第94話 ライバルじゃないとは言ったけれど
ロアン村の夜は深く静かで、わたしたちは久しぶりに柔らかな寝台で眠った。
夢も見なかったのは、きっと心がようやく“安心”というものを思い出したからだと思う。
翌朝、窓辺の薄布を透かして差しこむ陽光で目が覚めた。
外では鳥の声がして、パンを焼く匂いが微かに漂ってくる。
(……ああ、旅の朝って、こんなに気持ちがいいんだ)
ぼんやりしていると、隣のベッドでクレアがすでに起き上がり、淡々と荷物をまとめているのが見えた。
動きに一切の無駄がない。起きてから数分も経たずに完全に戦闘出発モードになっている。
「……おはよう、クレア」
「おはようございます。着替えを置いておきました。ミナ様の分です」
「ありがとう……って、クレアは?」
「私はもう着替えますので」
そう言ってクレアは立ち上がり、旅装のシャツに手を伸ばした。
――その瞬間、わたしの目が勝手に吸い寄せられた。
(……え?)
昨日の夜、あれだけしっとりした会話をして、心が通じた気がしていたのに。
いざ改めてみると――
クレアの身体、やばい。
なんというか……その……すべてが“完成されてる”。
細いのにしなやかで、筋肉の曲線もほどよくて、背筋はまっすぐで……
なのに胸元は――
(でっ……!?)
わたしの胸とは、ち、違う……!
昨日「ライバルじゃないよ」とか言ったけど、そんな次元じゃない。
反則だ。これは絶対に反則。
「……あの、ミナ様?」
「えっ!? な、なに!?」
「いえ……視線を感じたような気が……」
「み、見てない!! 見てません!!」
完全に挙動不審。
だって仕方ないじゃない。
わたしの胸なんて、あれに比べたら……いや比べたらだめ。
でも比べてしまう。
くっそ……神様、どうしてこんな差をつけたの。
クレアの性格までクールで美人で、さらに身体まで完璧にする必要はあったの?
(いや、違う、これは嫉妬じゃない……たぶん)
――いや嫉妬だ。
完全に嫉妬だ。
昨日の夜、「恋のライバルじゃない」なんて言った自分を張り倒したい。
なにがライバルじゃないよ、普通に負けてるじゃん。
物理的に負けてるじゃん、胸の戦闘力で完敗じゃん。
クレアはというと、何も気づいてない顔で淡々とベルトを締め、外套を羽織っていく。
その所作がまたいちいち綺麗なのが腹立つ。
「……ミナ様。大丈夫ですか? 顔が赤いようですが」
「赤くなんてない!!」
「いえ、かなり赤いです」
「これはその……朝の光のせいです!」
「ああ、なるほど(納得していない声)」
クレアは首を傾げつつも、それ以上は追及してこなかった。
無表情なのに、なんか“心の中で笑ってる”ように見えたのが悔しい。
急いで自分の着替えを手に取り、クレアから背を向ける。
(くっ……落ち着け、落ち着けミナ……!
胸の大きさで人生が決まるわけじゃない……!
――でも、ゼン様は……どっちが……いやいやいや!考えるな!)
わたしは軽く頭を振り、顔の熱を逃がすように深呼吸する。
旅人の服に着替えながらも、さっきの“視界に焼き付いたクレア”が消えない。
(ほんとに……綺麗だなぁ……)
嫉妬と同じくらい、素直にそう思ってしまうのも悔しい。
クレアはまるで彫刻みたいだし、でも人工的ではなくちゃんとした温度を感じる。
ゼン様の弟子として鍛えられた身体。
戦場を生き抜いた脚。
守るための力を備えた腕。
(ああもう、なんで同じ女なのに、こんなに違うの……!?)
「……ミナ様。そろそろ支度は?」
「い、今終わるから!!」
焦りながら髪を結び、荷物を肩にかける。
部屋を出ると、女将さんが簡単な朝食を用意してくれていた。
温かいハーブ入りの粥に、干し果物が添えられている。
「旅の人はよく山で体力を使うからね。しっかり食べて行きな」
「ありがとうございます!」
クレアと一緒にそれをいただき、軽く頭を下げて宿を出る。
朝のロアン村は、昨日の夕暮れとは違う表情を見せていた。
朝露の光が石畳の上で輝き、家々の煙突からはゆっくりと白い煙が立ち上っている。
畑ではすでに農夫たちが仕事を始めていた。
子どもたちが笑いながら小川のそばを駆け抜けていく。
その全部が、帝都とはまったく違う“本当の日常”に見えて胸が温かくなった。
「ミナ様。そろそろ行きましょう」
「うん……!」
レヴが軽く鼻を鳴らし、わたしたちを促す。
朝の光の中で振り返ったロアン村は、まるで絵本の一ページのように穏やかで、静かで、優しかった。
(次は……山越えだ)
胸の奥が、期待と緊張でふるえる。
クレアと一緒にレヴへ跨ると、風がそっと頬を撫でた。
そうして、わたしたちは再び――
ゼン様のいる山へ向けて、歩み始めた。
レヴの背に揺られながら村を離れると、ロアン村の素朴な朝の匂いがしだいに薄れ、代わりに高原特有の澄んだ空気が肺の奥へと流れ込んできた。
陽光は低く、丘陵の影が長く伸びて、道の端をまだら模様に染めている。昨日の星空とはまったく違う色だ。けれどその変化のひとつひとつが、旅の実感となって胸に積み重なっていく。
「クレア。ガルヴァ山郷までは……あとどれくらい?」
「直線距離なら二百キロほどですが、山道は迂回が必要です。今日中に麓の“エルド峠関所”まで行って、そこでひと晩。明日の昼ごろには山郷に入れるはずです」
「……けっこう近いんだね」
「近い、というより……ケルヴァンが優秀なのです。徒歩なら1週間はかかります。馬でも三日半。ですがレヴなら半日も余裕でしょう。ただ――」
「ただ?」
「速さを優先すると、行動が目立ちます。監視を避ける意味では、ゆっくり行く方が安全です」
クレアの言葉に、私は小さく息をのむ。
(……帝都。いま頃どうなってるんだろう)
「きっと……大騒ぎだよね」
「はい。王族の無断離宮は国家緊急事案です。すぐに外周門は封鎖され、各街道にも見張りが増えるはずです」
「じゃあ、捕まっちゃう……?」
「いえ、問題ありません」
クレアは、まるで天気の話でもするような落ち着いた声で続ける。
「封鎖が最初に行われるのは恐らく“帝都からの離脱経路”です。つまり本来なら、追跡隊はあなたが出た城壁門から放射状に索敵網を展開します。
ですが――私は出発の前夜、“痕跡そのもの”を操作しました」
「痕跡……?」
「はい。あなたとレヴの足跡、その日の衣装に残る香と繊維、持ち物の匂い。影部隊は必ず《追跡魔獣》を投入します。あの嗅覚は魔法を上回る精度ですから」
クレアは淡々と続ける。
「ですので昨夜、あえて“別方向へ逃げたように見える痕跡”だけを置いてきました。
南西門――つまり《海路方面》です」
「……えっ?」
「匂いの残り方、土の付着具合、踏み跡の角度。追跡魔獣が最も強く反応するように調整しています。
私たちの本当の出発経路とは、まったく逆方向へ」
わたしは思わず息を飲む。
「つまり……」
「帝都の追跡隊と影部隊は、“あなたは海へ逃げた”と確信します。
海路は国際航路が入り組んでいて、監視が困難ですからね。普通の逃亡者なら、あそこに紛れ込みます」
クレアは小さく頷く。
「さらに、ロアン村では宿泊証明は残していません。村人へ名前も告げていません。代金は前払いの匿名扱いです。
この村の“朝食の匂い”すら、あなたの衣に付かないようにしたつもりです」
「そんなところまで……!」
「影部隊は“痕跡の連続性”を追います。その連続をこちらから断ち切ってしまえば――
追跡網は必ず《南西方面:海路》へ大きく偏る」
クレアは静かに言い切った。
「逆に、私たちが向かう北東の山道は、最も優先度が低い。
帝都から来る追手も、ここに到達するのは――半日以上遅れます」
クレアの声は冷静で、どんな感情も滲ませないのに――
その裏には、驚くほど精密で緻密な読みが詰まっていた。
(……クレア、すごい……
やっぱりただの護衛なんかじゃない。戦場で生き残った“本物の戦士”なんだ)
胸の奥がじんわりと熱くなる。クレアがいてくれる心強さを、今さらながら痛感していた。
「だからこそ、焦らない方がいいんです。こちらが早く動けば動くほど目立ちます。ゆっくり、慎重に進む方が安全です」
「うん……任せるよ」
「はい。ミナ様は景色を楽しんでいてください」
そう言われて改めて周囲を見渡す。
朝の高原は驚くほど静かで、驚くほど広い。
昨日の夕暮れとは違い、世界全体が金色の薄膜に包まれているみたいだった。
遠くの丘陵はまだ霞がかかっていて、斜面の途中を流れる小川だけが、朝日を反射して銀色の帯を作っている。
道はゆるやかな下り坂になり、やがて広い谷へと続く。
谷底には古い交易路の跡が残っていて、ところどころに石造りの標柱が立っている。
「この道、昔の人は歩いていたんだね」
「ええ。今は魔導列車の“東光線”が大陸南部を貫いていますが、百年前まではこの道が唯一の陸路だったそうです」
「列車って……山の向こうまで行ってるの?」
「はい。――《サレヴィア東岸都 (サレヴィア)》まで直通便があります。私たちの道と並行して、南側を走っていますよ」
「サレヴィア……?」
初めて聞く名前だった。だが、その響きだけで海の匂いがした。
クレアは手綱を軽く引き、遠く南の方向を顎で示した。
「サレヴィアは、ルミナス大陸の東海岸最大の港湾都市の一つです。
“東の玄関口”とも呼ばれ、西ネプトラ大陸とルミナスを結ぶ主要海路の一部があそこを経由します」
「えっ、そんな大きな街なの?」
「ええ。人口はイルメラ=フロウズに次いで、東海岸の都市で二番目。魔導造船所もあり、海軍の主力艦の一部はサレヴィアで造られています。
大陸南部から北方への物流網もすべてあそこを通るので……実は帝国の経済を支えている重要な工業都市でもあります」
「そんなに……!」
帝都以外でそこまで影響力のある都市があるなんて、正直知らなかった。
「《東光線》は、サレヴィアを起点に大陸南部を横断して、エレトゥス雷連邦の国境付近まで延びています。
途中で《ブラン高原宿場町》にも補給局があって……“旅人が山を避けて南の大都市を経由する”のが、ここ百年の主流になりました」
「へぇ……じゃあ、昔は列車がなかったから――」
「――みんな、この“ガルヴァ山道”を越えて商隊を運んでいたわけです。
だからガルヴァ山系の北麓には中継集落がいくつもあって、そのひとつが……これから向かう《ガルヴァ山郷》です」
「なるほど……!」
胸の奥がじんわり熱くなる。
これから向かう場所が“歴史の通り道”だったと知ると、旅がさらに特別に思えた。
クレアは続ける。
「サレヴィアは海の匂いと潮風が強い街で、帝都とは文化も雰囲気もまったく違います。
商人、船乗り、魔導研究者……とにかく人の出入りが激しい街で、港では一日じゅう酒場が騒がしいんです」
「えっ、お酒飲むの?」
「いえ、私は任務中でしたから……酒場の外から聞いただけです」
「ふふ……クレアってこういう話になると急に真面目モードになるよね」
「任務でしたので」
「そういうところが可愛いのに」
「か、かわ……っ、ミナ様……?」
クレアの耳がわずかに赤くなったのを見て、わたしは思わず頬を緩めた。
だが、すぐにクレアは咳払いし、視線を前へ戻した。
「とにかく、東光線は旅には便利ですが……身分確認が厳しい。今の状況では利用すべきではありません」
「うん、わかってる。今は“旅人ミナ”だしね」
「はい。私たちは北の山麓を進んで、《ガルヴァ山郷》へ向かいます」
彼女がそう言うと同時に、視界の先――遥か彼方の地平線の上に、巨大な影が重なって見えた。
あれがガルヴァ山系。
昨日よりもはっきりと、近い。
まるで巨大な壁が大陸を区切るように、南北へ長く連なっている。
「ガルヴァ山系って……あんなに広かったんだ……」
「ええ。ルミナ高原と東海岸を分ける“天然の盾”とも言われます。
主峰は標高七千五百メートル。
その周囲には、山肌に沿って階段状の棚地が広がっています」
「棚地……?」
「はい。旧時代の地殻変動で山が隆起した際、地面が段々に持ち上げられたそうです。
その結果、山の外側には“自然の大梯田”のような地形が生まれた。
そこに形成された集落が《ガルヴァ山郷》です」
想像しただけで胸が高鳴った。
自然の大梯田。
山の縁にしがみつくように広がる集落。
そして、そのさらに奥――
「ゼン様の……山は、そのガルヴァ山郷の奥にあるの?」
「ええ。山郷の北側、標高の高い樹林帯に入った先に《ルゼ山脈支道》があります。
ゼン様の食堂があるのは、その途中の“霧のテラス”と呼ばれる断崖の上……と言われています」
「……霧のテラス……」
ゆっくり言葉を口にすると、それだけでまるで絵画のタイトルみたいで胸がざわついた。
霧に覆われた断崖。
山風が流れ、木漏れ日が差し込む高地。
そして、静かに佇む小さな食堂。
(ゼン様……本当に、あんな場所に……?)
考えるだけで息が少し詰まりそうだった。
クレアは続ける。
「ガルヴァ山郷までは、古い街道《北ガルヴァ旧道》を通ります。
帝国軍も昔はこの道を使いましたが、今はほとんどが“地元民の生活路”になっています。
道幅は狭いですが、魔物の出現率は低く、旅人には安全です」
「じゃあ……今日は?」
「はい。《ブラン》から北へ二十キロ。
《サンロア高原帯》を越えた先に、小さな巡礼宿があります。
そこまで行って一泊。明日の朝、山郷へ入ります」
「巡礼宿……神殿の?」
「昔はそうでしたが、今は半分廃墟です。
ただ水場だけは生きているので、旅人の休憩所になっています」
「あ。それなら……ちょっと楽しみ」
わたしがそう言うと、クレアは横目でちらりとわたしを見た。
「……昨日も思いましたが、ミナ様は本当に旅向きですね」
「えっ、どういう意味?」
「すぐに景色に感動するところとか……好奇心の強さとか……」
「それって褒めてる?」
「……はい。たぶん」
「たぶんって何!?」
そんなやり取りをしながら、わたしたちは北へ向かってレヴを進めた。
遠くにはガルヴァ山系がそびえ、
東には海へ通じる大都市サレヴィアがあり、
東光線の列車が見えないところを走っている。
(あの光の列車が、世界中を走ってるんだ……!)
帝都だけが世界じゃない。
海の匂いがする都市も、山に抱かれた郷も、
わたしが知らない場所がこんなに広がっていたなんて。
想像すると、胸がわくわくした。
旅って、本当にいろんな世界をつなぐんだな。
レヴが道を進むと、谷の先に大きな分岐が現れた。
一方は東へ伸びる広い街道、もう一方は北東へ向かう細道。
クレアが迷いなく細道へ進路を取る。
「ここが例の山間路です」
「へぇ……こんな道も知ってるんだ」
「任務で何度も通りました。蒼竜騎士団は“光の帝国の目と足”と呼ばれていましたから」
懐かしそうにも聞こえたが、その声にはどこか影がある。
胸が少しだけ締めつけられた。
(クレア……いろいろ背負ってるんだな……)
道はやがて森へと入り、日差しが木々の隙間から波のように揺れた。
小鳥の声が重なり、森の匂いが濃くなっていく。
「クレア……この森の名前は?」
「“ルル=カノン樹海”です。かつて古代教団が聖具を隠した場所とも言われています。いまは魔獣も少なく、旅人が通る一般道です」
「へぇ……」
確かに、森の空気はどこか神聖で、冷たすぎず暖かすぎない。
生き物の気配が優しく満ちているような、そんな静けさだった。
森を抜けると、視界が一気に開けた。
そこには、青く広がる湖があった。
「わぁ……!」
思わず声が漏れた。
湖面は鏡のように澄んでいて、風が吹くたびに細かな波紋が揺れ、朝の光を細かく砕いて散らしていた。
湖の中央には、古い石造りの小島祠がぽつんと建っている。
鳥が祠の屋根に止まり、翼を広げた瞬間、光が反射して虹色に輝いた。
「……綺麗」
「“鏡湖”と呼ばれています。ガルヴァ山脈の雪解け水が流れ込むので、年間を通して透明度が高いんです」
湖を左手に見ながら進むと、小さな漁村の跡らしき建物がところどころに残っている。
「昔は、ここに村があったの?」
「はい。終焉戦役のころ、避難のためにみな他の都市部へ移ったそうです。いまは旅人が時々休むだけですね」
湖を越えると、緩やかな登り坂が続き始める。
遠くに、山の稜線がはっきりと見えた。
(あれが……ゼン様のいる山)
胸が熱くなる。
クレアは空を仰ぎ、風を読むように髪を払った。
「……午後になると、山から冷たい風が下りてきます。エルド峠までは少し大変ですが、行けますよ」
「うん!」
「ただ――帝都の動きは、そろそろ本格化するころです」
「……やっぱり?」
「はい。失踪から丸一日です。
枢機院は“国外逃亡”と判断し、近隣の関所に通達を出すでしょう」
つまり――
ガルヴァ山郷の手前にある“エルド峠関所”は、今日のうちに封鎖が始まるかもしれない。
「でも……行かないと」
「ええ。安全を確保しつつ、必ず辿り着きます」
クレアの瞳が、光を反射して鋭く光った。
その眼差しは、わたしが知るどんな騎士よりも強く、そしてひたすら優しい。
レヴが蹄を鳴らし、坂を登り始める。
風が冷たくなり、草原の色が濃く変わっていく。
山へ近づいている証だ。
(ゼン様……もうすぐ、そこにいるんだ)
胸の鼓動が高鳴り、背筋がぞわっと震えた。
旅はまだ半ば。
でも――確実に“あの人の場所”へと向かっている。
坂の上に広がる峠道が、私たちを待っていた。




