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第100.5話 元英雄の食堂【クレア視点】


挿絵(By みてみん)




坂を登りきった瞬間、霧がゆっくりほどけていった。


小さな木造の家が、柔らかな月の明かりを受けて佇んでいる。

軒先には干し野菜、壁には苔。水車の水音が静かに続き、風が薪の匂いを含んでゆるやかに流れていた。


――変わらない。

そう思った。


十年前、任務の途中で何度か訪れた木立と水車の音が混じる、あの休憩地点の匂いと同じ匂いがした。


「……こ、ここが……」


ミナ様──いや、フェルミナ王女は、目の前の光景に息を呑んでいた。


わかっている。

彼女にとってはここは“初恋の人の家”であり、“王女”ではなく“ひとりの少女”として想いを抱いていた場所だ。

心が乱れるのも当然だ。


私は、努めて冷静に言葉を返した。


「看板には“ガルヴァ山間の食堂”とあります。間違いありません」


王女は私の言葉よりも、自身の動揺のほうに忙しそうだった。


「ど、どどど、どうしようクレア……!」


「どう、とは?」


「約7年ぶりなのよ!? 心の準備とか顔の準備とか全然できてないのに!」


「顔はいつも通りです」


「落ち着いて言わないでよ!?」


……本当に、可愛い人だ。

この純粋さをもう七年も守り続けられたなら、それはもう誰が見ても本物の気持ちと言えるだろう。


ミナ様は鏡も無い山奥で、自分の髪や服を気にして騒ぎ続けた。

旅路の疲れもあるだろう。

私はその全てを受け止めながら、一定の声で諭す。


「落ち着いてください。どうせ彼は見た目には無頓着です」


「もぉおおおおっクレア!! 辛辣すぎない!?」


そんな言い争いの途中だった。


軒先からふわりと、出汁の匂いが漂ってきた。


味噌と醤油の柔らかい香り──

ああ、どことなく懐かしいこの匂い。


そして、隣でミナ様の呼吸が途切れた。


(……嬉しいのでしょうね)


途端、胸の奥がじんわり熱くなる。


フェルミナ王女は、七年間。

誰にも言えない想いを抱え続けていた。


団長は……

確かに、誰かの人生を変えてしまう人だ。


私にとっても、そうだったのだから。



霧の隙間からこぼれる月光を見上げながら、私は胸の奥が静かに疼くのを感じていた。


——どうして、いまこんなにも落ち着かないのだろう。


気づかぬふりをしてきた感情が、木戸に灯る明かりを見ただけでひどく騒ぎ出す。


(……私は、本当にこの場所へ“任務”として来ているのだろうか)


王女を守るため。

団長の平穏を守るため。

そのはずなのに、心の奥底では別の気持ちが顔を出していた。


それは懐かしさであり、痛みであり……そして、ひどく柔らかい“恋慕”に似たなにか。


けれど私は、そのどれもに名前をつけるつもりはない。

名前をつけた瞬間、今まで大切にしてきたものが壊れてしまうと思っているから。


風が外套を揺らし、私はほんの少し目を伏せる。


(……団長)


十年前——

蒼竜騎士団の蒼い旗の下を駆けていた頃。

死と隣合わせの戦場で、私はいつもあなたの背中を追っていた。


蒼竜騎士団の紋章が刻まれた青い外套。

それを肩に掛けていた日々の風は、いま思い返してもどこか冷たかった。


山の冷たさではない。

戦場の空気だ。


常に血と焦げた金属の匂いが漂い、地平線の向こうには必ず煙が立ち上る。

そんな景色ばかりを見ていたあの頃——


私の世界はいつも、剣を抜く前の“静寂”だけでできていた。


(……あの頃の私は、本当に子どもだった)


力もない、居場所もない、名前すら捨てられた孤児。

そんな私にとって蒼竜騎士団は、世界のすべてだった。


そして——

団の誰よりも“静かな強さ”を持つ男がいた。


それが、団長だった。


戦場にいるはずなのに、決して“戦いの匂い”を纏わない人。

剣を握っているのに、殺意ではなく“平穏”を身にまとう人。


私が初めて見た彼は敵陣のただ中で、まるで散歩でもしているかのように落ち着いていて——

その姿がひどく不思議で、ひどく優しく見えた。


(……なぜあんな人が、戦場にいたのだろう)


幼かった私は、その疑問を抱えることすら許されないほど必死で生きていた。

けれど団長と共に任務をこなすうちに、その答えはほんの少しだけ理解できるようになった気がする。


団長は、戦うために戦っていたのではない。

守るために戦っていた。


ただそれだけの、——単純で、けれど揺るぎない理由。


だからこそ、彼の剣には“迷い”がなかった。


私は何度もその背中を追った。

背中を追うだけで精一杯だった。



訓練の日々は苛烈だった。

身体は細く、腕力は無く、魔力量も平均以下。

実力主義の部隊では、私のような者は生き残れない。


それでも──

私は団長の言葉が欲しかった。


「クレア、構えが甘い」

「呼吸を合わせろ」

「動く前に、自分の心を鎮めろ」


一日一度でも声をかけられたら、それだけで胸の奥が熱くなる。


けれど同時に、苦しさが増した。


(もっと……もっとそばに近づきたい)


それは幼い憧れであり、救われた命の恩返しであり、

そして自分でも理解できない渇望だった。



ある日、私は無謀な挑戦をした。


蒼竜騎士団の名物──

竜走りゅうそうの間合い”と呼ばれる高速訓練。


団員で最も俊敏な二人が並んで刃を交え、その間を駆け抜けて気配を読む訓練。

未熟者が入れば即座に斬られる。


「やめておけ、クレア。お前にはまだ早い」


止められる声を振り切り、私は間へ飛び込んだ。


一瞬、視界が白くなり、

次の瞬間、頬に鋭い灼熱が走った。


刃の角が掠め、血が流れたのだ。


訓練場がざわつく中、その場を止めたのは団長の低い声だった。


「そこまでだ」


彼が近づいた瞬間、何より怖かったのは叱責ではなく、“がっかりされること”だった。


「クレア、お前は何を焦っている?」


静かな問いに、言葉が出なかった。


強くなりたい。

認められたい。

置いて行かれたくない。

ただそれだけなのに、それを口にすることがなぜか——、涙が出るほど恥ずかしかった。


震える私に、団長は剣を抜いてみせた。

そして刃先をそっと空へ向け、短く言った。


「強くなることは、戦いに勝つということではない」


その声音は淡々としていたが、私の胸に深く沈んだ。


「焦るほど心が乱れ、乱れた心では刃を扱えない。

まず“自分”を整えろ。剣より先に、お前自身を鍛えろ」


その教えは戦術ではなく、“生き方“そのものだった。


私は涙を堪えた。

泣けば子どもに戻る気がして、どうしても泣きたくなかった。


団長はふと目線を下げ、血のついた私の頬へ手を伸ばした。

触れはしなかったが、その指先の動きが十分に温かかった。


「……死ぬほど努力してもいい。

だが死ぬ努力はするな。お前には“生きろ”と言ったはずだ」


その言葉は戦場で初めて会ったときと同じ響きをしていて、私はやっと息ができた。


(……生きていて、いいんだ)


あの日から私は、団長の背中を追うのではなく、ただ肩を並べられる未来だけを信じた。



影走りを体得したのも、

魔導紋の扱いを覚えたのも、

戦場で自分を失わなくなったのも、


すべては団長の教えが“生き方”として私の中に刻まれていたからだ。


そして私は彼の教えを剣ではなく、“私の人生”に宿すことができた。


だからこそ平穏を選び山へ消えた彼を、誰より尊重し、誰より理解したかった。


弟子として。

それ以上を望まないと、自分に言い聞かせて。



…思えば、私の人生は、

始まりからして“戦場の片隅”に転がっていた。


守られることも、待たれることもなかった命。

生き残ったのではなく、ただ“残されていた”だけの子どもだった。


それでも、あの夜――あの出会いがすべてを変えた。



瓦礫と硝煙の匂いが混じった、あの夜のことを思い出すたび――

胸の奥で、まだ少しだけ呼吸が苦しくなる。


鉄と血の匂いが渦を巻き、地面は熱を帯びて揺れ、遠くで魔導砲の残響が響く。

耳鳴りが止まらず、視界は左右に流れ、熱いのか冷たいのかも判然としない。


あのときの私は、戦場に転がる瓦礫の一部でしかなかった。


魔導兵器が爆ぜた瞬間、私はその爆圧に吹き飛ばされ、土砂と石片の中へ埋もれた。

息をするたびに胸が軋み、肺に火がついたように痛む。

叫びたいのに声は出ず、助けを求める頭すら働かない。


(……ああ、ここで終わるんだな)


恐怖を感じる間もなく、ただ“諦め”だけが胸に沈んでいく。

誰も拾い上げてくれない命が、一つ消えるだけ――そのはずだった。


だがそのときだった。


燃え盛る炎の向こうから、ひどく静かな足音が近づいてきた。

戦場の真ん中であるはずなのに、周囲の喧騒とは不釣り合いなほど整った、落ち着いた歩み。


まるで風が地面を撫でるような、澄んだリズム。


視界の端に、ゆらりと白銀が揺れた。


――刃だ。


けれど、その刃は血の匂いを纏っていなかった。

斬撃の唸りも、破壊の衝撃もない。


音もなく炎を裂き、そのまま世界の喧噪を二つに分けるように静かに差し込んできた光。


「……よく、生きていたな」


低く、けれど温かい声が降ってきた。


瓦礫をどかす手は驚くほど的確で、乱暴さはひとかけらもなかった。

炎の粉塵が舞う中で、彼の所作だけが驚くほど静かだった。


抱き上げられたとき、私は自分の身体がこんなにも軽かったのかと初めて知った。

孤児として地下街を生きた私は、誰かに抱き上げられる経験などほとんどなかった。

“支えられる”という感覚は、人生で一度も味わったことのないものだった。


その腕の中で、私はかすかに震えた。


彼の名前を知らないはずなのに、

胸の奥が確かに理解していた。


――この人は、死よりも静かで、

  闇よりも温かい。


ゼン・アルヴァリード――

蒼竜騎士団の“白刃の英雄”。


その名のとおり、彼の刃には光が宿り、しかしその腕には誰よりも静かな温度があった。


「大丈夫だ」


その一言は、命を繋ぎとめる呪文だった。


混ざり合っていた音がすっと遠のき、胸の奥の諦めがひとつひとつ剥がれ落ちていく。

生きている実感が、痛みと一緒に戻ってきた。


“生きていていい”と、初めて思った瞬間だった。



後に蒼竜騎士団へ引き取られ、私は団長の部下となり、剣の扱いや戦場での戦い方を学びながら、いつか隣に立てるようにと必死に鍛え続けた。


団長はいつだって静かで、淡々として、周りからどれだけ讃えられても決して誇ることのない人だった。


無駄を嫌い、強さを誇示せず、ただ必要なときにだけ刃を振るう。


私が憧れたのはその強さではなく、彼自身の“生き方”だった。


どれだけ叱られても、そこには必ず“温かみ”があった。


だから必死に食らいついた。


毎朝彼より早く起きること。

誰よりも多く汗を流すこと。

倒れても泣いても迷っても、——やめないこと。


“いつか隣に立てるように。”


ただ、それだけを胸に刻んで。




(……本当に、変わらない)


山小屋の木戸からこぼれる光は、あの夜私を包んだ焚き火の光とよく似ていた。


くすんだ橙色。

闇を追い払う小さな温かさ。

誰かひとりだけを照らしてくれるような柔らかい光。


団長が、壊れた私を拾ってくれた夜の光。


風が木々を揺らす音が耳に触れるたび、

胸の奥の古い傷がゆっくりほどける。

忘れたと思っていた痛みが柔らかく融け、

その奥にある温もりだけが残っていく。


私は王女の護衛であり、団長の弟子。

それ以上を望むことなど許されていない。

望まないと決めたのも自分だ。


なのに。


なのに、こうして木戸の前に立つと――

胸がどうしようもなく熱くなる。


(……再びこの光を見る日が来るとは、思わなかった)


守られるべき王女を連れてきた身でありながら、

私は弟子としての顔に戻りそうになっている。


団長の声を、もう一度聞きたい。

あの静かで、あたたかい声を。


その願いが胸の奥で小さく震えていた。



私は深く息を吸い、王女を見る。


彼女の瞳は震えていた。

期待と恐れと喜びが混ざり、まるで昔の私を見ているようだった。


だから私は、静かに言った。


(……行きましょう)


逃げる必要はない。

王女も、私自身も。


そして——

団長が選んだ静寂の場所へ、共に踏み入る時が来たのだ。


「クレア……行こう」


「了解しました。深呼吸を」


「ふ、ふぅ……すぅ……ひゅぅ……っ」


過呼吸気味の主を落ち着かせながら、共に扉の前へ進む。


少しだけ開いている木戸から、暖かな光が漏れていた。


その光は、王女を迎えるようであり──

同時に、私の過去へと続く入口のようでもあった。





手を伸ばそうとした、その時。


扉が、内側から静かに開いた。


現れたのは──


「……あんたら、客か?」


その声に、心臓がひとつ跳ねる。


低く、落ち着きはそのままに。

しかし以前より、少しだけ疲れが滲むような音色。


団長。


黄金色の前掛け。煤けた指先。整えられていないボサボサの髪。

七年前の“蒼竜騎士団長”とは違う、静かな生活者の姿。


けれど、その眼差しは――

戦場のあの日と、何ひとつ変わっていない。


私の喉の奥で、思い出が音もなく震えた。


「え、えっと……えぇと……」


ミナ様は当然、言葉にならない。


「……店じまいだ」


「ひゃいっ!?」


(もう……本当に……)


王女が震え出す前に、私は背後で小さく囁いた。


「ミナ様、呼吸を」


けれど王女は逆に混乱してしまい、咄嗟に彼女の自信を取り戻そうと、なんとか言葉を紡ごうとして──


「王女様、言葉をまとめて」


「無理よクレア!!」


――その時だった。


団長の視線が、一瞬だけ鋭く動いた。


「……“王女様”?」


しまった、と直感で理解した。

だが遅かった。


王女の髪飾りに刻まれた〈光輪の紋章〉は、隠せるものではない。


団長の眼差しが、過去の記憶を掘り起こすように細くなる。


「……フェルミナ、王女、か」


その声は驚きよりも、静かな困惑に近かった。


(七年ぶりですから……当然ですよ)


王女は涙目で意味不明な否定を繰り返していた。


…どのみちここに来さえすれば、正体を隠す必要などない。顔を見せてしまえば、私たちが誰かはすぐにわかる。だったらいっそのことこちらから正体を明かし、快く迎えてもらおう。


はるばる帝都からやって来たと、できるだけ包み隠さずに。


「団長…」


そう呼びかけた声は思いのほか軽やかで、どこか浮ついているような気もした。


そして。


団長の視線が、ふと私へ移った。


その瞬間、胸の奥がひやりと震える。


「……クレア、か」


七年ぶりに呼ばれた、自分の名。


どれだけ時間が経っても、

背筋に電流が走るような感覚は消えていなかった。


「……お久しぶりです、団長」


声が震えていないか、少しだけ不安だった。


団長は、一瞬だけ表情を止め……

それから小さく笑うように、肩を落とした。


「……まったく、どういう組み合わせだよ」


「申し訳ありません。護衛として同行しました」


「護衛……ね」


団長は頭を掻き、いつものように気の抜けた仕草で息を吐く。


そして、ふっと。


あの穏やかな声音に戻った。


「……まぁいい。風邪ひく前に入れ」


その一言だけで、

七年前の、蒼竜騎士団長の背中が思い出の中から蘇ってしまう。


温かくて、強くて。

どれだけ距離を置かれても、救われてしまう声。


「クレア、お前もだ」


「はい。――ですが、団長」


「団長はやめろ。今はただの一般人だ」


「……了解しました、ゼン様」


(言い直しても、結局は“様”なんですけどね)


胸が少しだけ痛む。


けれど、懐かしい。


フェルミナ王女は、もう泣き出しそうなほど顔を赤くしていた。


団長は「うるさい客だ」とでも言いたげに眉を寄せながらも──

結局は優しい声で告げる。


「足元、滑るから気をつけろ」


(変わらない……)


こんなところまで、何ひとつ。


私は小さく頭を下げて、店内に足を踏み入れた。


温かい湯気。

出汁の香り。

暮らしの匂い。


霧の冷たさから解放されるように、胸が自然と緩む。


(……やっと、会えましたね)


団長の背に向けて、声には出さずそっと呟いた。


扉が閉まる音は確かに聞こえた。

それはまるで、閉じた世界の“再開”を告げるような音だった。


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