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第107話 ここで働かせてください!



朝霧がまだ谷を満たしている。

太陽は山の向こうでゆっくりと姿を現そうとしているが、光そのものはまだ空に届かず、ただ空の色だけが群青から藍白へと静かに移り変わっていく。


ガルヴァ山郷の朝は、世界の時間とは少しずれているかのようだった。


標高千六百メートルのこの地では、夜の冷気が地面に染みつき、朝になるとそれが霧となって浮かび上がる。細い小径の石畳には水滴が浮かび、霧が白いカーテンのように木立を包んでいた。


風は吹いていない。けれど木々の梢が時折かすかに揺れるのは、霧の流れがそっと触れていくからだ。

葉の表に溜まった露が、ぽとり、ぽとりと地面に落ち、湿った土の匂いがかすかに立ちのぼる。


谷の奥ではまだ陽の光が届かない林に、うすぼんやりとした青白い光が満ちていた。

それは空の光でもなく、魔導の光でもなく――ただ、霧が夜を押し戻すときにだけ現れる“薄明”という時間の色だ。


この時刻、谷には人の気配がない。

唯一動いているのは、野生の獣たち。

渓流の近くでは小さなヤマネズミが岩の間を走り、遠くの木の上ではまだ寝ぼけたフクロウが翼を震わせていた。


空を飛ぶ鳥の声すら、どこか慎ましい。

ピィ……ピッ、と短く鳴いてはすぐに黙り込む。

この谷の朝は騒がしさを許さない。すべてが沈黙の中にありながら、確かに“何か”が動き始めている気配だけが、谷の空気にじんわりと染み渡っていた。


そしてその静寂こそが、この地に暮らす者たちの“目覚め”の合図だった。


水車の回る音が、かすかに谷に溶け込んでいた。

灰庵亭の裏手、小川のほとりに設置された木製の小さな水車が、霧の中でも淡々と回っている。

軋みも唸りもなく、ただ水の重みを受けて「こぉ……ん……」と深く低い音を繰り返す。

その律動が、まるでこの谷全体の“心音”のように一定のリズムで響き渡っていた。


苔むした岩の上には霜が降りていた。

陽が当たる前の冷え込みは鋭く、だがそれさえも“害”ではなく、どこかこの場所にとっては必要な“季節の輪郭”のように感じられた。


霧の奥では山茶花の花がひとつ、音もなく開いていた。


そしてその中心――

木と石と火のぬくもりに包まれた灰庵亭の中、ゼンはいつもの朝の準備に取りかかっていた。


まだ陽が山の稜線を越え切る前。

店の裏口を開け冷たい外気をまとったまま、薪を抱えて土間に入る。


「……よし」


短い息を吐くと、彼は迷いのない動きで薪を竈の横に積み、手慣れた仕草で一本を取り出して割り台に立てた。


振り下ろされる薪割り斧は、余計な力が一切ない。

刃が木を割る瞬間にだけ筋肉が収斂し、その後すぐに脱力する。

武人の動きというよりは、“長年の暮らし”が染みついた動きだ。


コン、と乾いた音が土間にやさしく響いた。


割った薪を数本脇に抱え、彼は竈へくべる。

火種を置き、細い薪を寄せて小さく息を吹きかける。


ふぅ、と短い息。


ぱち、ぱち、ぱち……と火が生まれる。


その光がゼンの横顔を照らす。

髪の一房が赤く縁取られ、影が落ちる頬を柔らかく照らす。


(……あの、斧を振るう腕……もう芸術、では……?)


物陰から様子を覗いていたフェルミナは、胸の前で手を組みながら小さく震えていた。


(いやいやいや、落ち着けフェルミナ!見とれてどうするの!)


しかし無理なものは無理だった。


ゼンの動きには無駄がない。

長年の戦士の経験と、今の静かな暮らしの“調和”がそのまま動作に宿っている。


(かっこ……かっこいい……)


フェルミナは心臓を押さえた。

押しても何も変わらないが、とりあえず押していた。


一方のゼンは、淡々と調理の下準備に入っていた。



井戸から汲んできた水を桶に注ぎ、

さらりとした白米を手で洗い、

軽く研ぎながら不純物を取り除く。


「今日は……山菜と川魚の味噌汁だな。あとは……漬物を切らないと」


独り言の声は低く、無駄な装飾がひとつもない。

けれどなぜか、その響きが妙な安心感を与える。


(ゼン様……朝に独り言を言ってる……とおと……)


尊い、の語尾が飲み込まれた。

声に出したら自分の精神が死ぬ。


ゼンは味噌の樽を確認し、木蓋を開ける。

中からは香ばしい匂いが立ち上り、土間にふわりと広がった。


それから乾燥した山菜を戻し、丁寧に切り分ける。

魚を捌く音は包丁の刃が骨の節を捉える鋭い音と、滑らかな身を切る柔らかい音が交互に響き──


(……なんであんなに手際がいいの……!

 ねぇ誰この人、もしかして本職料理人……?)


フェルミナの呼吸はすでに不整だった。


クレアはというとフェルミナの横で腕を組み、

「……ミナ様、そろそろ話しかけるタイミングを探した方が」と促す。


「……そう、よね。今日のわたしは違う……“働かせてください”って、ちゃんと言わなきゃ……」


フェルミナは両手を握りしめ、

「住み込みで働かせてください」

という台詞を心の中で何度もリハーサルした。


(落ち着いて……自然に……明るく……堂々と……!)


深呼吸をして、一歩踏み出す。


だが、その一歩のタイミングが悪かった。


「ぴゃっ……!」


土間のわずかな段差につまづき、

フェルミナは「ぴゃっ」という謎の声をあげて前方へ転がり込む。


ゴロン。


ゼン「……?」


フェルミナ「…………」


ゼンは包丁を置き、ゆっくり振り返る。

視線の先には、転がったまま硬直するフェルミナ。


沈黙。

長い、長い沈黙。


クレアは額を押さえた。


ゼン「……どうした。そんなところで」


フェルミナ「は、はいぃぃっ……おはようございます……っ!!」


声が裏返った。


ゼンは眉を僅かに寄せ、しかし怒るでも呆れるでもなく、ただ静かに問いかけた。


「……大丈夫か?」


フェルミナ「違っ……これは、その……偶然の……地の……揺れ……?」


「地震の気配はなさそうだが」


「で、ですよねぇ~~~~!!」


(ちがう、こんなはずじゃない……!!)


フェルミナは慌てて立ち上がり、手の甲で服についた埃を払う。


(今よ……! 言うのよ……! フェルミナ……言うの……!!!)


心の奥で誰かが太鼓を打ち鳴らしている。


ドン、ドンドドン、ドドンドンドンドン。


深呼吸。目を閉じる。勇気を寄せ集める。


そして――


「ゼン様!! そのっ……!!」


ゼン「……?」


完全に動作が止まったゼンの横顔に朝の光が差し込み、神々しいまでに輪郭を縁取った。


(う、うぅ……緊張する……けど……言うんだ……!)


フェルミナは両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、とうとう覚悟を決めてはっきりと声に出した。


「――わたしを! 住み込みで働かせてください!!」


その声は、霧の朝に吸い込まれるように響いた。


ゼンの手が止まる。

包丁の刃に残った山菜の水滴が、ぽたり、と落ちた。


ゼン「…………………………」


クレアはゆっくりと顔を覆った。


フェルミナは真っ赤になりながらも姿勢を崩さず、震える声で続けた。


「し、資格とか経験は……その……えっと、皆無なんですけどっ……!

でも、本気で頑張ります!! だから……だから……!!」


ゼンは深く息をついた。

困惑と驚きと、どこか遠い諦めを混ぜ合わせたような――そんな表情。


「……どういうことだ?」


フェルミナは「ひゃいっ」と声を上げた。



………………………………


…………………


………



誰も言葉を発しない数秒。


その沈黙に、フェルミナの胸は早鐘のように打ち鳴っていた。


(……しまった!? 空気、おかしくなってない!?)


(え、今のタイミングじゃなかった!? でも、でももう言っちゃったし!!)


内心でパニックが暴れていたが、彼女は必死で表情を取り繕う。


「……住み込み?」


ゼンが繰り返す。その声はまるで遠い世界の言葉を聞いたような、混乱と現実逃避の狭間にある。


「はい!!住み込みバイトですッッ!!!」


言った。出た。もう戻れない。


フェルミナは両拳を握ったまま、今一度言葉を口に出し切った。

心臓が跳ねる。顔が燃える。膝が震える。


ゼンは、しばらく沈黙した。


そして眉をほんの少しだけ寄せながら、短く言った。


「……えーっと、どういう…」


完全に“状況を理解できていない人の声”だった。


フェルミナは慌てて補足をつける。


「えっと! あの! つまり!!

働きながら生活もこちらでさせていただく……っていう、その……住み込みで!!」


ゼン「いや意味は分かる。分かるけど……なんでだ?」


フェルミナ「なんで、って……そ、それは……わ、わたしが……!」


言葉が詰まる。

理由はある。しかし言えない。


(政略結婚から逃げてきました!)

……なんて言えるはずがない。


焦っているフェルミナの横で、クレアがすっと前に出た。


「ミナ様は、滞在中……何かしらの“居場所”を得たいと考えておられます。

身分を理由に甘えるつもりはなく、働きながら暮らしたい、というお気持ちは本物です」


その言葉は相変わらず絶妙なフォローだった。


ゼンは腕を組み、静かに二人を見比べた。


「働きながら……? 王女が?」


「はいっ!!」


勢いだけは誰にも負けない声が飛んだ。


ゼンは眉間に手を当てた。


「……いや。無理だろ」


「むっ……むり……?」


フェルミナの顔がしゅわっとしぼむ。


しかしゼンは容赦ない。というか容赦のしようがない。


「まずあなたは“王女”だ。国を代表する立場の人間だ。

そんな人間が山の中の一介の食堂で“働く”なんて、冗談にすらならない」


ゼンの言葉が、現実の重みを持って響く。


「あなたがここで働き出したって情報が外に漏れたらどうなると思う?

帝都は混乱するし、宮廷も黙っていない。他国にとっては外交問題だ」


「わ、わたしはただ、静かに……」


「無理だ」


ゼンはきっぱりと断言した。


「フェルミナ王女。あなたの存在はそれだけで“政治”なんだ。

たとえこっちが気にしなくても、周囲が放っておくわけがない」


フェルミナは言葉を失った。



(……そんなの、わかってるよ……)



ゼンの口から出た「政治」という一語が、まるで錆びた刃物のように胸の奥をひりつかせた。


“わたしの存在は、それだけで政治”――


それはずっと逃れられなかった現実だ。

王宮で生まれ、王女として育ち、常に誰かの視線と期待を背負いながら生きてきた。

どんな笑顔もどんな言葉も、“王女フェルミナ”としての意味が付与される。

私的な感情すら、常に“公的な価値”に変換される。

それが“立場”というものだと、嫌というほど教えられてきた。


彼女はうつむき、膝の上の拳をぎゅっと握りしめた。


(だからこそ、ここに来たんだよ……)


逃げ出すようにして飛び込んできた、この灰庵亭。

王女という肩書きを脱ぎ捨て、“ただの一人の人間”として誰かと向き合える、そんな場所がこの世のどこかにあるとしたら――それは、ここしかないと思った。


けれど。


それでも。


ゼンの言葉は、容赦なく現実を突きつけてくる。


「あなたの存在は、それだけで“政治”なんだ」


それは、フェルミナが一番聞きたくなかった言葉だった。

同時に、一番自分でわかっていたことでもあった。


「……」


口を開こうとして何も言えなかった。

弁明も反論も、慰めの言葉も出てこない。

何を言っても、彼の“正しさ”を覆すことはできないとわかっていたから。


(……わたしは、誰かと同じように暮らすことすら許されないの……?)


心の中にじわりと苦い感情が広がっていく。


王宮では誰かが手配した服を着て、誰かが整えた食事を食べて、誰かが作った予定に従って動く。

自分の一挙一動が「国家の評判」や「外交の駒」として取り扱われる。

そんな生き方に疑問を持ったことは何度もあった。

けれど逃げ出す勇気を持ったのは、ほんの少し前のことだった。


(ここでなら……ここでならわたし、普通の生活ができるって……)



ゼンはため息をつくと、指を一本立てた。


「第一に、王女を“住み込みで働かせる”とかどう考えても不自然だろ。

外聞が悪いとかそういう問題じゃなくて、お前自身が危険だ」


ぐっ……と胸に刺さる。


だがゼンは続ける。


「第二に……仕事って、そんな軽いもんじゃねぇんだぞ?」


淡々とした声音なのに、やけに重い。


「皿洗いひとつにしたって、人の生活がかかってる。

ミスすれば客に迷惑がかかるし、下手すりゃ怪我だってする」


フェルミナは唇をかんだ。


「第三に……ここは山だ。家事だって薪割りだって、雪の日は雪かきもある。

住み込みってことは、その生活全部にお前が関わるってことになる」


淡々と言われる“現実”。


「王宮みたいに誰かが先回りして準備してくれる世界じゃない。

全部自分でやるんだ」


その言葉に、フェルミナは心臓をぎゅうっと掴まれたような気持ちになった。


(……そんなこと、分かってる……!)


だがゼンはまだ続ける。


「第四に。

『住み込み』ってのは、雇う側にも責任が生まれるんだぞ?」


責任。

その言葉は、山の朝の空気よりも重く沈んだ。


「あなたが怪我をしたら、あなたが帰れなくなったら、俺の責任だ。

王宮に戻れない状況ができたら……俺がどうなるか分かるか?」


フェルミナの喉が詰まった。


分かるはずだ。

ゼンは帝国の元・象徴のひとつだ。

そこに“第七王女を匿っている”なんて噂が流れたら、周りの国や政治がどう動くか。


「だから無理だ。却下」


あまりにも当たり前で、あまりにも正しい言葉だった。


フェルミナはストンと肩を落とす。


「……そ、そんなぁ……」


涙が滲む。


(そう……そうだよね……住み込みなんて……王女が……)


分かっていた。

最初から無理だって。

けれど……それでも。


ゼンは静かに続けた。


「……そもそも『働きたい』って言うが」


「……っ」


「“仕事”の意味は本当に分かっているのか?」


真正面から問われる。


逃げ場のない質問だった。


フェルミナはすぐには答えられなかった。

胸の奥で、ごく小さく行き場のない感情が揺れた。


しかし――

そのとき、クレアが静かに口を開いた。


「……ゼン様」


ゼン「ん?」


「ミナ様にとって“仕事”は役割ではありません。

“居場所”です」


ゼンの表情がわずかに揺れた。


クレアは続ける。


「王宮では、立場がすべてを決めます。

どこに立つか、どう振る舞うか、誰と話すか……全てが役割で縛られる。

でも……ここにはそれがありません」


ゼンは黙って聞いていた。


クレアの声音は淡々としているが……

その奥に、信頼と願いが滲んでいた。


「ミナ様は、この場所で……

“誰でもない自分”として立ってみたかったんです」


フェルミナの胸がきゅっとなった。


それはフェルミナが言えなかった“真実”だった。


ゼンは視線を落とし、一瞬だけ思考に沈んだ。


土間の竈から、ぱち、と火の音がする。


その音すら、やけに大きく聞こえる沈黙。


フェルミナは息を呑んだまま、ゼンの返事を待つ。


(ゼン様……お願い……)


しかし――

ゼンは長く息を吐くと、軽く首を振った。


「……気持ちは分かった。分かったけどな」


顔を上げる。


その瞳は優しいのに、決意の色があった。


「それでも、住み込みは無理だ。絶対に」


フェルミナの肩がピクリと震えた。


ゼンはその理由をひとつずつ、はっきりと並べた。


「・王女を預かるには責任が重すぎる

 ・お前はまだ旅の疲れも抜けてない

 ・昨日の様子を見たら、仕事どころか怪我しそう

 ・王宮が動く前に一度“状況整理”をする必要がある

 ・そもそも俺の家は住み込みを想定して作ってない」


どれも正しい。

どれも否定できない。


だからこそ、胸に刺さる。


「……だから、一回落ち着け。

働くにしても、まずは外の準備を整えてからだ」


フェルミナは……小さく震えた。


(…………やだ)


喉の奥がきゅうっと締まる。


(……帰りたくない……ここから離れたくない……)


涙が今にもこぼれそうだった。


ゼンは続ける。


「焦らなくてもいい。

ここに滞在するのは構わないから、まずは休め。

話はそれからだ」


優しい。

とても優しい言葉だった。


けれどフェルミナの胸には、別の感情が渦巻いていた。


(……“滞在するだけ”なんて……そんなの……)


そんなの――足りない。


もっとゼンのそばにいたい。

もっと“日常”を一緒に過ごしたい。

ただの客じゃなくて、ここに立っていたい。


フェルミナは拳を握った。

涙をこらえながら、必死に言葉を探す。


(どうすれば……どうすれば……ゼン様の隣にいられるの……?)


その答えはまだ見つからない。


だが――

彼女は諦めなかった。


ここから、本当の“説得”が始まる。





ゼンの「絶対に無理」の一言は、山の空気よりも冷たく落ちた。

パチッ……と竈の火が弾け、沈黙に赤い火花が散る。


フェルミナは唇をぎゅっと噛んだ。

その肩は小さく震えている。


(……こんなところで諦められるわけない……!)


胸の奥から、熱いなにかがこみ上げる。

恐怖でも羞恥でもない。


もっと単純で、もっと純粋で――

“ゼンのそばにいたい”という、抑えきれない気持ち。


そして、フェルミナは顔をあげた。


「……ゼン様!」


「ん?」


「せ、せめて……っ、せめて考えていただくことは……!」


「考えなくても分かる。無理だ」


バッサリである。刃物か? というくらいスパッと切られた。


しかしフェルミナは食い下がった。


「で、でも! わたし、ここで……っ、働きたいんです!」


「働きたい気持ちは聞いた。でも危険は危険だろ」


「そこは! がんばります!!」


「いやがんばりで何とかならない部分のほうが多いんだって」


「が、がんばりでなんとかします!!」


「話聞いてねぇな?」


フェルミナは涙目になりながらも、前に一歩ずずいっと詰め寄った。


「が、頑張るので!! どうか!!」


「頑張るのは分かったって。その上で無理だって言ってんだろ」


「どうしてですか!!?」


ゼンは頭を抱えた。


「どうしてって……さっきの話を一語一句繰り返そうか?」


「うっ……!!」


フェルミナの心臓がキュッと縮んだが、すぐに胸を叩いて反撃。


「で、でも…………!」


「でもじゃない」


「わ、わたしだって王女の前に1人の人間です!!」


「それはそうだが……」


そして――フェルミナはとうとう必殺技を繰り出した。


両手を胸の前でぎゅっと握り、うるうると瞳を揺らしながら叫ぶ。


「お願いしますっ……!!

できることなら何でもしますっ……!!!」


「いやその“何でも”ってワードを軽々しく言うなよ!?!?」


「なんでもじゃないと気持ちが伝わらなくて……!!」


「伝わるけど!! 伝わるけど!! ダメなもんはダメ!!」


完全に押し問答だった。


二人の声が厨房に反響し、竈の火がぱちぱちと相槌を打つ。


その横で、クレアだけが完全に“いつもの冷静なクレア”だった。

腕を組み、二人のやり取りを見つめ、少し考え込むように目を細めている。


そして――彼女はゆっくり口を開いた。


「……団長」


「なんだ。今度はクレアが何か無理を言う番か?」


「無理ではありません。ただ……一つ、思いついた方法があります」


ゼンは怪訝な目を向ける。


フェルミナは「え? なに?」と希望の光を浮かべた顔で身を乗り出した。


クレアは淡々と告げる。


「――“立ち合い”を、お願いできますか」


フェルミナ「……え?」


ゼン「はぁ?」


問いかけたのはクレアだった。


食後の囲炉裏の前、静まり返った空気の中で、彼女はあまりに平然とそう言った。


「かつて隊の中で行われていた“竜骨演舞”を、今ここで行いたいと願います……覚えておられますか?」


ゼンは目を細め、腕を組んだ。


「……あれを? でもあれは、軍事訓練の一環だったはずだろ。なんで今?」


「“戦い”ではありません。“力”を証明するためです」


クレアは遮るように言った。


「竜骨演舞は、互いの力を封じた状態で“技術”と“冷静さ”を試すもの。感情に呑まれず、一点を見極める戦型です。……今の私と団長なら、形として成立すると思います」


「……それは否定しないが。なんのためにやる?」


「フェルミナ様の“覚悟”を、言葉ではなく証として見せるためです」


「なんだと…?」


フェルミナが思わず声を上げた。


「ちょ、ちょっと待ってクレア!? わたしが戦うって話じゃないよね!?」


「違います。ですが、ミナ様の想いを“形”にするためには、行動による表現が必要だと考えました。……ですから私が、代理としてその責を負います」


「だ、代理って……?」


クレアは振り返り、フェルミナに目を向ける。


「ミナ様がここで“共に生きる”ことを望むならば、言葉ではなく“覚悟”を示すべきです。しかし、貴女は武を学んでいない。だからこそ、私が代理として立ちます」


「待て待て。お前正気か? お前が戦って、一体何の証明になる?」


「私はフェルミナ様の“従者”です。そして、従者は主の意志を体現する存在です」


クレアの言葉には一切の揺らぎがなかった。


「……なるほどな」


ゼンはこめかみを押さえたまま、唸るように言った。


「じゃあ聞くが、どういう条件だ? 勝てば何を得るつもりだ」


「一本です。私が団長から明確に一本を取れたなら、ミナ様をこの庵で“試用期間付きの職員”として受け入れてください」


「…………」


一瞬、囲炉裏の火が音を立てた。


「……一本、ね」



“一本”。



その言葉を、彼の前で軽々しく口にできる者はまずいない。

模擬戦、訓練、実戦、あらゆる局面において、ゼン・アルヴァリードに対してそれを宣言すること――それ自体がひとつの覚悟であり、挑発であり、紛れもない“挑戦”だった。


ゼン・アルヴァリード――「蒼竜剣士」の名を欲しいままにし、騎士団創設以来の“最強剣士”と呼ばれた男。

国家最上級の戦略戦闘技能を有し、実戦での生還率はほぼ100%。その剣筋は一瞬の虚もなく、たとえ同格の将軍格が三人かかっても一本取れたかは疑わしい。


その彼から“一本”を取る。


それは、ただ勝負に勝つという意味ではない。

「決定的な一撃」を、明確に彼の技術と意志の“隙”に突き刺すということだ。


そもそも竜骨演舞りゅうこつえんぶは、古くは王家直属の近衛剣士が“戦争を想定した様々な陣形の中での決断力と理性”を計るために行っていた戦型だ。

魔力封印、補助具なし、殺気の制御義務付きという厳しいルールの下、相手の“動きの先”を読み、冷静さと意志で“意図を折る”ことが目的とされる。


要するに、どれだけ鍛えた者でも――感情や予測が乱れればそれだけで命取りの隙となる。


そしてクレアは、そのゼンの下で育った“直弟子”であり、卓越した技と精神を受け継ぐものでもある。


だが彼に育てられたからといって、その差が埋まるわけではない。


彼女がゼンの隊にいた頃――クレア・ヴァルネリオはまだ“若き精鋭”にすぎず、その技は鋭いが粗さもあった。

剣の速度、見切り、構えの堅牢さ――あらゆる面でゼンとの差は歴然で、訓練でも一本を取れた記憶はない。


まして今のゼンは戦を退いたとはいえ、灰庵亭という生活の中で“戦士としての研ぎ澄まし方”を自然と維持している。

毎朝の薪割り、野生動物との間合い、生活の中に剣が溶け込んでいるその姿は、単なる元軍人などとは一線を画す。


だからこそクレアの提案は――非常に無謀で、同時に極めて“異例”の挑戦だった。



「ま、待ってください! それって……クレアがゼン様と戦うってことで……!?」


「はい」


その返事は、まるで「お茶を淹れてきます」と言うかのように軽やかだった。


「全力で挑ませていただきます。結果はどうあれ、誠意と覚悟をもって受けていただきたい」


「いや、そもそも俺にとっては“身内のごっこ遊び”にしか見えねぇんだが」


「身内の“戯れ”で団長に一本取れると思っていただけるなら、むしろ光栄です」


「ク、クレア……! でもッ……!」


「大丈夫です。私は、ゼン様の弟子として剣を学びました。その剣で、ミナ様の居場所を切り拓けるなら本望です」


その真っ直ぐな目に、フェルミナは何も言えなかった。


ゼンはしばらく口をつぐんだ後、天井を見上げ、大きく息を吐いた。


「……ほんと、お前ら面倒くさいな」


二人は黙っていた。


「断っても絶対引かないんだろう?」


「ええ」


ゼンは頭をかいた後、囲炉裏の向こうに立ち上がる。


「ったく、分かったよ。そこまで言うなら受けてやる。……ただし、全力でやる。容赦はしない」


「望むところです」


フェルミナは立ち上がり、口元を手で覆った。


「クレア、本当に……?」


「ええ。安心してください。私が、貴女の言葉を証明します」


ゼンは少しだけ眉をひそめながら、クレアを見た。


「一本でも取れたら、フェルミナをここで働かせる。それでいいな?」


「はい。それで構いません」


「じゃあ、取れなかったら?」


クレアは静かに言った。


「そのときは潔く引きます。……ミナ様には、別の道を探していただきます」


「……っ」


その言葉の重みに、フェルミナの胸がきゅっと締めつけられた。


でも、クレアの背はまっすぐだった。

いつもと同じ、静かでぶれない佇まい。


ゼンはしばらくその姿を見つめていたが――


「……なら、すぐに準備しろ。外の石畳、いつでも使えるようになってる」


「了解しました」


クレアはその場で軽く膝を折り、フェルミナに一礼した。


「少しの間、失礼します。……ミナ様の未来、預かってまいります」


「クレア……っ、ありがとう……!」


その声が背を押すように響いた。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



竜骨演舞りゅうこつえんぶ


― 蒼竜騎士団における基礎戦技訓練の儀 ―




【概略】


「竜骨演舞」は、蒼竜騎士団において長年伝承されてきた基礎戦技訓練法であり、単なる模擬戦ではなく、精神・判断・技術の三要素を総合的に測るための儀式的試技である。

この演舞は、“戦う技術”ではなく、“生き延びる技術”を測ることを目的としており、実戦経験の有無を問わず、あらゆる階級・立場の者に対して等しく適用される。


“竜の骨のごとく、折れず曲がらぬ意志と構え”を持つことから、この名がついた。




【目的】


・戦闘訓練における基礎体力や腕力の差を排し、技術・判断力・冷静さに重点を置いて評価する

・過度な戦意や感情による判断ミスを排除し、“静かな戦い”の中で真の実力を引き出す

・無駄のない動作、無理のない間合い、そして一撃の精度を極限まで高める鍛錬として機能する




【基本ルール】


1. 武器の制限

両者は自身の得物を封印し、用いるのは木刀のみとする(長さは統一規格の模擬刀を使用)。

刀の重みや長さは実戦用に近いが、刃は無く、打撃力を抑制する安全加工が施されている。


2. 防具の制限

原則として軽装・非武装状態での立ち合いが義務付けられている。

唯一、手首や膝、喉元などの“急所防御布”のみ許可されている(簡易防護具)。


3. 勝敗条件

勝敗を決するのは、“一本”。

これは明確な有効打であり、以下の条件のいずれかを満たしたときのみ認定される。

 - 身体の急所(肩・首・胴体中心線)に的確に当てた打撃

 - 相手の体勢・武器を完全に封じた上での寸止め

 - 意識や動作に明確な“優位支配”が発生した場合の判定(審判もしくは対戦者自身の自己認定)


4. 演舞の持続時間

制限時間は存在しない。一本が取られるまで続行される。

ただし、互いに“戦意の欠如”や“身体の異常”が見られた場合、審判役(第三者)が中断を指示できる。


5. 使用禁止事項

 - 魔導(魔力干渉・術式含む)の使用一切禁止

 - 足払い・投げ技・組技などの意図的な肉体接触による崩しは禁止

 - 挑発・罵倒・叫び等、精神干渉行為も厳禁




【特徴と思想】


・静の戦技

竜骨演舞は「静」の美学に基づいており、激しい打ち合いを良しとしない。

対峙したとき、まず“動かないこと”にこそ意味があるとされる。

如何に相手の動きを読み、いかに己の“間”を作るかが勝敗を分ける。


・呼吸と体重移動の読み合い

一瞬の踏み込み、一手の構えの崩し――

そうした“目に見えない戦技”が最も重視され、しばしば演舞の半分以上が“動かないまま”終わることすらある。


・勝敗よりも“動機”の問答

演舞の本質は“試合に勝つ”ことではない。

なぜこの一撃を振るうのか、自分はどこに立っているのか、心構えを試す儀である。

そのため、たとえ一本を奪われたとしても、精神が揺らがなければ“敗北ではない”とされる。




【実施時の形式】


・対面距離:正面一間(約2.5m)を基本として開戦

・始式:「目礼」→「木刀提示」→「構え確認」→「開始合図」

・終式:「木刀納め」→「目礼」→「結果の言葉」


※勝者・敗者は互いに“口にせず”、演舞の終了をもって暗黙的に認識する。




【評価項目(訓練時の場合)】


[項目/内容]

□ 姿勢の安定性 / 始終ぶれのない重心維持ができているか

□ 判断の速さ / 相手の動きへの反応と選択の的確さ

□ 無駄のなさ / 一撃ごとの動きに“意図”があるか

□ 精神の静穏 / 過度な感情表現や焦りがないか

□ 終始の礼儀 / 整った所作・所定の手順の理解




【特記事項】


・歴代団長や高位将校の演舞記録は正式に文書化され、蒼竜騎士団本営の記録庫に保管されている。

・一部の戦士は“演舞で得た一本”によって将来を大きく変えた者もおり、実力よりも精神性の証明として高い評価を受けるケースが存在する。

・対ゼン演舞はかつて新兵にとって“試練中の試練”とされ、ゼンが一本を許したのは歴代で数回のみと言われている。




【灰庵亭における実施】


現在、蒼竜騎士団を離れたゼンが暮らす「灰庵亭」において、非公式ながらこの“竜骨演舞”が再び行われようとしている。


ただの形式ではなく――

“誰かの覚悟を証明するための戦い”として。


それはかつて戦場を駆けた剣士たちにとって、最も純粋で最も美しい対話の形式である。


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