第96話 灰の尾根
エルド峠の門前で、わたしたちはしばらく立ち尽くしていた。
岩でできた巨大なゲートが朝の陽を受けて鈍く輝き、まるで古い巨人が背を丸めて眠っているように見える。
風がふっと弱まり、峠に短い静寂が落ちた。
クレアがレヴのたてがみを撫で、わたしの方へ振り返る。
「……行きましょう。ここを越えれば、山郷の入口まではもう少しです」
「うん……!」
門の近くには管理小屋らしき建物があったが、扉は固く閉ざされ、人の気配はない。
代わりに、木製の掲示板が風に揺れていた。
《本日:通行注意。午後より風脈強。峠上での野営禁止》
手書きの文字は歪んでいて、急いで書いたようだった。
(こんなところも、まだ誰かが管理してるんだ……)
クレアは門の側面を押し、風圧軽減機構を利用してゆっくり開く隙間を作る。
重い石板が信じられないほど軽やかに動いた。
「古代の技術って……すごいね」
「はい。ここが残っている理由の一つでもあります」
ゲートをくぐると、風の音が急に変わった。
まるで外界と内側で“空気の密度”が違うような、耳がきゅっと詰まる感覚。
峠の向こうには――
細長い谷が緩やかに続き、その先でうっすらと霧が漂っていた。
あの霧のもっと奥に、ガルヴァ山郷がある。
レヴを進めながら、クレアが説明する。
「この谷道を“灰の前路”と言います。ここから先は一気に冷えます。外套を深くかぶってください」
「うん……!」
風は峠の外よりもさらに冷たく、細い刃物みたいに肌を撫でた。
谷の両側を囲む岩壁は、灰白と黒のまだら模様――ガルヴァ山系特有の地層だ。
よく見ると、岩のところどころがなめらかに溶けたような形になっていた。
「この岩……焼けたみたい?」
「はい。古代戦争の魔導爆心の跡です。灰化した岩盤は“アッシュストーン”と呼ばれます。」
(魔導爆心……
そんな昔の痕跡が、まだ残ってるんだ……)
谷道はゆるやかな上り坂で、レヴは安定した歩調で進む。
しかし空気の重さが少しずつ変わってくるのがわかる。
胸の奥がざわ……っと震えるような感覚。
(……なんだろう?)
クレアが遠くを見つめたまま言った。
「地脈の影響です。山郷に近づくほど、“魔力の流れ”が強くなります」
「あ……じゃあ、これが……?」
「大丈夫です。普通の人間でも感じる程度の微弱なものですから」
安心させるように言いながらも、クレアのまなざしは鋭い。
山に入ると、彼女はいつもの柔らかさより“任務の目”が強くなる。
少し心が引き締まった。
谷道へ足を踏み入れてしばらく進むと、景色は驚くほど急激に変わり始めた。
エルド峠の外側ではまだ“高原”の延長だった空気が、ここではもう完全に“山の内側”のものへと変質している。
風は細く冷たくなり、音の響き方すら違った。外では開けた空に散っていく風音だったのに、いま耳に届くのは――まるで岩と岩の隙間を潜り抜けながら形を変えるような、低く細い笛の声に近い。
谷幅は想像以上に狭い。
左右の壁はほとんど“垂直に切り立った柱”のようで、遠くから見ていた時はただの岩山に見えたものが、近づくと実際には巨大な石の塔が何本も連なっているかのようだった。
壁面には灰白石と黒曜鉱が縞のように重なっている。
それが朝の光を受けると、灰色の部分は鈍く濡れたように光り、黒い部分はまるで冷たい刀身のように硬質な光を返した。
「うわぁ……」
思わず声が漏れた。
道は細く、わたしたちが通っているのは“人がやっと通れる程度の岩棚”だ。
そのすぐ下には、雪解け水が削った細い沢が流れていた。
ごう、と言うほどの勢いではない。
けれどその流れはどこか耳鳴りのように響き、谷全体に不思議な共鳴音を散らしている。
岩棚の上には、折れた石碑の欠片がいくつも散らばっていた。
コケをかぶった古い文字は読めないけれど、きっと昔の巡礼者が刻んだ祈りの跡なのだろう。
「昔は……もっと人が通ってたのかな」
ぼそりと呟くと、クレアが少しだけ振り返って答えた。
「はい。百年ほど前は、帝都から山郷へ向かう巡礼路として利用されていました。ですが、鉄道が通ってからは……ほとんど廃れてしまったんです」
道の両脇には、奇妙な形の針葉樹がまばらに生えている。
枝先が淡く白いのは霧のせいかと思ったが、近づくと葉そのものが銀色に薄く光っていた。
「この木……光ってる?」
「霧樹です。ガルヴァ脈の魔力を吸って、夜になるともっと目立ちます。……山郷の外縁に近づくと、こうした木々が増えていきます」
光る木、灰の岩壁、古の道標。
どれも帝都では絶対に見ない景色で、胸がそわそわする。
さらに進むと道が緩やかに上り、視界が開けた。
高い岩壁の上から、白い霧がゆっくりと流れ落ちていた。
水ではない、霧の“滝”だ。
霧は風に押されて形を変え、時に花のように広がり、時に獣のように渦を巻く。
それが岩肌の黒と灰の縞に溶け込み、幻想的な模様を描いていた。
「きれい……」
わたしがそう呟くと、クレアも珍しく視線を向けた。
「……ガルヴァ霧潮です。地熱と冷気が交わる場所で発生します。山郷の気候が“独自のもの”である理由の一つですね」
近づくにつれ、霧が風に乗って頬をかすめた。
霧なのに、なぜかほんのり温かい。
(不思議な……匂いだな)
草でも花でもない。
もっと透明で、どこか金属のような、でも心地よい香りが混じっている。
道の中央には、古びた祠の残骸のようなものがあった。
三本の石柱が折れ、中央の台座だけが残っている。
台座には白灰石の欠片が載せられており、誰かが最近供えたらしい。
「……誰か、来てるんだね」
「山郷の人々が時々ここまで降りてきて、祈りを捧げるのだと思います。宗教とはもう形を失っていますが……供物の文化だけは残るそうです」
この谷道全体が、ただの自然ではなく“人の記憶が染みついた地形”なのだとわかる。
進むにつれ、足元の岩が徐々に黒みを増していった。
黒曜鉱が濃くなり、地面はまるで夜の底のような深い黒を帯びている。
その中に、細い白い線が走っている。
まるで雷光を石の中に閉じ込めたような模様――ガルヴァ脈の影響が表面に現れた“魔力痕”だ。
レヴの蹄がそれを踏みしめるたび、かすかに音が反響する。
コーン……コォン……と、冷たい鐘のような音だ。
風も、岩も、水も、音をひそめるのではなく――
谷全体が、低く深く“何かを歌っている”ように感じた。
(……世界が、変わったみたい)
この谷は帝都とは別の“呼吸の仕方”をしている。
ただ静かなのではない。
深く、古く、重い静けさ。
クレアはそんな谷を知り尽くしているかのように、淡々と前を見据えたままだった。
谷が少しずつ広がり、緩い盆地状になった。
そこに小さな石造りの建物が見えてくる。
「……あれは?」
「巡礼宿です。今夜の宿泊地になります」
それは、いかにも古い修道院を思わせる建物だった。
屋根は灰色の石板、壁は黒曜石のように硬く、窓は小さな四角い穴が開いているだけ。
荒れ果ててはいないけれど、“最低限の修復だけして維持している”といった佇まいだった。
クレアが小さく説明する。
「昔、山郷へ向かう巡礼者たちが祈りと休息のために使っていた施設です。
神の沈黙以降は廃れて……今は旅人用の無料宿泊所になっています」
建物の前には木製の看板があり、そこには手書きで
《灰の巡礼宿 旅人へ恩寵を》
と書かれていた。
(灰……って、たぶんこの地形のことなんだよね)
宿の中に入ると、ひんやりとした空気が満ちていた。
石壁に囲まれているせいで、外よりさらに温度が低い。
だが湿気はなく、空気は澄んでいる。
中央には大きな焚き火台、両脇には木製の簡素な寝台が十床ほど。
その多くは誰も使っていないようだった。
「誰もいない……?」
「はい。旅人は少ないですから」
クレアは慣れた様子で荷物を置き、わたしに毛布を手渡してくれた。
「ここでは焚き火を使えます。火の管理人はいませんが、水場は生きています」
奥の壁際には古い石の水槽があった。
透明な水が細く流れ続けている。
「この水……きれい」
「ガルヴァ地下脈の湧水です。……魔力の浄化作用があります」
水を少しすくって手にかけると、冷たさの中にほんのり温かいような、不思議な感触があった。
「……なんか、気持ちいい」
「そうでしょう。ガルヴァ脈の水は、体の疲れを取ると言われています」
クレアの声が、少し柔らかい。
寝台に荷物を置くと彼女は簡易の焚き火台へ薪をくべ、火打石を打った。
火花が散り、じゅ、と乾いた音を立てて炎が広がる。
石の壁に、揺れる橙の光。
外では風が強くなっているようで、建物の隙間から“ひゅうぅ……”という細い鳴き声が響いた。
(ガルヴァの啼き風……)
音だけで寒さが増すような、そんな響きだった。
クレアが火の前に座り、わたしを手招きする。
「ミナ様、手を温めてください。標高のせいで体温が奪われやすいので」
「あ、ありがとう……」
火の前に座ると、じわっと温かさが広がる。
石壁に反射した炎がゆらゆら揺れて、落ち着いた気持ちになった。
「……ねぇ、クレア」
「はい?」
「この先に……ガルヴァ山郷があるんだよね?」
「ええ。ここから半日ほどです」
「そして……その奥に、ゼン様がいるんだよね」
クレアはほんの一瞬だけ目を伏せたあと、静かに微笑んだ。
「はい。必ず辿り着けます」
焚き火の音がぱちぱちと鳴った。
外では啼き風が、まるで谷全体を撫でるように吹いている。
わたしは毛布にくるまり、ゆっくり横になった。
体が疲れで重くなり、瞼が落ちていく――
でも胸のあたりだけが、ふわふわと温かい。
(ゼン様……もう、すぐだ)
風の音と焚き火の温もりの中でその言葉を胸に抱いたまま、わたしは眠りに落ちていった。
――山郷へ続く夜が、静かに深く降りていく。
翌朝。
巡礼宿の石壁が、夜明けの淡い光を反射して薄く輝いていた。
目を覚ますと、焚き火はすでに熾火になっており、クレアが外套の上から装備を整えている。
外は静かで、風の音だけがかすかに響いていた。
「……おはよう、クレア」
「おはようございます。朝食代わりに、湧水で煮出した薬草茶を用意しました」
差し出された木杯から漂うのは、ほんのり甘くて、少しだけ苦い草の香り。
口に含むと、体の芯がじわっと温かくなる。
「これ……変な感じ。冷たいのに、暖かいみたい」
「ガルヴァ脈の水は、魔力濃度が高いんです。身体の循環を整えてくれます」
(……これが、“山郷の水”なんだ。)
朝の霧が薄く流れ、巡礼宿の前の谷道は白銀の膜に覆われているようだった。
今日進むのは、その霧の向こう――ガルヴァ山郷へ続く山腹道。
クレアがレヴの鞍を締めながら言った。
「ミナ様、今日は少しきつい道になります。気持ちの準備を。」
「う、うん! がんばる!」
■ 谷道から“灰の尾根”へ
巡礼宿を出てしばらく進むと、谷はゆっくりと高度を上げ、霧が濃くなっていく。
足元の岩は黒と灰の縞模様を描き、ところどころ滑らかな“溶岩流の跡”が光を反射した。
「……ここ、昨日より霧が濃いね」
「はい。山郷の外縁“灰の尾根”に近づいています」
霧はただの水蒸気ではなく、うっすらと光を含んでいるようだった。
見えない何かが霧の粒子に作用している――そんな気配。
(これが……地脈の影響?)
胸の奥が、ざわりと震える。
不快ではない。ただ、世界が少し“生きている”ように感じるだけ。
「クレア……音、変じゃない?」
「ええ。霧の中では音が反響します。山の“呼吸”のように聞こえるでしょう?」
確かに、遠くから低く、一定のリズムで
ゴォ……ォ……
という音が響いてくる。
風でも動物でもなく、もっと深い――大地の奥底から聞こえるような。
■ 灰白の断崖 《灰の尾根》
谷道はやがて狭まり、斜面が急激に立ち上がる。
目前に“巨大な灰白の壁”が姿を現した。
「……これが、“灰の尾根”……?」
「はい。ガルヴァ山郷を囲む外側の断崖です。
岩盤が古代の魔導衝撃で灰化し、いまでも脆い部分があります。」
霧の中で白灰色の岩壁が淡く光り、まるで月光だけで造られた壁のように見える。
高さは百メートルはある。だが、階段状に裂け目が走り、ところどころに狭い岩棚が続いている。
「ここを……登るの?」
「はい。ですが、歩きではありません」
クレアがレヴの手綱を軽く引くと、レヴは前脚をしならせるようにして岩棚へ乗った。
まるで“ここを通るのは慣れている”と言わんばかりの動き。
(すご………)
風翔獣ケルヴァンは、岩場に強い。
その蹄には魔力を帯びた“吸着膜”があり、岩の角度が多少急でも滑らない。
ただ――
霧を切り裂く風が、尾根の上から吹き下ろしてきた。
ひゅうううう……ッ!
「きゃっ……!」
身体が浮くほどの強風にあおられ、思わずレヴの背中にしがみつく。
「大丈夫、離れないでください。ここからが少し危険です」
尾根の道は、幅わずか三メートルほど。
右側は岩壁に張り付くような小さな段、左側は深い霧に覆われた断崖。
風が吹くたび霧が渦を巻き、その奥に暗い空間がぽっかりと空いて見える。
(あそこに落ちたら……絶対に戻ってこれない……)
喉が乾き、指先が冷える。
けれど、レヴは怯む気配ひとつない。
クレアが低く、しかし優しい声で言う。
「ミナ様、息を整えてください。
この辺りは山郷の“結界霧”の外縁です。霧脈が風に乗って流れ込みます」
「霧……脈……?」
「ええ。地脈の上に形成される特殊な霧で、方向感覚を狂わせます。
でも、レヴが道を覚えていますから大丈夫です」
(レヴ……頼りになりすぎる……!)
風は時折強まりつつも、進むにつれ霧の密度が安定してきた。
尾根の上で風がピタリと止むと――
視界が、急に開けた。
■ ガルヴァ山郷の入口 ― “霧の割れ目”
霧が左右に割れ、細い渓谷への入口が現れた。
その奥には段々状に広がる棚地と、薄い光の帯をまとった針葉樹林が見える。
「あれが……山郷……?」
「はい。外界から見えるのは、ここが初めてです」
霧の間から差し込む陽光に照らされ、
森の葉がかすかに蛍光色を帯びて輝いている。
(……本当に、光が生きてるみたい……)
谷間には細い川が走り、さらさらと澄んだ音を立てながら流れていた。
クレアが馬を進めながら説明する。
「あの川は《ガルヴァ川》です。
地下の〈光脈泉〉から湧き出し、村全体を潤しています。」
「飲めるの?」
「はい。山郷の人々はあれを“命の水”と呼びます。
飲むと体が軽くなるんです」
夕暮れの前の光が山に差し込み、棚田状の斜面が柔らかく照らされる。
土壌は灰白で、ところどころに淡い紫色の草――灰花草が揺れていた。
そして、谷の奥。
斜面に寄り添うように、木と石造りの小さな家々が並ぶ集落。
煙突から白い煙が上がり、家々の間に人の影がちらついている。
「人が……住んでるんだ……!」
「はい。あれが《ガルヴァ山郷》です。」
「……すごい……こんな場所が本当に……」
言葉が自然と漏れた。
霧のヴェールが完全に開けると、そこにはまるで絵巻物のような景色が広がっていた。
ガルヴァ山郷は“平地”に築かれた村じゃなかった。
正面に広がるのは山肌に貼りつくように段々状に並んだ石畑と家々――
まるで巨大な階段の上に、ひとつひとつの暮らしが乗っているような光景だった。
段々の縁には、低い石壁。
その上には白灰色の草(灰花草)が風に揺れ、淡く光の粒を散らしている。
草の光は蛍のように弱いがその印象はあまりに自然で……不気味ではなく、むしろ神秘的だ。
「灰花草は、魔力を含んだ露を吸って育つみたいです。
日暮れになると光が強くなって……夜は道の案内にもなるんですよ」
「花なのに……道案内……?」
「ここでは珍しくありません。」
クレアは淡々と言うが、わたしには奇跡の連続にしか思えなかった。
段々畑の中央には透き通った細い川が通っている。
石で組まれた水路に沿って、すいすいと水が流れていた。
川底まで見えるほど澄み切っていて、
水面には紫がかった光の粒――“光脈の欠片”が漂っている。
「川が……光ってる……!」
「光脈泉の水です。谷の地下で地脈と光脈が混ざり、
水が“中性魔力”を帯びるんです」
「飲んだら……本当に軽くなるの?」
「ええ。山郷の人たちは毎朝この水を汲んでいます」
川沿いには木製の水車があり、ゆっくり回っていた。
どうやら村の小さな工房へ動力を送っているらしい。
川のそばで白い前掛けをした女性が野菜を洗っているのが見えた。
こちらに気づくとふわりと微笑み、軽く会釈してくれた。
その笑顔は旅人を警戒するものではなく、“長く忘れていた外の風を歓迎する”ような柔らかさだった。
段々斜面の上に並ぶ家はどれも小さく、素朴で温かい。
石と木を組み合わせた壁。
灰色の石板屋根。
小さな窓から漏れる橙の光。
煙突から立ちのぼるゆっくりした煙。
どの家にも共通しているのは、
「外界とは違う、内側だけの静かな暮らし」が感じられることだ。
(……こんなところで、みんな生きてるんだ……)
体の奥がじんと熱くなる。
外界のように光の塔も、魔導街灯も、結界灯もない。
代わりに霧と、魔力の草花と、山の風が自然に明るさを作っていた。
谷に入る前は静寂だったのに、
近づくほど“生活の音”が増えていく。
薪を割る音や子どもが山の斜面を駆け回る足音。遠くの工房から聞こえる木槌の音。毛織物を織る機織り機のリズム。ガルヴァ川の、水が石を叩く穏やかな流れ。
どれも優しくて、
帝都の喧騒とはまるで別の世界だった。
「……なんか……胸がぎゅってなる……」
「驚いていますか?」
「うん……。もっと荒れた場所だと思ってた……霧に閉ざされて、誰も住んでないみたいな……」
クレアは静かに首を振った。
「山郷は“人の終着点”と言われています。
戦で家族を失った者。
帝都で自分の居場所をなくした者。
旅の果てに帰る場所を見つけられなかった者。
……ここに来る人は、皆どこかに傷を負っているんです」
「……だから、こんなに優しいの……?」
「たぶん、そうでしょうね」
レヴを進めていると、段畑の合間に数人の村人が作業をしているのが見える。
標高が高いせいか、畑は野菜よりも薬草が多い。
灰花草、霧芋、影葉、夜鳴草……名前も見たことのない植物が並ぶ。
畑仕事をする老夫婦の背中は小さく、しかし力強い。
一方で、段々の少し上では獣人の男が木材を運び、巨大な木槌で梁を整えている。
「獣人さんもいるんだね……!」
「はい。ガルヴァ山郷は種族差別がありません。
そもそも人が少なすぎて……一人でも失えば、村が成り立たなくなります」
なるほど……
わたしは心の中でゆっくり頷いた。
人は少ないけれど、それぞれが役割を持って支え合っている。
そんな空気が、目の前の村にはあった。
村の背後には、淡い緑色の光を帯びた針葉樹林が広がっていた。
「……あれ、木が光ってる?」
いや、光っているというより……
ゆっくり脈打っている。
ひとつひとつの枝葉に淡い緑の霧が絡みつき、それが風に揺れるたびに光が波のように森の表面を流れていった。
まるで巨大な呼吸器官が大地の奥から空へと魔力を吸い上げ、やさしく吐き出しているみたい。
わたしは思わず息を呑んでいた。
段畑のさらに奥には山肌に沿うように広がる針葉樹林――その木々の先端が、淡い翡翠色に染まっていた。
「……森が生きてるみたい…だね」
クレアはレヴの首を軽く撫でながら、視線を森へ向ける。
「生きていますよ。あれは“霧樹”と呼ばれる樹種で、この谷特有のものです。古くから、ガルヴァの霧樹林は“地脈を飲む森”と言われてます」
「地脈を……飲む?」
「この山郷の地下には〈ガルヴァ脈〉という中性の魔力流が走っています。“光”と“闇”の魔力が均衡した特殊な地脈です。
霧樹林はその魔力の蒸気を吸い上げ、光として放出するんです」
「だから光ってるの??」
「はい。夜になるともっとはっきり見えますよ。森全体が淡い翡翠色に揺れて、風が吹くと光が走る。……まるで星空を地面に落としたみたいに」
「えっ……夜でも?」
「はい。月が雲に隠れても、森の光がある限りは真っ暗にはなりません」
それは森というより、まるで天然の街灯のようだった。
いや……もっと柔らかい。
もっと“息づいている”。
よく見ると霧樹の幹は普通の針葉樹よりも細く、節が多い。
霧樹林の上を薄く漂う霧は陽光を受けて虹色にきらりと輝き、風が吹くたびに帯のように流れていく。
その霧にはかすかなミントのような清涼な香りがして、わたしは思わず深く吸い込んだ。
「いい香り……」
「霧には浄化作用があります。この谷の空気が澄んでいる理由のひとつです。」
「へぇ……!」
霧樹林は段畑の裏側へ沿うように広がり、その奥へ進むほど霧が濃くなる。
風が吹くたび枝がゆらりと揺れ、その揺れが光の波となって伝わっていく。
まるで森全体が“水面”のようだった。
「……クレア。あれ、何?」
ふと、森の奥に白い影がひょいと動くのが見えた。
犬くらいの大きさで、角のようなものが光を受けて輝いている。
クレアは即座に判別したようだ。
「《山鹿》の子供ですね。あの鹿は、谷に多く住む魔力耐性のある獣です」
「鹿……? でも、すごく綺麗……」
「魔力を含む草を食べるので、角が光るんです。
村の人たちにとっては重要な食材でもあります」
(あれが……ゼン様の料理に使われる鹿……)
不思議な気持ちになった。
帝都の宮廷で出される料理はすべて管理された養殖場のものだけれど、ここでは“自然そのもの”が生きている。
森の奥では霧の中で山鹿の群れが音もなく歩いていた。
霧樹林の淡い緑の光が角に反射し、影がゆらゆらと揺れる。
どこか幻想的で、現実離れした風景だった。
レヴも耳を立てて森の方を見ている。
霧の香りが気に入ったのか、鼻をひくひく動かしていた。
「レヴも気になるんだね」
「高原獣は魔力に敏感ですから。……ここでは、彼らも落ち着くんですよ」
「レヴ、リラックスしてる?」
レヴは「ふん」と鼻を鳴らした。
(かわいい……)
段畑の縁をレヴがゆっくりと歩むたび、足元の石敷き道に乾いた音がやわらかく響いた。段々に連なる畑は朝の霧をまとって薄く光り、その間を抜けていく風が灰花草の白い穂を揺らす。斜面の上には霧樹林が帯のように広がっており、針葉の先に付着した霧の粒が光を反射してちらちら煌めいた。その光が村の家々の石屋根に淡く跳ね返り、まるで空気そのものが微かに呼吸しているようにも見えた。
段々畑のあいだを縫うように進むと、谷の奥に小さな広場が姿を現した。三角形の石畳で囲まれたその中心に苔むした古い井戸がぽつんと佇んでいる。井戸の石枠には古い祈祷文らしき刻印が残っていたが、長い年月の風雨で端が丸く摩耗し、もはや読むことはできない。湧き上がる霧が井戸の縁を包み、白い息のようにふわりと宙へ散っていく。
井戸のそばでは妖精族の女性が静かに腰を下ろし、薬草を束ねて水に浸していた。髪は淡い銀色で、霧の光を受けるたびにほのかに虹色を帯びる。彼女の手がゆっくりと動くたび、水面に細かな輪が広がり、そこに光脈の粒が反射して小さな星のように瞬いた。女性がこちらへ微笑むと、その表情は霧の中に溶けていくように柔らかく、山郷の空気そのものと同じ静けさを湛えていた。
広場の右側には堂々とした木工小屋が建っている。壁は黒曜鉱を混ぜた木板で補強され、風が吹くたび薄い鈍い光が走る。開け放たれた扉からは木くずの匂いが濃く漂い、乾いた削り音がコン、コン、と規則正しく響いてきた。若い獣人の男が太い枝を削っており、削り屑が細かな渦を描きながら足元へ落ちていく。その手つきは驚くほど繊細で、粗野な力ではなく、まるで木の中に眠る形を丁寧に掬い上げているかのようだった。村の家々の梁や棚、道具類のほとんどが、たぶんこの工房から生まれているのだろう。
広場の左側では、細い川へつながる浅い砂地で子どもたちが遊んでいた。川の水は驚くほど透明で、底の白い砂粒や薄紫の小さな貝殻のようなものまではっきり見える。子どもたちはその砂をすくっては石を積み、独自の“塔”を作っていたらしい。ひとりが積んだ石が崩れ、ぱらぱらと落ちていくと、途端に笑い声が広がる。
「旅人ー! 旅人が来たー!」
最初にわたしたちに気づいた子が声を上げると、広場の大人たちが作業の手を止め、こちらへちらりと視線を向けた。石を運ぶ男、薬草を干す女、木工小屋の獣人、井戸端の妖精族――みな一様に驚いた顔をしているが、その表情には警戒よりも戸惑いと好奇心、そしてほんの少しの歓迎が滲んでいる。
こんな山奥なのに、こんなに温かく迎えられるなんて。
「……すごく、あったかい場所なんだね」
わたしが思わず呟くと、クレアは短く頷いた。
「はい。山郷は外界を拒絶しているように見えて……実際には誰も拒みません。“来る者を静かに受け入れるだけ”の場所です」
その言葉は村の空気とぴたりと合っていた。霧が人を隠すのではなく、傷ついた心を包むためにここにあるのだと、そんな気さえした。
広場の奥にはさらに高い段畑へと続く細い小道が伸びていた。石を敷き詰めた急な階段道で、両脇には光を帯びた霧樹の若木が並んでいる。風が吹くたび木々がかすかに揺れ、翡翠色の光が葉脈に沿って波のように流れた。その光が小道の石段に映り、段々と登るほど淡い緑の梯子を踏んでいくように見える。
その先――霧が一段と濃くなる場所が見えた。
クレアが手綱を少し締め、わたしに告げる。
「……ミナ様。あの奥が“山郷の上段”です。
そして、さらに奥の断崖台地――“霧の段”を越えると、ゼン様の場所に至ります」
「霧の段……」
谷全体に満ちる霧が、そこだけさらに濃い。
まるで“境界”があるかのように。
胸が高鳴った。
(ゼン様……本当に、この先に……)
広場に吹いた風が、灰花草をゆらりと揺らした。
光の粒がふわりと舞い上がり、わたしたちの周囲に淡く降りそそぐ。
まるで山郷そのものが「ここへ来ていい」と静かに受け入れてくれているようだった。
わたしは息を吸い、レヴのたてがみをそっと撫でた。
(いよいよ……ゼン様のいる場所へ……)
谷の奥、霧の深い段へ続く道は、——静かに、しかし確かにわたしたちを呼んでいた。
ガルヴァ山郷の中心を抜け、段畑沿いの細道を進んでいくと、森の光がほんのり薄くなった場所に出た。
そこはちょうど高台へ続く緩やかな坂の入り口だった。
レヴが軽く鼻を鳴らす。
坂の向こうに、何か“特別な気配”を感じているようだった。
その坂道の脇に――
霧に溶け込むように古い木の看板が立っていた。
風で揺れ、霧で湿って、しかしどこか温かい雰囲気を纏った看板。
そこには、太い筆文字でこう刻まれていた。
『灰庵亭』
「あっ……!」
思わず声が裏返った。
雑誌で見た、あの看板だ。
紙面越しにしか知らなかった名前が、いま、すぐ目の前にある。
(本当に……あるんだ……!
本当に……ここに、ゼン様の食堂が……!)
胸の奥がじわっと熱くなる。
帝都で何度も読んだ雑誌のページが頭に鮮やかによみがえった。
“幻の食堂”“予約半年待ち”“ひっそりと佇む山奥の小庵”――
その言葉たちが、急に現実味を帯びて迫ってくる。
「ミナ様。落ち着いてください」
クレアが小声で言ったが、声にわずかに笑みが混じっていた。
「だ、だって……! ほんとに、ほんとに……!」
「ええ。……本物です」
クレアも看板を見上げ、短く息をついた。
彼女もまた思うことがあるんだろうか。その目にはどこか遠い日々を眺めるような色が浮かび、心なしか微笑んでいるにも見えた。
彼女がこの場所に抱く記憶はわたしにはまだ想像の域を出ないけれど――
灰庵亭の名を前にした彼女の眼差しは、まるで、ずっと昔に置き忘れてきた何かをそっと手のひらで確かめているようだった。
高鳴る胸を抑えながら息を整えて看板を見つめていると、レヴが低く鼻を鳴らし、耳を鋭く立てた。
普段なら気にも留めない動作なのに、不意に“何か”見慣れないものに触れたような軽い緊張が走る。
「……レヴ?」
小さく声を漏らすとクレアが素早く振り返り、こちらへ一歩寄ってきた。
その動きには迷いがなく、外套の裾が霧を押し分けるように揺れる。
彼女はミナの肩にそっと手を置き、レヴの影へと押し込むように移動させた。
「ミナ様。外套を深くかぶってください。……今すぐ」
普段より低い声。
命令というより、危険を察知したものだけが出せる静かな圧だ。
「え、な、なに……?」
問いかけが終わる前に、クレアは「急いで」と短く重ねた。
その声音にただならぬ気配が混じり、胸が強張る。
わたしは慌てて外套のフードを深く下ろした。
顔の半分が影に埋もれ、視界が細く狭まる。
霧の向こうで風の向きが変わったような気がした。
その奥から、誰かの話し声が近づいてくる。
灰庵亭へ向かう坂道の上、
その反対側――村の中心から離れた“外界へ続く道”のほうから、数人の影がゆらりと降りてくるのが見えた。
村人のゆったりした衣装とは明らかに違う。
靴は革製のトレッキングブーツ、腰には帝都ブランドの細身の革帯。
そこに吊られた小型魔導計器が陽の光を反射し、旅慣れた都会人の雰囲気をはっきりと伝えてくる。
服装だけじゃない。
立ち姿も、歩幅も、声の放ち方も――
山郷の静けさとはまるで違うリズムを持っていた。
「いや、思ってた以上に登るな……地図の標高差、絶対サバ読んでるだろ」
「読んでないって。灰庵亭の予約サイト、最近改修されたばっかなんだよ」
「ほら見ろ、“この坂の先”。もうすぐだ。うわ……本当に霧の中にあるんだな……!」
会話の響きが完全に都市のものだった。
軽快で油断があって、どこか浮ついている。
(帝国の……人たち……?
なんでここに――いや、灰庵亭が目的……?)
心臓がひやりと跳ねた。
クレアはミナの耳元に顔を寄せ、囁き声で言った。
「顔を見られないように気をつけてください」
舌打ちは小さく、それでも鋭い。
彼女がこれほど露骨に警戒を示すのは、今回の旅で初めてだった。
「……どうして?」
「どうしても、です」
クレアはわたしの肩からそっと手を離すと、わずかに視線を落とし、霧の流れを読むように周囲へ目を走らせた。
その横顔が、どこか諦めにも似た静かな決意を帯びているのが伝わってくる。
「……やはり、来ていましたか」
ぽつりと落とした声は、自分にだけ聞こえるほどの静けさだった。
「ク、クレア……どういうこと……?」
わたしがそうささやくと、彼女はほんの一瞬だけ迷ったように目を伏せ――
それから淡々と語り始めた。
「ミナ様。
――本当は、こうなるのを避けるために“エルド峠”を越えたのです」
「え……?」
「灰庵亭は、すでに“帝都で知らぬ者はいないほど有名な食堂”です。
雑誌だけでなく、冒険者向けガイドにも載り、最近は帝国広報局の公式観光誌にまで小さく記載されている……そんな場所です」
その説明を聞いた瞬間、胸がざわっとした。
“幻の食堂”と呼ばれていたのは知っていたけれど……まさか、そこまで……。
クレアは続けた。
「ゆえに、帝都方面から灰庵亭へ向かう者は増えています。
特に“南渓道”は整備され、旅人にとって最も安全で、案内人も雇える標準ルートです」
南渓道――
さきほど人々が降りてきた方向だ。
「南渓道は、サンメル自治圏から山郷へ続く半日の道です。
霧は濃いですが、村の若者たちが定期的に点検しているため迷いにくい。
外界と山郷をつなぐ事実上“唯一の生活路”でもあります」
視界の向こう、彼らのブーツが小石をはじく音が近づいてくる。
「だからこそ、私は“その道を避けた”。
――ミナ様を、帝都の目から守るためです」
クレアの声は低く、しかし静かに熱を帯びていた。
「外套で顔を隠し、髪色も光の反射で変えてはいますが……
帝都の人間にとってミナ様は“噂の皇女”。
わずかでも影が揺れれば、誰かが気づく可能性は十分にあるのです」
(……そんなことまで考えて……)
胸がきゅっと痛くなった。
クレアはわたしが軽はずみに“旅がしたい”と言ったとき以上に、ずっと深いところでわたしの安全を考えていた。
「エルド峠は危険で寒く、そして人が通りません。
古軍部が軍務用としてかつて使っていた荒道で、今では登攀者か山郷の住民しか通らない。
だから――外界からの旅人とはほとんど遭遇しません」
確かに昨日から峠を越えて山腹を下りるまで、誰にも会わなかった。
「ミナ様にとっては、もっと楽な南渓道を使うほうがよかったかもしれません。
けれど、そこには旅人が多い。
“食堂目当ての旅行客”が毎日のように現れるのです」
軽装の旅人たちの声が近い。
霧の奥から、笑い声が混じって聞こえてくる。
「顔を見られでもしたら――
この旅が、全部無駄になるどころか……
ミナ様ご自身の自由が二度と手に入らなくなる可能性があります」
クレアはゆっくりと顔を上げ、坂道の先――灰庵亭の方を見つめる。
「本来なら、看板を見たらすぐに向かわせて差し上げたかった。
けれど――“今”はだめです。
一度出直しましょう。村に戻り、ひとまず夜になるまで時間を潰します。ちょうどお昼時ですし、村には旅人も来ないはずです」
クレアの手の温かさが、外套越しにも確かに伝わってくる。
わたしは深く息を吸い、彼女の仕草に合わせるようにゆっくりと頷いた。
「……うん。わかった」




