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第111話 影の奔流



影が裂け、波紋のように黒い“揺らぎ”が広がった。


影が揺れる、という現象では説明にならなかった。


“空間の皮膜が黒く変色し、そこに影が染み込んでいく”

という感覚に近い。


石畳の線が黒に溶け、地面に貼り付いていた影が液体のようにゆっくりと立ち上がる。


まるで黒い水面が世界の底から浮上し、現実の方が沈んでいくような——



影が壁を這い、天井を走り、空に噛み付く。



錯覚ではなく、純粋な空間位相の変質だった。


音は発生していない。

だが、空気そのものが震えたような圧の変化がゼンの皮膚表面を薄く叩く。


表層の震えではない。

筋膜と骨の間で起こる“わずかな軋み”が、影の運動がただの視覚的現象ではなく、空間の密度そのものの再配置であることを告げていた。


石畳が低く唸り、その目地に沿って黒が浸食するように広がる。


影ではなく、

“影に乗じた空間の陥没”。


クレアがそこを踏む。


足が沈むのではない。

足が“存在する前に”影が位置を確保し、質量を持たない平面がクレアの重心を受け止めるための仮想地盤を形成していた。


重心線が通常の人体では取り得ない角度に傾く。


・土踏まずのアーチは潰れず

・腓腹筋は収縮ではなく“滑走”

・アキレス腱は反発を生むのではなく、反発を“蓄積しない”


つまり――

筋力の射出ではなく、

重心の“落下方向そのもの”をずらしている。


ゼンは目を細める。


(踏み込みの概念が違う……)


踏んでいない。

重力に従っていない。

空間の位相が“人を挟んで動いている”。


その異様な状態を示すように、

クレアの“影”が遅れて走るのではなく――

クレアより先に未来位置へ到達している。


その影を、クレアの身体が追う。


追う、といっても速度ではない。

影の示した軌道へ“身体が吸い込まれていく”。


人が踏むのではなく、空間が人を移動させる現象。


それが影走機構陣の第一の本領だった。





空気の分子が薄く擦れる。

金属音のようでいて、鉄とは違う。

低い周波が耳の奥に張り付く。


黒い線が三本。

等間隔ではなく、意図的な“不均一”を伴って空間に刻まれた。


その線こそが――

影の斬撃構造。


刃ではない。

属性でもない。

情報の“欠損”。


黒衣霧装で薄くなっていたクレアの存在情報が、いまや“世界の裏側へ流れ落ちる液体”のように揺れていた。


全身を支える骨格の角度、

股関節の回旋、

筋膜の張力、

呼吸振動――


その全てが“削れている”。


情報が少ないのではなく、

情報が“観測できない”。


影が黒い板のように折れ、クレアはその境界の“稜線”を踏んだ。


踏む、では足りない。

彼女の足裏は空気の抵抗をほぼ捨て、摩擦を切断した状態で滑走していく。


慣性が方向を持たない。


筋力による前進ではなく、

“空間の落下方向へ自分を落とす”技術。


影走りの本質を、展開術式によって極限まで引き延ばした動き。


クレアの姿勢は一瞬だけ前屈し――

背骨のS字が消え、

一本の“直線”に変わった。


そこから、動く。


沈む。

滑る。

抉れる。

裂ける。


足音も、風切り音も存在しない。

代わりに――


空間が「ザザ……」と、

紙を裂くような乾いた音を発した。


影が破れた音だった。



ゼンは無言で半身に体を開き、その線の進行方向をわずかに読み替えた。


足は動かしていない。

つま先の角度だけが、一度、微かに揺れる。


その揺れが、クレアの斬撃から“時間”を奪った。


だが。


次の影がその揺れごと“読み取る前に”折れ曲がった。


影が折れる?


影は光の反射が生む平面で“折れる”などあり得ない。


だが、存在の情報を削った《影走機構陣》においては“世界の側が折れる”。


黒い線が直角に曲がり、ゼンの背後へ滑り込む。


(……それを横から出すか)


ゼンは木刀を上げず、ただ背中の筋膜だけをわずかに緩めた。


そこに影の斬撃が走る。


衝突音が存在しない。


代わりに空間がひとつ、深呼吸したように沈む。


影が斬り裂いたのは物理ではなく、“位置情報”。


ゼンの位置が空間からわずかにズレ落ち、影の刃が“過去のゼン”を切り裂く形になった。


ゼンの足が半歩だけずれる。

しかしそれは後退ではない。

空間の流れに合わせて立ち位置の位相を調整しただけの動作。


(……瞬く間に空間が書き換わっているな)


ゼンは静かに息を吸う。


だがその呼吸すら、影が削り取った。


空気が逃げない。

呼吸の“気配”が空間に残らない。


呼吸が情報として保存されない世界。


これが影走機構陣の第二の本領――

“観測と記録の喪失”。


クレアが姿を現した。


いや、姿とは言えない。


黒衣霧装の霊素膜が影の反転で“断片化”し、立体の層としてクレアの周囲に浮かんでいる。


動き出す前の線だけが存在し、その線の中にクレアの動作が溶け落ちている。


ゼンは首を傾ける。


(見えてはいるが……“起点”がわからん)


筋肉の予備動作が存在しない。

重心移動も、わずかな足の沈みもない。

気配も乱れない。


ただ影の軌道が、

“クレアが次にいる場所”を淡く示す。


そしてクレアの身体は、

その淡い軌道に沿って“現実の方を滑らせていく”。


影が実体を導く。


導かれた瞬間――

斬撃の質が変わった。


硬質ではなく、軟質でもなく、空間の“あや”を切り裂く感触が走る。



影が跳ねる。


一つではない。

三つ。

五つ。

七つ。


影が連続的に折り重なり、

それぞれが“別々の未来予測”として斬撃を形成していた。


幻でも残像でもない。


クレアが踏んだ影板の角度が、

空間の位置情報を再編している。


だから――斬撃の軌道が複数の現実として存在していた。


ゼンは左へ滑る。

いや、滑ったように“見えた”。


本当は足裏の接地角度を三度だけ傾けただけ。

重心線を一瞬だけ膝下へ落とし、

空気抵抗が働く前に軸を逃がす。


その差は、わずかに一寸。


しかし、その一寸が

影の斬撃三本を避けるだけの“間”を作った。


背後で石畳が薄く裂けていく。


斬られたのは石ではなく、石が持っていた“輪郭情報”。


影の斬撃は物質ではなく、空間の縁を切る。


裂け目から黒が滲み出し、影の粒子が霧のように散った。


視界の奥へ、クレアの気配が走る。


気配というより――

“世界の歪み”。


影が一瞬だけ球状に膨らみ、それが裏返るように弾ける。


黒い花弁が開くように、斬撃が五方向から折り畳まれた。


ゼンが軽く頭を下げる。



背後で風もなく草が裂けた。


彼はただ“首を下げただけ”だった。

しかしその動作のために背骨のラインを完璧に曲げ、

重心を浮かせずに回避動作を成立させた。


影の斬撃は、彼の髪の先端をかすめて消えていく。



(……まだ来る)



ゼンのまぶたがわずかに下がった瞬間、反射影が斜め下から襲いかかった。


木刀がようやく動く。

角度は七度。


ただそれだけで――

空間を支配していた影の“斬撃理由”が崩れ落ちた。


斬撃は、斬るために存在している。

位置情報を切断し、空間の縁を裂くための“線”として成立している。


だがゼンが触れた瞬間、


その線は――

「なぜそこに在るのか」という根拠を失った。


切断力が消えたのではない。

軌道が止まったのでもない。


“存在の根拠”が剥ぎ取られた。


影の斬撃は、世界の裏側に刻まれた“負の情報”だ。

しかしゼンはその負情報に触れた瞬間、それを“無情報”へと還元してしまう。


押してもいない。

弾いてもいない。

防御ですらない。


ただ――

斬撃が「斬撃として成立しない空間」を作っただけ。


ゼンの周囲だけ、世界が静止する。


霊素の振動が鎮まり、影の軌道が“理由”を求めて空中で揺れ、最後には自壊するように霧散した。


(……また“無化”だ)


クレアの脳がその現象を理解する前に受け入れる。

ゼンの技は、反応でも読みでもない。


この男は、

“攻撃が成立する前提そのもの”を潰す。


影が裂いた位置情報が、ゼンの周囲だけ“存在しない”。

空間が応答しないのだ。


斬撃の着弾点が、そこに「点」として位置を結べない理由であり、絶対点——



だから、斬れない。



黒衣霧装の情報削減に対し、ゼンはさらにその上位――

“世界の差分情報を空白へ流す”という反応を行っていた。


ゼンのつま先が、地面へわずかに沈む。


足を踏み込んだのではない。

地面との接触情報だけが、彼の任意で“一瞬だけ無効化”された。


それによって彼の身体は、影の位相から半歩外れた場所へ滑り移る。


踏み込みの痕跡が存在しない。


筋肉の収縮も、

重心移動の履歴も、

呼吸の乱れも、

どれ一つとして残らない。


ただ“位置”だけが変わる。


まるで――

ゼンだけが、世界の物理演算とは別の層で動いているように。


(……本当に、ずるい人)


クレアは一瞬だけ胸を震わせた。


彼の動きは、どれだけ鍛えても理解できない領域にある。

速度でも技術でも戦術でもない。


“前提から外れる”動作。


その無音の移動に合わせて、ゼンの肩がひどく緩やかに回る。


木刀は、動いていないように見える。


だが違う。


動いていないのではなく、“動く必要がない”。


斬撃そのものを無効化している。

攻撃が攻撃として働く理由を削いでいる。


だから――

影の攻撃は“届かない”。


それでも、クレアの斬撃は止まらない。


なぜなら影が既に、ゼンの“読む動作そのもの”へ干渉を開始しているからだ。



「影」が一斉に脈動する。


クレアの身体能力が加速度的に跳ね上がった。


筋繊維の収縮速度が

“反射”ではなく“衝撃波”に近い速度で走り、

関節の可動域が通常の倍以上に開く。


影が構築した“仮想慣性”が、クレアの身体を本来の質量とは無関係に操っていた。


動きは滑らかではない。

滑らかすぎて逆に“不自然”。

人が動く速度ではなく、やはり“空間そのもの”が人を運んでいるような速度。


ゼンは木刀を横に傾けた。


「……まだ上がるか」


声は低いが、その瞳にだけ“静かな驚き”が宿っていた。


黒がじわりと世界を侵食する。

空気の端が黒く染まり、

光が黒いフィルム越しに屈折し、距離感が保てない。


影が斬撃に変わり、斬撃が空間を変質させ、空間が影へ飲み込まれていく。



そのとき――



クレアの足元で“黒い波紋”が静かに、しかし確実に広がり始めた。


ゼンの視線がわずかに下へ落ちる。


(……来るか)


影走機構陣――

それはただの展開術式ではない。


黒衣霧装を通して削られた存在情報、

闇霊素によって薄められた世界との接触、

影そのものが書き換えた空間の裏層――


その全てを“束ねて逆流させる”最終段階が存在した。


影が揺れる。

否――震えている。


影の奥で、さらに黒い影が蠢き、

まるで“影が影を孕んだ”ような違和感が世界に走る。


空気が沈んだ。

重力が低く唸った。


影走機構陣——核心領域が開く。



クレアの周囲に、黒い帯が一本、また一本と浮上する。

帯は細い。だが細いほど“密度”が異常だった。


一本の帯が揺れただけで、

石畳がヘラで削られたように粉砕される。


「……っ」


ゼンの瞳がほんのわずかに見開かれる。


帯はただの霊素ではない。

“影の情報そのもの”を圧縮し、縄のように捩じり合わせた存在だ。


クレアは呼吸を止め――

黒衣霧装の膜が、影の帯へと吸収されていく。


影が、重なる。


一本、二本、三本――

気づけば十を超え、二十を越え、

空間が黒い軌跡で格子状に満たされ始めた。


影の帯が交差し、重なり、結び、

やがて巨大な“黒の奔流”へと形を変える。


空気が悲鳴を上げるように震えた。


影の奔流は、濁流。


だがその濁流は液体ではなく――

“空間から剥がされた黒の成分”。


石畳が剥離する。

地面が薄皮のようにめくれ、影の底へ吸い込まれていく。


周囲の木々は、枝先から崩れた。

音もなく、影の圧のみで内部構造が“解体”される。


ゼンは微動だにしない。

だがその足元で、世界の方が震えていた。


(……もう完全に制御を超えている)


クレアの身体が影の奔流に包まれた。


影が彼女の輪郭を飲み込み、

黒衣霧装で削った情報がすべて影走機構陣の中心へと集まる。


情報の反転。

存在の反転。

空間の反転。


それらが一点に集約し――


“狂気的な密度の奔流”となった。


空間の歪みが肉眼でわかる。

破れた影の縁が、波紋を描きながらゼンへ向かう。


次の瞬間。



■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 世界が“黒い奔流”で埋め尽くされた

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



影が噴き上がった。

大渦ではない。

天を覆う黒幕でもない。


“巨大な獣が咆哮するような奔流”。


クレアが掌を前へ突き出す。

その指先は震えていない。

ただ、すべてを“押し出す者の手”。


影が呼応する。


黒帯が束ねられ、

一本の巨大な“黒の牙”へと形を変える。


振るう必要はない。

ただ、在るだけで世界を裂く。


「――ッッ!!」


クレアが息なき叫びをあげた。


影の奔流が、ゼンへ叩きつけられる。


衝撃音は無い。

しかし空気が震え、世界が悲鳴を上げる。


石畳が完全に砕け散る。

地表は波紋を描いて陥没し、

影の牙の通り道が“谷”のように抉れた。


空気の層が剥離し、

視界のすべてが“影の色”に染まった。


ゼンの前で、黒の奔流が炸裂した。


その衝撃は――

人ひとりを消し飛ばすどころの話ではない。


影そのものが“空間を走る刃”となり、世界の座標を削り取る。


普通の術者なら、身体が触れる前に“存在情報”ごと削られ消滅している。


だが。


その奔流の中心で、ゼンだけが動かない。


黒い奔流が飲み込み、

揺らぎ、噛み砕き、削り、抉り、

世界を三度巻き込んでも、ゼンは揺れない。


影が彼に触れる。


触れた瞬間――

奔流が“爆ぜた”。


それは爆発ではない。

吸収でもない。

干渉でもない。


“否定”。


影の奔流がゼンの一歩手前で

まるで世界の方から「存在をやめる」とでもいうように霧散する。


ゼンの周囲だけ、

重力も、光も、音も、影も、理由を失った。


空間が、静かだった。


クレアの瞳が震える。



(……消えた……?)



違う。

ゼンが消したのではない。


“奔流がゼンの前で、存在するための根拠を失った”。


奔流はさらに重ねられ、

第二波、第三波とクレアは押し出す。


影の牙が二重三重に走り、

空間を剥ぎ、

地形を砕き、

木々を裂き、

谷全体が黒い竜巻に巻き込まれる。


ゼンの周囲だけが、

ただ静かに、

まるで“世界に属していない”かのように沈黙していた。


影の奔流が衝突し続ける。


それでも――


ゼンは誰よりも静かだった。


やがて。


ゼンはひと呼吸し、

木刀を横に傾ける。



「……ここまでだ、クレア」



声は小さい。

だがその小ささが、世界を震わせた。


空気が止まる。

影の波が止まる。

奔流が止まる。

地形の崩壊が止まる。


“全ての現象が、声に従った”。


ゼンの足元の影が、一瞬だけ揺れる。


揺れたのは影ではない。


“世界の側”。


ゼンが、力を開きかけた。


その気配は闇でも光でも雷でもない。


属性に属さない。

霊素に属さない。

系統に属さない。


ただ――

世界の中央に“ひとつの穴”が開いたような気配。


重力が震えた。

空気が凹んだ。

影走機構陣が、軋む。


クレアの心臓が一瞬、動きを止めた。


(……これ以上は……)


影走機構陣の核心が、ゼンの存在によって“圧し潰されよう”としていた。


ゼンは静かに立ち、

木刀をただ、そこに置く。


「続ければ……お前が壊れるぞ」


その声に含まれた優しさは、

鋼鉄よりも重かった。


影走機構陣が悲鳴を上げる。


クレアの影が白く反転する。


ゼンの“解放”は――

まだ始まってすらいない。


それでも、十分すぎるほどの圧。


“世界”が止まりかけていた。



影走機構陣の内部は、黒い奔流がまだ渦を巻いていた。

クレアは呼吸も鼓動も“術式の一部”として制御し、必死に陣を維持している。


しかし――


ゼンの足元にだけ、影の奔流は触れない。


いや、触れる前に

「存在の理由」を奪われて消えていく。


その様を見て、クレアの肺がわずかに震えた。


(……これが……団長の……)


ゼンは動かない。

ただ立っているだけ。


けれど、その“立つ”という行為が――

影走機構陣という巨大な術式体系を、存在圧だけで押し潰し始めていた。


影が崩れ、黒衣霧装の膜が軋む。

闇霊素の流れが渦を巻いて暴走しかける。


クレアは奥歯を噛みしめ、足場の稜線に力を込めた。

陣が音を立てるように揺れ、影の層が一枚、また一枚と剥がれていく。


そのとき――


ゼンが、静かに息を吸った。


ただの呼吸。

ただそれだけ。


だが影走機構陣は、その動作だけで軋みを上げて崩れかけた。


吸気が世界を震わせる。

肺に吸われる空気が“術式の重心”を奪っていく。


まるで世界そのものが、

彼の呼吸に合わせて“整列”したかのようだった。


「……よくここまで成長したな、クレア」


声は低く、深く、優しい。


しかしその優しさが

影走機構陣の中心に落ちた瞬間――


術式全体が“沈んだ”。


クレアの心臓が跳ねる。

視界が暗転しそうになる。


影の斬撃も、反転位相も、

黒衣霧装の奔流すらも、

ゼンから見ればただの“揺らぎ”の一つにすぎない。


「だが――まだ甘い」


ゼンが一歩踏み出した。


いや、本来なら踏み出していない。

物理的な動作が存在しない。


ただ――


“ゼンの位置だけが前へ移動した”。


空間が、彼を運んだように。


クレアの影板が一枚、バキィと音もなく割れる。

空間そのものの位相が押し潰されたのだ。


(……消えた……?)


違う。

ゼンは“動いたのではなく”、“間合いが無くなった”。


クレアが影走機構陣の中で築き上げた

“距離”“方向”“速度”の概念。


それらすべてが、

ゼンの存在を前にして無効化された。


黒い奔流の中央。

クレアが反応するより早く――


ゼンの手が、クレアの肩口すれすれを通り――


腹部へ、軽く触れた。


ほんの指先。

押したわけでも、突いたわけでもない。


ただ“触れた”。


瞬間。


轟ッ。


影走機構陣の全構造が――弾け飛んだ。


空気が白く焼ける。

黒衣霧装の膜が悲鳴のように破れ、

影の帯が煙のように空へ散る。


展開術式の核心が強制的に“閉ざされた”。


それも外部干渉ではない。


ゼンの指先が触れた瞬間、

クレアの魔導核へ流れる闇霊素の循環が

“根本から止められた”。


完全なる、術式の打ち消し。


(……強制……解除……!?)


その一瞬の理解すら遅かった。



――ゴォッ



ゼンの掌底が、腹部へ深くめり込んだ。


衝撃という言葉では足りない。

痛みという概念ですら追いつかない。


それは“気配の圧”が肉体を通り抜け、

骨と筋膜の間を音もなく震わせ、

全身の力を強制的に抜き落とす一撃。


空気が爆ぜ、

クレアの身体がふわりと浮き、

石畳の上を滑って三度転がった。


黒衣霧装は完全に消えていた。


影走機構陣も、跡形すらない。


地面には、

施術の余波で黒く焦げた“円状の空白”が残るのみ。


ゼンは木刀を下げ、

ただ静かに佇んでいた。


追撃はない。

殺気もない。


ただ、それが――

明確な“勝敗”だった。


クレアは地面に手をつき、

肺が震えるのを押さえながら、

静かに頭を下げた。


「……参りました……」


声は細く、かすれ、震えていた。


痛みの震えではない。

敗北の震えでもない。


――悔しさの震えだった。


それを隠すように、

彼女はゆっくりと顔を伏せる。


眉が震え、喉が詰まり、

それでも誇り高く、剣士としての礼節を守る。


ゼンは静かに彼女へ歩み寄り、

わずかに口元を緩めた。


「よくやった」


その言葉は、

七年の空白を埋めるに足るほど温かかった。


クレアの肩が、わずかに揺れた。


影走機構陣は崩れ、

黒衣霧装は消えた。


しかし――


彼女は確かに、

ゼンに“一撃を届かせた弟子”になった。


その事実だけは、

朝の谷に静かに残り続けた。


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