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第100話 元英雄の食堂


挿絵(By みてみん)





「……こ、ここが……」


ようやくたどり着いたその場所――何度も頭の中で想像していた“幻の食堂”を目の前にして、フェルミナは息を呑んだ。


小さな木造の家。

屋根からは白い煙が細く上がり、風に溶けて霧と混ざり合っている。

壁は苔むし、木戸は少し傾いていて、軒下には干し野菜と薪の束。

庭先では水車が静かに回り、心地よい水音を立てていた。


「え、えっと……ほんとに、ここ……なのよね……?」


「看板には“ガルヴァ山間の食堂”と書いてあります。間違いないかと」


クレアは淡々と答える。表情は相変わらず氷の彫刻みたいに動かない。


けれどフェルミナには見える。

その冷たい瞳の奥に、わずかに宿る光――懐かしさ。

きっと彼女も、あの人の顔を思い出しているのだろう。


「ど、どどど、どうしようクレア……!」

「どう、とは?」

「だ、だって、もう、会えるのよ!? 約7年ぶりだよ!? 準備とか心の準備とか顔の準備とか、全然できてないのに!」

「顔はいつも通りです」

「いつも通りって何それ!? そんなに落ち着いて言わないでよ!」


もはや完全にテンパっていた。

頬は真っ赤、髪は旅の途中でボサボサ。

服も三日間の山道で土まみれ。

しかも靴の片方は途中で紐が切れて、クレアに縫ってもらったという残念仕様。

こんな姿で再会なんて、まるで“山賊に襲われた後の悲惨な状況"をありのまま晒すみたいじゃない。


「せめて……せめて鏡、鏡を……! あっ、ない!!」

「山の中で鏡を出す人はいません」

「じゃ、じゃあ髪! 髪が!」

「大丈夫です。どうせあの人は見た目より料理の仕込みに夢中です」

「夢中って……クレア、あなたちょっと辛辣じゃない!?」


フェルミナはその場でうろうろと回りはじめた。

まるで“思考という名の暴風”が頭の中を吹き荒れている。


――再会したら、なんて言おう?

「お久しぶりです、ゼン様」? いや、硬い。

「お元気でしたか?」? いや、軽い。

「また会えましたね♡」……死ぬ、恥ずかしくて死ぬ。


「クレア、もしわたしが変なこと言ったら、止めてね?」

「……どの程度を“変”と定義しますか?」

「“好きです”って言いそうになったら止めて!」

「では、常に止める準備をしておきます」

「そんなに信用ないの!?」


そうして言い争っているうちに、

灰庵亭の軒先から――ふわりと湯気が流れてきた。


だしの香り。

醤油と味噌の、あの懐かしい匂い(妄想)。

胃の奥が、くうっと鳴った。

フェルミナは一瞬、涙が出そうになった。


ああ……本当に、あの人が作ってるんだ……。


たったそれだけのことが、なぜか信じられないほど嬉しかった。

英雄が戦場ではなく、台所に立っている。

命を救う剣ではなく、食を作る包丁を握っている。

その事実が彼が日常の中に“生きている”という証であり、わたしの願いが届いた証のように思えた。


…一体、どれほどこの瞬間を待ち侘びただろうか。



胸の奥がぎゅっと掴まれたように苦しくて、でも同時にどうしようもなく温かかった。


……思い返せば、わたしの時間は七年前で止まっていたのかもしれない。


帝都の大広間。

まだあどけない少女だったわたしの前で、彼は静かに膝を折った。


「どうか恐れないでください。──これからの帝国の未来は、誰かが背負うのではなく、共に築かれるべきものです」


その言葉が、胸の奥にずっと残っている。

誰よりも寡黙で、誰よりも影のように佇む人だったのに。

その一言だけははっきりと揺らぎなく、わたしの人生を変えるほどの色を持っていた。


……あの日からわたしはずっと、彼の背中を追いかけていた。


戦場で孤独に立つその肩。

人々に囲まれても、決して誇らしげには見えなかった横顔。

誰かを救っても、勲章を受けても、ただ静かに去っていく後ろ姿。


でも――


ひとりの少女に向けたその手だけは、どこまでも優しかった。


(……ねぇ、ゼン様。あれから、わたし……だいぶ大きくなったんだよ)


あのとき救われた心は成長とともに膨らんでいって、胸に収まりきらないほどの“感情”になってしまった。


王族として生きる日々でさえ、その気持ちだけはいつも本音だった。

どうしようもなく息が詰まりそうな日も、

誰かの期待に押し潰されそうになった日も、

わたしはいつも思い出していた。


(ゼン様なら、どうするだろう?)

(ゼン様は今、どこにいるんだろう?)


そして――帝都にひっそりと広まっていた、ある噂。の噂。


“英雄ゼンは、山奥の食堂にいるらしい”


その記事を目にした瞬間、心臓が跳ねあがった。

それまでの呼吸が全部嘘みたいに胸が熱くなった。


(行かなきゃ――)


気づいたら、王宮を飛び出す計画を立てていた。

クレアを巻き込み、誰にも言えない旅を決めていた。



「クレア……行こう」


「了解しました。……ただし、落ち着いてください。深呼吸」


「う、うん……ふぅ……すぅ……(過呼吸気味)」


そして、扉の前に立つ。

目の前の木戸は、ほんの少しだけ開いていた。

隙間から暖かい光が漏れている。

まるで長旅で疲れ果てたわたしを迎えてくれているようだった。


手を伸ばそうとした――その瞬間。


「――あ。」


扉が、内側から静かに開いた。


そこに立っていたのは――


あの人だった。



黄金色の前掛けに、白いシャツ。

腕まくりをして、少し煤けた指先。

髪にはわずかに白いものが混ざっている。

でも背筋はまっすぐで、瞳の奥の光はあの頃と変わらない。


ゼン・アルヴァリード。


かつて帝国を救い、世界の英雄と呼ばれた男が今――“食堂の店主”として目の前に立っていた。


「……あんたら、客か?」


……声、低い。

昔と同じ、あの落ち着いた声。

でもちょっとだけ、眠そう。

ていうかテンションが……静かすぎる。


フェルミナは一瞬、固まった。

クレアが後ろで「ミナ様、呼吸」と囁いている。

でももう頭の中は真っ白。

声を出そうとしても口が動かない。

あれ? どうしよう?

せっかく練習したセリフが……全部飛んだ。


「え、えっと……えぇと……」

「……ああ、旅人か。すまんが、今日はもう店じまいだ」

「ひゃいっ!?」


自分でも、意味不明な返事をしてしまった。

頭の中で誰かが鐘を鳴らしている。カーンカーンカーン。

やばい、顔が熱い。心臓が煮えたぎってる。

これが“恋の末期症状”ってやつ?


「……それと、そこの掲示見なかったか? 予約制なんだよ、うちは」

「み、見ました! でも……えっと……その……!」

「王女様、言葉をまとめて」

「無理よクレア! 頭が回らないの!!」


――その瞬間、ゼンの眉がぴくりと動いた。


「……“王女様”?」


低く呟いた声。

ほんの一瞬、空気が止まる。

霧のような静寂の中、フェルミナは笑顔を引きつらせた。


「あ、いやっ! 違うの! そういう呼び名で! あの、友達のあだ名みたいなもので!」

「……友達?」

「う、うん! ミナ! 私はミナ! ただの旅人ミナです!」


……その言い訳は、もはや逆効果だった。

ゼンはわずかに目を細め、顔を覗き込むようにして――

その瞬間、彼の表情が固まった。


「……おい、待て。まさか――」


フェルミナは、凍りついた。

あ、やばい。完全にバレた。


ゼンの視線が、彼女の頬の金色の髪飾りに止まる。

そこに刻まれた意匠――聖皇国王家の紋章〈光輪の印〉。

どんなに泥と埃にまみれても、それだけは隠せなかった。


「……フェルミナ、王女、か」


低く、懐かしい声。

フェルミナの肩が、びくんと跳ねた。


「~~っ!? ひゃっ……はいっ!! そ、その……えっと……!」

「どうしてあなたが……ここに……?」


まさかの再会に、ゼンの声もわずかに揺れた。

彼は額に手を当て、小さく息を吐く。


「……まさか。なんでまた王族がうちの飯を食いにくるんだ…。どんな噂が帝都で流れてんだ……」


フェルミナは、両手を胸の前でぶんぶん振る。


「ち、ちがうんですっ! 噂とかじゃなくて、その……お会いしたくて……!」


ゼンが返事に詰まったそのとき、後ろからもう一人――

冷たい声が、霧を割るように響いた。


「……お久しぶりです、団長」


ゼンの目が、ゆっくりとその声の主に向く。

そして――その瞳が、ハッとなったように大きく見開かれた。


「……クレア、か」


ほんの数秒。

彼の顔には懐かしさと驚きと、そして言葉にならない複雑な色が走る。


「……まったく、どういう組み合わせだよ。王女様と弟子が連れ立って山を登るとはな……」


「申し訳ありません。護衛として同行しました」


「護衛……ねぇ」


ゼンは頭をかきながら、しばし沈黙した。

外の霧が足元を流れ、木々の音が静かに響く。

そして――ふっと肩の力を抜いたように息を吐き、

口の端をわずかに上げた。


「……まぁ、いい。外で突っ立ってると風邪ひくぞ。中に入れ」


その声に、フェルミナの心臓が止まりそうになった。


「っっああああありがとうございますぅぅぅっ!!!」


「声が大きい」


「すっすみませんんっ!!!」


「クレア、お前も早く入れ」


「はい。……ですが、団長――」


「団長はやめろ。今はただの一般人だ。」


「……了解しました、ゼン様」


「…畏まりすぎだ」


そのやりとりを聞いて、フェルミナは呆然とした。

“団長”――つまり、やっぱり本物だ(…いや当たり前だけど)。

あの蒼竜騎士団の隊長、世界の英雄、わたしの初恋の人。

彼が目の前にいる。

しかも私の名前を、ちゃんと覚えていた。


胸の奥がじんわりと熱くなった。

“灰庵亭”の戸口から漏れる光が、やけに柔らかく見えた。


「……夢じゃないんだね」


「ん?」


「い、いえっ! なんでもないですっ!!」


顔を真っ赤にしながら、靴を脱ぐ。

ゼンの声が背中に落ちた。


「足元、滑るから気をつけろ。……まったく、王族まで客になるとは思わなかった」


「ふふっ……」


フェルミナは、涙をこらえながら笑った。


(あなたに、会えた――)


外の霧が閉じて暖かな湯気と出汁の香りが、ふたりを包み込む。


“灰庵亭”の扉がゆっくりと閉じる音が、まるで“運命の鐘”のように響いていた。


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