第97話 新たな恋のライバル…?
坂の向こうへ進もうとしていた旅人たちの声は、もうすぐこちらまで届きそうだった。
わたしとクレアはそっと身を低くしながら坂の影へ入り、レヴの体を盾にしてなんとかやり過ごした。
「……今です。戻りますよ」
「う、うん……!」
ふたりは音を立てないように坂を離れて来た道を戻る。
霧が流れ、灰花草が肩に触れてひんやりと揺れる。
数歩進んだ瞬間、先ほどの賑やかな声がすぐ背後を通り抜けていった。
「うわっ……! これ、ほんとに“灰庵亭の看板”……! SNSの写真と同じだ!」
「ほら、見ろよ! 筆跡まで一致してる! 興奮してきたああ!」
「ゼンって本当にいたんだな……幻じゃなかったんだ……!」
クレアは眉を僅かに寄せ、ミナの背に手を添えて歩調を速めた。
「……ああいう浮ついた方々が多いのです。帝都の観光記事が原因ですね」
「たしかに……あの調子だとたくさん人が来てそうだね……」
クレアの言葉にわたしはこっそりと振り返った。
坂の向こうへ消えていった観光客たちの声は、まだ遠くで続いている。
「オレ、見たんだよ! 帝都新聞の特集! “山奥の孤高の天才料理人”ってやつ!」
「私なんてオタク雑誌のインタビューで泣いたからね!? “料理は言葉を超えるものだ”って……あの文章、すごいバズったんだよ!?」
「ゼン、顔は出さないくせに文章だけで人を虜にする男……控えめに言ってズルい……!」
……なんだか聞いてはいけないものを聞いた気がする。
わたしは複雑な気持ちで眉を下げた。
(……ゼン様、そんなに人気だったの?)
「ミナ様、ご存知ありませんでしたか?」
「う、うん……全然……」
クレアは小さくため息をつき、霧を払いながら歩調を緩める。
「ゼン様は、帝都では“静寂の料理人”として知名度が急上昇しています。
三年前、帝都の巡礼者が偶然あの食堂を訪れたのが始まりです。その人物が投稿した記事が大拡散して……」
「拡散……?」
「はい。“こんな場所に、狂気的にうまい料理人がいる”“会ったら一生忘れられない”“秘境に神の御技あり”と、妙な表現が多かったのですが……」
(なんか……わかる気がする……)
「その後、帝都の雑誌記者・配信者・料理研究家……あらゆる分野の人間が、あの山奥の店を“巡礼地”のように扱い始めたのです」
「巡礼地……!」
「はい。ゼン様が取材を拒んでも、逆に“寡黙で謎めいた天才”というブランドになってしまい……」
クレアは肩をすくめた。
「結果、帝都の若者の間では“人生で一度はゼンの料理を食べたい”“行けたら奇跡”という扱いに。
観光雑誌では“幻の秘境店ランキング”で二年連続一位です」
「えぇ……」
「さらに最近では――」
クレアは少しだけ言いにくそうに続けた。
「“ゼン様の功績を再評価する動き”が、帝都全体で加速しているのです」
「再評価……?」
「はい。ゼン様がかつて“終焉戦役の英雄”として名を馳せた事は、ミナ様もご存じでしょう?」
「もちろん。だって……ゼン様の銅像、帝都広場にあるもん……」
胸の奥がほんのり熱くなる。
ゼンの銅像の前で、子どもの頃、わたしはパンを握りしめながら見上げていたのを思い出す。
クレアは静かに頷いた。
「ですがここ数年、彼の残した戦術論や魔導史文献が学術界で再検証され、“英雄ゼン・アークライトは過小評価されていた”という論調が急増しまして」
「過小評価……?」
「ええ。帝都学術誌では“彼こそ戦役最大の功労者だったのではないか”という特集が組まれ……それが若者層にも広まりました」
クレアは淡々と説明を続ける。
「彼は元より英雄として知られていましたが、
《寡黙で栄誉に興味を示さず、功績を誇らない英雄》
という希少性が、今の時代の“理想像”と一致してしまったのです。」
「それ……ゼン様っぽい……」
「ええ。そして英雄としての信奉者が再び増え、帝都では“アークライト英雄研究会”や“ゼン顕彰サークル”まで生まれました」
「サークル!? 研究会!?」
「はい。中には正式なファンクラブもあります。“ゼン様の精神性を学びたい”という真面目な組織もあれば、“英雄ゼンの足跡を巡る旅”など、熱狂的なものまで様々です」
(ファンクラブ……やっぱりあるんだ……!)
胸の奥がじんと熱くなる。
クレアは続ける。
「そのうえ、ゼン様が“山奥でひっそり料理を作っている”という情報が漏れてしまったため……
《英雄が隠居して料理を作っている》
という物語性が、帝都の人々をさらに刺激したのです」
「物語性って……」
「帝都新聞には《英雄は最後に鍋を選んだ》という見出しがありました。
“謙虚な英雄の第二の人生”として扱われ、学生から年配者までファンが急増しています。」
「そんな……ゼン様……」
クレアは肩をすくめた。
「結果として、ミナ様が聞いたあの旅人たちのような“聖地巡礼者”が後を絶たないのです。彼らはゼン様本人に会えなくても、英雄の残した道を歩いたというだけで感動するのです」
「そ、それで……あんなに熱狂してたんだ……」
「ええ。“灰庵亭の看板に触れると英雄の加護を得られる”という妙な迷信もあります」
「迷信というか……それもう英雄信仰だよ……」
霧の向こうの旅人たちの声がまだ響いてくる。
「ゼンが隠居したという“灰庵亭”……ついに来たぞ!」
「英雄ゼンの鍋の匂いが吸えるだけで一年は幸せに生きられる……!」
「この石、ゼンの足跡の可能性あるぞ!」
「写真撮れえええ!!」
(……いまのうちに逃げよ……)
クレアは苦笑しつつ、わたしを庇うようにレヴの横へ寄った。
「ミナ様。帝都の熱狂は、ゼン様が望んだものではありません。
……しかし、英雄としての人気はどうしようもありません」
「……うん。でも……やっぱり誇らしいな」
わたしはそっと胸に手を当てた。
ゼン様はただ静かに戦い、
ただ静かに守り、
ただ静かに消えた英雄。
その生き方そのものが、こんなにも多くの人の心を動かしている。
(……ゼン様らしいや)
わたしの初恋の人は、今も誰かの人生を変えている。
その事実が胸をくすぐり、同時に――
もっと会いたいという気持ちを強くした。
「村に戻ったらさ、一息つかない?ちょうどお腹も空いてるし」
「はい、ミナ様。」
霧の向こうで灰花草がふわりと揺れた。
その先に――英雄ゼンがいる。
それだけで、足取りは自然と速くなった。
広場へ戻るにつれ、山郷特有の静けさがふたたび胸の奥に染み込んできた。
ついさっきまで耳にまとわりついていた観光客たちの騒々しい声が遠ざかり、風が谷に触れる音だけが、ゆっくりと耳の奥に戻ってくる。
霧樹林の翡翠色の光は昼前になっていくらか薄まり、代わりに段畑の上から差し込む陽光が、霧の粒を金の砂みたいに散らしていた。
その光が畑の石壁の縁を舐めるように滑り、灰花草の白い穂がきらきらと瞬く。
風は相変わらず冷たいはずなのに、人の気配が遠のいたことで空気が柔らかく感じられ、胸の奥がふっと軽くなった。
「……はぁ。すごかったね、さっきの人たち」
思わずそう漏らすと、クレアは淡々とした声で返す。
「ええ。でも、ああいった方々は時間帯が変われば自然といなくなります。夕刻には下山する人がほとんどです」
「じゃあ……そのあとなら、灰庵亭にも……?」
「はい。落ち着いて向かえるはずです」
クレアはいつもの静かな調子で答えたものの、ほんのわずかに息が緩む気配があった。
きっと彼女も、あの賑やかな人波の中に私を置いておくのは落ち着かなかったのだろう。
霧が薄く、光が素直に降りてくる場所へ出たとき、甘い木の匂いがふわりと鼻先をくすぐった。
広場へ続く石畳は陽光を受けて淡い銀色に光り、さきほどまで遊んでいた子どもたちの声はどこかへ消えてしまっている。
残っているのは、水路を流れる水のさらさらという音だけ。
その水面が陽を弾き、揺らめく光が石壁に反射して、小さく波打つ模様を作っていた。
そんな穏やかな景色のなか――風がひときわ強く流れ、霧樹の枝を束ねた小さな看板が、きい、と揺れた。
そのとき初めて気づいた。
広場の脇、霧樹の木陰にひっそりと寄り添うように、小さな店が佇んでいることに。
朝には気づかなかったほど目立たない、しかしどこか温かい雰囲気をまとった店だった。
霧樹の細い枝を編んで作られた看板が、風と光を受けて微かに輝いている。
──《もふもふ雑貨・ユファの店》──
(もふ……もふ?)
看板の横には、手のひらに収まるほどの毛糸のぬいぐるみや、霧樹の木片を削って作られたネックレスや飾りが並んでいる。
どれも素朴で可愛い。
けれど、ただ可愛いだけじゃなくて――山郷の霧や光、その空気をそのまま形に閉じ込めたみたいな、不思議な温かさがあった。
そんな品々を眺めていると、広場の真ん中に置かれた木箱の影で、何かがぴょこんと動いた。
「いらっしゃいませーっ!!」
明るい声とともに、勢いよく跳ね出てきた影――
――それは獣人族の少女だった。
年の頃は十五、六。
栗色がかった赤髪がふわりと揺れ、頭の上には大きな三角耳。
その耳がぴくぴく動くたび、毛並みが光を拾って柔らかく光る。
後ろにはふわふわの尻尾が揺れ、瞳は太陽を映したようなオレンジ色。
とにかく表情が明るく、見ているこっちが元気になる。
「わっ! だ、誰ッ……!?」
驚く私の前に、彼女はぱっと笑顔を広げた。
「えへへ! あたし、ユファ! “ユファの店”のユファだよっ!」
言いながら自分の胸をどんっと叩く――華奢なのに妙に力強い。
「あなたたち、帝都から来た旅の人でしょ?」
クレアがすっと前に出て、落ち着いた口調で頷く。
「ええ。旅の途中で少し寄らせていただいています」
「そっかそっか! じゃあさ、せっかくだからうち寄っていってよ!
山郷はおみやげの種類少ないけど、あたしの店は全部“手作り一点もの”なんだから!」
そう言うなりユファは、自分の店の前へぴょんと跳ね戻り、
次々に商品を手に取っては私の目の前でひらひらさせてくる。
「はいこれ! 霧樹の端材で作った魔除け飾り!
夜になるとね、ほんのり光るの! 山の霧と相性いいんだよ!」
「この子はね、“山鹿の毛”を混ぜて紡いだ糸で作ったミニぬいぐるみ!
ほら、触るとほんわかするでしょ? あったかいでしょ?」
「えっ……ほんとにぽかぽかしてる……?」
手のひらに乗せた瞬間、じんわりと温かさが広がった。
生きているわけじゃないのに、不思議と心までほぐれるような温度だった。
ユファは得意げに鼻を鳴らす。
「あははっ、驚くよね? この“温かさの残し方”、ゼンさんが教えてくれたんだ!」
……………へ?
…ゼン…さん…?
……ゼンさんって、まさか…
「え、え、ま、ま、待って……っ!」
思わず声が裏返った。心臓が一瞬で跳ね上がる。
「ゼ、ゼンさんって……! その“ゼンさん”って……!
……ゼン様のことっ!? “灰庵亭”の、ゼン=アルヴァリード様のこと!?!?」
自分でも驚くほど食い気味だった。
けれど、もう抑えられなかった。胸の奥で小さな太鼓みたいに心臓がどんどん鳴っている。
ユファはぱちぱちとまばたきをしたあと、
「あはは! そうそう、そのゼンさん!」
と、あっけらかんと言い放った。
(やっぱり、いる……! 本当にいるんだ……!)
その“当たり前の事実”が、胸の奥で暴れ出す。
涙が出そうになるのを堪えながら、わたしはつい前のめりになった。
「ゼン様って……い、いつもここにいるの? 山の上の食堂に……?」
「もちろん!」
ユファは尻尾をぶんぶん揺らしながら続けた。
「ゼンさん、ほら、あの店ひとりでやってるでしょ?
だから朝は山鹿の様子見たり、畑いじったり、霧樹林の森番のおばあちゃんとこ行ったりして……
昼前くらいにふらーってお店戻って、準備して、夕方から夜まで料理してるよ」
「ふ、ふらーって……!?」
英雄の生活リズムが“ふらー”で説明されていいのか!?
わたしの頭の中のゼン様のイメージが揺さぶられる。
ユファはさらに身を乗り出し、こそこそ声で言った。
「君たちもどうせ食堂目当てで来たんでしょ?」
「そ、それは……!」
図星すぎて言葉が詰まる。
クレアが横で静かに咳払いをしたけれど、表情は否定していなかった。
ユファはにやりと笑い、尻尾まで器用に“わかってるよ”的に揺らしてみせた。
「隠さなくてもいいってば。
この前なんてね、昼の一時間前なのに満席で、外の通りまで行列伸びてたんだから!」
「一時間前……!」
どうやら幻の食堂というのは想像以上の人気らしい。
でも――
“ゼン様が本当にこの場所で生活している”
その事実が、胸の奥をふわっと温めた。
わたしは思わずユファの小さな木の机に両手を置き、勢いのまま尋ねる。
「ねぇ! ねぇユファ!
灰庵亭って……どんな場所なの?
ゼン様は、食堂でどんな料理を作ってるの?」
自分でも驚くほど勢いよく身を乗り出していた。
けれど抑えられなかった。
胸の真ん中が小さく破裂しそうなくらい、期待と焦りが混ざった鼓動が止まらない。
ユファはぱちくりとまばたきをして、耳をぴょこんと立てた。
「え? そんなに気になるの?」
その無邪気さが逆に胸に突き刺さる。
だって――ゼン様のこととなると、わたしの心はもう落ち着いていられないのだ。
妙にうるさい鼓動が、胸の内側から「早く聞け!」とせっついてくる。
ユファは尻尾をふわんとひとなでしてから、あっさりと言った。
「灰庵亭にはね、あたし何度も行ってるよ」
…………。
……え?
なに?
今、なんと言った?
行ってる?
何度も?
え、それってどういう――
「家がこの坂の近くだからね。昔からゼンさんのお使い頼まれたり、荷物運んだりしてて……気づいたら手伝いまでしてたの!」
さらっと、とんでもないことを言ってのけられた気分だった。
(な、なんでそんな羨ましすぎる立ち位置を……!?)
胸の奥でなにかが沸騰する。
羨ましいとか嫉妬とか、もっと複雑で説明しづらい“もやもや”が、心の中で体育祭を始めたみたいに騒いでいる。
ユファはそんなわたしの混乱をよそに、楽しそうに続ける。
「手伝いって言ってもね、皿洗ったり、風が強い日に窓押さえたり、煮込みの鍋が噴きこぼれそうな時に火のお守りをしたりとかね。ほんと、ちょっとしたことだけど」
……なんなの、その仲睦まじい感じは…
聞いてるだけで胸の奥がぎゅっとなるのはどうしてだろう。
聞き流せばいいのに、心のどこかが必死に聞こうとしてる。
いいなぁ…
わたしだって、本当は、そんなふうに……
誰にも気づかれないささやかな距離感で支え合える関係になってみたかったのに。
(ずるい……いや違う。ずるいわけじゃない。でも……でも……!)
整理のつかない感情が、心の中でくるくると渦を巻く。
そしてユファは、目を輝かせて言った。
「ゼンさんってさ、いろんな素材をちゃんと“見て”、その生かし方を考えるんだよ。それがほんとすごくて!
あたし、小さい頃からモノづくり好きだったからさ、ゼンさんの料理見て『素材ってこんなに変わるんだ!』って目からウロコで!」
尻尾がぶんぶん振り回され、彼女の興奮が丸わかりだ。
「それでね! 『じゃあ自分も何か作って売ってみよう!』って思って、この店を始めたの!」
「み、店を……自分で?」
「うん! 前は畑仕事しかなかったけど、灰庵亭のおかげで旅人がいっぱい来てくれるでしょ?
みんなおみやげ欲しがるし、村のもの珍しがってくれるし……
だから、商売できるようになったんだ!」
ユファは胸を張り、嬉しそうに尻尾をぱたぱた揺らす。
その姿に、胸がじんと温かくなった。
灰庵亭が生んだ“変化”。
ゼン様の料理が運んだ“影響”。
それらが、この村でちゃんと根を張っている。
そして――
この明るい少女の未来を照らすほどに、確かな光になっている。
「ゼンさんには感謝してるんだぁ。
だってさ、村の大人たちも今はみんな前より元気なんだよ?
旅人が来るから畑仕事が売れるし、木工のおじちゃんの仕事も増えるし。
お金持ってくるし、物を交換していくし……
なんかね、みんな笑うようになったの!」




