第101話 心臓が爆発しそうです
「……ここに、座れ」
静かな声に、フェルミナの心臓が跳ねた。
ゼンが指したのは、灰庵亭の囲炉裏のそば。
畳はすこし擦り切れているけれど、その使い込まれた感触が逆に落ち着く。
けれど――座った本人は落ち着ける状態ではなかった。
(……ちょ、ちょっと待って。本当に? 本当に!?)
ふわり、と出汁の香りが鼻の奥まで入り込む。
昆布と何か山の香草の香りが混ざった、優しくて深い匂い。
囲炉裏の火はぱち、ぱち、と小さく音を立て、木の壁にあたたかい影を揺らしている。
……やばい。
落ち着けフェルミナ。
これは夢じゃない。現実。
目の前にいるのは“ゼン・アルヴァリード”。
子供の頃から追いかけてきた人。
歴史の教科書にも載ってる人。
英雄。伝説。初恋。
それが今、自分の目の前で、湯を注いでるんですよ!?
「……茶だ」
木の湯呑を差し出される。
受け取った瞬間、指が震えた。
あ、熱い。やばい。
でも、嬉しい。
もうこれお茶じゃなくて、感情を煮詰めたスープじゃない!?
心臓が爆発しそうなんだけど。
「ありがとうございますぅっ!!」
「……そんなに大げさに言うほどのもんじゃない」
ゼンは軽く肩をすくめる。
昔からこういうタイプなのだろう。
飄々としていて、どこか掴みどころがない。
でもその何気ない仕草すら――ああもう、ずるい。
フェルミナは湯呑を両手で包みながら、ちらちらと彼の横顔を盗み見た。
火の明かりに照らされる頬。
少し無精髭が伸びているけど、それがまた渋い。
腕の筋肉、現役時代よりも柔らかくなってる気がする。
……いや、柔らかくって何。私は何を見てるの!?一旦落ち着け。
(ちょっと待ってフェルミナ、平常心。あなたは一国の王女。こういう時は優雅にお茶を飲むのよ。うん、ほら、ゆっくり、気品を……)
――ごくっ、ごくごくっ、ごくごくごく。
「……一気に飲むもんじゃないぞ、それは」
「ひゃいっ!? あ、すみませんっっ!」
やってしまった。
優雅さゼロ。
クレアが隣で小声で溜息をついている。
(ミナ様、落ち着いてください)
(む、無理よクレア! これが落ち着いてる状態よ今!)
ゼンは呆れ顔のまま、薪をくべながらぼそりと言った。
「で……なんでお前らが、こんな山奥まで来たんだ?」
…やっぱり、来た。
核心の問い。
予想していたはずなのに、胸がぎゅっと縮まる。
山の静けさが深くなり、囲炉裏の火の音だけがやけに大きく響いた。
クレアがわずかに背筋を伸ばす。
彼女の視線が「どう答えます?」と問いかけてくる。
フェルミナは――
飲んだばかりのお茶の温度が胸の中心で熱く膨らむのを感じた。
(どうする……?
本当のことを言う?
それとも……王女としての建前を言う?
でも……)
フェルミナの頭の中で、鐘が鳴る。
カンカンカン! 警報レベル赤。
どうする、どうするの私!?
本当の理由(=英雄に会いたくて逃げてきました♡)なんて言えるわけがない!
そんなこと言ったら、この場の空気が一瞬で吹き飛んで、私が即・恥死する!!
「え、えっとですねっ! そのっ、その……!」
舌がもつれる。喉が乾く。心臓は馬のように暴れ、頭の中は真っ白。
ああもう、こういうときこそ落ち着け、フェルミナ・ルクレティア。
王宮で何度も教わったはずでしょう、“要人との対話は常に冷静沈着に、嘘をつくときは優雅に”って!
(よりによって、いちばん嘘の下手な私がゼン様の前で嘘なんて……!)
でも言うしかない。言わなきゃもっと困る。嘘だって時には必要!
そう、ここはひとつ建国史に残るくらい美しいウソを紡ぐべき――!
「――あの、あのっ……観光ですっ!!」
……言った。言ってしまった。
「観光?」
ゼンの低い声が返ってくる。淡々としているのに、不思議と揺らぎがない。
ああ、緊張で余計に心臓が苦しい……!
「は、はいっ! ええと、その……自然に触れる旅、といいますか!
山と水と、えっと……緑に癒されようっていう感じの……そういう流行が今……!」
「……この時期に、こんな山奥まで? 護衛ひとり連れて?」
「え、えぇ! その、健康志向です! 流行りなんです、帝都で!」
自分でも何を言っているのかよくわからない。
けれど言葉を止めた瞬間に嘘がバレる気がして、フェルミナは必死に喋り続ける。
どんどん墓穴を掘っていく自覚はある。でも止まれない。止まれないのだ。
ゼンは動かない。表情が読めない。
ただ、じっとこちらを見る。その静かな視線が怖い。
あの頃の戦場――彼が蒼竜騎士団を率いていたとき、“沈黙だけで部下を立たせる圧”が確かにあった。
あれが今も変わらずそこにある。
「……まぁ、わからんでもないな」
「え?」
思いもよらない言葉に、フェルミナは間抜けな声を出してしまった。
「帝都は窮屈だろう。特に王宮は、なおさらな。
まぁ……俺は王族じゃないから詳しくは知らんが」
ゼンは火箸の先で炭を軽く動かし、ぱち、と小さな火花が飛ぶ。
その赤い光が、彼の横顔をほんのり照らす。
黙っていても周囲の空気ごと穏やかにしてしまう、あの独特の気配。
子どもの頃に見た“凱旋の英雄”の面影が、その仕草のひとつひとつに宿っていた。
そして視線が上がり、フェルミナに向けられる。
静かだ。
責めるわけでも、呆れるわけでもない。
だけどその奥に、“見抜いた上で黙っている大人の余裕”が確かにあった。
「……観光、ね」
ぽつりと落ちたその言葉は笑ってもいないし、疑うような声色でもない。
ただ淡々と、事実確認をするかのように発された。
なのに――
その一言の中に、全部見透かされたような気がして。
胸のどこかがちくりと痛む。
(……ば、ばれてる……? やっぱりバレてる!?)
フェルミナの肩がびくりと跳ねた。
けれどゼンは追及する様子もなく、囲炉裏の火を整えながらゆっくり息をひとつ吐いた。
その息が橙の光に溶けてゆく様は妙にあたたかくて――どこか救われる。
「……まぁ、逃げたくなる時は誰にでもある」
「っ……!」
その言葉が心の真ん中に落ちた瞬間、フェルミナは息を吸いそこねた。
慰めでも同情でもない。
ただ静かに当たり前のことを言っただけ。
それなのにどうしてこんなに苦しくて、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
ゼンは続ける。
「帝都は騒がしい。息の詰まることも多いだろう」
フェルミナは頷けない。
なぜなら、頷いたら逃げてきたことを認めることになるから。
でも、否定すれば嘘にもなる。
(ど、どうするのよ……! 何か言わなきゃ……でも何を……!)
頭の中だけがぎゅうぎゅうとうるさいのに、口は動かない。
そんなフェルミナを見て、ゼンはちらりと視線を横へ滑らせた。
「……で、その“観光”とやらで、こんな辺鄙な場所を選んだ理由は?」
「ひっ……!」
完全な急所。
まるで的の中心に矢を撃ち込まれたような衝撃。
フェルミナは心臓を抱きしめて倒れそうだった。
その瞬間。
「……ミナ様は、静かな場所をお望みでしたので」
クレアが、ごく自然なタイミングで口を開いた。
フェルミナのつけた嘘を否定も肯定もせず核心を避けながらも、“事実の一部だけを正しく言う”という高度なフォローだった。
彼女が戦略家としても優秀だっていうのがよく伝わる、完璧な言い回し。
ゼンは火箸を置き、ふっと鼻で短く笑った。
「……なるほど。たしかに、ここは静かだからな」
ただの一言。
それなのに、三人の間に流れていた緊張がほんの少しだけ溶けた。
囲炉裏の火がぱちぱちと音を立てる。
外からは風の唄が聞こえ、灰庵亭の静けさにゆっくりと夜が満ちていく。
フェルミナは、胸に手を当てて深く息を吐いた。
(……はぁぁぁぁ……死ぬかと思った……!)
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ――少し安心した。
彼が怒らなかったこと。
問い詰めなかったこと。
逃げたことを責めなかったこと。
それが胸の奥でほのかに温度を灯していた。
そんな自分に気づいて、フェルミナはほんの少しだけ頬を赤らめた。
(……ああもう、本当に……ずるい人……!)
ゼンはしばし囲炉裏の火を見つめていた。
炭の赤い芯がゆっくりと呼吸するみたいに膨らんだり縮んだりして、その光が彼の横顔を淡く照らす。
その沈黙がただの間ではなく――考えている沈黙だということが二人にも分かった。
そして、ぽつりと。
「……ただ、それにしたってだ」
フェルミナの背筋がびくりと跳ねた。
ゼンは炭をひっくり返しながら、ちらっと二人を見た。
「王都からここまで来るのに、女二人――帝国の王女と護衛の二人だけってのは、どう考えても不自然だ」
「ふ、不自然……!」
フェルミナは心臓が喉に引っかかったみたいに詰まった。
クレアはというと、動揺の気配は微塵も見せずに姿勢を正している……けれど、フェルミナには分かった。横顔が微妙にこわばっている。
たぶん心中では同じことを思っているのだろう。
(や、やっぱりゼン様は鋭い……!
っていうか普通に考えてそうだよね……)
ゼンは続ける。
「山郷は確かに安全な場所だが、ここへ来るまでの山道は別だ。いくら整備が進んでいるとは言え…)
「……っ!」
クレアの指先が一瞬だけぴくりと揺れた。
しかし彼女はすぐに平静を取り戻し、表情ひとつ変えずに答える。
「……確かに、女二人でこの距離を旅するのは不自然に見えるかもしれません。ですが――」
ゼンの視線が、わずかに動いた。
クレアは淡々と続ける。
「……理由は単純です。ミナ様は“人を多く連れない旅”を望まれました。大人数で動けば視線も増える。騒がしくもなる。せっかく静けさを求めて来たのに、余計な気配に囲まれては意味がありませんから」
それは言い訳のようでいて、やはり核心を外しながら本質だけを残す見事な言い回しだった。
ゼンの指先が、炭を転がす動きをぴたりと止めた。
「……なるほどな。静けさを求める旅、か」
淡く、ほんのかすかに口元が揺れた気がした。笑った、というにはあまりに微細で、けれど完全に否定しきれない“理解”の温度がそこにはあった。
沈黙が落ちる。
囲炉裏の火がぱちりと弾け、その音だけが空気を撫でるように響く。
フェルミナは息を飲み込んだ。
クレアの“嘘ではないが、事実を巧みに並べ替えた言葉”。それでもゼンの前では、どこか見透かされているような感じがしてソワソワする。
ゼンは火箸を軽く握り直し、小さく息を吐いた。
その仕草には呆れも疑いも無く、ただただ静かで深い落ち着きがあった。
「……まぁ、確かに。静かな旅なら余計な人数はいらない」
フェルミナの胸が、ほんの少しだけほっとゆるむ。
ゼンは続ける。
「……で、おまえが付き添ってるってわけか」
「はい。安全のために」
クレアが淡々と答える。
ゼンは火箸を置き、胡座を少し組み直した。
その動きはゆったりしているのに、どこか“場を締める”力があった。
クレアも自然に背筋を伸ばし、フェルミナはというと緊張のあまり肩が耳にくっつきそうになっている。
「……まぁ、クレアがついてるなら大抵は大丈夫だろうが」
ぽつりと落とされた一言は、短いけれど温度がある。
愛想のない声音のはずなのに、不思議と“信頼”が滲んでいた。
クレアは瞬きひとつせずに答えた。
「光栄です。……ですが私は、あの頃のようには動けませんよ。あくまで護衛としての範囲で」
「十分だ。お前は昔から計算高いタイプだしな」
「それは、ゼン様の無茶をフォローしていた時代が長かったからです」
クレアがさらりと言うと、ゼンの眉がほんの少しだけ跳ねた。
フェルミナは思わず吹き出しそうになるのを必死にこらえた。
(え……今、ちょっと可愛い反応した……!?
やだ、なんかこの二人の会話、すっごい心地いい……)
ゼンは咳払いをして話題をずらすように、囲炉裏に視線を落とした。
「……まぁ、とにかく。女二人で旅をするってのは危険も多い。クレアでも対応できない状況ってのはある」
「承知しています。ですが今回は――」
クレアが続けようとしたとき、ゼンがふっと息を吐いた。
「いや、責めてるわけじゃない。……むしろ驚いてるんだ」
「驚き、ですか?」
クレアが小さく問い返す。
ゼンは炭をつつきながら、静かに言った。
「お前が危険を顧みずに、“誰かの望みを優先する旅”に付き添うなんてな」
クレアの手の動きがぴたりと止まった。
その変化を見逃すはずもなく、フェルミナは胸がぎゅっとなる。
(あ……ゼン様、今の言い方……)
それは、クレアの過去を知っている者にしか言えない言葉だ。
使命と命令に縛られて生きてきたクレアが、誰かの“わがまま”に寄り添う――
それがどれほど異例で、どれほど大きな変化なのか。
二人のやり取りを見ていると、なんだか懐かしい温かさが胸の中で弾けた。
フェルミナは思わず微笑む。
この感じ――いい。
どこか懐かしい、家族みたいな空気。
きっとこの二人はずっとこうやって戦ってきたんだ。
お互いに信頼して、叱り合って、支え合って。
……いいな。羨ましい。
わたしもその輪の中に入りたい。
でも、そんなこと思ってる場合じゃない。
問題はまだ終わってないんだし。
クレアはほんの一瞬、目を伏せてから答えた。
「……そうですね。私も、少し…変わったのかもしれません」
声は淡々としていたが、その奥底には照れとも誇りともつかない微妙な揺らぎがあった。
ゼンはそれ以上何も言わなかった。
けれどそれが“否定でも肯定でもない、ただの優しい受容”だとフェルミナには分かった。
(ああ……こういうところ……
こういう人だから……みんな、惹かれるんだ……)
胸の奥がじんわりと熱くなる。
なにかがあふれそうで、けれど目をそらしたら崩れてしまいそうで。
そのとき、ゼンが軽く顎を動かして彼女を見た。
「ただ……」
「ひゃいっ」
「彼に本当に“観光”だとしても、どうも腑に落ちないんだが」
「ふ、腑に落ちないって……な、なんのことでしょう!? あ、あの、“観光”っていうのは本当ですし、えっと、ええと、わたし別に怪しい者じゃ――」
「いや、落ち着け」
ゼンが軽く片手を上げると、フェルミナは挙動不審な小動物のように固まった。
(だ、だって……今の流れで“腑に落ちない”なんて言われたら……!
絶対バレてるじゃない! 婚約破り逃避行とか、そんなの絶対察してるじゃない!!)
ゼンはそんなフェルミナの内心など知らぬまま、静かに続けた。
「……フェルミナ王女。――自分の立場はわかっているでしょう?今のこの状況が、どれだけ取り返しのつかないことになりかねないか、ちゃんと考えて行動してますか?」
ぐはっ。
鋭い。鋭すぎる。
まるで心の奥を読まれてるみたいだ。
いや実際、読まれてる。英雄補正で多分読心スキル持ってる。
彼の声音は怒気を含んでいるわけでも、威圧を帯びているわけでもない。
ただ“現実を知っている大人”として、当然の懸念を口にしているだけだ。
なのにフェルミナの胸に突き刺さる鋭さは、どんな叱責よりも痛かった。
「……王族が護衛ひとりで、こんな山奥まで来る。
それがどれだけ危険で、どれだけ不自然な行動か……わかるでしょう?」
囲炉裏の火がぱちりと跳ね、灰の上に小さな火花が散った。
ゼンの声はどこまでも静かだった。
静かすぎて、その落ち着きが逆にフェルミナの心を締め付けた。
「帝都の王族が動くってのは、いつだって周囲を巻き込むんだ。
たとえ本人が“静けさを求めて”いたとしても……結果が静かで済むとは限らない」
その言葉には経験に裏打ちされた重みがあった。
王族に仕えた者、国家の軍を動かしてきた者としての、現実的な感覚――。
フェルミナはぐうの音も出ない。
ぐるぐると「言い訳探し」が脳内高速回転しているのに、口が動かない。
ゼンは続ける。
「……まして、あなたは“第七王女”だ。
他の王族より自由度が高いとはいえ……国の象徴であることに変わりはない。
そんな人間が黙って姿を消せば、帝都は――いや、帝国中が動く」
淡々と告げられる事実。
叱っているというより、“説明”に近い。
けれど、その冷静さがフェルミナには一番こたえる。
「……だからこそ聞いてる。
本当に、わかってやってるんですか?」
「…………っ」
フェルミナの喉がぎゅっと硬くなる。
ゼンは彼女の内心の混乱を責めるでもなく、ただ真っ直ぐ見ていた。
その視線は戦場で部下を諭すときのものに近い。
決して感情を押し付けず、ただ“正しさ”だけを静かに置いていく。
クレアも黙ってその様子を見ていた。
出しゃばらず、かといってフェルミナを突き放すわけでもなく。
その沈黙には、“判断を委ねる”という騎士としての意思が宿っていた。
ゼンはさらに言葉を重ねる。
「……もし、本当にただの“観光”ならいい。
気晴らしがしたい、帝都を離れたい……そのくらいの理由なら理解できる。
俺も昔、城下町を抜け出してふらふらしたことくらいはある」
フェルミナの目がかすかに見開かれる。
「……えっ、ゼン様が……?」
「俺だって人間です。面倒な儀式より、魚釣りに行きたくなる日もありました」
淡々とした調子で言うゼンに、クレアが小さく目を伏せる。
その仕草は呆れとも懐かしさともつかない。
フェルミナの胸が少しだけ緩んだ……が、その束の間。
「ですが――」
ゼンの視線が鋭さを帯びることなく、それでも確かな力を持ってフェルミナに向く。
「王宮の外で自分の身に何かあったらどうなるか……それは、本当に考えましたか?」
「………………」
「あなたが怪我をしたら、帝都はどう動く?
あなたが誘拐されたら? 倒れたら? 行方不明になったら?
国はすぐに動く。軍も、騎士団も、諜報組織も。
それが“王族ひとりの存在の重み”ってやつです」
フェルミナは飲み込んだ息を吐けないまま固まった。
ゼンは、フェルミナが“政略結婚から逃げてきた”なんて知らない。
ネプタリアとの同盟問題も知らない。
影部隊の監視構造も知らない。
だが――
王族がひとりで外へ出ることがどれほど異常なのかだけは、かつて帝国中枢で働いていたからこそ痛いほど理解している。
「……だから、確認してるんですよ
本当に……それを承知のうえで来たのかを」
その声は諭すようで責めてはいない。
ただ“覚悟”だけを求めていた。
クレアが横でかすかに身じろぎする。
まるで、“ここから先はミナ様自身の答えです”と静かに背中を押すように。
フェルミナは――逃げ道のない場所に立っていた。
(……言えない。絶対に言えない……!
だって、言ったら全部が壊れる。
ゼン様が巻き込まれるし、帝国中が大騒ぎになるし……!)
でも、何か言わなきゃ。
必死に考える。
何か、もっともらしい言い訳を――
心を読まれないような、“ゼン様にだけは嘘だと悟られない言葉”を――。
「え、えぇとですねっ、その……」
口は動くのに、言葉が見つからない。
(どうするのよフェルミナ!?
いい理由……いい理由……! 何か……何か……!)
脳内会議が高速で回転する。
(“伝説のスープを探して”…? いや地味!
“旅レポート”? 文才ないのバレる!
“人生の真理を”…? 重い!
もっとこう……自然で……苦しくなくて……!)
「…………。」
無言。
(やばい、詰んだ。)
ゼンが眉を上げた。
「……どうしました?胃でも痛いのか?」
「ち、ちがいますぅっ! えっと、そのっ、あのっ!!」
「焦らないでください。別に取り調べをしてるわけじゃありません」
「そ、そうですけどぉ~!!」
――落ち着け。フェルミナ・ルクレティア。
ここは王女の知恵と優雅さを見せるとき。
嘘でもいい、堂々とそれっぽく言うのよ。
胸を張って、まっすぐ前を見て……!
「……っその、私……! “人生の修行”に来ました!!」
「…………は?」
ゼンとクレアの声が、完全にハモった。
「しゅ、修行!?」「修行です!」
「……どんな?」
「えーと、その……“心を磨く修行”ですっ!」
「……具体的には?」
「……お、お茶を淹れるとか、そういうっ!」
「……。」
「……。」
「……。」
完全沈黙。
炉の火だけが、パチパチと音を立てた。
「……クレア、お前、これを信じるか?」
「……五分五分ですね」
「だろうな」
ゼンは深いため息をつき、
茶を一口すすりながらぼそりと言った。
「まぁ……ひとまずお前らが無事なら、それでいい。
ただし――」
ゼンが茶碗を置き、ゆっくりと視線を二人へ戻した。
その声音には先ほどまでの問い詰めるような鋭さも、戸惑いもない。
ただ、現実を淡々と告げる者の落ち着いた響きがあった。
「ここは……王宮みたいな場所じゃありませんよ」
その一言に、フェルミナは瞬きをした。
クレアは微動だにしない。
ゼンは続ける。
「風呂は湯殿なんて立派なもんじゃない。ただの木桶だし、焚くのも手作業だ。
夜は冷える。一枚布を被れば凌げるが、宮廷みたいに部屋を温めてくれる魔導炉はない」
淡々とした口調。
けれど、その裏には“覚悟の最終確認”のような気配がある。
甘ったれた王女がひと晩で泣いて帰らぬように――
ゼンなりの優しさで、先に現実を提示しておくという態度だ。
「食事も、宮廷料理みたいに何十品も出るわけじゃない。
質素で量もほどほど。山菜と魚と、保存食が中心だ。
皿だって全部俺の手作りで、豪華なものじゃない」
フェルミナはこくこくと頷きながらも、どこかぽかんとしていた。
王族として当然の生活は“ここにはないぞ”と、ゼンははっきり言っている。
その飾り気のなさが、逆に胸に染みた。
「寝床も……客間は一応あるが、ふかふかの羽毛布団じゃないぞ。
山の夜は底冷えがする。慣れていないと眠れないかもしれない」
その言い方は、まるで“帰るなら今のうちだ”と遠回しに告げるようでもあり――
あるいは“覚悟を持ってここへ来たのか再確認している”ようでもあった。
フェルミナは唇を噛む。
(……ああ……こういうところ……本当に優しい……
追い返すんじゃなくて、ちゃんと“選ばせて”くれてる……)
ゼンは続ける。
「……俺はお前たちを特別な客扱いをするつもりはない。
ここでは客は客だし、働くなら働く者。
――王女だろうが、弟子だろうが関係ない」
その言葉に、フェルミナの胸がきゅうっと縮んだ。
怖さもあった。でも、それ以上に――嬉しかった。
王族としてではなく
期待を背負う象徴としてではなく
“ただの自分”として扱ってくれる場所がどれほど貴重か。
ゼンは視線をそっと落とし、軽く笑った。
「だが――」
囲炉裏の火がぱちりと音を立てる。
その橙が、ゼンの横顔を静かに照らした。
「ここには余計な視線はない。
誰かが君を監視することも、誰かの役割を押しつけられることもない。
逃げてきた理由が何であれ……ここでは、自分の足で立っていける」
“ここには豪華さはない”
“寒いし、不便だし、苦労だって多い”
“それでも来るか?”
ゼンは、本心からそう問うている。
クレアもまた、静かに視線を落としながらもフェルミナを見守っていた。
その顔は冷静なままだが、その奥にはちゃんと“彼女の意思を尊重する”という強い気持ちがある。
ああ――
逃げ道が塞がってるんじゃない。
“選ぶ道が目の前にある”んだ。
フェルミナはそっと息を吸った。
胸の奥が震えて、でもその震えは不安じゃなくて――決意の震えだった。
「……はい」
小さく、でもはっきりと声が出た。
ゼンの眉がわずかに動く。
フェルミナは続ける。
「豪華じゃなくてもいい。
寒くてもいい。
質素でも……木の桶のお風呂でも、ぜんぜん平気です」
ゼンが少しだけ目を丸くした。
フェルミナは胸に手を当て、まっすぐゼンを見た。
「わたし……そういう場所に来たかったんです」
嘘じゃない。
これは本心。
それだけは、胸を張って言える。
「誰かの都合じゃなくて、誰かに決められた場所でもなくて……
“自分のための時間”を過ごせる場所が欲しかった」
クレアがわずかに目を細める。
ゼンは沈黙して聞いている。
フェルミナは少しだけ笑った。
「不便で、寒くて、質素で……でも、誰もわたしを縛らないなら……
そんな場所、最高じゃないですか」
ゼンの口元が、かすかに揺れた。
それは笑ったのか呆れたのか、判断できないほど微細だけれど――
否定はしていない温度があった。
「……そうですか」
短い返事。
なのに胸がじんと熱くなるほど重みがあった。
ゼンは湯呑みを置き、軽く頷いた。
「なら……ここで過ごすことを歓迎しますよ。
ただし――」
また“ただし”だ。
フェルミナは肩をピンと立てる。
ゼンは真顔のまま言った。
「木桶の風呂は……本当に冷たいぞ?」
フェルミナ「 」
クレア「(……そこですか)」
ゼンは肩をすくめた。
「まぁ、そのうち慣れる。
王族だろうと関係ない。ここに来た以上……
俺のやり方に付き合ってもらいますからね」
その言葉は厳しさではなく、この山で暮らす者としての“自然な歓迎”だった。
フェルミナは――胸いっぱいに自由の空気を吸い込んだ。




