第99話 完全予約制!?
灰花草の丘を吹き渡る風は、昼の名残りと夕暮れの予兆を混ぜたような、なんともいえない澄んだ温度をしていた。
高原特有の乾いた匂いに灰花露の淡い甘さが重なり、胸の奥の緊張がすっとほどけていく。
ユファは斜面の真ん中に立ち、両手を広げたままくるくる回っていた。
「ね、すごいでしょっ?
あたしね、この時間の光がいちばん好きなの!」
くるりと回転すると、彼女の三角耳がふわっと揺れ、尻尾が風の中で軽やかに踊る。
その姿はまるで灰花草の光の波そのものと踊っているみたい。
わたしは少し高い場所へ歩き、丘の全景を見渡した。
灰花草の丘は、まるで天から光が降り染みこんだみたいにひとつひとつの穂先が柔らかく輝いていた。
足元に広がる小さな白い粒が風に触れるたびふわりと浮きあがり、きらきらと宙に舞う。
その粒は空気と溶け、淡い光の膜となって丘全体を包みこんでいた。
霧樹林の方角では、翡翠色の光の揺らめきが風に合わせてゆっくり波を描く。
一つひとつの揺れが別々のリズムを刻んでいるのに、全体を見ればまるで大きな呼吸をしているみたいで――
生命というより、むしろ“世界そのものの鼓動”がそこにあるような錯覚すら覚えた。
丘のすそをなぞるように続く段畑は石壁が階段のように重なり、そこへ射しこむ陽射しが温かい金色を落としている。
霧に濡れた石はやわらかく光を返し、その間を走る細い水路が静かにきらめいていた。
ふいに、谷の奥から風が吹きぬけた。
霧がほどけ、帯のようにたなびき、丘の上で光の層と混ざりながら揺れた。
それは風景というよりも――絵の具の粒が空に解けてゆく絵画の一瞬を、そのまま現実に閉じ込めたみたいな光景だった。
耳をすませば、遠くの工房から木槌の音が、霧樹の葉のさざめきに混ざってかすかに響いてくる。
それすらも音ではなく、午後のあたたかい空気に溶けた“色”のように感じられた。
どこかで山鹿が鳴いた。
霧樹の葉に反射した翡翠色の光が、丘に淡い影を落とし影の輪郭がすっと伸びていく。
影までもが流れていく何気ない日常の呼吸に合わせて動いているようだった。
空を見上げると雲が薄く伸びて陽の光を透かし、橙と紫と灰の境目がじんわり混ざり合っていた。
光が溶け、霧が舞い、風がその境界をやさしく撫でていく。
――世界が、静かに柔らかくほどけていく瞬間。
この場所だけ時間が違う速さで流れているように思えた。
丘の上でユファがくるりと一回転し、耳と尻尾を風に預ける。
その輪郭が光の粒に縁取られ、一瞬、彼女の周囲だけ現実がほんの少し浮きあがったように見える。
わたしは胸の奥がぎゅっとなるほどの静かな感動を覚えながら、丘のさらに高いところへ一歩踏み出した。
足音が灰花草の間にすっと沈み、光が足元で静かに揺れる。
振り返れば、谷全体が黄金と霧と翡翠の三色のグラデーションで染まっていた。
それは絵画では出せないし、帝都の魔導灯でも再現できない――
ただこの谷だけの色だった。
(……こんな景色、ほんとうにあるんだ)
胸の奥に熱がじんと広がる。
そのとき、隣に立ったクレアが灰花草をそっと指で弾いた。
光の粒がふるりと震えて落ち、風に乗って流れていく。
その一瞬の輝きですら、この谷の静けさにぴったり溶けて美しかった。
「……これほど美しい光景は、私も久しぶりに見ました」
クレアの声は、降り注ぐ午後の色に溶けてしまいそうなほどやわらかかった。
「久しぶり……?」
「任務で来た時は、夜間や霧の深い日が多かったので。
こうして晴れた日の午後に山郷を見るのは、ずいぶん前のことです」
その声は穏やかで、どこか懐かしさを含んでいた。
(クレアにも……忘れられない日があったのかな)
彼女の横顔はいつもの“衛士の顔”ではなく、ただの旅人に戻ったように柔らかい。
日差しを受けた髪が淡く揺れ、瞳が灰花草の光を映していた。
「ねぇねぇミナ、こっちも見て!」
ユファが両手を振る。
斜面の下に降りた彼女の足元で、風が強く吹き抜け、灰花草の穂が一気に波打った。
灰花草の穂が揺れた瞬間——
まるで目に見えない指先が谷をそっと撫でたように、斜面全体がふわりと震えた。
その揺れが一段、また一段と広がり、光が草の海をゆっくりと駆けていく。
金色の粒が波紋のように走り、霧の薄膜にぶつかって反射し、細かな光の層になって空へ立ち昇る。
風は高原の乾いた香りと、霧樹の樹液が混ざった甘い匂いを運び、呼吸するだけで胸の奥がすっと澄んでいくようだった。
(……海みたい)
草原が打ち寄せる波で、光が潮のように満ち引きしている。
でもこれは海じゃない。
音もなく押し寄せる“光の満ち潮”。
山郷だけに存在する、静かな光の海。
視界の左では霧樹林がうっすらと翡翠の光を帯び、その光が風に揺れるごとに森の表面へ淡い波紋を描く。
森全体がひとつの巨大な呼吸器官になって、谷に生命の脈動をゆっくり送り出しているようにも見えた。
ユファが立つ斜面は少し窪んでいて、そこに吹き下ろす風が灰花草の穂先だけをひときわ強く揺らす。
揺れた草が光を巻き上げ、青みがかった霧の粒と混ざりあう。
光と霧が混じり合ったその一瞬の場所だけ、まるで時間の速度が変わったみたいに世界がゆっくりと脈打つ。
「夕方になるとね、光が紫になるの」
ユファの声は、もう景色の一部のようだった。
わたしが彼女の指さす方へ目を向けると――
谷の奥で霧が日光を乱反射し、薄い虹のような層をつくっていた。
まだ夕暮れには遠いはずなのに、いくつもの淡い光が重なり、霧の粒が光の帯のように流れていく。
午後の金色の中にほんのわずかだけ桃色が混じり、それを霧が吸い上げて灰花草へそっと落としていく。
穂先が光を受けて白銀に瞬き、斜面全体が薄い光の膜に包まれた。
(……息が出ないくらい綺麗)
胸の奥がじんと熱くなる。
目が奪われて、まばたきすら惜しい。
ユファは胸を張り、白い歯を見せてにっこり笑った。
「山郷の夕暮れは特別なんだよ」
風が彼女の尻尾をふわっと揺らし、耳先へ淡い光が触れる。
「昼の光は“生きる力”。
夜の光は“守る力”。
その境目にある夕暮れはね、山が“心を整える時間”なんだって」
言葉の意味は全部わかるわけじゃない。
でも、この光景の前では——
その表現がとても正しく響いた。
昼の温かさと高原の冷たい風と、霧の静かな揺らぎ。
その全部が混じり合って、谷が“いま”を呼吸している。
その中に立っている自分もまた、ほんの少し世界の一部になれたような気がした。
ユファはくるりと振り返り、言葉を続けた。
「ミナってさ――
すっごく、がんばってる匂いがする」
「えっ……!」
突然すぎるその言葉に、思わずたじろいでしまう。
「霧にはね、人の気持ちの匂いがちょっとだけ混ざるんだよ。
悲しい匂いとか、がんばってる匂いとか、迷ってる匂いとか。
ミナは、“がんばってるけど疲れてる匂い”がしたの」
「……そんなに、わかるの……?」
「うん。
だから、ここに連れてきたの。
この丘にいるとね、心がゆっくりほどけるでしょ?」
その笑顔はやさしくて、まるで灰花草の光みたいに柔らかい。
クレアが静かに言った。
「……ユファさんは、勘が鋭いのです。獣人族の方は、私たち人間にはない鋭い感性を持っている人がほとんどですから」
「へへーん、褒められた!」
尻尾をぶん! と振るユファに、思わず笑ってしまう。
そしてクレアは少しだけ遠くを見る目をして、続けた。
「……でも、確かに。
ミナ様はこのところずっと慣れない時間を過ごしていましたからね……」
灰花草の波の中で、クレアがそっと微笑んだ。
「こうしてひと息つける時間を持てたこと……
私は嬉しく思います」
(……クレア……)
目の奥が熱くなりかけたところで、ユファがふいに言った。
「クレアさんもだよ?」
「……え?」
「クレアさんの匂いも、ずっと“気を張ってる匂い”だよ。
ミナのこと心配しすぎで、胸のあたりがきゅーってなってる匂い」
クレアはぴたりと固まった。
「……ユファさん、あなたは本当に……」
耳まで赤くして俯くクレアに、わたしは思わず笑ってしまう。
◇
灰花草の丘を吹き抜けていた柔らかい風は、いつの間にか少しだけ温度を変えていた。
昼の温かさがほんのり薄れ、涼しさが静かに混ざりはじめる。
丘全体が金色から白銀へ、そして少しずつ薄い紫色へ――
色彩の境目がゆっくり溶けあう。
時間が流れるというより、
“光そのものが歩いて移動していく”みたいだった。
ユファは丘の下でくるりと回り、ぱっと空を指差した。
「ほら、もうすぐ“光の切り替え”の時間だよ!」
「光の……切り替え?」
わたしが首を傾げると、ユファは得意げに胸を張る。
「うん! 太陽の角度と霧の濃さがちょうど重なるとね、灰花草が色を変えるの。
昼の色から、夕暮れの色に。」
「へぇ……本当にそんなことが……」
言いかけたとき――
すう……っと、丘を撫でる風が変わった。
乾いた高原の風のあとに追いかけてきたのは、霧樹林から吹き降りる冷たい風。
それが斜面を滑り降りながら灰花草の穂に触れた瞬間――
斜面の表面に、紫がかった“光の流れ”が走った。
「……っ!」
胸の奥が一瞬で奪われる。
灰花草が持つ微細な光脈が、風と霧と陽光のわずかな角度で“色を反転”させたのだ。
青白い光が紫に溶け、金色の粒が赤みを帯び、それが斜面全体に波のようにひろがっていく。
「きれい……」
気づけば、声が息に混ざってこぼれていた。
クレアも同じ景色に目を奪われていた。
微かな驚きの色を浮かべ、静かに息をつく。
「……灰花草が色を変える瞬間を見るのは、私も久しぶりです」
「久しぶり?」
「はい。ただ……こんなに鮮やかに見えるのは、天候が良い日と、霧が薄くて光脈が安定している日だけです」
彼女の声は穏やかで、わたしの胸へすっと沁みこんできた。
ユファは丘の中腹で両手を広げ、風に向かって吸いこまれそうなほど大きく背伸びをした。
「いまのがね! “光の切り替わり”!
夕暮れの前の、すごく大事な合図なの!」
「合図……?」
「うん! 山郷の人たちにとってはね、“そろそろ一日の疲れをしまう時間だよ〜”って合図なの」
その言葉は霧の香りに溶けるように軽やかだったけれど、どこか温かい文化の匂いがした。
クレアが少し遠くを見る目で呟く。
「……確かに。村の人たちはこの時間になると家に帰りはじめます。
仕事よりも、光の移り変わりを大事にしている人が多いですね」
「へぇ……素敵だなぁ……」
帝都の時間はいつも忙しく、分刻みの予定と光結界の時報に縛られていた。
けれど、この谷の時間は――
光と風と霧が決めている。
(……時間に急かされない場所……)
胸の奥がきゅうっとなる。
ずっとこんな場所を求めていた気がする。
わたしたちは灰花草の丘をくだり、小さな段畑の縁へ戻りはじめた。
レヴの蹄がゆっくり石道を踏む音は、夕暮れの光の中でとても柔らかく響いた。
「ねぇねぇ! 夜になったらね、霧樹林がもっと光るんだよ!」
ユファが尻尾を揺らしながら歩く。
その背中には子どものような無邪気さと、村の娘の誇りが結びついていた。
「昼は緑だけど、夜はもっと……なんていうのかな、えっと……!」
「翡翠じゃなくて……もう少し青い?」
「そうそう! 青緑にちかいの! 風が吹くたび、森全部がキラキラするんだよ!」
「わぁ……見てみたい……」
本当に、見てみたい。
クレアがわたしの隣に並び、静かに言った。
「ミナ様……今日の夜なら、きっと綺麗に見えます」
「ほんと?」
「ええ。霧が薄くて風が安定している。こういう日は珍しいのです」
その言葉に胸が嬉しさで温かくなる。
(……全部が特別みたい……)
光も、風も、霧も、草も、村も、ユファも、クレアも。
いま歩いているこの時間そのものが、胸の奥のどこか柔らかい場所をそっと掬いあげてくれる。
段畑の間を抜けると、家々の窓に灯りがひとつ、またひとつと灯った。
柔らかい橙色の光が、霧の中にほんのり輪郭を浮かべる。
どの家も同じ時間に灯るのではなく、それぞれがそれぞれの“暮らしの灯り”をつけていく。
(……あぁ、住んでるって感じがする)
どこの家にも生活の痕跡があって、誰かの笑い声や食事の匂いや薪の爆ぜる音がある。
観光地の光じゃない。
誰かが毎日ここで呼吸している光。
そんな灯りが、霧の中で揺れていた。
ユファがふわっと笑い、わたしの袖を引く。
「ねぇ、ミナ。
夕飯まで時間あるなら、もう少しだけ村を案内してあげる!」
「えっ、いいの?」
「もちろん!
だってね、ミナ……ほら、さっきより顔が軽くなってるもん」
「か、顔が……!?」
くすくす笑いながらユファは続けた。
「うん。さっきまで疲れの匂いしてたけど、今は楽しんでる匂いしてる。
いい感じいい感じ!」
「……ユファさん……本当に、全部聞こえているのですか……?」
耳を赤くしたクレアが小声でつぶやいた。
ユファは胸を張って言う。
「うん! あたしの特技なの!」
(……すごい……そして、ちょっと恥ずかしい……)
でも、なんだか嬉しかった。
◇
段畑の間から見上げた空は、もうすっかり桃色と紫の境目になっていた。
霧の層が光を抱きこむように淡く輝き、灰花草の丘は白銀から薄い紫へゆっくり染まりはじめる。
世界が“夜のやわらかさ”へ移動していく途中。
その色を浴びながら歩いていると――
胸がすうっと軽くなる。
(……夕暮れって、こんなに心がほどけるんだ)
霧は淡い光を抱えこむようにゆっくりと漂い、灰花草の穂先にわずかな光の粒を残していく。
帝都では感じたことのない時間の解け方だった。
ユファがくるりと振り返り、にかっと笑う。
「ねっ! ミナ、クレアさん!
もうちょっとしたらね――夜の森の本気が見れるよ!」
「夜の森の……本気……?」
クレアが小さく笑う。
「ええ。山郷の夜は……美しいですよ」
その声音には、ほんの少しだけ懐かしさが混じっていた。
ユファは丘の斜面を跳ねるように歩き、耳と尻尾を揺らして私たちを振り返る。
「夜の森ってね、怖くないんだよ?
ほら、霧樹の光が道を照らしてくれるし、山の風も夜になると“優しい形”になるの!」
「優しい……形?」
ミナが目を瞬かせると、ユファは胸を張る。
「うん! 昼の風は押す風、夜の風は包む風!
これはね、山郷の言い伝えなんだよ!」
(包む風……)
夕暮れの気配の中で、確かに風はさっきより柔らかく感じられた。
肌を撫でるときの力が丸く、温度は涼しくてもどこか安心する心地よさを秘めていた。
段畑を抜けると、細い山道が一本だけ伸びていた。
霧樹林の縁をかすめるその道は、夜の入口へ続くようにうっすらと青く光っている。
クレアが足を止めて、静かに言った。
「……この道を上りきると、灰庵亭のある丘に出ます」
その声は淡々としているのに、少しだけ熱がこもっていた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
(ついに……本当に、この先に……)
足が自然に前へ出そうになる。
霧樹林のあいだから漏れる光が、夜の始まりを告げるように青緑へと変化しはじめる。
木々の葉が光脈をゆっくり流し、淡く瞬くその点々がまるで空の星と呼応しているみたいだった。
(……きれい……)
道の先にかすかに見える丘の影が、ここが“日常”と“特別”の境目であることを静かに教えてくれる。
風がふっと吹く。
それは昼間のように肌を押す風ではなく――
本当に、包むように柔らかい風だった。
◇
村の灯りが家々にともりはじめ、橙色の光が霧の膜をほんのり照らしていた。
段畑を抜けて戻ってきた広場にはさきほどまでの子どもたちの声はなく、かわりに煮込みの匂いと薪の跳ねる音が漂う。
「――そろそろ行こっか!」
ユファの明るい声に、わたしとクレアは顔を上げた。
空はすでに藍へ沈みかけていて、
霧樹林の光は翡翠色から青緑へと変わりはじめている。
「ユファ、今日はありがとう。すごく……癒された」
「うん! また来てね!
あ、でも灰庵亭の帰りは気をつけてね? 夜の霧は深いから!」
「ええ、気をつけます」
クレアが礼をすると、ユファは尻尾をぱたぱた揺らし、笑顔のまま店の前へ戻っていった。
霧が静かに立ち上がり、ユファの小さな影が夜の光に溶けていく。
彼女を見送ったあと――
わたしたちは視線を同時に交わした。
もう、行くしかない。
(……とうとう、灰庵亭へ……)
胸が高鳴る。
足の先がふわっと軽くなるのに、心臓だけが息苦しくなるほど騒がしい。
クレアは深くひとつ息をつき、レヴの手綱を軽く操る。
「ミナ様。
――今なら、観光客の方々も戻り始めた頃です。
霧も安定しています。向かうなら、この時間が最適でしょう」
「うん……っ!」
わたしは頷き、外套の前をぎゅっと掴んだ。
谷を渡る夜風は昼より冷たいのに、胸の奥は妙に熱くて落ち着かない。
(ゼン様の……お店……
この先に、本当に……)
足が震えそうになるのを誤魔化すように、わたしはレヴの首をそっと撫でた。
レヴは短く鼻を鳴らし、「行こう」とでも言うようにわずかに体を前へ傾ける。
思わず笑みがこぼれた。
「……クレア。緊張してるの、私だけ?」
クレアは一瞬だけ沈黙し――
「……いえ。
私もこんなにも心臓が強く打つのは、久しぶりです」
珍しく素直な言葉に、わたしは胸があたたかくなった。
村の外れから坂を登りはじめると、灰花草が夜の風で静かに揺れた。
穂先は紫がかった光をまとい、霧がその色を細い煙のように引き延ばす。
空には無数の星がにじみ、霧の膜を通して光が柔らかく散っていた。
「……あっ」
わたしは小さく声を漏らした。
灰花草の斜面を渡る風が、ふわりと光の帯をつくったのだ。
紫と青の層が溶け合い、斜面全体が一瞬だけ淡い水彩画のように揺れる。
「夜の光……本当に綺麗……」
「山郷の光は、月が近い時ほど濃くなります。
今夜は……運が良い夜です」
「運……?」
「はい。
良い“光の夜”は、霧が味方をしてくれます」
クレアの言うその意味はよくわからなかったけれど、
その言葉の響きだけで胸が高ぶる。
――まるで、この山そのものが、
“今日こそゼンに会いなさい”と言ってくれているみたいだ。
足取りが自然と早くなる。
村の灯りが遠くなり、坂道の石が夜露で少し光っていた。
霧樹林は青緑の光をふわりと放ち、風が吹くたび葉脈の光が波のように流れていく。
静かで、深くて、そして――どこか神聖な匂いがする。
まるでこの山の空気すべてが
“特別な場所へ向かっている旅人”を祝福しているようだった。
クレアがふと立ち止まり、振り返る。
「ミナ様」
「ん?」
「……無事に辿り着けて、本当によかった」
「……うん。
全部クレアのおかげだよ。ほんとに……ありがとう」
クレアは静かに微笑む。
「では――行きましょうか。
“ゼン様”の場所へ」
わたしは大きく息を吸い込み、頷いた。
そして、坂をもう一段のぼった――その時だった。
霧の層がふわりと途切れ、目の前にひらけた丘の上の道が見えた。
わたしとクレアは自然に足を止めた。
夜の光に照らされたその先――
古い霧樹の枝で作られた、慎ましい木の看板が立っていた。
文字は手書きで、どこか温かみがありながら妙に厳然としている。
わたしの息が止まった。
そして――ついに。
ガルヴァ山郷の丘の上。
ふたりの旅人が、ひとつの木の看板を見つけた。
【営業日:火・木・土 完全予約制】
フェルミナはきょとんとし、クレアは眉をひそめた。
「……“完全予約制”って、どういう意味?」
「…恐らくそのままの意味です」
「“入るのに勇気がいる”ってこと!?」
「いえ、普通に“予約がないと入れない”という意味かと…」
「うそでしょ!? せっかく三日歩いたのに!?」
こうして、王女フェルミナ・ルクレティアの“恋の巡礼”は、入店前からすでに波乱の幕を開けるのだった。




