり、手すりにかけていたタオルを手に取って肩にかけた。

汗を流すその姿はいつものように凛としていて、でもどこか今日だけは優しく見えた。


「明日もまた、今日のような動きで行きましょう。働くというのは、小さなことの積み重ねですから」


「積み重ね……」


「ええ。一歩一歩重ねていくことでしか、大きなことは達成できません」


私はその言葉を噛みしめるように胸に刻んだ。


“働く”って、ただの労働じゃないんだ。

ここに生きること、誰かと時間を共有すること、誰かの役に立とうとすること。

それ全部が、ひとつずつ積もって今日のあの味になる。


外の霧が窓越しに揺れていた。

森の静けさが、まるで私の中のざわめきまで整えていくようだった。


「……わたし、明日もがんばるね」


「はい。明日も、ゆっくり積み上げていきましょう」


クレアの言葉は夜風よりも静かで、囲炉裏の火よりも温かかった。


そっと布団に潜り込みながら、

私は明日の自分が今日より少しだけ胸を張れることを願った。


――この谷で、“ミナ”として生きる日々が確かに始まっている。


そう思いつつ。




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