第92話 帝都では見たことのない空
レフレールでの補給を終え、再び街道へ戻る頃には太陽は西へ傾き始めていた。
街門を抜けると、さっきまで聞いていた喧騒が嘘みたいに消えて、風と草の匂いだけが残る。
「クレア、今日はどこまで行くの?」
「小さな村が、この先の丘を越えたところにあります。“ロアン村”という場所です」
「ロアン……。地図で見たけど、レフレールから少し東じゃなかった?」
「ええ。山道の手前、比較的安全な場所です。ミナ様は旅に不慣れですし、野営は……まだ早いでしょう」
「うっ……たしかに……」
否定できない。
さっきも荷物を詰めるだけで汗だくだったし、クレアがいなかったら露店の呼び込みに引っかかって余計なものを買わされていたと思う。
「遠回りでも、安全な道を選びます。日没前に着ければ問題ありません」
そう言ってクレアはレヴの手綱を軽く操り、街道から東へ分岐する細い路へ入っていった。
――再び、旅が動き出す。
背後にレフレールの屋根が小さくなり、音も色も次第に薄れていく。
草原の道に入り込むと、周囲は一面の“ひらけた静けさ”に包まれた。
高原特有の乾いた風が、ケルヴァンのたてがみをさらさらと揺らす。
その風には麦の匂いでも街の香辛料の香りでもなく、もっと素朴で、“土そのものの息遣い”が混じっている。
道は緩やかに続く丘陵の合間を縫うように延びていた。
片側には起伏のある草原がどこまでも広がり、反対側には風化した石灰岩が層を成した崖が斜めに立ち上がっている。
崖の表面には長い年月の風雨が刻んだ縞模様が走り、
そのひとつひとつが夕日に照らされて赤銅色にゆらめいていた。
ケルヴァンの蹄が地面を軽く叩くたび、風が頬を撫でる。
草原を渡る涼しい風が体の熱をすっと奪ってくれて、
まるで空気そのものに抱きしめられているような気分だった。
レヴは疲れた様子を見せない。
むしろ草原に出てからはどこか嬉しそうに鼻を鳴らし、歩調が一定で揺れも少ない。
さすが軍用にも使われる“風翔獣”というだけのことはあって、すごく逞しい。
「クレア、ロアン村ってどんなところ?」
「畑と牧草地の小さな村です。戦の影響も少なく、治安は良好。
旅人も時々立ち寄りますが、ほとんどが農家でしょう」
「のんびりしてそうで、いいね」
「……ええ。休むには、ちょうど良い場所です」
その声がほんの少しだけ柔らかかった。
クレアにとっても、懐かしい光景があるのかもしれない。
夕日がさらに傾いて、空は淡い橙から薄紫へと移り変わっていく。
遠くで群れになった野鳥が円を描き、南の方角へ流れていくのが見えた。
まるで世界のどこを切り取っても、日常が息づいている――
そんな風景だった。
しばらくして、山風が吹き下ろしてきた。
少し冷たいけれど、体の中にまで染みわたるような心地よさ。
高原の斜面では、山羊がゆったりと草を食んでいる。
角の大きな山羊がこちらを一瞬だけちらりと見て、
また興味を失ったように草へ鼻先を戻す様子がなんだか微笑ましかった。
「……こういう景色、好きだなぁ」
丘の尾根へと続く小道は、レフレールを離れた途端に人の気配が薄れ、風の音とケルヴァンの軽やかな蹄のリズムだけが耳に残るようになった。
日が傾き、世界がゆっくりと金色から紫へと移ろう時間帯。
空気は一段と澄み、遠くの山稜線まではっきりと見える。
さっきまでにぎわっていた大市とは違って、ここには家も店もない。
ただ、広大な高原の大地と、そこを横切る一本の道――
それだけ。
けれどその“何もなさ”が、胸の奥をふわっと軽くしてくれる。
足元の草は、夕風に揺れてさざ波のような模様を描いていた。
光麦畑とは違う野性味を残した高原草で、背丈も低く、風が吹くたびに一面が柔らかく起伏しながら広がっていく。
遠くの丘では放牧中の小型山羊がぱらぱらと駆け回り、その背後では夕日に照らされた雲がゆっくりと赤紫に染まっていた。
どこまでも続く草原の向こう、さらに奥にはかすかに山脈の影が横たわっている。
その山並みには薄い雲が絡みつき、夕日が雲の端を白金に染めていた。
空はオレンジから桃色になり、最後に薄紫が溶け込むように広がった。
高原の空気は水気が少ないためか、色の変化が驚くほど鮮やかだ。
とつぜん、風がひゅうっと横から吹き抜けた。
乾いた風に混じって、遠くで咲く花の甘い香りがかすかに漂う。
「……いい匂い」
「高原花 《シエル草》の香りです。夕方になると香りが強くなるんです」
「へぇ……クレア、なんでも知ってるんだね」
「昔、山岳任務が多かったので」
クレアが淡々と答える。
けれどその声の奥には、どこか懐かしさが含まれている気がした。
彼女もこの風景をずっと前から見てきたのだろう。
私よりずっと厳しい、戦場の空気の中で。
そう思うと、少し胸が痛んだ。
それでも風景はどこまでも穏やかだった。
遠くの草原では、丸い影がいくつも跳ねている。
ケルヴァンの幼獣だ。
しなやかな足で跳ねるように走り、群れで追いかけっこをしている。
「すごい……」
気づけば、言葉にならない感嘆が口をついて出ていた。
帝都セレスティアでは、光は人工物の反射で構築されていた。
街灯、結界灯、聖堂の光脈……。
けれどここにある光は、誰にも制御されていない“世界の光”だった。
ケルヴァンのレヴは緩やかな斜面に差し掛かると鼻をふんと鳴らし、風を切る角度を調整するように首を少し傾ける。
その動きがまた自然で、優雅で、思わず見とれてしまう。
「レヴ、楽しそうだね」
そう言うと、隣のクレアが少しだけ目を細めた。
「高原地帯は、この子たちの得意な環境です。
風が一定で地面も固い。……むしろ嬉しそうですね」
「それ、わかるの?」
「ええ。ずっと一緒にいますから」
クレアの声は澄んでいて、いつもより少し柔らかい。
その響きが風の音と混ざり合って耳に心地いい。
夕暮れの草原に伸びた自分たちの影が、やがて長く、長く伸びていく。
まるでこの旅の道のりを先へ先へと指し示すように。
視界の遠く、地平線に近い場所では、ガルヴァ山系の稜線が濃い影となって横たわっていた。
あれが、明日以降に越える予定の山々。
岩肌はところどころ白く、夕日を反射してきらりと光る。
まるで山全体が“光脈”を宿しているように見えた。
「ねぇクレア、あの白く光ってるとこって……」
「石灰岩の層が露出している部分です。
あそこから先は岩場が多くて、ケルヴァンでも慎重に進まないと」
「う……やっぱり険しい山なんだね」
「ですが、このあたりの丘までは安全です。今は……景色を楽しむ時間だと思いますよ」
クレアの言葉は冷静なのに、どこか優しさがにじむ。
そう言われて改めて周囲を見渡すと――
高原の斜面は夕風の通り道のせいか、草が同じ方向へ揃って靡いていた。
風の流れが肉眼で見えるようで、息を呑むほど美しかった。
その上空には、まだ明るさが残る青紫の空。
薄く伸びた雲が、光を受けて金色に縁取られている。
天頂部にはすでに一番星が瞬きはじめていた。
世界が“夜”へ変わるほんの一瞬の狭間。
その境界を、私はいまケルヴァンの背中で走り抜けている。
身体がふわっと浮き上がるような感覚が胸に広がり、
まるで自分が風の一部になったみたいだった。
「クレア、今日は晴れててよかったね」
「ええ。山越え前は、天候に恵まれるほど助かります」
「夜は……星、見られるかな?」
「さぁ……山脈からの風が強くなければ」
そんな他愛もない言葉が、どうしてこんなに心地いいんだろう。
帝都では、どんな会話にも必ず“意味”や“目的”が伴っていた。
礼儀、政治、監督……すべて何かに繋がっていた。
でも、いま交わしている言葉には何の目的もない。
ただ歩むための言葉で、ただそこにある時間。
ここには監視も、制約も、役目もない。
ただ、自分たちの意思で進んでいる旅だけがある。
――こんな自由な時間が存在したんだ。
胸の奥がじわっと熱くなる。
やがて丘をひとつ越えた瞬間。
遠く小さな灯りがぽつ、ぽつ……と浮かんで見えた。
村だ――。
その灯りは、冷え始めた高原の空気の中で焚き火のように揺らめき、どこか懐かしい“家の光”に見えた。
まるで旅人を静かに迎える“高原の灯火”のようだった。
「あれが……ロアン村?」
「はい。間に合いましたね」
日が沈む前に村へ到着できる。
それだけで安心して、思わず肩の力が抜ける。
ケルヴァンを少し速めると、草原の上に村の影がはっきりと見えてきた。
石を積んだ低い塀、煙突から上がる白い煙、家々の窓から漏れる橙の光――
そして日が沈むとともに、空がゆっくりと夜へ変わっていく。
淡い群青。
その上にひとつ、またひとつ星が灯る。
それは、帝都では見たことのない空だった。
「わ……」
言葉が出ない。
空は、刻一刻と色を変えていく。
落日の余韻が薄れたことで高原の夜は一気に深みを増し、その暗さがかえって星々の瞬きを際立たせていた。
最初はひとつ、ふたつだったのが、ほんの数分で空一面に散りばめられたように広がっていく。
まるで誰かが“夜の幕”の裏側からひとつずつ小さな穴を開けて、その向こう側の光が漏れ出しているみたいだった。
帝都の空は、いつもどこか閉じていた。
どれほど背伸びしても、あの巨大な聖堂の尖塔と光結界の膜が頭上に覆いかぶさって、空が“管理された天井”みたいに見えていた。
でも今は違う。
目の前には、誰の手にも、どの教義にも染まっていない“本物の夜空”がある。
風がふっと吹くたびに、星々が瞬きを増やしていくように見えた。
まるで空そのものが呼吸しているみたいだった。
胸の内側がゆっくりと解けていく。
“縛られていない”ってこういう感覚なのかな…って、不意にそう思えたからだ。
手を伸ばせば届く気がするのに、実際には絶対に触れられない距離で。
なのに確かに心の奥では掴めている――そんな感覚。
帝都では、心が休まる瞬間がほとんどなかった。
何を見ても何を聞いても、それが“王女としての意味”や“責務”に結びついてしまっていた。
でもいま、頭の中はただ星の光で満たされている。
何も考えなくていい。
何者でもなくていい。
ただ呼吸して、ただ見て、ただ生きて――
それだけで世界に受け入れられているような、不思議な安堵。
光脈の流れに沿って、銀色の帯がゆるやかに空を横切っている。
“天の光路 (アストラ・ロード)”と呼ばれる星の川だ。
ケルヴァンの歩みがゆっくりになり、草の上を踏む音だけが響く。
「クレア……すごいね……!」
「高原は空気が澄んでいますから。星がよく見えるんです」
「帝都では…こんなの見れなかった」
「ええ。あそこは光が強すぎるので」
「……この空、毎日見れるの?」
「旅をしていれば、どこでも」
その言葉を聞いて、胸がじんわりと温かくなる。
――ああ、旅ってこんな感じなんだ。
誰に指図されるでもなく、誰かの都合に合わせるでもなく、“見たい景色を自分で選べる”。
それがどれほど尊くて、どれほど幸せなことか。
しばらく星空を見上げていたけれど、クレアが小さく咳をした。
「……ミナ様、見惚れているところ悪いですが。そろそろ村に入ります」
「はっ……! うん!」
気づけばレヴの足どりもゆるんでいた。
星空があまりにも綺麗で、呼吸を忘れるくらいだった。
ロアン村の入口に近づくと、簡素な木の門と灯火を持った見張りが立っていた。
見張りの青年はわたしたちを見ると怪訝そうに眉を上げたものの、敵意はなく、むしろ旅人を歓迎するような穏やかさがあった。
「旅の方かい? もうすぐ夜になりますよ。泊まるなら村長の家に声をかけてくれ」
「ありがとうございます」
クレアが丁寧に頭を下げる。
わたしも慌てて倣う。
村の中へ足を踏み入れたとき――
日が沈み、星がさらに濃く瞬きはじめた。
石造りの家々が並ぶ静かな村。
暖炉の匂い、焼いた根菜の香り、遠くで犬の鳴く声。
レフレールの賑わいとは対照的な、穏やかな“夜の生活の音”が広がっていた。
「クレア……今日、すっごく楽しい」
「……そう言っていただけるなら、連れてきた甲斐があります」
ほんの少し、クレアが微笑んだ気がした。
その一瞬の表情に胸が温かくなる。
そして私は思う。
――こんな旅の始まりなら、きっとどんな困難が来ても、前に進める。
ゼン様のいる山の麓まで、あと少し。
わたしの心は、星みたいに明るく揺れていた。




