第106話 作戦会議
山の呼吸は、まだ眠りと目覚めの境にあった。
谷底から立ち上る薄い霧はまるで地面と空とを繋ぎとめる白い紐のように漂いながら、ゆっくりと輪郭をほどいていく。
その輪郭を縁取るようにして斜面の草木は露を湛えていた。しっとりと濡れた葉がそよぎながら微かな揺れを繰り返すたび、木々の葉先から滑り落ちた水の粒が陽の光を受けてきらりと光を放つ。まるでこの世界に点在する小さな星が、地表に降りてきては消えていくかのように。
谷を満たす空気は澄んでいて、どこか凛としていた。鼻腔を抜け、喉を撫で、胸の奥にまでしみ込んでくるような冷たさ。けれどそれはただ冷たいだけのものではない。肌に触れたときほんのかすかに——、霜をかじる前の草の甘さと樹皮に残る秋の香りが、日向で乾いた枯葉の微香とともに混ざり合って感じられる。ひと呼吸ごとに、“山そのもの”が体の内へ流れ込んでくるような感覚だった。
音はほとんどなかった。遠くから聞こえてくるのは、岩肌をつたう細い水流の音と、小鳥が一羽、枝を踏むかすかな音だけ。人の営みがまだ眠っている場所では自然の声だけが静かに、けれど確かに響いていた。
木立の間から射す光は細く、まるで織り針のようだった。
一本、また一本と、金糸のように地面に降りてくるそれらは霧の帳を刺繍するかのように入り込み、触れた空気をゆるやかに色づけていく。光が濃くなったところから順に地面の草が輪郭を取り戻し、土の色が顔を出していく。
その様はまるで、見えない誰かが山の眠りを丁寧に解いているようだった。
灰庵亭の屋根にはすでに数本の光が届いていた。
濃い木の板に反射する光はやわらかく、時間の感覚をわずかに緩ませる。
それでも風だけはまだ、秋の記憶を手放していなかった。
高い稜線を越えて吹き下ろしてくる風が時折頬を撫でていくたび、指先の熱がほんの少しだけ奪われていく。
温もりと冷たさが入り混じる感覚は、この地にしかない季節の入り口を思わせた。
境界――そんな言葉が、ふと頭に浮かぶ。
季節と季節、夜と昼、眠りと目覚め、そのどれの端にもまだ完全には傾かず、けれど確実に歩みを進めている場所。
この山の空気には、そうした「揺らぎの瞬間」が溶け込んでいるように思えた。
ふと足元の石畳を踏みしめると、革靴の裏に残っていた朝露がぴしりと音を立てた。
その音はやけに鮮明で、まるで周囲の静けさにひとしずくの水を落としたようだった。
そして自分の体が確かにこの場所に存在していることを、ほんのわずかに教えてくれた。
そんな凛とした朝の空気の中――
「さむっ……ぴゃっ……」
フェルミナは半ば震えながら縁側に座っていた。
寝起きの髪はふわふわ、頬は赤く、口元に寝言の名残りらしきものがある。
側ではクレアが淡々と朝の鍛錬を行っている。
息を切らすことなく影走りからの体捌きを繰り返しており、冷気を吸っても凛としていた。
クレアは冷気の中にあってなお、動作のひとつひとつに迷いがなかった。影を滑らせるように走りながら瞬時に踏み替え、刃を握らぬ両手で空を斬る。流れるようなその動きは無音に近く、それでいて確実に大気を割っていた。
その鍛錬は見せるためのものではない。誰にも見られずとも、誰に評価されずとも続けてきた習慣だ。
目を閉じたままでも最短の間合いが測れるように。呼吸の乱れを一手に抑え、敵の気配と風の流れを一瞬で区別できるように。
ゼンの下で過ごしていた軍属時代から変わらず続けている――いわば“日常”の一部だった。
朝の冷気が首筋を撫でようとも関節は冷えきらず、むしろ緻密な体温管理と筋肉の覚醒で、彼女の動きは一層冴えを増していた。
鍛錬と気配遮断、感覚調整、柔体術の確認。それらを一連の流れで反復し、彼女は何度も地を蹴る。
気配を断つ。力を抜く。重心を溶かす。
その姿はまるで、朝霧に紛れる影そのものだった。
それと比べフェルミナは完全に動けていない。
寒さと昨夜の夢の余韻が、まだ彼女の思考をくすぐっていた。
(……夢、夢だよね。ゼン様がエプロンしてて、子どもがいて……あああぁぁぁ!!)
全身がほんのり熱くなる。
「ミナ様、顔が赤いですが寒さのせいではなさそうですね」
「ち、ちが……っ! これは、その、朝日が眩しくて……!」
「……朝日はまだ出ていませんよ。山陰です」
「~~~~ッ!!」
クレアは本当に容赦ない。
フェルミナは毛布を引き寄せながら、くしゅん、と小さなくしゃみをした。
するとクレアが腰に手を当てて言う。
「ミナ様。まずは、暖まる努力をしてください。今のままではすぐに風邪を引いてしまいますよ?」
「ぐっ……。わ、わかってます……」
その言い方すら優しいから腹が立つ。
しかしフェルミナはそれどころではなかった。
昨夜のゼンとの会話――
そして自分の決意の残滓が、胸の中でずっとぐるぐるしていた。
(……ここに……いたい)
改めて思う。
王宮に戻れば、自分の時間はなくなる。
期待と責任が押し寄せて、「フェルミナ」という少女がどこへ消えるかわからない。
ここ――
灰庵亭の、静かで不器用なくらいに優しい空気の中でフェルミナは初めて“息をしている実感”を覚えた。
(できることなら……もっと、もっと近くにいたい……)
けれど。
(……理由が、ない……!)
王女が理由不明で山に居座るなんて、あまりにも都合が悪い。
ゼンだって困惑するだろう。
(どうにかして……正当な理由を……!)
フェルミナは立ち上がり、決意の表情でクレアに向き直った。
「クレア! 作戦会議を開きましょう!」
彼女は(……朝から何を言っているんでしょう、この人は)という顔で驚きつつも、真面目なトーンで尋ね返す。
「……作戦会議、ですか。対象は何でしょう。野獣の出没、あるいは周辺警戒の更新?」
「違うの、違うのよ……! 本気なの! ここに残る方法を考えたいの!」
クレアは表情を変えなかったが、ほんの一瞬だけ思案するようにまつげが揺れた。
「……ここに残る、というのは――ゼン様の負担にならない形で?」
「もちろん! そこは絶対!」
「……では、お聞きしますが。ミナ様は、何か特別な“理由”を用意できるのですか?」
その問いに、フェルミナはきゅっと拳を握った。
「理由は……いま探すの!」
「……はあ。」
呆れた呼吸をこぼしながらも、クレアは隣に座った。
二人は縁側で並び、膝掛けを分け合いながら“秘密作戦会議”を開始した。
▶ 作戦会議:第一案(却下)
フェルミナ「まず……“修行の旅”という名目とか?」
クレア「昨夜使った嘘ですね。……もうバレています」
「えぇぇ……!?」
「そもそもゼン様の目を誤魔化すのは不可能です。彼は“沈黙で理解する”タイプです」
(かっこいいけど、今は不便!!)
▶ 第二案(即却下)
フェルミナ「じゃ、じゃあ……“ゼン様の弟子になる”! どう!? ほら、剣とか……!」
クレア「やめておいた方がいいですね」
「なんで!?」
「ゼン様は戦いをやめた身です。弟子など取るはずがありません。それに――」
「それに?」
「……ミナ様には剣は、向いてないと思います」
「ぐふっ……!」
心が刺された。
▶ 第三案(方向性迷子)
フェルミナ「じゃあ、結婚……」
クレア「却下です」
「まだ言い終わってない!」
「言わなくてもわかります。却下です」
フェルミナは地団駄を踏んだ。
「夢の中では息子もできてたのに……!」
「夢の話を現実に持ち込まないでください」
▶ 第四案 (よくわからない)
フェルミナ「あっ、じゃあ……“宗教的修行の場としての山郷調査”!」
クレア「適当に言っていますよね?」
「えっ!? わかるの!?」
「わかります」
▶ そして、決定打
フェルミナ「もう……どうしよう……理由が……」
と、そこへ――バサ、と店の裏口が開く音。
朝の支度をしていたゼンが、薪を腕に抱えて姿を見せた。
「ああ、起きていたのか。……二人とも、朝から何をしてる」
その一言。
何気ない、ただの挨拶。
だが――
フェルミナは雷に打たれたように立ち上がった。
(そうだ……! ゼン様は今、人手が足りてないって……昨日、厨房で言ってた……!
皿洗いも、仕込みも、全部ひとりで……!)
そこからの思考は早かった。
(だったら――
“働く”という理由で、ここに残ればいいんだ……!)
フェルミナは跳ねるようにクレアを振り返った。
「クレア! 決まったわ!」
「……嫌な予感しかしませんが、一応聞きます」
「“住み込みのバイト”よ!!!!!」
クレア「…………」
フェルミナ「どう!? 働くのよ! わたしが! 給料は……し、少しでいいし……!
そのかわり住まわせてもらって……!」
クレアの眉がぴくりと動いた。
「ミナ様……あなた、王女ですよね?」
「ここでは関係ないわ!」
「いえ、関係あります……が……」
クレアはため息をつき、しかし口元にほんの少し笑みを浮かべた。
「……でも。団長の性格なら、“理由としては成立する”かもしれませんね」
「でしょおぉぉぉ!?!?」
「ただし、働く以上は本当に働くことになりますよ。逃げ出せません」
「覚悟はあるわ!!」
「皿十枚どころでは済みませんよ?」
「壊れる皿を最初から減らす努力をするわ……!」
ある意味前向きなのか、悲壮なのか、判断の難しい宣言だった。
しかし――
“住み込みで働く”
それは王女であるフェルミナが唯一、“自分の意思で選べる未来”だった。
▶ こうして、最初の大決断がくだった。
フェルミナは胸に手をあて、大きく深呼吸する。
(……よし……よし……!
これが、わたしの……最初の一歩……!)
クレアは小さく肩をすくめた。
「……では、まずは団長に正面から申し込むことからですね」
「はいっ! 覚悟を決めて……ちゃんとお願いするわ!」
――フェルミナの“灰庵亭生活”は、ここから本格的に始まろうとしていた。




