第104話 ……ふぅぅぅ………………しあわせ
風呂棟の脱衣所には、ふわりと檜の甘い香りが満ちていた。
それはまるで森の奥で静かに息づいている木々がそっと耳元で「ようこそ」と囁くような、柔らかく、深い香気だった。
どこか懐かしくてどこか心を撫でるような――都会の大浴場や宮廷の香油風呂では決して味わえない、自然の中の“香り”。
フェルミナは棚の前に立ち、じりじりと緊張しながらマントを肩から外す。
(……あ、あのゼン様が近くにいる状態での入浴って、これ、どう考えても一大事どころか“事件”じゃない……!?)
一枚、また一枚と衣を脱ぐたびに、外から微かに薪の爆ぜる音が響いてくる。
ぱち……ぱちっ……と、乾いた木が炎に弾ける音――
その音が、ゼンが今もこの風呂棟のすぐ裏、焚き釜の火を見ているという事実を――確実に伝えてくる。
(……いや、落ち着けわたし。ゼン様はあくまで火の番。風呂の中をのぞくなんて野暮なことは絶対しないし、っていうか、そもそも覗かれたくないし!いやでもちょっとだけこう――)
「――はっ!!」
自分の思考が際どい方向に向かいそうになり、フェルミナは頬をぱんと両手で叩く。
その音が木壁にこだまし、脱衣所の静けさに無駄に響いた。
(ち、ちがう! 今日の私は“ただのお客様”! 貴族でもなく、王女でもなく、“灰庵亭に来た普通の女の子”なんだから……!)
意を決して最後の衣を脱ぎ、籠の中にそっと収める。
身を包む空気が秋の冷気を帯びていて、すっと背筋が伸びた。
「……さむっ……!」
思わず小声が漏れる。
がらり、と木戸を開けて洗身場に踏み出すと、目の前に広がったのは湯気と静寂に満ちた異空間だった。
柔らかな霧のような湯気が、夜の冷気とぶつかってふわりと舞い上がる。
足元の石はほんのりと温かく、まるで地面そのものが「おかえり」と迎えてくれるようだった。
魔導燈の淡い光が、床に敷き詰められた岩や湯船の縁を照らし出している。
湯船は檜でできた長方形の木槽。表面には湯気の粒がこぼれ落ち、静かにきらめいていた。
その香り――
山草と檜が混じり合った、少し甘くて、少し苦くて、どこか“懐かしい”香りが空気と共に肺に満ちてくる。
「……ふぅぅぅ………………しあわせ…………」
お湯が肌にまとわりつき、冷えていた足の芯がじんわりと溶けていく。
肩まで浸かると、まるで忘れていた呼吸を身体が思い出していくような感覚がした。
(……なんだろう、この感じ……)
ふだんなら彼女が入る風呂は、宮廷の“水鏡殿”。
白大理石の床に、魔導炉で一定温度に保たれる大浴槽。
天井には光魔石が散りばめられ、夜でも昼のように明るい。
香油師が日替わりで調合する香草オイルが湯に満たされ、香りは季節ごとに変わる。
まるで儀式のように豪華で、完璧で、隙のない世界。
体を冷やさないように湯の温度が管理され、泡が上がれば侍女がすぐに掬い、湯気の流れすら“美しさの計算”に含まれていた。
けれど――。
(……どうしてだろう。全然、違う……)
胸の奥が静かに熱を帯びている。
宮廷の風呂よりずっと湯は熱くなく、深くもなく、広くもない。
香りだって多層的に調合されたものではない。
湯気が天井から規則正しく落ちてくるわけでも、肌に何か美容効果があるわけでもない。
ここはただの――小さな山小屋の、檜の湯船。
それなのに心地よさが桁違いだった。
(……これ、なんで……?)
フェルミナは湯の中で足を伸ばす。
小石を埋め込んだ床が足裏を軽く刺激し、思わず息が漏れた。
宮廷では決して感じることのない“温度の揺らぎ”がある。
湯をかき回せば熱いところとぬるいところがあって、身体のどの場所がどう温まっていくのか、その変化がそのまま感覚として伝わってくる。
(宮廷の風呂は……どこに浸かっても同じ温度だったな……)
その均一さは贅沢の象徴であり、だからこそ単調で、彼女はずっと“心が動く瞬間”を知らなかったのかもしれない。
それに比べて――。
「……はぁ……なんか……すごく、落ち着く……」
木の香りが湯気と混ざり、鼻をくすぐる。
湯船がきしむ音さえ、どこかあたたかくて心地よい。
宮廷の浴場は美しく整いすぎていて、“余白”がなかった。
侍女が控え、音が反響しないように設計され、湯気は魔導石の循環により一定に保たれる。
完璧さの中で、彼女は常に“王女としての姿勢”でいなければならなかった。
湯船に沈む肩の角度、髪の流し方、肌の状態――誰かの視線が必ずあった。
でもここには、それがない。
ぽちゃん、と湯をすくう小さな音が木壁に吸い込まれ、ほどけていく。
ただ自分が湯につかっている音しか存在しない。
(……こんなに“自由に浸かる”って感覚、初めてかも……)
自分が作った湯じゃなくても、誰かが管理してくれる湯じゃなくてもいい。
ただ、温かい。
ただ、落ち着く。
それだけで、こんなに胸が軽くなるなんて。
(……もしかして……わたし、ずっと……気づかなかっただけなのかな)
豪華さは確かに心を弾ませる。
だけど心を温めるのは――豪華さじゃないのかもしれない。
外では虫の声がしている。
りりりり……という秋のコオロギの声。
ぱち、ぱち、と薪の音。
木の葉が風に揺れる、さらさらという微かな気配。
静かな夜。深い山。
肌寒い季節。
どれもが静かで、優しくて。
そのすべてを湯気がまるごと抱きしめてくれている、そんな気さえした。
熱が首筋から肩口へ、ふわりと広がっていく。
その温度は宮廷の魔導炉には絶対に生み出せない、人の手と薪の火の温度だ。
フェルミナは手を湯から持ち上げ、ぽたぽたと落ちる雫を見つめた。
湯の色は透明。
けれどこの透明さには宮廷ではあり得ない“素朴さ”がある。
足元の石の色、檜の節、風の音――すべてがそのまま湯の一部になっている。
(ああ……わたし……こういうのが……ほしかったのかもしれない……)
誰にも見張られず、表情を気にせず、ただ温まるだけの時間。
贅沢じゃないのに、心だけが贅沢になっていく。
胸の奥でコトンと何かが落ちた。
それは“王女”という鎧のどこかが、少しだけ外れた感覚だった。
湯の熱さではなく、湯気の柔らかさが心を包む。
温度よりも、香りよりも、聴こえてくる音よりも――
“誰かの手で焚かれたお湯だ”という事実がこの湯のあたたかさの根源なのだと、ふと気づいた。
そして、その誰かは――。
(……そっか……)
フェルミナの胸の奥が、じんわり熱を帯びる。
――この湯気の向こう。
この木壁のすぐ向こう。
薪の火を見ているのは、
ゼン・アルヴァリード様。
そうだ。
すぐ裏の焚き場で、ゼン様が火の番をしている。
たぶん湯が冷めないよう薪をくべて、火勢を調整して、
黙って、ゆっくり、あの落ち着いた手つきで焚き釜を見ているのだ。
それを想像しただけで、フェルミナは湯の中でそわそわと身を縮めた。
(ちょ、ちょっと待って……落ち着こう? ゼン様がいてもいなくても、お風呂はお風呂。普通のこと。普通……普通……!?)
普通じゃない。
絶対普通じゃない。
だって――
宮廷の浴場では王女は絶対ひとりになれない。
湯殿に“誰もいない空間”なんてなかった。
まして誰かが外で自分のためだけに火をくべてくれる状況なんて……あり得なかった。
(……なんか……あったかい……)
湯の温度のせいじゃない。
自分のために誰かが動いてくれているという事実が、胸の奥をじんわり満たしてくる。
侍女の義務でもなく宮廷の役目でもなく、
“ただの生活”として。
それが、こんなにも心に沁みるなんて。
(ああ……こんなの……知っちゃったら……戻れなくなる……)
ひとりごとのような気持ちが胸で転がった瞬間、外でぱち、と薪が爆ぜた。
びくっ。
外から聞こえる薪の音が、どうしようもなく優しくて。
湯の温度より、檜の香りより、
“ゼンがすぐそこにいる”という事実が――いちばん体を温めていた。
まるで、湯気そのものが彼の気配を含んでいるみたい——そう気づいた瞬間、湯のぬくもりが別の熱を帯びていくのを、彼女は誤魔化せなかった。
(……ゼン様が、風呂の火の管理をしてて……わたしが、その火で沸かした湯に、こうして入ってて……これって……これって……)
ふいに、脳内のスイッチが入った。
(まさかこれ、“夫婦の生活シミュレーション”じゃない……!?)
(ゼン様が「今夜は冷えるから風呂沸かしといたぞ」って言ってくれて、わたしが「ありがとう♡」って答えて、それで「肩、洗ってやろうか?」とか言ってきたりして、で、で――!)
「――っっひゃあぁあぁあぁ!!」
ぶくぶくぶく。
恥ずかしさが限界突破し、フェルミナは一瞬湯の中に潜った。
すぐに浮上したが、顔から湯気以上のものが立ちのぼっていた。
(ちがう、そんな発展はまだ早い、いけない、暴走禁止、自己規制!!)
しかし脳内のフェルミナはすでに妄想ハネムーン中。
灰庵亭の土間で肩を並べてお茶を飲み、庭先で洗濯物を干し、「ゼン様、朝ご飯できました♡」なんて朝の食卓まで再生されていた。
(だって……だって、もしこのまま一緒に暮らせたら……)
それは夢物語かもしれないけれど。
でも、“そうなってほしい”という願いが、今のフェルミナには確かにある。
静けさの中、湯船の水面がほのかに揺れる。
月明かりに似た魔導燈の光が水面に反射し、壁に小さな波の影を描き出す。
(……こんな夜が、ずっと続けばいいのに……)
風の音が微かに湯殿を撫でた。
虫の声がまた響く。
ゼンが薪をくべる音が、遠くでぽんと鳴った。
その一音に、フェルミナは微笑む。
この空間はゼンが手で整え、守り、育ててきた場所だ。
誰かを癒すために作られた空間。
そして今、その恩恵を自分が受けていることが――
なんだか少しだけ誇らしかった。
湯の香りに包まれながら、フェルミナは小さく息をついた。
「……わたし、もっと頑張らなきゃな……」
どんな形でもいい。
ゼンの暮らしの中で、必要な存在になれるように。
王女じゃなくても、守られる側じゃなくても。
ただの“フェルミナ”として、ここにいてもいいように――。
その想いが湯気の中にふわりと溶け、夜の空気に混ざっていく。
心も身体も温まり、ぼんやりとしてきたところで、戸の向こうからゼンの声が静かに届いた。
「……浸かりすぎてのぼせるなよ。湯加減は大丈夫か?」
フェルミナは慌てたように体をびくつかせた。
(や、やばい、聞こえてた!? わたしの心の妄想まで伝わってたりしてないよね!?)
でも、ゼンの声はいつも通り穏やかで、それだけで何だか安心してしまう。
「……全然大丈夫です……!」
返事はすこしだけ震えていたけれど、フェルミナの頬には確かな微笑みが宿っていた。
檜の香りに包まれた湯から上がり、まだほのかに火照る頬を押さえながら、フェルミナはそろりと木戸を開けて脱衣所へ戻った。
ひんやりとした夜の空気が肌を撫でる。
「……あっ」
目の前の棚には、ふかふかのタオルと共に、見慣れないけれど温かみのある衣が整然と置かれていた。
それは淡い灰白と薄藍を基調にした、霧樹織の部屋着だった。
しっとりとした手触りで、ほのかに温もりを含んでいる。
その上には、きちんと折られた膝掛けと、足元には毛織の厚手靴下。
「……クレア……?」
「はい。濡れた身体を冷やさないよう、先に準備しておきました」
いつの間にか戸口の陰に立っていたクレアが、淡々とした声で答えた。
その手には乾いた布と小さな湯瓶があり、その中にはどうやら温められた山草湯が入っているらしい。
フェルミナが髪を乾かす間、頭皮を冷やさぬよう首筋にそっと湿布を当ててくれた。
「湯加減は、いかがでしたか?」
「……っ、め、めちゃくちゃ良かった……!」
フェルミナは思わず声を裏返らせながら、目を輝かせて答えた。
「やさしくて、あったかくて、もう……あのまま溶けちゃいそうだった……!」
「それはよかったです。レニア婆様の薬草は、冷えにも疲労にも効くそうですから」
クレアは髪を拭く手を止めずに静かに言った。
「……さすがゼン様の選ぶものは違うね。あ、いや、クレアの準備もすごいし……あの、ほんとに……ありがとう」
「お気になさらず。ミナ様の体調が整えば、それが一番です」
フェルミナが服を着替え終わると、クレアは棚の反対側に歩み寄り、自らのマントの留め具に手をかけた。
「それでは、私も入ってきます。少し見張りを代わっていただけますか?」
「あ、う、うん。もちろん!」
フェルミナは笑顔で頷きながら、前に一度見た“クレアの服の上からでもわかる完璧スタイル”を思い出していた。
(……そういえば……前に服の上からでもすごいって思ったけど……)
(やっぱり、脱いだらもっとすごいんだろうな……)
ほんのりとそんなことを思った、その瞬間。
クレアが静かにマントの留め具を外し、外套をすべらせて脱ぎ落とす。
その下から現れた姿に――フェルミナは、息を呑んだ。
「――――っ!!??」
彼女の視界が、完全にフリーズした。
(な……っ……)
ゆっくりと落ちていく外套の下から現れたのは――
見事に引き締まった、まるで彫刻のような女性の身体。
胸元はしなやかで、それでいて信じられないほど豊満。
肌の上にわずかに浮かぶ鎖骨と、その下の柔らかく張ったラインが自然に描く曲線美。
そこからウエストにかけてはきゅっと絞られ、まさに“スレンダー”という言葉を体現したようなラインが顕になる。
そして――腹筋。
ただ細いのではない。明確に鍛えられ、均整の取れた筋肉が、無駄なく、美しく、その存在を主張していた。
(な、なななな……なんじゃこりゃあああああ!!??)
(なにこれ……フィクション……?)
フェルミナは思わず背筋を正して立ち尽くす。
一度見たときは“すごい”と思っただけだったのに、今こうして“直接”見てしまうと――迫力が違いすぎる。
クレアはそんな視線にもまったく気づくことなく、無駄のない動きで衣を外し、さらりと脱衣籠に収めていく。
「少しの間、お借りします」
「は、はいっ……!」
フェルミナはとっさに背を向けたが、脳裏にはくっきりと、あの“戦う女神のような裸体”が焼き付いていた。
(……これ……正面から見たら……もっとやばかったかも……)
(しかもあの人、本人にまったく自覚がないんだよね!? 完全に“ナチュラルハイスペック”!!)
(王宮の舞踏会で、あんなの見たことないよ……いや、むしろ、舞踏会じゃ戦争が始まるレベルだよ……!)
ひとり心の中で転げ回るフェルミナをよそに、戸が静かに閉まる。
クレアは淡い湯気の向こうへと消えていった。
その後ろ姿はどこまでも涼やかで――でも、やっぱり“異次元のスタイル”だった。
フェルミナはその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
「……ぜ、ぜんぜん勝てる気がしない……」
自分の胸元にそっと手を置いてみるが、さっき見た圧倒的スタイルとのあまりのギャップに、すぐに手を下ろした。
「クレアって……何者なの……ほんとに……」
その呟きだけが、ほんのりと檜香る脱衣所にそっと溶けていった。
◇
クレアの姿が脱衣所の戸の向こうへと消えてから、フェルミナは静かにため息をついた。
まだ頬の火照りが完全には引かず、風呂上がりの温もりが肌にじんわり残っている。
手に取った布で髪を拭きながら、彼女は脱衣棚の椅子にそっと腰を下ろした。
(……クレアって、本当にすごいなぁ……)
フェルミナは思わず、彼女の無駄のない所作や冷静な振る舞いを思い返す。
そして、さっきの――まるで彫像のような肢体。
(……あれで、しかもゼン様の弟子で、しかも、心の中ではきっと……)
思考がそこまで辿り着いた瞬間、フェルミナの胸がきゅっと締めつけられる。
(……クレアは、やっぱり……ゼン様のこと、特別に想ってるんだよね)
言葉にしたことはないけれど、その雰囲気は端々から伝わってくる。
目の奥の光。言葉の選び方。わずかに優しくなる声色。
ただの忠誠とは違う。
尊敬と恋慕の狭間で揺れる、静かで深い“想い”――それがクレアの中には確かにあると、フェルミナは感じていた。
(じゃあ……あの人にとって、私は……)
その瞬間、胸の内に小さな波紋が広がる。
自分は、ゼンの生活に入り込もうとしている。
けれどそれは、もしかしたら誰かの居場所を侵すことになるのではないか――そんな不安が、ふいに頭をもたげた。
「……うう、考えすぎだよ、わたし……」
フェルミナはタオルを頭に被せたまま、椅子にうつぶせるように前かがみになる。
タオル越しに聞こえる夜の音が、どこか遠く感じられた。
(でも、本当にどうしよう……)
この場所にたどり着くまでは、ただ「ゼン様に会いたい」その一心だった。
山を越え、礼儀も体裁も置いてきて、ただ会いたい人のいる場所を目指した。
けれど――
(……実際にこうして会えて、ここに来れたのはいいけど……)
この先のことは、まだ何一つ決まっていない。
王女が一人、護衛を連れて山の中の庵に住みつくなんて、正気の沙汰ではない。
ましてや、彼にとってそれが“迷惑”であればどうするのか。
ただの滞在者として、数日で立ち去るべきなのか。
それとも、何かしらの“口実”を作って、このまましばらく一緒にいられる道を探すべきなのか――。
「……ゼン様、どう思ってるのかな……」
あの穏やかな声、優しい手つき、どこか距離を測るようなまなざし。
フェルミナのことを嫌っているわけではない。
むしろ、受け入れてくれているようにも感じる。
でも――
(“歓迎”ってわけでも、ないのかも……)
その曖昧さが、答えのない問いとなって胸の中に居座っていた。
タオルを外し、もう一度髪を乾かしながら、フェルミナはふと脱衣所の壁に目をやった。
そこには小さな木札が掛けられていて、「整髪布・予備」と筆で書かれていた。
その端には、あの見覚えのある刺繍――ゼンの手による、あの微かな紋が縫い込まれている。
(やっぱり、全部あの人が……)
丁寧で、静かで、必要なものだけが整った空間。
そこに“余計なもの”が増えることを、ゼンはどう思うのだろう。
(……でも、わたし、ここにいたい)
ただの憧れじゃない。
一目惚れの感情でもない。
ゼンの“生き方”に惹かれ、その“静けさ”に救われた。
だからこそ、そばにいたいと願ってしまう。
けれど、クレアのような人が隣にいて――
彼女があの人に、想いを寄せているとしたら。
(……私は、どうすればいいのかな……)
髪を乾かす手が、そっと止まった。
誰かの居場所に割り込むようなことをしたくない。
でも、自分の想いを諦めたくもない。
そんなジレンマが、湯上がりの心に静かに沈んでいく。
――と、その時だった。
がら、と戸が開き、湯気と共にクレアが現れた。
「お待たせしました。……外は少し冷えてきています、早めに室内へ」
湯から上がったばかりの彼女の肌は、ほんのりと赤く染まり、湿った髪が首筋に落ちていた。
どこを見ても完璧で、でも不思議と肩の力が抜けて着飾らないその姿に、フェルミナは思わず見とれてしまった。
(……やっぱり、きれいだな……)
そして、その美しさに嫉妬するでもなく、ただ素直にそう思えた自分に――少しだけ驚いた。
タオルを畳みながら、フェルミナはゆっくりと立ち上がる。
「……うん。じゃあ、戻ろっか」
戸の外には、霧と薪の匂いがまだ薄く残っていた。
そしてその奥には、ゼンの灯す小さな火の気配が、確かにあった。
(……わたし、この場所にいられる“理由”、ちゃんと探さなきゃ)
胸の中に、ひとつの決意が静かに芽生えていた。
脱衣所を出た二人を、ひんやりとした夜の空気が迎えた。
霧はさっきよりも少し薄まり、星の光が林の隙間からちらちらと覗いている。
フェルミナは厚手の靴下と膝掛けを身に着け、クレアと並んで小道を歩いていた。
足元には柔らかい苔と丸い踏み石が続いている。
やがて、小川のせせらぎが近づいてきた。
水音に導かれるように歩いていくと、霧の奥に、ほのかに灯る暖色の光が浮かび上がる。
「こちらです」
クレアが小さく告げる。
目の前に現れたのは、食堂や母屋とはまったく趣の異なる、低い軒の建物だった。
森の中にひっそりと佇むその建物は、まるで地形そのものに寄り添うように組み上げられている。
足元には小川が流れ、その流れに架けられた小さな丸太橋を渡ると、木と石でできた素朴な戸口が現れた。
「ゼン様の寝所は、この奥のロフトです。今夜はこちらをお使いくださいと」
「えっ、でも……そんな、大事な場所を……」
「大丈夫です。ゼン様は今夜は書庫に詰めると仰っていました。彼の寝所は簡素ですから、すぐに支度できます」
クレアが戸を押し開けると、檜とは異なるやや乾いた薪の香りがふわりと漂ってきた。
中にはすでに暖炉の火が灯っており、赤々とした炎が煉瓦の奥で揺れている。
フェルミナは一歩足を踏み入れ、思わず息を呑んだ。
広い。
天井は高く、梁がむき出しのまま組まれている。
床は木材と厚手のラグで構成され、壁の一部は石積み、もう一方は木板。
その境目には、薪棚や手製の本棚が美しく整列していた。
まるで山小屋の中に“静寂”という名の空間が丸ごと宿っているような場所だった。
そして、その空間の片隅――
階段というより“傾斜のある梯子”に近い作りの木の段を登った先に、ゼンが普段寝泊まりしているというロフトスペースがあった。
屋根裏のような位置に設けられたその場所は、ちょうど川辺の光と風が入るよう設計されており、遮蔽物の少ない開放的な構造だった。
木枠の窓には手織りの布が掛けられ、窓際には小さな鉢植えが置かれている。
「……ここ、ゼン様の……?」
「はい。生活の中心は母屋ですが、執務のない夜などはこのロフトで過ごすこともあるそうです。彼は静けさを好まれますので」
ロフトの床は厚手の毛布と寝台で簡素に整えられていたが、よく見ると小さな工夫が無数に詰まっていた。
例えば、壁の端には鉄製のフックが並び、そこに細工された木箱が吊るされている。
その中には香草や木の実が乾燥させた状態で保管され、軽く揺れるとほのかな香りが漂う。
また、天井の梁には風鈴のような装飾がある。
それは風を受けると小さく音を立てる“音測鈴”と呼ばれる防犯具で、霧や獣の気配を察知するための仕掛けだった。
「……なんだか、ゼン様の“性格”そのものみたいな部屋だね……」
フェルミナは自然にこぼれた言葉を、あとから少し恥ずかしそうに口元に手を当てて隠した。
だがクレアは微かに笑って応じる。
「……ええ。無口ですが、こういう細かい手間は惜しまない方ですから」
暖炉の熱がじんわりと部屋全体に広がっていた。
床下には空気の通り道が作られ、石と木材の断熱構造が北の寒冷地特有の“持続的なぬくもり”を作り出していた。
全体としては無骨で実用的な空間。
だが、その中にゼンの“暮らし”が丁寧に息づいていた。
フェルミナは毛布の上にそっと座りながら、肩に掛けた膝掛けをふわりと整える。
「……なんか、眠くなっちゃいそう……」
「それが狙いかもしれません」
クレアがふっと微笑む。
「団長は人に過剰な刺激を与えるより、自然に“休ませる”ことを選ばれる方ですから」
「……やっぱり、すごいなぁ……」
フェルミナはそう呟きながら、焚き火の光をぼんやりと見つめた。
暖かくて、静かで、どこか懐かしくて。
けれど――すべてが、ゼンという一人の男の“哲学”で作られている場所。
(……こんな空間を、自分の手で作れる人がいるんだ……)
それは王宮のどんな建築美よりも、ずっと心に響いた。
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【灰庵亭・川辺のロフト棟 概要資料】
■ 建物名称:
川辺のロフト棟(通称:ゼンの寝床)
■ 所在:
灰庵亭敷地内、母屋より南東に下った小川沿いの段丘上
※湯殿から橋を渡って徒歩2分圏内
● 1. 基本構造
【項目/内容】
□ 建築様式 / 北方寒冷地向け山間住居(自給型ロフト構造)
□ 建築材 / 地元産の杉木・栗材(躯体・床・梁)、赤土煉瓦(暖炉・壁材)、黒岩石(基礎)
□ 階層構造 / 平屋+屋根裏式ロフト(片流れ屋根構造)
□ 屋根 / 傾斜角32度・耐霜雪仕様|藁+杉皮+魔法防水加工
□ 外装 / 木板(煤焼仕上げ)と石積みの混合|目立たぬ保護色調
□ 面積 / 延床 約45平米(約13.5坪)|ロフト部含む
● 2. 間取り・ゾーン構成
【ゾーン名/機能・特徴】
① 玄関スペース
丸太橋を渡った先/下足・道具掛け/風除室あり
② 主空間(居間)
暖炉中心の生活空間/本棚・薪棚・作業机配置/床材は厚板+部分ラグ敷
③ ロフト寝床
梯子状の斜傾階段を上がった屋根裏/寝具一式/収納箱/読書灯あり/川音を活かした設計
④ 小洗面・備蓄棚
魔導水供給型の簡易洗面台/薬草・乾物・香草等の収納箱群/食器棚含む
⑤ 簡易トイレ設備
低魔導圧縮式の排出設備/壁面に備え付け/消臭魔術装置付き
● 3. 内装と装飾
◼︎梁・天井:
・杉材のむき出し梁構造
・薬草束の吊り下げあり(香気・虫除け用)
・小型の魔導音鈴(防犯・動物警戒)
◼︎壁面・床:
・石材と木材の組み合わせ
・石壁部分は赤土煉瓦・漆喰仕上げ
・木壁部分には釘を使わず楔組み
・床には“風抜きの隙間”と断熱構造(中空二重構造)
◼︎照明:
・魔導灯(白熱式・月光灯タイプ)×4箇所
・ロフト部には間接照明的に設置された霜灯
◼︎家具・什器:
・手作りの読書机/膝掛け用小椅子/薪棚/香草吊り箱
・ロフト部分には寝台(地床式マットレス+厚毛布)
● 4. 建築的工夫・ゼンのこだわり
◼︎断熱構造:
・床と壁は寒冷地仕様、通気口で湿気調整
・石と木の“熱保持”バランスを重視
◼︎静音設計:
・小川のせせらぎを“室内BGM”として活用
・防音よりも“自然音との調和”を重視
◼︎香りの演出:
・乾燥ハーブの吊り下げ(眠り・防虫・リラックス)
・焚き火用薪にも香木を混ぜるなど、香りによる癒し
◼︎生活導線:
・書き物・読書・仮眠を最短距離で移行できる配置
・必要最低限の道具を、最適な距離感で配置
● 5. 使用目的と実用性
【目的/内容】
□ 日常の寝床 / 書庫や母屋で過ごした後の休息場所
□ 思索の場 / 読書・戦術構築・日記等の思考活動空間
□ 賓客の簡易滞在 / 緊急時は信頼ある客を一時宿泊させることも




