第100話 元英雄の食堂
◇
「……こ、ここが……」
ようやくたどり着いたその場所――何度も頭の中で想像していた“幻の食堂”を目の前にして、フェルミナは息を呑んだ。
小さな木造の家。
屋根からは白い煙が細く上がり、風に溶けて霧と混ざり合っている。
壁は苔むし、木戸は少し傾いていて、軒下には干し野菜と薪の束。
庭先では水車が静かに回り、心地よい水音を立てていた。
「え、えっと……ほんとに、ここ……なのよね……?」
「看板には“ガルヴァ山間の食堂”と書いてあります。間違いないかと」
クレアは淡々と答える。表情は相変わらず氷の彫刻みたいに動かない。
けれどフェルミナには見える。
その冷たい瞳の奥に、わずかに宿る光――懐かしさ。
きっと彼女も、あの人の顔を思い出しているのだろう。
「ど、どどど、どうしようクレア……!」
「どう、とは?」
「だ、だって、もう、会えるのよ!? 約7年ぶりだよ!? 準備とか心の準備とか顔の準備とか、全然できてないのに!」
「顔はいつも通りです」
「いつも通りって何それ!? そんなに落ち着いて言わないでよ!」
もはや完全にテンパっていた。
頬は真っ赤、髪は旅の途中でボサボサ。
服も三日間の山道で土まみれ。
しかも靴の片方は途中で紐が切れて、クレアに縫ってもらったという残念仕様。
こんな姿で再会なんて、まるで“山賊に襲われた後の悲惨な状況"をありのまま晒すみたいじゃない。
「せめて……せめて鏡、鏡を……! あっ、ない!!」
「山の中で鏡を出す人はいません」
「じゃ、じゃあ髪! 髪が!」
「大丈夫です。どうせあの人は見た目より料理の仕込みに夢中です」
「夢中って……クレア、あなたちょっと辛辣じゃない!?」
フェルミナはその場でうろうろと回りはじめた。
まるで“思考という名の暴風”が頭の中を吹き荒れている。
――再会したら、なんて言おう?
「お久しぶりです、ゼン様」? いや、硬い。
「お元気でしたか?」? いや、軽い。
「また会えましたね♡」……死ぬ、恥ずかしくて死ぬ。
「クレア、もしわたしが変なこと言ったら、止めてね?」
「……どの程度を“変”と定義しますか?」
「“好きです”って言いそうになったら止めて!」
「では、常に止める準備をしておきます」
「そんなに信用ないの!?」
そうして言い争っているうちに、
灰庵亭の軒先から――ふわりと湯気が流れてきた。
だしの香り。
醤油と味噌の、あの懐かしい匂い(妄想)。
胃の奥が、くうっと鳴った。
フェルミナは一瞬、涙が出そうになった。
ああ……本当に、あの人が作ってるんだ……。
たったそれだけのことが、なぜか信じられないほど嬉しかった。
英雄が戦場ではなく、台所に立っている。
命を救う剣ではなく、食を作る包丁を握っている。
その事実が彼が日常の中に“生きている”という証であり、わたしの願いが届いた証のように思えた。
…一体、どれほどこの瞬間を待ち侘びただろうか。
胸の奥がぎゅっと掴まれたように苦しくて、でも同時にどうしようもなく温かかった。
……思い返せば、わたしの時間は七年前で止まっていたのかもしれない。
帝都の大広間。
まだあどけない少女だったわたしの前で、彼は静かに膝を折った。
「どうか恐れないでください。──これからの帝国の未来は、誰かが背負うのではなく、共に築かれるべきものです」
その言葉が、胸の奥にずっと残っている。
誰よりも寡黙で、誰よりも影のように佇む人だったのに。
その一言だけははっきりと揺らぎなく、わたしの人生を変えるほどの色を持っていた。
……あの日からわたしはずっと、彼の背中を追いかけていた。
戦場で孤独に立つその肩。
人々に囲まれても、決して誇らしげには見えなかった横顔。
誰かを救っても、勲章を受けても、ただ静かに去っていく後ろ姿。
でも――
ひとりの少女に向けたその手だけは、どこまでも優しかった。
(……ねぇ、ゼン様。あれから、わたし……だいぶ大きくなったんだよ)
あのとき救われた心は成長とともに膨らんでいって、胸に収まりきらないほどの“感情”になってしまった。
王族として生きる日々でさえ、その気持ちだけはいつも本音だった。
どうしようもなく息が詰まりそうな日も、
誰かの期待に押し潰されそうになった日も、
わたしはいつも思い出していた。
(ゼン様なら、どうするだろう?)
(ゼン様は今、どこにいるんだろう?)
そして――帝都にひっそりと広まっていた、ある噂。の噂。
“英雄ゼンは、山奥の食堂にいるらしい”
その記事を目にした瞬間、心臓が跳ねあがった。
それまでの呼吸が全部嘘みたいに胸が熱くなった。
(行かなきゃ――)
気づいたら、王宮を飛び出す計画を立てていた。
クレアを巻き込み、誰にも言えない旅を決めていた。
「クレア……行こう」
「了解しました。……ただし、落ち着いてください。深呼吸」
「う、うん……ふぅ……すぅ……(過呼吸気味)」
そして、扉の前に立つ。
目の前の木戸は、ほんの少しだけ開いていた。
隙間から暖かい光が漏れている。
まるで長旅で疲れ果てたわたしを迎えてくれているようだった。
手を伸ばそうとした――その瞬間。
「――あ。」
扉が、内側から静かに開いた。
そこに立っていたのは――
あの人だった。
黄金色の前掛けに、白いシャツ。
腕まくりをして、少し煤けた指先。
髪にはわずかに白いものが混ざっている。
でも背筋はまっすぐで、瞳の奥の光はあの頃と変わらない。
ゼン・アルヴァリード。
かつて帝国を救い、世界の英雄と呼ばれた男が今――“食堂の店主”として目の前に立っていた。
「……あんたら、客か?」
……声、低い。
昔と同じ、あの落ち着いた声。
でもちょっとだけ、眠そう。
ていうかテンションが……静かすぎる。
フェルミナは一瞬、固まった。
クレアが後ろで「ミナ様、呼吸」と囁いている。
でももう頭の中は真っ白。
声を出そうとしても口が動かない。
あれ? どうしよう?
せっかく練習したセリフが……全部飛んだ。
「え、えっと……えぇと……」
「……ああ、旅人か。すまんが、今日はもう店じまいだ」
「ひゃいっ!?」
自分でも、意味不明な返事をしてしまった。
頭の中で誰かが鐘を鳴らしている。カーンカーンカーン。
やばい、顔が熱い。心臓が煮えたぎってる。
これが“恋の末期症状”ってやつ?
「……それと、そこの掲示見なかったか? 予約制なんだよ、うちは」
「み、見ました! でも……えっと……その……!」
「王女様、言葉をまとめて」
「無理よクレア! 頭が回らないの!!」
――その瞬間、ゼンの眉がぴくりと動いた。
「……“王女様”?」
低く呟いた声。
ほんの一瞬、空気が止まる。
霧のような静寂の中、フェルミナは笑顔を引きつらせた。
「あ、いやっ! 違うの! そういう呼び名で! あの、友達のあだ名みたいなもので!」
「……友達?」
「う、うん! ミナ! 私はミナ! ただの旅人ミナです!」
……その言い訳は、もはや逆効果だった。
ゼンはわずかに目を細め、顔を覗き込むようにして――
その瞬間、彼の表情が固まった。
「……おい、待て。まさか――」
フェルミナは、凍りついた。
あ、やばい。完全にバレた。
ゼンの視線が、彼女の頬の金色の髪飾りに止まる。
そこに刻まれた意匠――聖皇国王家の紋章〈光輪の印〉。
どんなに泥と埃にまみれても、それだけは隠せなかった。
「……フェルミナ、王女、か」
低く、懐かしい声。
フェルミナの肩が、びくんと跳ねた。
「~~っ!? ひゃっ……はいっ!! そ、その……えっと……!」
「どうしてあなたが……ここに……?」
まさかの再会に、ゼンの声もわずかに揺れた。
彼は額に手を当て、小さく息を吐く。
「……まさか。なんでまた王族がうちの飯を食いにくるんだ…。どんな噂が帝都で流れてんだ……」
フェルミナは、両手を胸の前でぶんぶん振る。
「ち、ちがうんですっ! 噂とかじゃなくて、その……お会いしたくて……!」
ゼンが返事に詰まったそのとき、後ろからもう一人――
冷たい声が、霧を割るように響いた。
「……お久しぶりです、団長」
ゼンの目が、ゆっくりとその声の主に向く。
そして――その瞳が、ハッとなったように大きく見開かれた。
「……クレア、か」
ほんの数秒。
彼の顔には懐かしさと驚きと、そして言葉にならない複雑な色が走る。
「……まったく、どういう組み合わせだよ。王女様と弟子が連れ立って山を登るとはな……」
「申し訳ありません。護衛として同行しました」
「護衛……ねぇ」
ゼンは頭をかきながら、しばし沈黙した。
外の霧が足元を流れ、木々の音が静かに響く。
そして――ふっと肩の力を抜いたように息を吐き、
口の端をわずかに上げた。
「……まぁ、いい。外で突っ立ってると風邪ひくぞ。中に入れ」
その声に、フェルミナの心臓が止まりそうになった。
「っっああああありがとうございますぅぅぅっ!!!」
「声が大きい」
「すっすみませんんっ!!!」
「クレア、お前も早く入れ」
「はい。……ですが、団長――」
「団長はやめろ。今はただの一般人だ。」
「……了解しました、ゼン様」
「…畏まりすぎだ」
そのやりとりを聞いて、フェルミナは呆然とした。
“団長”――つまり、やっぱり本物だ(…いや当たり前だけど)。
あの蒼竜騎士団の隊長、世界の英雄、わたしの初恋の人。
彼が目の前にいる。
しかも私の名前を、ちゃんと覚えていた。
胸の奥がじんわりと熱くなった。
“灰庵亭”の戸口から漏れる光が、やけに柔らかく見えた。
「……夢じゃないんだね」
「ん?」
「い、いえっ! なんでもないですっ!!」
顔を真っ赤にしながら、靴を脱ぐ。
ゼンの声が背中に落ちた。
「足元、滑るから気をつけろ。……まったく、王族まで客になるとは思わなかった」
「ふふっ……」
フェルミナは、涙をこらえながら笑った。
(あなたに、会えた――)
外の霧が閉じて暖かな湯気と出汁の香りが、ふたりを包み込む。
“灰庵亭”の扉がゆっくりと閉じる音が、まるで“運命の鐘”のように響いていた。




