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第98話 ガルヴァの花



ユファは胸をそらし、太陽みたいにぱっと笑った。

その笑顔はただの表情じゃなくて――広場の空気ごと明るくしてしまうような、あたたかい光そのものだった。

眩しくてやさしくて、見ていると胸の奥にぽつんと小さな火が灯る。


彼女の言葉はひとつひとつがまっすぐだ。

飾り気がなく曲がった影もなくて、まるで湧き水みたいに透明でやわらかい。

山郷の空気そのものを言葉に編んだら、きっとこんな響きになるのだろう。


だからなのかな。

ユファに触れられると、胸のあたりがちくりとする。

くすぐったいような、少し痛いような――

そんな気持ちが、思ってもみなかった場所からふいに顔を出す。


“わたしも、いつかこんなふうに誰かを照らせたらいいのに。”


そんな願いが、静かに胸の底で揺れた。


「……いいなぁ」


ぽろっと声が漏れた瞬間、自分でも驚いた。

我慢したわけでも考えこんだわけでもない。

胸の奥から自然にあふれてきた、どうにも隠しきれない想い。


羨ましい、なんて単純な言葉じゃ説明できない。

嫉妬とも違う。

もっと複雑でもっとやわらかくて、胸の奥にじんわり広がるもの。


――好きな人のしたことが、確かに誰かの生活を良くしている。


その事実を他人の口から聞くと、なんだか胸の奥がきゅうっとなる。

自分は何も知らなかったのだと、静かに突きつけられたようで。


「ん? なにが?」


三角の耳がぴょこんと揺れる。

その無邪気な動きすら、この山郷の瑞々しい空気に溶けているみたいだった。


「えっと……みんなが笑うようになったって話。

すごく……なんていうか、嬉しいなって」


言いながら胸の奥がじんと熱くなる。

わたしが感じているのは羨望というより――誰かを誇る気持ちに近かった。


「ふふー! だよねだよね! あたしも嬉しい!」


ユファはぱっと尻尾を振り、今度は店の奥へ駆け込んでいく。

木箱をごそごそと漁る音が聞こえたかと思ったら、

「いーいもの出しちゃお!」と明るい声が霧に跳ねた。


「せっかくだからさ! 旅の人用の“あったか休憩セット”出しちゃお!」


「あったか……休憩……?」


「うんうん! ちょっと待っててね!」


ぽん、ぽん、と軽やかな足音が店内に響く。

そのリズムがあまりに心地よくて、わたしは気づけば頬が緩んでいた。


やがてユファが小さな宝物を抱えるように両手を差し出して戻ってきた。


湯気を立てる木製のカップ。

霧樹の模様が刻まれた木肌仕上げで美しい器。

布にくるまれた、小さな焼き立てパン。

素朴なのにどこか特別なものに見える、手作り感満載の品々。


「はいっ! 《霧樹茶》と《灰花パン》のセット!

お金はいらないよ。旅の人には、うちのおもてなし!」


「えっ……いいの?」


「もちろん! お客さんじゃなくて、“お客さま”だからね!」


その言葉の響きが、胸に小さな灯りをともした。

帝都ではどれだけ丁寧な言葉をかけられても、そこにはどこか壁みたいなものがあった。


彼女の一言に込められていたのは、身分も肩書きも関係ないただまっすぐな“歓迎”だった。


霧樹茶の湯気がふわっと上にのぼり、そのあたたかさが頬に触れる。


人と人のあいだにある確かなぬくもり――


皇宮でのわたしの周りには、いつも誰かがいた。

侍女、護衛、書記官、魔導士、礼法教師、舞踏教師――

気を抜く暇がないほど毎時間、誰かの目に囲まれていた。


見守られているというより、

“見張られている”という表現のほうがしっくりくる時もあった。


誰もが丁寧で、誰もが優しい。

けれどその優しさには、いつも薄い膜のようなものが張っていた。

ひんやりとした、透明な境界線。

触れられそうで、触れられない距離。


“皇女殿下に対する礼節”という名の壁。


わたしに向けられる微笑みはいつも作法に沿っていて、声は敬語で、身振りひとつにも計算があった。


宮中で誰かが笑う時、それは「その場にふさわしい微笑み」であって、心の底から湧く笑いとは少し違うものだった。


もちろん誰も悪くない。

わたしだってその世界で育ち、その距離を当たり前のように受け入れてきた。

でも――


ときどき、

ひどく静かな場所にひとり閉じ込められたような気分になることがあった。


誰かと向き合っているようで、本当は誰とも触れ合っていないような。


手を伸ばせば届くはずの距離に、実は深い谷があるみたいな。


そんな暮らしが、ずっと続いてきた。


それが当たり前で、それ以上の温かさなんてわたしには縁のないものだと思っていた。


だからこそ目の前で尻尾をぶんぶん振って笑うユファが、…なんだか眩しすぎて。


胸の奥がじんと熱くなるというか、心のどこかにあった鍵が、静かに音を立てて外れていくような感じ?


彼女の笑顔には「距離」がなかった。

遠慮も計算もなく、「そこにいるわたし」へまっすぐ向けられていた。


山の光みたいにやわらかくしっとりした色合いが、そのまま表情になっている。


木のカップをそっと両手で包む。

霧樹の木肌がやわらかい温度で手に馴染み、鼻先にはふわりと山の香りが広がった。


草木の呼吸。

湧き水の透き通った冷たさ。

霧の粒と、陽のひかりが混ざりあう穏やかな空気。


そのすべてが、ひと口に溶けこんでいた。


「……すごい。落ち着く……」


「でしょー!

霧樹の葉をね、ガルヴァ脈の湧水でゆっくり煮出すの。

飲むとね、心がほぐれるんだよ!」


その言葉がぴったりで、わたしは思わず頷いてしまう。

ひと口飲むだけで、胸の奥にからまっていた緊張がすーっと溶けていった。


わたしはクレアのほうに視線を移し、そっとカップを差し出した。

クレアは静かにそれを受け取り、ほどけるような笑みを浮かべる。


「……ありがとうございます。とても香りが良いですね」


「でしょでしょ! クレアさんもいっぱい飲んで元気出して!」


霧の奥から差し込む翡翠色のひかりが針葉樹の先で揺れながらきらきらと跳ねる。

風が霧を撫で、段畑の石壁に光の粒が散った。


遠くで聞こえる木槌の音が、昼前のゆったりした時間を告げるようにコツン、コツンと響いていた。


(……ふう……)


身体の力が抜けていくのを感じる。

エルド峠を越えてからずっと緊張しっぱなしだった心が、ようやく深く息を吸い直せたようだった。


灰花パンをそっと手で割ると中からふわっと温かい湯気が上がり、焼きたての甘い香りがひらりと空気をくすぐった。


ひと口食べる。


ぱりっとした外側、ふんわり甘い内側――

温かい温度が舌に触れた瞬間、胸の奥から“ほぅ”と声がもれた。



…はぁ…落ち着く……



まるで朝の光をそのまま生地に閉じ込めたみたいだった。


……ふわりと甘くて、やさしい。


それはただ美味しいだけじゃない。

冷えた指先にそっと触れる陽だまりのようで、心の奥に小さな火をともしてくれるような味だった。


「ね、すごいでしょ?」


ユファが胸を張って言う。

丸い瞳がきらりと輝いて、尻尾がまたぶんと揺れた。


「灰花パンはね、山郷の特別なパンなんだよ。

あたしたちの村じゃ昔から“祝いの日”とか“誰かを迎える日”に焼くの」


「迎える日……」


「そう! 誰かが帰ってきたときとか、新しい命が生まれたときとか。

今日みたいに“旅の人が来たとき”もね。

村のみんなの気持ちが、あったかく混ざるの」


ユファは指先で生地の断片をつまむと、それを陽の光に透かしてみせた。


小さな光の粒――

灰花草から採れる“灰花露はいかろ”と呼ばれる蜜のような液体が、生地に染みこんでいるのが見える。


「ほら、灰花草の露。

朝の霧に濡れると、ほんの少しだけ光の粒が染みこむんだ。

それを集めて、湧水と混ぜて、生地にして……」


「わぁ……きれい……」


「ね! これがあると、焼いたときに生地がふわっと膨らんで、甘くてあったかいの。

村の言い伝えだとね――

“灰花の露を食べた人は、心に迷いがあっても必ず道を見つける”んだって」


「……道を?」


「うん。山郷ってね、霧が深いでしょ?

外界の人にとっては迷いやすい場所なの。

でも、灰花パンを食べれば、ちゃんと帰る場所へ辿りつける……って昔から言われてるんだよ」



灰花パン――

それはガルヴァ山郷に古くから伝わる、もっとも素朴で、もっとも“山郷らしい”料理のひとつだ。


表面は灰白の粉をまとっており、一見すると地味で飾り気のない丸いパンに見える。

しかしその実態は外見からは想像できないほど繊細で、山郷に生きる人々の知恵と風土そのものが凝縮されている。


まず、素材が特別だ。


使われる小麦粉は外界から運び込むのではなく、山郷の段畑で育てられた“霧小麦”と呼ばれる在来種である。

この霧小麦は、霧樹林から流れ込む微量の魔力霧を吸い、通常の小麦よりも水分と香気を多く含む。

そのため、粉を触ればそれだけでわかる。

しっとりとした柔らかさと乾いた穀物にないほのかな弾力を持ち、指先で押すとふわりと沈み、すぐに元の形に戻る。


そして発酵に使われるのは“灰花露はいかろ”。

灰花草の白い穂先に、夜明け前にだけ宿る透明な雫だ。

朝霧の粒に魔力の微光が混ざり、露そのものが淡い光を帯びることがある。

村の人々はそれを丁寧に布で吸い取り、少量ずつ壺に溜めていく。


灰花露にはごく弱い天然の発酵菌が含まれており、

これが霧小麦と混ざるとゆっくりと生地を膨らませる。

山郷の冷涼な気候では急激な発酵は起こらないため、生地は一晩かけて静かに熟成し、翌朝には甘い香りを内に含んだきめ細やかな柔らかさを帯びる。


外界のパン職人たちが見れば驚くだろう。

温度管理も特別な設備もなく、ただ山の風と湧水と大地に委ねるだけでこれほど均質で美しい発酵が進むという事実に。


その理由は、素材だけではない。

山郷では古来よりパンを焼く“灰窯はいがま”の文化が残っている。


灰窯に使われるのは、ガルヴァ山系の火山岩の中でも特に熱を吸収して均等に放出する性質を持つ“黒灰岩こっかいがん”。

窯の内部で熱が落ちつくと、まるで呼吸するように穏やかな火加減を保ち続ける。


この窯で焼くと、生地は表面をさっと固められながらも内部にたっぷりの水分を蓄えたままとなり、特有の“外は薄く、内は雲のような柔らかさ”が生まれる。

灰窯で焼かれたパンは、手に取っただけでわかるほど軽い。

その軽さは霧小麦と灰花露に宿る自然の力の結晶と言ってもいい。


さらに、仕上げに使われる“山蜂蜜”も見逃せない。

山鹿の好む薬草が咲く谷で採れる蜂蜜は、花の香りとほのかな苦みを併せ持ち、焼きあがった灰花パンの表面に薄く塗ることでほのかな照りと温かい甘さを加える。


こうして焼き上がった灰花パンは外見こそ控えめだが、ちぎった瞬間にわかる。


――中に宿る湧水の記憶。

――霧の冷たさと、山の光の温かさ。

――素材ひとつひとつが持つ微かな魔力のゆらぎ。


それらが重なり合って、他にはない風味をつくりあげている。


そして何より、このパンが特別なのは“食べる場と心”だ。


山郷では、灰花パンはただの食べ物ではない。

誰かが帰ってきたとき、誰かを迎えるとき、季節の節目……

人と人の“つながり”が揺れる場面で焼かれるものだ。


生地を捏ねる手は、ただ食べ物を作るだけではない。

その日を迎える心を整え、誰かを思う気持ちをそっと混ぜ込むように、ゆっくりゆっくり、丁寧に捏ねられる。


灰花パンを前にしたとき、山郷の人々はよくこう言う。


「これは腹を満たすパンじゃない。心を帰らせるパンなんだよ。」


その言葉は決して大げさではない。


旅人が迷った心でこのパンを口にすれば、やわらかな甘さと湧水の清涼感が胸の奥にひっそり溜まっていた迷いをそっと溶かす。


山郷の子どもが泣きやんだときにも、

老人が疲れた身体を休めるときにも、

同じようにこのパンは寄り添ってきた。


山の冷たい風に吹かれた日も、

霧の深い夜に心が沈んだ日も。


まるで――

パンの奥底に山郷の“やさしさ”だけを閉じ込めてあるかのようだった。


その伝統は今も変わらない。

山郷の人々が旅人を迎えるとき、ほんの小さな木皿に乗せて差し出す灰花パンにはいつだってこうした長い歴史と想いが宿っている。


ミナが手に取った灰花パンもまた静かに温度を放ちながら、彼女の胸の奥に積もっていた緊張や不安をゆっくり溶かしはじめていた。



(……あぁ、なんか……すごく……しあわせ)


霧樹茶の香りと、あたたかいパン。

山郷のひかり。

風の匂い。

ユファの明るい声。


その全部が混ざって、胸の奥深くにじんわり広がっていく。


ゆっくり、静かに息を吸う。

広場の光と霧が、まるで心にまで降りそそぐようだった。



「ねぇミナ、少し歩いてみる?

山郷のこと、もっと見せてあげたい!」


「え、いいの……?」


「もちろん! 旅人さんに案内するの大好きなんだ!

ほら行こ行こっ!」


尻尾をぶんぶん揺らしながら、ユファは軽い足取りで広場の奥へ進む。

その勢いにつられて、わたしとクレアも自然と腰を上げた。


霧の粒が陽光を受けて金色にきらめき、段畑へ続く小道にふわりと落ちていく。

ガルヴァ山郷の昼前の光はやわらかくて、どこに目を向けても幻想的な絵のようだった。


「ね、こっちこっち!」


ユファは子どものように手を振りながら、段畑の端へ案内してくれる。

近づくと、さっき上から見えた景色がぐっと近くなる。


石垣の間からは新芽をつけた“霧麦”が風に揺れ、その一つ一つの葉が霧の輝きをまとって淡く光っていた。


「これ、さっき言ってた霧麦?」


「そうだよー! 山郷の主食。

霧をたくさん吸うから、普通の麦よりみずみずしくて香りが強いの」


ユファは麦を一本つまみ、くるっと指で回して見せる。


「ねっ、これね。触るとほら――」


彼女がそっと指先で茎を押すと、霧の粒が二つふわっと浮き上がって光の中に散った。


「……綺麗……」


「でしょ? 山の霧って、生きてるみたいに動くんだよ!」


ユファの明るい声に重なるように、段畑の上から「カン、カン」という乾いた音が降りてきた。

木工小屋の獣人のおじさんだ。


「あ、おじちゃーん! 今お客さんを案内してるのー!」


声をかけると、おじさんは照れくさそうに笑って手をあげた。

指には木屑がついていて、作業の合間なのがすぐにわかる。


「もう、村の宣伝大使みたいですね」

クレアが小さく笑う。


「えへへー! だってね、旅の人に『きれい』って言ってもらえると嬉しいんだもん!」


ユファは胸を張って言うと、またわたしたちを別の場所へ誘った。


「次は水路だよ!」


段畑の端に沿うように走る小川へ近づくと、水の透明度に思わず息を飲んだ。

底の白砂がそのまま見えるほど澄んでいる。



ガルヴァ山郷は、谷の形そのものが「暮らしの器」になっている。

段畑を囲むように家々が並び、その外側には緩やかな丘陵と霧樹林が帯を描いて広がる。

そのすべてが、遥か昔――この地がまだ戦と断絶の只中にあった頃――

「人が霧に寄り添い、霧に守られて暮らすため」に作られたと言われている。


山郷には、外側へ向かう大きな街道が存在しない。

険しい峡谷と深い霧が天然の壁となり、外界の者が簡単には出入りできない構造になっている。

代わりに、谷の内部にはいくつもの生活路が張り巡らされていた。

段畑の縁をつなぐ細い石道、谷底の広場から山腹へ登る階段道、

そして、湧水から家々へ続く水路といった“内側に向かう道”が網の目のように走っている。


暮らしの中心は水だ。

谷の奥、ガルヴァ脈と呼ばれる山塊の地中深くから湧き出る水は、雪解けと霧の粒を何層もの鉱石がろ過し、透明度の高い“霧水”となって姿を現す。


村人たちはその水脈を絶やさぬよう、代々にわたって水路の維持に努めてきた。

水路は段畑の縁を伝い、畑を潤し、さらに各家の共同井戸へと流れ、余りは谷底の川へ注がれて循環する。

自然の地形をそのまま利用した仕組みでありながら、

ひとびとの暮らしを支えるために驚くほど緻密に整えてあるのが、ガルヴァ山郷の特徴だった。


村の家々は霧樹と石を組み合わせた造りで、どれも低く抑えられた屋根をもつ。

霧が深い日には、屋根そのものが霧に溶けてしまったように見えるほど周囲に馴染み、目立たず、しかししっかりと存在している。

家の壁に開けられた細長い窓は霧を遮るために小さく作られ、代わりに屋内へ光を取り込むための光棚が工夫されていた。


谷全体が柔らかな光の膜に包まれているのも、この地形と霧の働きによるものだ。

朝は黄金、昼は翡翠、夕は紫磁色へと変化する光が段畑に滲み、まるで時間そのものがゆっくりと呼吸しているように感じられる。


とりわけ、谷の中央を走る水路は山郷の生命線だった。

村の子どもたちは昔から「水路の音で天気を知る」と言うほど、その水音は日々の生活に寄り添っている。


昼前になると湧水の量が増え、さらさらと軽やかな音が段畑の石壁に反響しながら流れ落ちる。

澄んだ水が白砂をゆっくり撫で、流れに揺れる水草をきらきら照らす光景はこの谷では見慣れたものだが、外界の者には息を呑むほど美しい。


まさに――

「山と暮らしが一体になった谷」。


だからこそ、初めて訪れる旅人は皆、

谷底に響く水音を聞いた瞬間、決まって口をそろえて言う。


“ここは、時間の流れが違う”


と。


ちょうどそのとき、谷を満たす水音がひときわ澄んだ響きを立て、小川の上を金の霧がゆったりと横切った。

その流れを追うように、ミナたちの足も自然と水辺へ向かっていく。



「……すごく綺麗だって、クレアから聞いたよ」


「ガルヴァ脈の湧水だからね! 村の命の水なんだよ!」


ユファはしゃがみこむと、両手で水をすくってぱしゃっと顔にかけた。


「つめたっ!」


「えっ、そんな急に……!」


「ミナもしてみなよ! 気持ちいいよー!」


言われるままにそっと手を伸ばすと、水は冷たいのにどこか柔らかい。

指先を撫でていく感覚に、霧の清らかさが混じっている。


わたしもそっと頬に触れてみる。


「……ほんとだ。すごく気持ちいい……」


クレアも水に手を浸し、静かに目を細めていた。


「この水、霧樹茶にも使われていたのですよね?」


「そうそう! おばあちゃんが汲んでる湧水だよ。

ゼンさんも料理に使ってるよ!」


この水で作る料理……

それをゼン様が……


それだけでまた胸があたたかくなる。


そしてユファは透明な水面を覗き込みながら、少し照れたように言った。


「……あたしね、旅の人と話すのが好きなんだ。」


「そうなんだ……」


「だってさ、外の世界の話ってすごく面白いんだもん。

山郷は静かで綺麗だけど……外の世界には“知らないもの”がいっぱいあるでしょ?

あたしそれを聞くのが好きで……だからお使いで外に出られた日はすっごい嬉しいの!」


(なんだか……少し、わかる)


皇宮の外に出たかったわたしと、山の外を知りたいユファ。


立場も環境も違うけど、

“窓の外を見たかった気持ち”は同じなのかもしれない。


するとユファが突然ぱっと顔を上げ、くいっとわたしの袖を引いた。


「ねぇ! 次は“灰花草の丘”に行こ!」


「え、丘……?」


「うん! ちょうど今、灰花が朝の光吸ってきらきらしてる時間なんだよ!

めちゃくちゃ綺麗だから、絶対見せたいの!」


そう言って走り出したユファの後ろ姿を追って、わたしたちも段畑を登っていく。



段畑を抜けて上段へ向かう細い石段は、ひとつ登るごとに霧が薄れ、代わりに陽の光が少しずつ強さを増していった。

風の音が変わる。

木々のざわめきに混じって、草原特有の“ひらり”という軽い揺れの音がまぎれはじめる。


そのたびに、灰花草の白い穂が細く揺れ、まるでわたしたちの足音に合わせて小さな道案内をしているみたいだった。


「ほら、このあたりからだよー!」


ユファが駆け上がる段の先に、やわらかく金色に染まる霧が漂っている。

朝霧がまだ残っているのに、どこか暖かい光を帯びていて、あれはきっと――灰花草が光を吸い上げている証なんだと直感した。


石段の両脇に並ぶ霧樹の若木が、風に揺れて影を落とす。

その影は濃すぎず薄すぎず、足元に淡く模様を描いていて、歩くたびに模様がゆらゆら崩れて新しい形に変わる。


(……ここ、こんなに静かなんだ)


段畑の下から聞こえていた木槌の音も、水面の揺れもここまで来るとほとんど届かない。

代わりに耳に入るのは、草原の息づかいと風の透明な気配だけ。


思わず深く息を吸った。


霧の匂い――

草の匂い――

ほんの少し甘い灰花の香り――


胸の奥まで澄んだ空気が満ちていく。


「ほら、もう少しで見えるよ!」


ユファは石段をぴょんぴょんと飛ぶように登っていく。

そのたびに尻尾がふわっと揺れて、光を弾き返す。

わたしとクレアもゆっくり彼女のあとを追い、石段の最後の一段を踏みしめた。


その瞬間――

霧が風に押されて横へ払われ、視界の前が一気にひらけた。


わたしは思わず息を呑んだ。


段畑と段畑のあいだを埋めるように、無数の灰花草が斜面いっぱいに広がっている。

高いところから低いところまで、白い穂が風にあわせて波打ち、その波が金の光をまとって次々と流れていく。

揺れのひとつひとつが、静けさの音を立てているみたいだった。


「……すごい……」


言葉が自然とこぼれる。

胸に直接ひかりが落ちてきたような、そんな感覚だった。


ユファは斜面の真ん中でくるっと振り返り、両手を広げる。


「ここが“灰花草の丘”!

霧と光がいちばん混ざる場所なの!

いまの時間の光がね、一番きれいなんだよ!」


風が吹き抜け、灰花草の穂先がさらさらと擦れあう。

その音は、まるで小さな鈴を無数に揺らしたようで、耳の奥にくすぐったく響いた。


クレアも思わず足を止めていた。

静かな瞳が、揺れる光の波を見つめている。


「……これは、確かに……山郷ならではの景色ですね」


「でしょーっ!?

あたし、この景色すっごく好きなの。

いつ見ても……胸がぎゅーってなるくらい、きれいで……

旅の人にも見せたくてしょうがないの!」


胸の奥で、なにかがゆっくり満ちていく感じがした。

霧樹茶でも、パンでも、村人の穏やかな笑顔でもほぐれなかった“ほんの少し残っていた不安の欠片”に、光がやさしく触れた気がした。


この場所は――

ただ美しいだけじゃない。


外から来た者を拒まない柔らかさと、

静かに迎えてくれる温度を持っている。


風がわたしたちの間を通り抜け、

光の粒がひとつ、ミナの胸元にふわりと落ちた。


温かい。


それはまるで、

「ここにいていいよ」

と、山そのものが言ってくれているようだった。


ユファはその光景の中で、まっすぐ笑った。


「ここは私のお気に入りなんだっ!」


その声は霧の粒といっしょに、静かに胸に染みこんでいった。


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