第112話 王女、皿を洗う
丘の上に、風が戻ってきていた。
朝霧をゆるやかに揺らす微風が、小さな葉音を連れて石畳の上を抜けていく。
地面には演舞の痕跡が残されていた。円を描くように薄く焦げた土と、その中心に立つゼンの影。
木刀をそっと下ろし、ゼンはそれを静かに腰へ戻すと静かに頷いた。
「……一本には届かなかったが」
その声は霧の向こうから差し込む朝の光のように、穏やかで優しかった。
「――お前の“覚悟”は確かに受け取った。充分すぎるほどにな」
その言葉に、クレアの瞳が揺れた。
それは同情や慰めではない。
彼の声に含まれていたのは、紛れもない“認定”――剣士としての矜持に対する、真っ直ぐな肯定だった。
ゼンのまなざしには、どこか懐かしさすら滲んでいた。
「正直、驚いた。ここまで技を磨いていたとはな。……あの頃のお前より遥かに鋭く、深くなっていた」
クレアは静かに頭を垂れた。動作は簡素で、しかし確かな敬意と礼儀に満ちている。
「ありがとうございます」
声は低く、けれどその胸の内には敗北の悔しさ以上に――誇りが宿っていた。
その姿を見届けてから、ゼンはゆっくりと視線をフェルミナに移す。
「というわけで――」
声の調子が少しだけ変わった。
険しさを抜いた柔らかさと、否定のない温度を含んだ響きだった。
「“試用期間付き”という条件で、あなたを受け入れます。……フェルミナ王女」
時間が止まったようだった。
フェルミナは目を瞬かせ、呆けたような表情のままゼンを見つめていた。
「え、い、いま……なんと……?」
「聞こえているでしょう。しばらく働いてみてください。ただし――“王女”であることは忘れてもらう」
「わ、わすれ……」
「いいですか?」
その声に思わず背筋が伸び、フェルミナは直立した。
「は、はいっ!!」
勢いが強すぎて、声が見事に裏返った。
フェルミナの元気な返事が霧の中に跳ねた直後――
クレアはふと、視線をゼンへ向けた。
その表情には敗北の痛みでも、劣等感でもない。
ただ一つの疑問が、静かに灯っていた。
「……団長。聞き間違いでは無いと思うのですが…」
ゼンは振り返り、軽く頷く。
「なんだ」
クレアはほんの一瞬だけ言葉を選び――
それから真っ直ぐな声で言った。
「私は……一本を取れていません。それでも王女殿下を住み込みで守ることを、お許しいただけるのですか」
それは剣士としての誇りが発した問いだった。
ただの任務の可否ではなく、
――“敗者である自分が、その役に値するのか”。
その確認。
ゼンは少しだけ目を細める。
その眼差しには叱責はなく、曇りもなかった。
「一本を取ったかどうかなんて、重要じゃない」
クレアの瞳がわずかに揺れる。
ゼンは静かに続けた。
「お前は七年分の覚悟を剣に乗せて、俺に向かってきた。勝ち負けはその先にある結果でしかない。本当に見るべきは――“振るった刃の質”だ」
言葉は淡々としていたが、そこに含まれる重さは計り知れなかった。
「負けた者が未熟とは限らない。勝った者だけが強いとも限らない」
「剣とは、お前が積み重ねてきた日々そのものだ。
今日のお前は、七年前の誰とも違う。……誇れ」
クレアの呼吸が小さく震えた。
ゼンはほんのわずか、口元を緩めた。
「それに――」
「……?」
「一本を取れていたら、むしろ“護衛”には向かん」
「え……?」
「王女を守る役目は、斬り勝つことじゃない。斬られない心と、守るために折れない芯の方がよほど重要だ」
その言葉が影走機構陣を砕いた衝撃よりも深く、クレアの胸に沈み込んだ。
「今日のお前は――負けても折れなかった。というより、本気で“俺”を潰しに来ていた。そんなやつが旅に同行していたんだ。お前だって、なんの理由もなく気軽にここに来たわけじゃ無いだろう?」
クレアは、深く、頭を下げた。
彼女の瞳は悔しさではなく、確かな誇りの光を帯びていた。
ゼンは目を細め、苦笑のような表情で言葉を継ぐ。
「……住み込みも、本来は無理筋ですが。まあ、部屋を一つ明けるくらいならできます。ですが、条件があります」
「じょ、条件……っ」
ごくりと唾を飲み込みながら、フェルミナは問う。
ゼンは指を三本立てた。
「一つ。王女の身なりや所作は捨てること。二つ。灰庵亭のルールには絶対に従うこと。三つ。……逃げないこと」
「に、二つまでは……なんとかっ……! 三つ目は……!」
フェルミナは唇を震わせながらも、拳を握りしめた。
「に、逃げませんっ……!! 絶対にっ!!」
その瞳には涙がにじんでいた。
でも、それは弱さの涙じゃない。
心の底からにじみ出る、決して折れない“気持ち”と意思の証だった。
「……ありがとう……ゼン様……」
ふるえる声でそう呟くと――
フェルミナはよろめくようにしてクレアのもとへ駆け寄った。
「クレアっ……! 大丈夫!? ほんとに、大丈夫なのっ!?」
その問いかけに、クレアは微笑を浮かべながらゆっくりと上体を起こす。
「……大丈夫です。少なくとも、倒れるほどではありません」
その口調はいつも通り静かで、乱れも焦りもない。
けれどその額にはうっすらと汗が滲み、右手の指先はかすかに震えていた。
彼女は地面に突き立てていた木刀を拾い上げ、そっと腰の位置に戻す。
そしてすっくと立ち上がり、衣服の埃を軽く払った。
その立ち姿には、一切の迷いがなかった。
「それより――準備を始めましょう。朝の営業が始まります」
「えええっ!?…も、もう始まっちゃう感じ!?」
「はい。私たちはここで“暮らす”のです。……日常はもう始まっているんですから」
その言葉にフェルミナは一瞬目を見開いたが――
すぐに小さく頷き、袖で涙をぬぐいながら応えた。
「……うん。そうだね……わたしも、これから働くんだ……!」
ゼンは囲炉裏の方へ戻りながら、背を向けたままぽつりとつぶやく。
「……そうと決まったら、とっとと支度しろ。客が待ってる」
その声が、何気ない日常の一部として耳に届いた。
「は、はいっっ!!」
フェルミナは声を張り上げ、勢いよく返事をする。
もう声が裏返っても気にしなかった。
霧の谷に、朝の光が射し込む。
演舞の跡が風にさらわれ、地面からふわりと白い蒸気が立ちのぼる。
――そうして灰庵亭の新しい一日が、静かに幕を開けようとしていた。
◇
まだ朝露の残る小道を、フェルミナとクレアは静かに歩いていた。
霧にけぶる谷間の空気は冷たく澄んでいて、足元の落ち葉を踏む音がやけに大きく響く。誰かの気配はなく、聞こえるのは鳥の声と川のせせらぎだけ。
それなのに遠くから漂ってきた――あたたかい香り。
湯気のようにふわりと鼻先をくすぐるその匂いに、フェルミナは自然と足を速めた。
「……ついに、あそこに……」
谷の霧がわずかに晴れた先。
小さな木造の建物が、朝の光を反射して静かに佇んでいた。
木造の引き戸をくぐった瞬間、フェルミナは思わず足を止めた。
霧の匂いと木の香り、そしてほんのり漂う出汁のような温かい匂い――
(……ここで、働けるんだよね……)
炉端の中心に据えられた囲炉裏では淡い火がゆっくりと揺れていた。昨夜と同じ火のはずなのに、不思議と雰囲気が違って感じられる。朝の空気に染み込んだ湯気には出汁と山菜、焼いた魚の香りがほのかに混じっており、それが静かに、――しかし確かに部屋の隅々にまで行き渡っていた。
天井の高みには灰筒がまっすぐに伸び、煙はそこへ自然と吸い込まれていく。白灰木の床は素足に優しく、わずかに温かい。炉を囲む三方の座敷には丸みを帯びた座布団が置かれ、壁際には木の器や漬物壺、干した薬草が丁寧に並べられていた。
客席の向こうに見える厨房では朝の準備が始まっているらしく、五行竈からは時折「ぱちり」と火のはぜる音が聞こえてきた。水の流れる音と湯の沸く音が重なり、それが静寂の中に一つの“調和”を作っていた。
壁には狩猟具とともに一本の古びた剣――蒼竜の残片が掛けられている。その無骨な存在が、この穏やかな空間の中でなぜかしっくりと馴染んで見えるのが不思議だった。
「すごい……落ち着く……」
思わず漏らしたその言葉に、背後からクレアが微笑を添える。
「団長は昔、“火が見える場所は、人の心を整える”と仰っていました」
「……うん、なんかわかる気がする」
フェルミナは頷いた。
そのまま二人は靴を脱ぎ、炉端間の隅に置かれた小箪笥の前へ向かう。
ゼンが「使っていい」と言っていた衣装棚だ。
引き出しを開けると、柔らかい布の香りがふわりと漂った。
並んでいるのはごく質素な作務衣と前掛け、それに手ぬぐいが数枚。
そのうちの一つを手に取り、フェルミナは目を丸くした。
「これがここの制服……?」
「そうです。“作業衣”と呼ばれていますが、民間では台所仕事の基本装備です」
フェルミナは布を広げながら、じっとそれを見つめた。
帝都では一度も着たことのない形。糸も染料もきっと高価なものではない。
だけどどこかしら優しさと丁寧さが織り込まれているようで、胸がじんわりと温かくなる。
「……よしっ、着替えるね!」
クレアは静かに頷いたあと、自らも手早く衣装を整え始めた。
フェルミナは袖をまくりながら前掛けを手に取った。
普段着慣れない作業着に少し戸惑いながらも、胸元で紐を結ぼうとする。
しかし――思った以上に布が言うことを聞かず、思わず声が漏れた。
「ん〜〜〜もう! 紐が絡まって……! あれっ? これどっちが表……?」
「お手伝いします」
そのひとことだけを告げ、クレアは静かに歩み寄った。足音ひとつ立てず、礼儀作法の基本をなぞるような動きでフェルミナの前に立つ。何も言わずとも状況を見て即座に手を伸ばし、前掛けの皺を指先で丁寧になぞりながら生地の張りを自然な手つきで整えていく。
帯に手をかける動作も淀みなく、王宮仕えで叩き込まれた所作がそのまま出る。古式の結び方を崩さず、なおかつ動きやすいよう緩急を調整しつつ新しい形に結び直すと、最後に指先できゅっと端を整えた。
その間一言も発さず、それでいて必要なことはすべて終わらせていく。動作が終わると同時に一歩下がり、静かに一礼した。
「……ありがと、クレア」
「これからはこれが日常ですから。着替えも仕事のうちです」
「うぅ……なにげに厳しい……」
ようやく着替えが終わり鏡の前に立った彼女は、自分の姿をじっと見つめた。
絹の装飾も宝石の髪飾りもない。胸元に家紋もない。
あるのはただの灰色の布と、シンプルな布靴。
「……なんか、ぜんぜん別人みたい」
「今は“ミナ”というただの旅人ですから、それで正解です」
その言葉に、フェルミナはそっと笑った。
そう、これは変装でも逃避でもない。自分で選んだ“もうひとつの生き方”なのだ。
王女という肩書きを脱ぎ捨てたことで、ようやくたどり着いた自分自身の輪郭。
「うん、そうだよね…。よおおおしッ、今日からがんばるよ!」
気合いを入れるように両頬をぺちんと叩いたその時、炉端の奥から木戸の軋む音が響いた。
現れたのは、ゼンだった。
手には朝採れの野菜と、ひと包みの乾物。
「……お喋りはそこまでだ。仕込みの時間だ」
「は、はいっ!」
フェルミナは背筋を伸ばして返事をする。ゼンは特に何も言わず食材を厨房へと運んでいった。
その背中を見送りながらクレアは小声でフェルミナにささやいた。
「……では、“食堂の常識”について簡単に教えておきましょうか」
クレアの声が、しんと静まり返った囲炉裏の間に妙に格式ばって響く。
「しょ、食堂の常識……!?」
聞き返すフェルミナの声には戸惑いと緊張が混ざっていた。王女として暮らしてきた彼女にとって、“食堂”という言葉が現実味をもって響いたのはこれが初めてだったからだ。
彼女は目を丸くしながらピクリと背筋を伸ばす。
それはまるで、「さて、姫様。今日から軍の戦術講義でございます」とでも言われたかのような反応だった。
「はい。まず、このお店の開店時間は正午です。準備にはおよそ三時間を要します」
「さ、さんじかんも……!? 三時間!? 何するの!? 祝宴でもやるの!?」
「いえ、日常業務です」
「日常って……うそでしょ!? ご飯出すだけでしょ!?」
「掃除、食材の仕分け、下ごしらえ、席の整頓、水の準備……」
クレアは一つひとつの項目を淡々と指折り数えながら、まるで帝国軍の作戦計画でも読み上げるかのような真剣さで言い切った。
「“お客様を迎える”というのは、それだけの手間が必要なのです」
「……は、はあ……」
フェルミナは愕然としながら、思わず手帳(脳内)に書き込み始める。
【訂正】食堂とは:庶民の胃袋を満たす場所ではなく、戦場である――と。
「そ、そんな……王宮の宴会なんて、全部侍女がやってくれてたのに……」
フェルミナの声にほんの少し情けなさが混じる。王宮の姫として育ち、衣食住のすべてを与えられてきた彼女には想像すらできなかった労働の重み。
頭の中で想像していたつもりでも、まだまだ知識としては素人も同然だった。
話を聞きながらふとこぼしてしまったその本音に、クレアは静かに、しかしきっぱりと告げた。
「ここでは誰もやってくれません。自分たちで動かないと何も始まらないのです」
その言葉には棘のような冷たさはなく、確かな優しさが滲んでいた。クレアは責めているのではない。ただ事実を淡々と伝えているだけだ。
フェルミナはぐっと唇を噛みしめ、小さく拳を握りしめた。
白い指先がぷるぷる震えているのはたぶん気合い。たぶん…
「……わかった。がんばるっ!」
「ではまず、“食堂”とは何かを定義しましょう」
え、定義から入るの!? と内心ツッコミを入れながらも、フェルミナはクレアの話を真剣に聞くモードに切り替える。
クレアは炉端に腰を下ろし、スッと指を三本立てた。
「一つ。お客様に“食事”と“時間”を提供する場所」
「時間……?」
「二つ。料理だけでなく“場の空気”も味わってもらうこと」
「空気も……食べるの……!?」
「三つ。“作る人”と“食べる人”が、信頼で繋がる場所です」
「信頼……かぁ」
どこかで聞いたことのあるような、それでいてちょっと哲学的すぎる三カ条。
フェルミナはふんふんと頷きながら、心の中では必死に“レストランとは”の再定義作業に取りかかっていた。
「ですから、提供するものに誠意がなければ、すぐに見抜かれます。どんなに味が良くても、嘘があれば伝わってしまいます」
「うぅ……なんか、急に胃がキュッてなってきた……」
緊張がじわじわとフェルミナの背中を這い上がってくる。
お客様の舌は鋭い、とは聞いたことがあるけれど、それ以上に“心で食べてる”感じがするこの場所……ちょっとハードルが高すぎない!?
「大丈夫です。最初から完璧など、誰も求めていません」
クレアは静かに言って、ふと目を細めた。
それは剣を握るときのような張り詰めた表情とはまるで違って、どこか包むような柔らかさを感じさせる笑みだった。
「でも、“真剣”であることだけは、最初から必要です」
“真剣”――その一言に、フェルミナの胸の奥がふっと熱を帯びた。
戦場ではなく厨房で。それでも同じように、人としての「覚悟」が試される。
かつてゼンが演説で語った言葉がある。
「力は、誰かを守るためにある」――あのときの静かな声が、ふいに脳裏に蘇る。
そして今その灯火が、ミナ――ひとりの旅人となった王女に、確かに手渡されようとしていた。
囲炉裏の火が、ぱちり、とひとつ弾けた。
まるで新しい物語の始まりを告げる鐘の音のように。
フェルミナはその音に、ふっと息を吸い込んだ。
「……よし。まずはエプロンの結び方から、練習しなきゃ」
と、意気込んだはいいが、その直後。
「……あれっ、これどうやって結ぶの? リボンが前になってる!? これって正解!? 失敗!? ああああ!! 絡まった!! 紐が……紐が謀反を起こしてる!!」
「落ち着いてください。紐の反乱は、冷静な鎮圧が肝要です」
クレアの即答が妙に軍人的で、なんだか余計に緊張が高まる。
それでも笑いながら火を囲む彼女たちの姿が、そこにはあった。
◇
コンコンッ
戸口のほうから控えめにノックの音がした。
「失礼しまーす……あ、ミナさん、着替え終わったんですね!」
軽やかな声とともに戸口からひょこっと顔を出したのは、ライルだった。
明るい栗色の髪は相変わらず跳ね放題で、手ぬぐいが頭の上からずり落ちかけている。身につけているのは作業着とエプロン、そして素足に履いた藁草履――どう見てもまだ小柄な少年なのに、その動きにはもう立派な厨房人としての貫禄があった。
「うん……クレアが、全部手伝ってくれたから」
フェルミナが苦笑しながら言うと、ライルは人懐っこい笑みを浮かべて近づいてくる。
「いやー、それなら安心っす! クレアさんが仕立てたら、もう帝都の舞踏会にも出られる仕上がりっすよ。……たぶん厨房仕様だけど」
「出ないわよ! 厨房から舞踏会ってどういう展開よ!?」
思わずツッコミを入れるフェルミナに、ライルはくすっと笑ってから手を差し出した。
「よし、じゃあ厨房の見学行きましょうか。ミナさんの今日の任務は――“水屋担当”っすからね!」
「……みずや?」
「はいっ。つまり、皿洗いっす」
「……あぁ……なるほど……うん。うん……」
言葉を濁しているのは、自分でも想像がつくからだ。
だがその目の奥には、“逃げない”という今朝の誓いがまだ息づいている。
「わかったわ。よろしくね、ライル……くん?」
「くん、はやめに卒業してもらっていいっすかねー。こっちじゃ“先輩”なんで!」
「えぇっ!? あなた、年下でしょ!?」
「厨房に年齢は関係ないっすよ、ミナさん!」
明るく言い切るライルに、フェルミナは肩をすくめながらも自然と笑顔になっていた。
二人は並んで囲炉裏の奥の細い廊下を進む。朝の仕込み前の厨房はまだ静かで、炭の香りが空気の中にほのかに漂っている。床は白木で柔らかく、壁際には干し野菜と味噌甕が整然と並び、どこか“人が住む温度”がある。
「……あのね、ライル。ちょっと聞いてもいい?」
「なんすか?」
「あなた、どうしてこのお店で働いてるの?」
足を止めたフェルミナの問いに、ライルはほんの少しだけ表情を和らげた。
「んー……昔、親父さんが村に来て、俺んちに山菜持ってきてくれたことがあったんすよ。……それで、この人のそばにいたら、なんか変われるかもって思って」
「変われる、って?」
「“誰かのために動く自分”になれるかもってことっす。……今でも、全然大したことできてないっすけど」
その言葉は明るく笑っていながらも、どこか胸の奥に触れる響きがあった。
フェルミナは、そっと頷いた。
「……なんだか、あなたって不思議な子ね。年下なのに落ち着いてるというか」
「よく言われるっす。……でも俺、けっこうびびりなんで。さっきだって、エプロンに虫ついてないか気になって出る直前までチェックしてたんすよ」
「……ふふっ、なんだそれ!」
思わず笑うフェルミナ。彼女の頬には、緊張が解けた柔らかい表情が浮かんでいた。
ライルは手を腰に当てて胸を張る。
「さーて、今日はいっぱい動いてもらいますよ! 厨房の常識は、俺が全部叩き込みますんで!」
「や、優しくお願いね……?」
そうして二人は、笑いながら厨房の扉を開けた――
「……はい、これエプロン。」
ライルに渡されたそれは、
見事に泥のついた麻布製のエプロンだった。
フェルミナ・ルクレティア、ルミナス聖皇国第七王女、人生で初めて“労働着”を身にまとう瞬間である。
「え、えっと……これ、洗濯は……」
「昨日したよ。」
「“昨日”!?」
まだ湿ってるじゃない。
いや、王女がそんなこと気にしてどうする。
わたしは今、“修行”中なのだ。
“心を磨く旅”をしているのだ。(※自称)
「ミナさん、袖、まくって。」
「えっ? あ、うん。」
「そのままだと濡れるよ。」
「わかってるわよっ!」
言われた通り袖をまくり、
いざ厨房へ――。
そこはまさに“戦場”だった。
鍋、皿、包丁、まな板、釜、炭、
どれもが所定の位置でぎっしりと並び、
すべてが機能的に配置されている。
湯気と香り、油と音。
「……戦場の方がマシだったかもしれない」
と後にフェルミナ本人が語るほどの混沌であった。
ゼンはすでに竈の前で包丁を握っている。
背中越しに放たれる“職人の気配”。
その姿を見ただけで、フェルミナは息をのんだ。
(か、かっこいい……! なんて凛々しい後ろ姿……!)
「ミナさん、手止まってるよ」
「はっ!?」
我に返ると、ライルが目の前で小さく笑っていた。
まだ十代半ばくらいの少年のくせに、手際は一流。
包丁さばきも洗い物も、丁寧かつ速い。
「えっと、ライル、その……“皿洗い”って、どうやれば……?」
「どうって、洗うだけだよ」
「そうよね!? でも王宮では“皿を洗う係”がいたから……」
「……まさか、皿洗い初めて?」
「い、一応、理論上は知ってるわ!」
「理論上?」
ライルが目をぱちぱち瞬かせた。
ゼンが後ろから低い声で言う。
「理論上で腹は満たせねぇぞ」
「は、はいぃっ!」
こうして、王女の“皿洗い修行”が始まった。
最初の一枚目。
勢いよく洗剤を入れすぎて泡が鍋から溢れる。
二枚目。
泡が滑って皿を落とし、木の床に“パリン”と音を立てた。
三枚目。
ライルが静かに拾い、
「……これ、五枚目ですね」と数えていた。
「ご、ごご、ごめんなさいっ!」
「大丈夫ですよ。今日のノルマ、十枚割るまでは平気です」
「そんなノルマあるの!?」
ゼンは包丁を止めずに呟く。
「……“割れなきゃ上達しねぇ”ってことだ。気にすんな」
「は、はいっ……!」
だが、フェルミナは本気だった。
次こそは完璧にやってみせる――王族の名にかけて!
(よし……落ち着いて、丁寧に……。これが皿。これがスポンジ。これが水。大丈夫、できる。私はできる!)
――ガシャーン!
「……。」
「……。」
「……はい、六枚目です」
「う、うるさいっライル!!」
昼を過ぎるころには、
厨房はなんとも言えない混沌に包まれていた。
泡と笑いとため息が入り混じる中で、ゼンは一言も怒らなかった。
ただ、時折ちらりと振り向き、
「水の量、多い」「手首、固定しろ」「そこ、危ない」
とだけ淡々と注意する。
不思議と、怖くなかった。
どんなに失敗しても、怒鳴られない。
だけど、その一言一言に、重みがある。
まるで、ひとつひとつの言葉が“経験”そのものみたいに。
(あぁ……やっぱり、この人は……)
フェルミナの心の中に、
またあの淡い感情が蘇ってくる。
尊敬と憧れと、ちょっとだけ(というか九割九分)恋。
「ミナさん、次はこの野菜、切ってください」
「え? 包丁!? 私に!?」
「大丈夫、簡単なやつです。ネギ」
「ネギ……ネギってどうやって切るの?」
「まっすぐ」
「まっすぐ!? なるほど!!」
――そして10秒後、
包丁がまっすぐすぎて、まな板ごと切り落とした。
「……。」
「……。」
「……ミナさん、まな板は食べません」
「ちがっ、違うの! ちょっと力が入りすぎただけよっ!」
「“だけ”で木が割れましたけど」
「……王族の腕力をなめないで!」
「なめる前に、厨房が壊れます」
ゼンが深いため息をついた。
「クレア。お前もなんか言え」
厨房の端で静かに見ていたクレアが、
淡々と湯呑を置いて言う。
「……料理というのは、力ではなく、呼吸です。
王女、息が荒すぎます」
「なっ!? 恋してる乙女にそれを言う!?!?」
厨房が静まり返った。
ゼンが、ライルが、クレアが、同時にこちらを見た。
空気が止まる。
霧のような沈黙。
「……恋の話じゃなくて、調理の話だ」
「……ですよねっ!!」
(穴があったら入りたいっっ!!)




