第102話 温かい夕食
◇
「――よし、そろそろ作るか」
ゼンが立ち上がると、囲炉裏の火がふっと揺れた。
まるで山小屋全体が、彼の動きに合わせて呼吸しているみたいだ。
フェルミナは条件反射のように姿勢を正す。
(えっ、えっ……まさか……ゼン様が作るの……?
今日ってもしかしなくても人生で一番すごい日では……?)
横でクレアが小さく眉を寄せる。
「ミナ様、落ち着いてください。口が開いてます」
「ひっ……!!」
閉じた。
ゼンは何事もなかったかのように、薪の横に置かれた木箱を引き寄せる。
そこには山で採れたばかりの山菜、川で釣った岩魚、色づいた薬草――。
店内には、さっきまでの喧騒の名残がわずかに漂っていた。
営業を終えたばかりの灰庵亭は、静けさと温もりの境目のような空気に包まれている。
壁際の棚には客が使った湯呑や皿がきっちりと伏せられて並び、片隅の帳場には今しがた締めたばかりの木製の勘定札が重ねられていた。
昼間の賑わいを知っている者なら、この穏やかな余韻の落差に驚くだろう。
木の床は何度も掃き掃除されたあとでも、かすかに土と草の香りを含んだ夜風を吸い込んでいる。
囲炉裏の火だけが、明かりとして部屋の中心にゆらゆらと揺れていた。
フェルミナは目を丸くしながら周囲を見渡す。
(……すご……これ、全部、ゼン様一人でやってるの……?)
王宮の食堂なら、片付けだけで十人以上が動く作業だ。
しかし灰庵亭では、全部が“個人の手の跡”で完結している。
棚の端々に残るすす、丁寧に乾かされた布巾、磨かれつつも使い込んだ調理器具。
生活感と静けさが混ざり合い、不思議な安心感を与えてくる。
(あ……なんか……いい……)
フェルミナの心がふわふわと落ち着かないのは、ここが豪華でも清らかでもないのに、“温もり”だけは王宮のどの部屋より濃いからかもしれない。
反対にクレアはこの空気に懐かしさを覚えていた。
「……変わらないですね。環境は違えど、戦場でのキャンプを思い出します」
「まぁ、あっちの方が火の管理は大変だったけどな」
ゼンは淡々と返しながら、テーブルの上に置かれた器を一つひとつ手に取り、位置を整える仕草をする。
フェルミナはその動きすら目を奪われるように見つめてしまっていた。
(……なんで、こんなにかっこいいの……?
ただ片付けてるだけなのに……)
店内には客の気配がなく、外の風もその虫の声も遠い。
囲炉裏で焼け残った薪が、ぱち、ぱち、と小さな音を立てるたび、三人の影が木壁に柔らかく揺れていく。
少し離れた席には、今日の客が残していったと思われる感想札が置かれていた。
『今日の山菜の煮びたし、最高でした』
『また来ます。ゼン殿の料理は心に染みる』
素朴で心のこもった言葉ばかりだ。
フェルミナがそれを手に取って読み、胸にぎゅうと温度がこもる。
(あぁ……こんなふうに……“誰かの生活の中”にゼン様がいるんだ……)
それがなぜか嬉しくて、胸の奥がほんのり甘い痛みに満ちた。
同時に王宮の豪華さや立場という“重さ”とは違う、
もっと柔らかい世界がここにはあることを実感する。
その空気の中で、ゼンだけが静かに動いていた。
彼の歩き方は、本当に音が少ない。
戦士特有の無駄のない足運びでありながら、調理人としての迷いのなさも重なっている。
木箱を開くと山菜の青い香りがふわりと立ちのぼる。
摘みたての柔らかな葉。
慎重に処理した川魚。
そして乾燥させた香草が束になって並んでいる。
クレアは、整った姿勢で淡々と告げた。
「……あの木箱、まだ使っていたんですね。
ゼン様が蒼竜の任務帰りに拾ってきた――」
「ああ、素材がよかったからな。…というか、よく覚えてるな、そんなこと」
ゼンが軽く睨むと、クレアは無表情のまま視線をそらす。
フェルミナはそのやり取りにきゅんきゅんしていた。
(あああ~~~もう!!
この二人の会話、なんでこんな心地いいの!?
なんか……“帰ってきた場所”って感じがする……!)
店内はほどよく片付いて、囲炉裏の火だけが夜を照らす。
「今日は疲れてるだろ。軽いもんでいいな。……川魚の味噌煮でいいか?」
「み、味噌……煮……!」
フェルミナは内心で転げ回っていた。
(やばいやばいやばいやばい!
味噌煮!?なんかよくわかんないけどゼン様の手料理なんでしょ…!?絶対おいしいに決まってるじゃない!!
むしろもう香りだけでおいしい!!)
クレアは冷静に頷き、
「いただけるなら何でも。……ゼン様の料理は久しぶりです」
と言った。
ゼンは少しだけ苦笑する。
「まぁ、あの頃とは違って、食材は豊富にあるからな」
そう言って彼は手を洗い、慣れた動作で包丁を握った。
シャク、シャク、とまな板に響く一定の音。
無駄のない動きは、戦場で剣を振るっていた頃の“残響”のようですらある。
フェルミナは思わず見入ってしまう。
(……きれい。
ぜんぜん派手な動きじゃないのに……見てるだけで安心する……
あ、これ“英雄補正”とかじゃなくて、“生活力のある大人の魅力”ってやつ!?
ひゃああ~~~!!)
横でクレアがさりげなく囁く。
「ミナ様、落ち着いてください。鼻血出ますよ」
「出てないから!! 出してないから!!」
その小声の攻防をよそに、ゼンは岩魚に包丁を滑らせていた。
岩魚をまな板の上に置くと、まず腹のあたりにそっと手のひらを添える。
押しつけるのではなく、支えるのでもない。
生き物だったものへの敬意のような、柔らかい触れ方だった。
包丁の刃が、軽く角度を変える。
その角度ひとつで身のほぐれ方が変わることを、彼は知っている。
腹に刃を入れるときも、力は最小限。
切る、ではなく“開く”。
その動作は、料理人が行うというより、
長い年月、山と川の恵みと共に生きてきた者が自然と覚えた所作に近い。
刃が骨に当たり、微かに音が鳴る。
ゼンはそれを嫌がらない。
「そこに骨がある」と確かめるように、一度だけ刃先を滑らせ、ちょうどよい位置で切り口を整えていく。
腹を割ると、真っ白な脂の匂いがふわりと広がった。
岩魚は川の冷たさに鍛えられた身を持つ。
余計な脂は少ないが、内臓の間に隠れるように凝縮された旨味がある。
ゼンはその脂を落としすぎないよう、必要な部分だけを指で取り除き、まるで宝石を扱うように丁寧に身を洗う。
「川の恵みってのはな……雑に扱うと拗ねるんだ」
誰に語るでもなく、ぽつりとそう呟いたことがある。
彼にとって“生き物を捌く”という行為は、戦場の延長ではない。
守るべき日常のために、命をいただくという静かな儀式だった。
骨の処理も迷いがない。
指先の感覚だけで、中骨の位置を正確に見抜き、刃を寝かせて身をすくい取る。
過不足が一切なく、まるで魚の側から「ここを切ればいい」と教えられているような正確さだった。
皮は張りがあり、強く引けば裂ける。
弱ければ剥がれない。
そのちょうど中間を知っている者だけができる動きで、ゼンはすっと皮を滑らせるように引き剥がし、綺麗な銀白色の身を露わにした。
血合いの残りさえ指先で軽くなぞると離れていく。
水で洗うときも、勢いはつけない。
冷たい流水を手で受け、その水をすくって身にゆっくり落とす。
直接当てれば身が締まり、風味が落ちる。
そんな“当たり前の配慮”を、ゼンは自然にやってのけていた。
かつての部下が見たら、
「団長が料理にここまで真剣だったとは……」
と眉を上げたに違いない。
だが今のゼンにとっては――これが日常なのだ。
岩魚の身を整えると、次は山菜に手を伸ばす。
葉の固さ、茎のしなり具合、香りの出方。
それらを一つひとつ確かめながら、
包丁は静かに、しかし確かなリズムで動いていく。
鍋の準備も無駄がなかった。
薪の組み方、火の呼吸、湯の沸き方。
それらすべてを、長年の身体が自然に理解している。
まるで――料理そのものが彼の中に既に組み込まれた術式であるかのようだった。
不思議なのは、その動作が“武人の鋭さ”ではなく、
“山で生きる男の柔らかい静けさ”に満ちていることだった。
ゼンが食材を扱うと、刃物の音も火の揺らぎも、空気の震えさえも穏やかになる。
彼の生活力は、決して豪華ではない。
だが静かで、あたたかくて、誠実。
この小屋の空気が心地よいのは、その“誠実さ”が食材にも炎にも、音にも染みこんでいるからだ。
そして――岩魚の身を最後に整えたとき、彼はゆっくり手を拭き、鍋に向かった。
その手つきは迷いも雑さもなく、丁寧で、優しくて――。
まるで魚に語りかけるように。
ゼンは湯を沸かし、味噌を溶き、山菜を放り込む。
土鍋から、ふわりと濃厚な香りが立ち上った。
「う……っ」
フェルミナの胃が反射的に鳴った。
(だ、だめ……! 恥ずかしい……!!
でもおいしそうすぎる……!)
クレアは無表情のまま数ミリ口角を上げていた。
彼女も、おそらく懐かしさが滲んでいるのだろう。
やがて鍋がぐつぐつと音を立て始める。
魚の脂が表面に浮かび、山菜の香りが食欲を刺激する。
ゼンは鍋の蓋を少しずらし、湯気を逃がしながら言う。
「……本当はもっと手の込んだもんも作ってやりたいんだが、今日は簡単なものだけだ。腹を満たす程度のな」
「じ、十分です……! 十分ですから……!!」
フェルミナは正座のまま握りこぶしを震わせた。
(ゼン様……! そんな謙遜しなくていいんです……!
あなたの料理は絶対!! 絶対に世界一おいしいから!!)
一方、クレアは淡々と告げる。
「ゼン様の料理は……簡単でも十分すぎます。むしろ、これこそが“灰庵亭の味”です」
ゼンは照れたように肩をすくめる。
「そんな大層なもんじゃない。山にあるもんを煮ただけだ。――ほら、できたぞ」
彼は小さな木の器に味噌煮を盛り、二人に差し出した。
湯気がふわっと漂い、山小屋の空気に温度が混ざる。
味噌と魚の匂い。山菜の香り。薪のにおい。
それらが溶け合って――
まるで「山の夜そのもの」をすくい取ったような一杯だった。
フェルミナは、両手で器を受け取った瞬間、
(あ……あったかい……)
顔を伏せそうになる。
こんな“普通の温度”が、
今の彼女には涙が出るほど尊く感じられた。
「いただきます……!」
一口。
――世界が変わった。
味噌の塩気と、岩魚の旨み。
山菜の苦味がほんの少しだけ後味に残って、それが逆に食欲を刺激してくる。
味噌は、ただ塩気を持った調味料ではなかった。
口に含んだ瞬間、まず“柔らかい甘み”が舌の奥に届く。
それは市販の味噌にはない、どこか丸い甘さ――
「山の水で仕込んだ手前味噌」特有の、穏やかでふくよかな味だ。
その甘さの奥から、岩魚の脂がゆっくりと広がってくる。
川魚特有のくせはまったくない。
むしろ清流で育った岩魚の脂は驚くほど澄んでいて、まるで湧き水のように“透明な旨味”だけが舌に残る。
熱によってほどけた身は、ほろりと解ける。
噛む必要もなく、舌の上で自然にほどけていく。
その一瞬だけ、川の冷たさがふっと蘇る。
身が締まっているのに硬くなく、柔らかいのに淡白ではない――という矛盾した食感。
その調和の真ん中に、味噌の深みがすっと落ちる。
(なに……なにこれ……!?
小さい頃に飲んだ宮廷のスープとも、
帝都の高級店の料理とも違う……)
そう思った瞬間、フェルミナは自分の舌が“どれほど未熟だったか”を思い知る。
山菜の苦みがまた絶妙だった。
噛んだ瞬間にほんのり走る“青い香り”。
その後から味噌の甘みが追ってきて、苦みを丸く包み込む。
この順番が逆ならただの山菜の味。
でもゼンの作る味噌煮では、苦味=アクセントとして完璧な一角を担っている。
そして山菜が持つ天然の香りが、全体を引き締める。
セリ、山椒葉、ほろ苦いヨモギに似た香草――
それらが少しずつ溶け込み、
“森の息のような香り”が鍋全体に広がっていた。
(体が……あったかい……
なにこれ美味しい……)
一口飲むごとに胸の奥に灯がともるようだった。
喉から胃へと落ちていく温かさは、ただの料理の“味”じゃない。
まるで自分の中で凍っていた部分がゆっくり溶けて、
深いところにある緊張や不安までほぐれていく。
ゼンの料理には――
“派手な技”はひとつもない。
けれど、
“人を安心させる力”がある。
かつて戦場で仲間の胃袋を満たし続け、命の境界にいた者たちを落ち着かせていた“味”。
決して豪華ではないが、清く誠実でどこにも“嘘”がない。
フェルミナは震える声で漏らした。
「……おいしい……! なにこれ……! なんで……なんでこんな……!」
フェルミナは器を抱えて震えた。
クレアも静かに口をつけ、ほんのわずか頬が柔らかくなる。
「……やっぱり……この味は忘れられません」
ゼンは少し照れたような、でも安心したような顔で言う。
「そんなに言うほどのもんじゃないが……まぁ、気に入ってくれたなら良かった」
その声は穏やかで、焚き火の明かりと同じ温度だった。
フェルミナは胸を押さえる。
(……ああ……
こういうところ……
こういう、普通の優しさが……
いちばん、好き……)
そして――
小さな山小屋の、質素な囲炉裏の前で。
三人は肩を並べて同じ料理を食べる。
王女でも騎士でも英雄でもなく。
ただの“人間”として。
そのささやかで温かい一夜は――
フェルミナの胸で、そっと宝物のように刻まれた。




