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第115話 今日もいい一日になりそうだ



朝霧はまだ谷間に留まり、灰庵亭の屋根からは冷えた空気が静かに落ちていた。


ゼンは厨房の奥、炊き場の横にある小さな作業台に腰を下ろしていた。彼の手元には、昨夜から水に浸してあった丸麦と豆があった。ぬるま湯に移してから三時間が経過しており、ちょうど柔らかく戻った頃合いだった。


ゼンは指で麦をつまみ、水気を軽く切って陶の鉢に移す。豆はまだ少し芯が残っていたため、鉄鍋に入れて一度だけ強火で炊き、その後弱火に落としてふたを閉める。時間は二十八分。火加減は、ごく弱い「踊らぬ煮沸」が理想だった。


並行して彼は出汁を取る準備に入る。


冷蔵箱から取り出したのは、乾燥させた山鶏の骨、椎茸の茎、そして灰草の根。これを細かく砕き、平鍋に入れ、いったん強火で空焙りする。油を使わず香りを立てる手法で、焙煎香と焦げる直前の野性味が出汁に深みを加える。


数分後、香ばしい香りが立ち上る。ゼンは火を落とし、熱々の鍋に山の湧水を注ぐと「ジュッ」と音を立てて一気に温度が下がる。沸騰はさせない。ここからさらに弱火で三十分かけて、ゆっくりと抽出するのだ。


「……野菜は、後にするか」


灰蕾や霧つぼみの入った籠に目をやりながら、ゼンは作業の順を頭の中で再構成した。午前中は出汁と炊き物の仕込み、保存食の整理。その後に焼き物と野菜の下ごしらえ。変わらぬ日常のようで、しかしこの数ヶ月で大きく変わったものが一つある。


それは“予約管理”だった。


——厨房の奥、囲炉裏間から声がした。


「団長、少しよろしいですか?」


クレアの手には薄い板状の黒い装置が抱えられていた。それは《マギノート端末 Mk-II》と呼ばれるものであり、帝都で広く普及している携帯型の魔導情報端末だ。


ただしこの端末が灰庵亭に届いた経緯は、一般流通とは異なる。ゼンがかつて帝都で縁のあった技術者に相談し、山奥でも運用可能なよう調整してもらった特注品だった。小型魔力炉を駆動源とし、大気中の魔素を補助的に吸収することで稼働する設計。完全な都市型の端末では不安定なガルヴァ山郷でも、辛うじて安定した使用が可能となっている。


もともとゼンは、こうした魔導機器には疎かった。かつて騎士団にいた頃は、連絡用の魔導符を使う程度で、端末操作などは副官任せ。だが「灰庵亭」があまりにも評判を呼び、予約の整理や食材の在庫管理を手作業でこなすには限界が来ていた。


「端末を開いてよろしいですか?」


クレアの静かな声に、ゼンは黙ってうなずいた。朝の仕込みに使っていた包丁の動きを止め、鍋の蒸気に目を細めながら言う。


「……ああ、頼む。今朝はまだ確認していない」


端末の画面に触れると微かに青白い光が走り、予約情報の一覧が表示された。起動したのは灰庵亭専用に設定された業務用の管理画面だ。客ごとの魔力ID、過去の来店履歴、紹介者名、注意事項などが細かく並び、視認性の高い画面に整然と表示されていく。


この端末には、いわゆる“予約帳”としての機能が一通り組み込まれている。受け付け可能な件数は一日五十組まで。それ以上の予約は自動で制限がかかり、空きが出た場合のみ繰り上げ通知が届く仕組みだ。


「……今日も、五十件。相変わらずの満席ですね」


クレアが表示された予約表に指を滑らせながら答える。客層は多岐にわたり、帝都の学術院職員、貿易ギルドの商人、巡礼中の聖女隊、さらには冒険者まで含まれていた。フェルミナの目はその画面に釘付けになりながら呟く。


「こんなに人が…。ここって本当に山奥の秘境食堂なんですか……?」


ゼンは手元の出汁鍋の蓋をゆっくりと開け、香りを確かめた。


「俺も最初はそんな感じだったよ。……本来通信もろくに通らない場所だったんだがな」


客ごとに献立を変えることはない。献立は日替わり一種。その日の魔素や食材の状態を見てゼンが決める。ただし、事前にアレルギーや禁忌食の申告がある場合は素材を省いた調整のみ行うが、味も構成も大きくは変えない。


「霧鱒は今日は外しておけ。今朝のは脂が重すぎる。巫女団には野草粥を一つ追加しといてくれ」


「了解しました」


クレアの声は、軍仕込みの簡潔な応答。アプリには予約者の魔力IDが自動で紐付けられており、アレルギーや過去の献立、来店評価までが整理されて表示される。すべては厨房と連動しており、ゼンの調理作業にも即座に反映される仕組みだ。


この情報処理と通信の中核を担っているのが、帝都セレスティアの魔導ネットワーク中継塔群と接続された「魔導通信網(Maginet)」である。魔導通信網は、帝都内の浮遊型ブイ中継塔を中心に、各地方都市に設けられた固定式魔力中継塔によって構成され、相互に魔力波および魔素パケット(m-packet)を用いて暗号化データを送受信するネットワークである。(※これは、現代の光ファイバー網におけるルーティング/ノード間通信に酷似した構造を持っている。)



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■ 浮遊ブイ塔とは?


◉ 基本概要:

・高度数百メートルの空中に魔導浮遊石(Levistone)によって静止・浮遊している。

・主に帝都セレスティアや主要都市、空路の要所に設置され、広域通信中継ノードの役割を担う。

・通常の固定式地上塔よりも広い範囲を一望できるため、中継効率が非常に高い。


◉ 通信機能(現実の参考:LTE/5Gの基地局や通信衛星):

・各端末や中継符から送信された魔導波(M-Wave)を受信。

・データを暗号化・圧縮し、周辺の浮遊ブイ塔や地上中継塔、または帝都の中央ノード局へルーティング。

・高所にあるため、山や建物による遮蔽の影響を受けにくく、ライン・オブ・サイト通信(LOS)に優れる。


◉ 電源と維持管理:

・魔導浮遊石の自然魔力吸収機構により、長期的に浮遊可能。

・一定周期で帝都通信省の空艇部隊が巡回保守を行い、魔導結晶の劣化や通信障害をチェック。



■ なぜ山岳地帯では使えないのか?

・山岳部(例:ガルヴァ山郷)のように魔力が希薄かつ乱流の多い地域では、浮遊が安定しない。

・霧・風・磁気性の魔力干渉が強く、魔導波の伝送効率が極端に落ちる。

・そもそも設置作業すら困難(山林が深く、浮遊石の発振バランスが崩れる)。

・よって、こうした場所では地形を利用した反射型中継や補助中継符のような地上通信方式が優先される。



■ ビジュアルイメージ:

・外観は空中に浮かぶ逆ピラミッド型または灯台型の魔導装置。

・複数の魔導リングが回転しており、中心部から青白い魔素光が発せられている。

・夜間も常時魔素灯が点灯しており、空路を航行する空艇の誘導標識としても使われる。



────────────────────────


しかし、問題はその末端――すなわち、ゼンが暮らす〈ガルヴァの山郷〉のような“魔力薄域”における通信インフラだった。この土地は元々地脈が弱く、大気中の魔素濃度にも乱れが多いため、一般的な中継塔の魔導波が届かない。浮遊ブイ塔は視界条件や魔導干渉の影響で起動すらせず、既存の通信符ですら送信失敗率が極めて高かった。


そのためゼンは帝都の技術局に協力を仰ぎ、以下の複数の補助インフラを組み合わせた独自ネットワーク構築に踏み切った。


まず第一に、村内に補助中継符(Auxiliary Relay Sigil)を設置。これは魔力増幅装置を内蔵した固定式シンボルで、霧や魔獣干渉を軽減しながら一定範囲内の通信符と端末を中継・補正する。


次に、灰庵亭の屋根裏には魔導干渉抑制装置(Disruptor Suppressor Array)を設置。これはガルヴァの山間特有の乱反射魔導波を吸収・再構築する機能を持ち、端末への過負荷や接続不良を回避する役割を担っている。


そして通信の地上ルート確保として、村の外れにある古い精霊祭の跡地を活用。ここに設置されたのは、低出力の地表反射型送信陣(Ground Echo Transmitter)であり、魔力を地面経由で伝導・反射させ、山を越えた先の帝国中継塔と波形を同期させるという仕組みだ。これにより、ゼンの端末は中継塔からの信号を地形に合わせて受信でき、村の通信範囲が実用レベルにまで拡張された。


さらに、通信状態が悪い日――霧や魔素風が発生する気象条件では、手動操作による通信符の“再送信ルーチン”が端末上で起動できる。これは予備メモリに一時保存された通信ログを“時差送信”させるもので、失敗した予約リクエストや注文処理を後日再度帝都ネットへ送信可能にする“再同期処理”の一種である。


こうした機構のすべてが単なる魔法の応用ではなく、「魔導科学融合技術」という独自分野によって支えられている。端末は魔力炉と魔素蓄電素子によって長期的に稼働し、データ構造は層状魔導符バッファ(Layered Sigil Buffer)を通じて圧縮・暗号化され、帝都の《中央魔導記録院》へと逐次ログ送信される構造になっていた。


「昔、通信符一枚飛ばすのに三日かかってな。今じゃ予約通知が一秒で届く……ありがたい話だ」


ゼンはそう言いながらも、慎重に出汁の温度を調整する。かつてのように商人ネットワークや簡易式の魔導符に頼るような無理はせず、専門家の手で整備されたインフラに任せている。


端末の利用は厨房業務にも密接に関わっている。予約管理だけでなく、仕入れ管理、在庫の自動算出、調味料の残量アラートまでが統合されており、ゼンは日々それを頼りに厨房を回していた。


「今やこれがなければ何も回らん。献立計画、仕入れ依頼、客の魔力ID確認、在庫管理。すべてこの端末ひとつだ」


だが実際、ゼンよりも端末の扱いに長けているのはライルだった。日々の予約管理、入山証の確認、来店者の履歴入力まで、彼は迷いなく指を動かす。紙の予約帳に手書きで記録された内容を読み取り、端末に転記する速度も早い。旅の空賊団が持つ独自の通信符からの予約も、彼は専用スロットで即時登録する。


「端末の操作は普段あいつに任せているが、クレアもだいぶ操作に手慣れているな」


「帝都にいれば、端末の操作は日常の一部ですから」


「……そうか。言われてみれば確かにそうだな」


ゼンの視線が再び鍋に落ちた。


鉄鍋の豆は、そろそろ芯が抜ける頃合いだった。蓋をわずかにずらし、湯気の匂いを鼻先で受ける。火を止める前に一粒だけを箸で取り、指先で潰して加減を確かめる。——まだ、ほんのわずかに弾力が残っている。だが、それでいい。これ以上火を通すと皮が裂けて、食感が崩れる。


火を落とし、鍋ごと麻布で包む。余熱で蒸らすのだ。熱が落ち着くまで約十五分。ゼンは立ち上がり、次の工程へと滑るように移った。


厨房奥の棚から取り出したのは、今朝届いたばかりの山獣の赤身肉。鹿に似た体格の山域獣〈カリョウ〉の後脚部位だ。筋肉の繊維が細かく、臭みがなく脂の乗りが控えめで、灰庵亭では炙りや干し肉、時には肉団子としても重宝されている。


ゼンは肉の塊を木の作業台に置き、まず全体を指で撫でた。表面の温度、脂の滲み方、筋の走りを掌で感じる。彼の料理は常にそうだった。刃を入れる前にまず“触る”。それは素材との対話であり、敬意だった。


「……悪くない。昨日より筋が少し浅いな」


独り言のように呟きながら、包丁を手に取る。鉄製の重厚な一本刃。刃渡りは長いが動きに無駄はない。骨に触れるか触れないか、限界ぎりぎりの角度で刃を滑らせると、肉の塊がまるで自らほどけるように切り離されていく。


やがて血の気の引いた赤身が整然と並び、ゼンは調理用の干し板に肉を並べ始めた。薄く挽いた灰塩を肉面に叩き込み、さらにわずかに薫香草の粉末をまぶす。風味をつけるのではない。あくまで肉の内側に眠る旨味を引き出すための微細な工程だ。


「ライル、干し網を頼む」


声をかけると、少し離れた位置で大根を剥いていたライルが慌てて頷き、干し網を台へ運んできた。ゼンは肉の切り口を一つひとつ確認しながら手早く網に並べていく。


「日が昇るまでに干し場へ。霧の粒が落ち着く頃が最も香りが染み込む」


「は、はい!」


フェルミナは少し頬を赤らめながら網を抱えて中庭の干し場へと走った。その背中を見送ったゼンは、ふっと口元だけで笑う。


クレアが静かに微笑んでいた。


「……団長、こうして何気なく笑っている姿を見るのは何年ぶりでしょう」


「そうか?」


「ええ。騎士団にいた頃は、鍋の音より団長の声のほうが少なかった気がします」


「……あの頃は、余裕がなかっただけだ」


言い訳めいた言葉ではあったが、クレアは否定しなかった。むしろその静かな口調に、確かな充実が滲んでいるように感じた。


ゼンは今、静けさの中にある“充足”を知っていた。


鍋からは柔らかくなった豆の匂いが立ち上り、炊きあがった麦の鉢からはかすかに甘い香りが漂う。出汁の鍋は穏やかに泡を立て、香ばしさと森の湿気を煮込んだような風味が空気に溶け込んでいた。


「……さて、味を決めるか」


ゼンは調味棚から三つの小瓶を取り出す。


一つは霧つぼみから抽出した精油。清涼感のある淡い香りが特徴だ。もう一つは、灰蕾の茎を発酵させて作る酸味のある酢。そして最後のひと瓶には、昨夜炙った乾燥魚の粉末が詰まっていた。


これらをわずかずつ、調合する。その匙加減は完全に経験と勘のみ。数値では計れない、空気の湿度、鍋の香り、麦と豆の呼吸。それらを指先で測り、呼吸で整え、音で決める。


静かな鍋の音が、「トク、トク」と脈を打つ。


——料理は、ただ味を作る行為ではない。空間を整え、体を調え、心をほぐすものだ。


ゼンは黙って鍋の縁を指先でなぞった。


この谷に来た頃、ただ火を熾し、水を温めるだけだった日々があった。食材の声すら聞こえなかった。心に余白がなかった。だが今、厨房には朝の光と人の声と、そして生きた食材たちの呼吸がある。


「……今日もいい一日になりそうだな」


誰に言うでもなく、ゼンはぽつりと呟いた。そうして再び包丁を手に取る。


霧が晴れはじめた。谷に、音が戻ってくる。静かに、だが確かに。

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