第109話 闇の霊素
――この七年間、何もしてこなかったわけではない。
静かに、胸の奥で呟く。
石畳の底からかすかに体温が吸われていく。
その冷たさが、むしろ精神を深く沈めた。
目の前のゼンは一歩も動かず、ただ呼吸の“圧”だけで空気を支配している。
その圧の中心へ踏み込むには、今の自分のすべてを使わなければならない。
(……追いつくために、私はずっと剣と向き合ってきた)
クレアは静かに呼吸を整える。
肺に入る空気の量、横隔膜の下がる角度、肋骨のわずかな可動域――
そのすべてを意識の底に沈めていく。
視界が、細い線になった。
ゼンの姿は輪郭を保ったまま、背景から切り離されていく。
かつての蒼竜騎士団での訓練とは違う。
今は、ただ“見えるものだけ”を見る段階を超えていた。
(強くなったと思っていた……けれど)
足の裏から、影が薄く伸びる。
クレアは下腹部――魔導核のすぐ上に意識を沈めた。
黒い霊素がわずかに蠢く。
呼吸に合わせて、心臓よりも深い場所で闇霊素が脈打つ。
闇霊素は火や雷のように激しい出力は持たない。
だが、混じり物のない“純粋な場と均一性”を持っている。
――吸収。
――遮断。
――隠蔽。
これらを本質とし、“存在の微細な情報”を操作する属性。
(この七年間……私は、この“闇の性質”と戦い続けてきた)
剣士にとって闇属性は扱いづらい。
攻撃力に直結するわけでもなく、爆発力があるわけでもなく、雷や火のような瞬発力すらない。
だが、クレアはそこに可能性を見つけた。
――“意図を消すための闇”。
ゼンが本質として持つ“空白”に近づくには、これしかなかった。
彼のように魔力ゼロの特異点にはなれない。
ならばせめて、“自らの情報を極限まで削り切る技”を磨くしかなかった。
だから彼女は選んだ。
剣士でありながら、闇属性の「強化系」に踏み込むという矛盾した道を。
七年前、蒼竜騎士団の壊滅直前。
あの日彼と共に戦場に立てなかった後悔――
それが、クレアを激しい稽古の日々へと追い立てていた。
(戦いの最中でさえ、私はただ“守られていた”……だから)
だからこそ、この七年で自分の弱さをすべて削り落とした。
影走りを磨き、無心を深め、剣を研ぎ澄ませ、そして――
ついに一つの術を会得した。
影を羽織る“衣”のように。
存在を薄くする“霧”のように。
闇霊素を肉体に纏わせ、情報量そのものを削ぎ落とす。
それが――
【強化系闇式・黒衣霧装】
発動の瞬間、呼吸が深淵に沈む。
クレアは足を半歩引き、胸郭を小さく収縮させた。
それは“息を潜める”ではなく、“存在を薄くするための準備”。
闇霊素の性質は本来“外に出す”ものではない。
“彼女の持つ闇の霊素”は世界から認識情報を奪うことで働く。
だから使用者自身の意思がブレると、霊素の流動が乱れ、ただの暗気となってしまう。
闇霊素を“衣”とするには、
どれだけ鍛えた肉体でも足りない。
どれだけ優れた剣技でも足りない。
必要なのは――
(……私が、私を消す)
己の存在情報を“塗りつぶす”覚悟。
蒼竜騎士団の頃はただの影走りの延長としてしか扱えなかった。
強度も維持時間さえも、ろくに保てなかった。
だがこの七年――
王宮に移り、影の護衛として隠密任務に従事し、戦場とは違う“生きた気配”の中で鍛えた。
視線。
呼吸。
靴音。
思考の揺れ。
心拍の乱れ。
人が“自分を見つける”すべての要素を観察し、逆算し、潰していった。
その結果として――
自身の構築する闇式の最終段階、“情報消失”を肉体強化へ繋げる技を得た。
今、クレアの背後で影が揺れている。
風ではない。
光でもない。
霧でもない。
――存在の濃度が、落ちている。
「ふぅ……」
わずかな吐息が、白くほどけて消えた。
その瞬間、クレアの視界は完全に静まり返る。
ゼンの姿は輪郭だけのはずなのに、なぜか“こちらを鮮明に見ている”ように感じる。
胸がわずかに震えた。
(団長に追いつくために……この技を使う)
ゼンには通用しない――
そんなことは分かっている。
黒衣霧装は、暗殺向けの技。
真正面からの戦闘では、本来なら使う場面ではない。
だが今は、師の前で示したかった。
七年の孤独の意味を。
自分がまだ、剣士として生きている証を。
ゼンが静かに目を細めた。
「……来い」
その声が胸を震わせる。
クレアは両手の双牙を下段に構え、闇霊素をひと息に――
解き放つ。
影が揺れ、衣がほどけ、霧が纏う――
その変化は単なる視覚的なものではない。
黒衣霧装は“隠密術”ではなく、
闇霊素を内部に浸透させることで肉体性能そのものを再構築する強化技である。
その根拠を成すのは、人体に存在する 魔導核 と 魔脈 の構造だった。
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◆ 魔導核の仕組み
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魔導核は臓器ではなく、神経束の奥に形成される“魔力生成場”だ。
これは脳幹と脊髄の接合部付近――人でいう“中心意識野”――に隣接して存在する。
魔導核は主に3つの働きを持つ:
1. 魔力の発生(生成)
2. 霊素の組成比率の決定
3. 魔脈(魔力経路)への圧力供給
属性差は、魔導核が生み出す霊素の組成比で決まる。
炎霊素なら爆発力、
風霊素なら速度、
雷霊素なら伝達性、
そして闇霊素なら――
情報削減(Information Reduction)と“同調吸収(Resonant Drain)”が特性として現れる。
つまり闇霊素は“世界との接触情報”を切り落とす力を持つ。
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◆ 魔脈の構造
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魔脈は血管に似ているが、流しているのは“魔力”ではなく霊素混じりの生体エーテル。
骨髄、筋膜、神経束、そして皮膚表層にまで伸びるこの魔脈は、霊素を肉体へ効率的に伝え、身体性能を変化させる。
火属性の戦士は筋繊維内の魔脈を太くし、爆発的力を生む。
雷属性なら神経魔脈を増幅して反射速度を高める。
光属性なら細胞修復を促す。
では闇属性の魔脈は?
その働きは――「肉体の“物理的負荷”や“情報の密度”を減らす」ことに特化している。
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◆ なぜ闇霊素で肉体強化が可能なのか
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闇霊素は攻撃性を持たない属性だ。
だが、それは“外向きの出力”が弱いだけであって、
内部強化には極めて相性が良い。
理由はこうだ。
人体運動には、常に膨大な“認識情報処理”が伴う。
・周囲の距離感
・自分の四肢の角度
・重心位置
・筋繊維の収縮量
・神経伝達の速度
そしてこれらはすべて、
脳内で“ノイズ処理”を行う必要がある。
つまり――
動くには、膨大な“情報整理”をしなければならない。
だが闇霊素が体内に浸透すると、このノイズが薄れる。
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◆【闇式強化の本質:情報削減(Reduction)】
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闇霊素は、肉体が捉える情報の“余白”を削る。
たとえば――
・筋肉がどれだけ縮むか
・関節がどこまで可動するか
・重心がどこにあるか
・足裏の摩擦量
これらの“微細情報”を、脳に送らない。
脳への入力が減れば、反応速度は跳ね上がる。
痛覚や恐怖心も薄れる。
身体の「限界」を測るフィードバックが弱くなる。
これが黒衣霧装の基本原理だ。
“情報を削ぐことで、身体が制限なく動ける状態を作る”
これが闇霊素による強化の科学的根拠である。
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◆ 黒衣霧装の内部構造
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発動時、クレアは霊素を“外へ放出”するのではなく、魔脈に“押し込む”動作を行う。
これは一般的な魔術とは逆であり、極めて高度な制御技術だ。
手順としては――
1. 魔導核で闇霊素を高密度生成
2. 胸郭を圧縮し、魔脈を強制的に開く
3. 体内の神経魔脈へ霊素を“流し込む”
4. 脳への情報フィードバックを遮断
5. 運動制御を半自動化(反射優位)へ移行
これにより、
・筋肉は通常以上の収縮率
・神経は反射特化へ切り替わり
・認識の負荷は最小
・“意図”の発生が抑制
という状態になる。
だがその代償として――
思考・感情を削ぎ落とす必要があった。
クレアは深く息を吸い込む。
これはただ酸素を取り込むためではなく感情を“魔導核の背後に押しやる”ための動作だった。
闇霊素は感情ノイズに極めて弱い。
雑念や恐怖が混ざるとそのまま霊素も乱れ、身体に悪影響を及ぼす。
だから黒衣霧装は、
“心を空にしなければ成立しない強化技”
なのだ。
クレアの周囲の空気が沈む。
まるで気圧そのものが一段階落ちたような“圧”が走った。
彼女の影が薄く伸び、輪郭が曖昧になり――
存在そのものが“空気の裏側へ沈み込む”ように変わっていく。
黒い霊素は外へ広がらない。
むしろ逆だ。
衣のようにまとわりつき、筋肉と骨格の境界に入り込み、血流のわずかな脈動すら“静寂化”していく。
“音が消える”のではない。
“存在の情報量が減る”のだ。
眼前で、クレアは完全な無音の立ち姿へと変わった。
ゼンの片眉が、ほんのわずかに動いた。
(……ほう)
そして、黒衣霧装は――完成した。
黒が――滲む。
クレアの体表、そのわずかな皮膚のきめに潜んでいた闇霊素がまるで毛細血管から逆流してきた墨汁のように、じわり、と溢れた。
“纏う”というより――
“押し固められた闇が、表層へ滲み出た”。
黒衣霧装は霊素を放出する技ではない。
体内の魔脈に霊素を押し込み、
その圧力が一定閾値を越えたとき、
はじめて霊素は体表へ“逆流”し、
筋膜と皮膚の狭間に薄い“霊素膜”を形成する。
その膜が、いままさに形成されていた。
――すう、と空気が巻き込まれる。
ゼンの視界に映るクレアの輪郭は光の強弱ではなく、“空気の濃淡”によって縁取られていた。
黒い膜は揺れているのではない。
周囲の“空気情報”を削り取っているため、彼女の周りだけ空気が“映らない”のだ。
(……情報密度が落ちている)
ゼンの思考が一瞬だけ深まる。
空気の粒子がどの方向へ散るか。
霧がどの段階で薄まるか。
光の反射がどの角度から来るか。
それらが“理解できない”わけではない。
ただ――
クレアの周囲だけ、情報が欠けている。
霧が吸われる。
音が沈む。
気配の輪郭が凹む。
黒衣霧装の本質は“消える”ことではない。
存在情報の“減衰”。
呼吸が深くなるほどクレアの輪郭は淡く、淡く――
ついにただの“揺らぎ”へと変わった。
その揺らぎは焚火の熱気が歪ませる空気にも似ている。
だが違うのはそれが“熱”ではなく、“闇”によって生じていること。
空間が“負の濃度”を持って沈みながら、視覚的にも変化を生んでいた。
その「術式」は霊素膜が皮膚の表層で硬化し、布のような質感を帯びていく。
といっても、それは本物の布ではない。
光を遮り、影を吸い、気配を削る“霊素の皮膜”。
瓦焼きの煤のような黒。
星明りを吸い込む夜空のような黒。
それらを合わせたような“深さ”を持つ。
クレアの身体が黒く塗りつぶされていく。
袖口、肩口、腰、脚。
動くたびに霊素膜が波打ち、
その波はまるで意志を持つ生き物のように形を変える。
黒衣は布ではない。
存在の量子情報を薄めた“闇の保護層”だ。
そこに立つのは、もう“人影”ではなかった。
“影そのもの”。
息を吸うたび、空気が吸い込まれるような錯覚を起こす。
黒衣霧装の圧力は、周囲の景色すら歪ませる。
石畳がわずかに波打つ。
地面の霧が吸い込まれ、斜めに裂ける。
木々の枝先が“重力方向を見失う”ように揺れる。
風が吹いたわけではない。
重力も乱れていない。
霊素圧が周囲の空気“情報”を削ったために、景色が正しく機能していないのだ。
ゼンはその歪みを皮膚で感じ取っていた。
(……これは、相当に深い段階だな)
隠密のためではない。
殺傷のためですらない。
ただ“存在を薄める”。
その一点に全身の魔脈を再構成してきた結果だ。
「――っ」
息が、消える。
声は出ていない。
だがその無音の呼吸が、風を切る以上の“衝撃”だった。
影走りが――
黒衣霧装によって“別の段階”へ昇華する。
影は滑らない。
跳ぶ。
いや、“落ちる”。
重心が前ではなく、
“足の裏を中心に空間そのものが沈む”。
ゼンの視界からクレアの姿が抜けた。
影が踊る。
空気が削れる。
石畳の肌理が震える。
次の瞬間――
クレアはゼンの“真横”にいた。
正面ではない。
斜めでもない。
人間の反射では追えない一歩目。
黒衣霧装は筋力の強化ではない。
行動情報の削除だ。
筋肉が動く前の情報すら、ゼンの観測から“欠落”する。
木刀が上がるより一瞬早い。
刃が走る。
一撃。
二撃。
三撃。
四撃。
五撃――
その全てが、
“音を持たない斬撃”。
空気を切っていない。
空気情報を“消している”。
斬撃は残像ではない。
“影の欠損”だ。
ゼンはその全てを正面から受け止めてはいない。
受ける必要もない。
しかし――
かわす角度を一度でも誤れば、刃はゼンを切り裂いていた。
黒衣霧装は、それほどの精度を持っていた。
ゼンの周囲の空気が滑る。
木刀の位置情報が揺らぐ。
視界の奥行きすら歪む。
クレアはそれら全てを読み切って、破綻前提の連撃を重ねてゆく。
そして――
六撃目が、走った。
それまでと質が違う。
黒衣霧装は連撃を加速させるが、その中に“たった一撃だけ”重心を殺す一撃を混ぜられる。
ゼンもそれを理解した瞬間、木刀を半身に浮かせた。
防御というより――
“間合いを消す手”。
しかし。
衝撃が――爆ぜた。
クレアの刃がゼンの木刀に触れた瞬間、木刀越しに伝わる闇霊素の圧がゼンの腕を“押し飛ばした”。
いや、押したわけではない。
黒衣霧装の一撃は、“情報の欠損分だけ、物理圧が跳ね上がる”。
それは世界の運動情報の“穴”として働く。
普通の剣士なら、体勢ごと折れていた。
ゼンは木刀を交差防御の角度で受け――
足を後ろへ滑らせながらその圧をいなした。
が。
足裏を伝い、
石畳が低く唸った。
ゼンの身体が――
“吹き飛んだ”。
半歩。
一歩。
二歩。
三歩――
音もなく後方へ滑る。
後ろ足で衝撃を受け流し、全身を傾けながら衝撃を地面へ逃がす。
だが、事実はひとつ。
クレアがゼンを後退させた。
ゼンの姿勢は崩れていない。
だが確かに、押された。
石畳を削るようにしてようやく静止したゼンは木刀を軽く見つめ、
「……やるな」
とだけ言った。
息は乱れず、
声も変わらず。
だがその眼には――
わずかに“愉しげな光”が宿っていた。
ゼンは顎をわずかに引き、
「……いい一撃だ、クレア」
その声は低い。
だが確かに、彼女に対する誇りの響きがあった。
クレアの胸が震える。
黒衣霧装の膜が淡く揺れ、闇が衣のように波立つ。
その震えは恐れではない。
歓喜でもない。
ただ――
(届いた……)
長い、長い七年で初めて。
師を、一歩でも動かした。
影が揺れ、
石畳がたわみ、
朝の光が彼女の“黒衣”の縁を淡く照らす。
黒衣霧装――
第二段の加速が、まだ残っている。
クレアの足が、震えた。
攻撃後の反動ではない。
恐れではない。
黒衣霧装が“第二段階へ移行しようとしている”証だった。
黒衣霧装は、発動直後よりも霊素圧が馴染み始めた二段目からが本番だ。
霊素膜が筋膜へ深く沈み込む。
神経魔脈の余剰ノイズが完全に消える。
思考と肉体の繋ぎ目が薄れ、反応が“意図”すら追い越す。
闇が強化に変わり、
強化が存在の空白に変わり、
空白が行動へ変換される。
ゼンが口元だけで小さく笑む。
(――まだ終わっていない)
吹き飛ばされたという事実を、まるで褒めるかのように受け入れながら。
クレアの呼吸が、静かに――“切れた”。
吸っていない。
吐いてもいない。
呼吸の“情報”そのものが消えている。
黒衣霧装第二段は霊素膜が体表から筋肉・神経に溶け込み、外殻を形作っていた黒い影が輪郭の外へ拡散する。
一歩。
影が足の方向ではなく――“未来の方向”へ伸びた。
(未来線……?)
ゼンの眉がわずかに動く。
クレアが踏み出した位置より、半身ぶん“前”へ影が先に到達する。
通常の影走りは、意図を消して動くことで初動を読ませない技。
だが黒衣霧装は違う。
――影そのものが動作の“先”に揺らぐ。
その揺れはゼンの読みに対する“反情報”。
動きの予兆が読み取れないのではない。
読み取った予兆が「現実」と一致しなくなる。
クレアは姿勢を低くし、双牙を逆手に構える。
刃は光を吸い込み、輪郭すら見えない。
ゼンが木刀を軽く倒す。
「……まだ速くなるのか」
その声は、
“楽しげ”でも
“驚き”でもなく――
わずかに温度を帯びていた。
クレアが沈む。
いや――
“跳んでいた”
足裏が地面を蹴る音が存在しない。
摩擦もない。
空気を押す感触すらゼンには届かない。
ゼンの視界に届くのは、黒衣の欠片が“点”として散る軌跡だけ。
クレアの第二波は第一波の“連撃”とは異なる。
第二波は――
“存在の反復”だ。
一歩踏み出すと同時に、黒衣の揺らぎが“もう一度踏み出す”。
さらにその反復が“もう一段階前”の未来を示す。
まるで残像が、“未来の動作”を指し示すように跳ねる。
ゼンの読みが遅れたわけではない。
読みが“二重化”しているのだ。
予兆が二つ。
結果も二つ。
実体は一つ。
それを“瞬時に見分けろ”と言われるような、理不尽な錯視。
ゼンが木刀を肩の高さへ上げ、姿勢を半身に切る。
(――迷いがない)
黒衣霧装は反応速度の向上ではなく、反応の“削除”。
読めない。
触れられない。
追えない。
それでもゼンは一歩も動かない。
「っ……!」
クレアの声は無音だった。
使える限りの筋繊維を束ねる脚力の先端――ゼンの周囲に“黒い線”が三つ生まれる。
――三方向
前、左、右。
だが、それはただの残像ではない。
“どれも本物に見える”。
黒衣霧装の影はクレアの霊素膜の「情報欠損」を投影したもの。
観測すればするほど、“実体がどこにあるか分からなくなる”。
ゼンは呼吸一つでその三線を見切った。
(右の線……遅れが半拍。偽物だ)
木刀が右へ回り――
そこには何もいない。
(前の線……気配が薄すぎる。これも違う)
残りは――
(左)
木刀が左へ向く。
“カンッ”
衝撃は金属ではない。
木同士でもない。
霊素膜が木刀に触れた瞬間、
膜の情報が木刀に吸い込まれ――
“情報衝突”が発生する。
音ではなく、“重さ”が空気へ響く。
ゼンは受け流しに入った。
が。
第二波は、そこで“終わりではない”。
クレアの刃は左からの斬撃が止まる前に――
黒衣がもう一手の“影”を放つ。
影が刃の延長となり、実体では届かぬ距離に“斬撃情報”が走る。
ゼンの眼がわずかに細められた。
(……出たか)
黒衣霧装の最大の強み。
“影による斬撃の上書き”。
霊素による刃の模造。
しかし削るのは物質ではなく、
存在の“縁情報”。
石畳が爪でひっかいたように薄く裂ける。
――影の斬撃。
それは物理ではない。
霊素でもない。
境界を切る技。
ゼンは木刀をほんの指先で弾いた。
“パシン”
軽い音。
しかしその一撃で
霊素の斬撃は吸い込まれるように消えた。
クレアが息を呑む。
(……消された)
影の斬撃を、武器をほとんど動かさずかき消した。
ゼンが静かに言う。
「闇の“輪郭”を使ったか。……いい技だ」
声は淡い賞賛。
だが――
ゼンの足元が、ふっと沈んだ。
いや、沈んだように“感じた”。
空間がわずかに逆巻き、
音が遠のく。
(……灰式だ)
クレアの皮膚が粟立つ。
魔力ではない。
霊素でもない。
術式の気配はゼロ。
ゼンはただ立っているだけ。
それなのに――
“世界の流れ”が変わる。
クレアの黒衣霧装が発する闇の揺らぎがゼンの周囲へ侵入した瞬間、霊素の揺らぎが完全に消える。
まるでゼンだけが“世界から切り離されている”。
これが灰式の本質。
すべての力の“流路”を断つ。
外の情報を受け止めず、内の情報も流さない。
霧をも、
音をも、
衝撃すら“反応しない”。
ゼンの足がわずかに動く。
それは踏み込みではない。
ただ“足の位置が変わった”。
クレアの目には、その動作が“存在のスライド”に見えた。
黒衣の斬撃が迫る。
ゼンは呼吸すら変えず、木刀を軽く“置いた”。
その置く動作だけで――
クレアの斬撃は、
“流れ落ちた”。
重い。
軽い。
鋭い。
遅い。
どの性質もない。
ただ“意味が消える”。
クレアの全身が、一撃だけで制御を奪われた感覚に陥る。
(……この感覚……!)
ゼンの灰式は、
剣を受けるのではなく、
剣を“概念として受け止めて”失効させる。
黒衣霧装の第二波。
超反応。
存在の削除。
影の斬撃。
その全てが――
ゼンの“内側の静寂”で飲み込まれていく。
世界が静かになる。
黒衣霧装の揺らぎが淡く薄まる。
ゼンがわずかに口を開いた。
「……悪くないが――」
木刀が、クレアの双牙の“外側”に触れた。
触れただけ。
それだけにもかかわらず――クレアの全身の衝撃線が一本ずつ“逆向きに折れた”。
黒衣霧装が“噛み合わない”。
思考が追いつかない。
世界が――
ゼンの周囲だけ“平ら”になる。
「まだ、お前の刃は“意図”を捨て切れていない」
その声が落ちた瞬間、クレアの身体が弾き返された。
背中から石畳へ転がり、黒衣が散る。
衝撃ではない。
強打でもない。
“動作の流れそのものを反転させられた”感覚だった。
胸から吐く息が白い。
黒衣がゆっくりと薄れつつある。
それでもクレアの瞳は揺れなかった。
ゼンが木刀を下ろし、静かに告げる。
「……で、どうする。クレア」
それはやはり挑発ではない。
試しているわけでもない。
“答えを聞く師の声”。
クレアは双牙を握り直し、膝を押し上げ――
「……まだ、終わりません」
黒衣霧装はまだ切れていない。
第二波の奥、
“最深部”――
そこに辿り着くまでは。




