第91話 やっとあの人に会える
帝都の郊外を抜ける頃には、もう“都市の匂い”は完全に消えていた。
代わりに胸の奥まで澄み渡ってくるような大気――乾いた草の香りと朝露の冷たさを含んだ風が、優しく頬をなでていく。
わたしたちを乗せているのは旅の相棒――
クレアが選び抜いた、漆黒のケルヴァンだった。
風翔獣、ケルヴァン。
その名のとおり、風の流れを読むように走り、荒野でも山道でも迷いなく進む強靭な脚を持つ。
近くで見ると、やっぱり……大きい。
肩までの高さが私の胸どころか顔のあたりまであるし、体長はほとんど小屋ひとつ分。
でも、その巨体のくせに動きは驚くほどしなやかで、深い青灰色の瞳には穏やかな知性まで宿っている。
クレアがその首筋を軽く撫でると、ケルヴァンは「フシュル……」と低く優しい声を出した。
「名前は“レヴ”。山道が得意で、長距離に向いています」
「……かっこいい……!」
鼻先から尾の先まで余分な脂肪が一切ない。
研ぎ澄まされた流線型の体躯が、颯爽と風を切る。
踏みしめるたびに草が柔らかく音を立て、そのたびに心臓が小さく跳ねた。
本当に“滑る”という表現がぴったりだった。
蹄が地面に触れるたび、草地が波のように流れていく。
丘陵はゆっくりと、けれど確実に後ろへ遠ざかっていく。
「わ、わ……! 速いっ!」
「まだ巡航にも入ってません。しっかり捕まっていてください」
クレアはいつも通りの冷静さで隣に並走している。
彼女のケルヴァンは短毛でレヴよりは小柄だが、動きは軽く、跳ねるように走る。
帝都の外壁を離れてしばらく歩くと、足もとに広がる石畳の質感がはっきり変わった。
白光石で磨かれた“帝都の道”ではなく、生々しい土の匂いが混じる“郊外の土道”になる。
それだけで胸の奥がふわっと浮き立って、思わず深呼吸した。
土の柔らかい踏み心地。
草のかすかなざわめき。
誰かが通った気配の残る、少しだけ凹んだ轍。
それらが帝都の整いすぎた空気とはまるで別物で、胸の奥の知らない部分がそわそわと動き出す。
左手には帝都を囲む外郭農地がゆるやかに広がっている。
黄金に染まった光麦畑が、風に揺れて波打つ。まるで大地が呼吸をしているみたい。
あの畑一面を管理する農夫たちは、帝都では“光の穀守”と呼ばれ尊敬されている。
宮廷の食卓に並ぶパンの半分はここから運ばれているって、昔お姉さまから聞いたことがある。
右手にはくねった雑木林が続いていた。
帝都からわずか数十キロしか離れてないのに、ここまで木々が密生しているなんて知らなかった。
白樺に似た細い木の幹が並び、枝の合間からこぼれる光がまだ朝の冷たさをまとってちらちら揺れている。
鳥の声も帝都とは違う。高い塔に反響する澄んだ声ではなく、もっと野生味のある温かい鳴き声だ。
前方へと延びる道はゆるやかな下り坂になっていて、遠くに草地と丘陵が折り重なり、どこまでも続いているように見えた。
帝都の石造りの建物群に囲まれた生活では絶対に味わえないスケールで、まるでここから“本当の物語”が始まるような気さえしていた。
時折、風に乗って馬と草の匂いが混じった空気が流れてくる。
街道そばの休憩小屋に、移動商人たちのケルヴァン(風翔獣)が繋がれているらしい。
帝都の厩舎では香料や清浄魔法で匂いが抑えられているから、こんな“自然の匂い”はとても新鮮だった。
ふと、クレアが後ろを確かめるように振り返り、小さく頷いた。
「……追跡の気配、今のところ無し。影部隊の動きも見えません」
「ほんと!? よかった……! 追われてたらどうしようかと思った!」
「まだ油断はできません。帝都周辺は監視網が密ですから。
ですが、外壁を越えてこの街道まで出てこられたなら、ひとまず第一関門は突破です」
クレアの声は相変わらず冷静だったが、わずかに安堵が混じっていた。
それだけで少し心が温かくなる。
街道の脇に立つ案内柱には、手書きの地名が刻まれている。
《南街道・第一中継所 リマルシェ村まで:徒歩二時間》
帝都の近くに、こんな可愛い名前の村があったなんて知らなかった。
宮廷教育では帝都中心の地理しか教えられなかったし、下級都市や村の名前を覚える必要もないと言われていた。
でも——今は全部が興味深い。
そして何より、この道を歩いている“私自身”が何もかも新しい。
胸の奥の重たいものが一枚ずつ剥がれていくようで、思わず深呼吸した。
――広い。
帝都の内側では絶対に味わえない広さ。
空はこんなに高かった? 雲ってこんなに薄く伸びてた?
思わず頭が上を向いてしまう。
目前に広がるのは、ルミナ高原の北東に連なる大草原。
《セレスティア原野帯》と呼ばれる地域で、帝都周辺の物流を支える巨大な平野だ。
帝国中から馬車や商人が行き交い、遠くには光都街道へ続く白い石の道が帯のように伸びている。
右手には、セレス山脈の影。
頂にはまだ薄く雪が残り、早朝の光がその白を金色に染めている。
その手前には、オルタ河――帝都を貫く大河がそのまま南西方面へ流れていて、
川沿いには農民たちが作業している姿がぽつぽつと見えた。
「……帝国って、こんなに広かったんだ」
ぽつりと漏れた言葉に、自分でハッとする。
“わたし”、知らなかったんだ。
王宮の奥、教会の回廊、学院の庭園、そのくらいしか歩いてこなかった。
帝国の本当の姿なんて、一度も見てなかったんだ。
ケルヴァンが草を踏む音が心地よくリズムを刻む。
風が吹き抜けるたび、白金色の草花――光麦の穂が一斉に揺れて、波みたいにサラサラと光を散らした。
「ミナ様、ここからは要注意です。この周辺の外縁部は地面が不安定ですから」
クレアが手綱を握りながら冷静に言う。
確かにこの辺りは“光脈”という魔力流が地中に走っていて、ところどころ地面が浮いたり沈んだりしている。
「……でも、すごい景色ね。わたし、こんな広い世界があるなんて知らなかった」
「ミナ様が宮殿の外に出た回数は片手で数えられるでしょうし、そう思うのも無理はないかもしれません」
「……否定は、しないけど」
草原を抜けると、徐々に地形が変化してくる。
丘陵が増え、視界が上下に揺れる。
ところどころ平らな台地があり、その縁には交易用の中継小屋が建っていた。
道の脇には“光導標”と呼ばれる半透明の水晶塔が一定間隔で立っていて、魔力を伝って夜でも道がわかるようになっている。
帝国の物流を支える“光導網”。
教科書で見たときは「ふーん」としか思わなかったけれど、実際に見ると圧巻だ。
(この果てしない景色の向こうに、ゼン様がいるんだ……)
その事実だけで胸が熱くなる。
やがて大きな音が遠くから聞こえた。
ドドドド……という、地鳴りのような響き。
音の正体はすぐに分かった。
丘を越えると、巨大な陸橋《ルミナス大街道》が姿を現した。
帝都から四方に延びる“七本の聖道”の一つで、
馬車や荷駄隊、飛脚、魔導貨車までひっきりなしに通過していく。
「すごい……こんなにたくさんの人が帝国を出入りしてるの?」
「ここは東方面の主要路ですから。
帝都で使われる七割の物資は、この道を通ります」
「へぇぇぇぇ……」
本当に驚いた。
王宮にいると帝国は静かで安定して見えるけれど、ここではまったく違う。
帝国は“生きている”。
人と物が行き交って、街も農地も絶えず動いているんだ。
わたしたちはその大街道には入らず、少し外れた巡回路へと向かう。
旅人や少人数向けの街道で、馬車よりも身軽に進めるのだという。
すると眼前に、城壁と赤い屋根が広がった。
「わっ……見えてきた!」
クレアが頷く。
「最初の中継地、《レフレール町》です。
ここで食料と馬具を補給します」
レフレール町は、帝都の東方に広がる“ルグレン丘陵帯”の中腹にある中規模都市だ。
丘の斜面をそのまま利用して段々状に建てられていて、上層には商館や旅籠、下層には農民や職人の住区が広がっている。
赤い屋根が逆光に照らされて、まるで小さな火の海みたいに輝いていた。
町の周囲には光麦畑が広がり、風が吹くたびに波のように揺れる。
どこからか焼いた麦の香ばしい匂いがして、お腹がきゅるると鳴いてしまった。
「わぁ……すごい、なんか……帝都とはまったく違うね」
「帝都が“光の中心”とすれば、ここは“光の生活圏”です。
優秀な職人や旅の商人は、仕事のために帝都とこうした街を行き来しています」
「へぇ……こんなところがあるなんて、知らなかった……」
「王宮にいると見えません。だからこそ、外を知るのは大切なことです」
クレアが言うその声音は、どこか柔らかかった。
帝都の閉ざされた空気を知る彼女だからこそ、わたしの“初めての自由”を肯定してくれているのだと思う。
町へ入る坂道を下りながら、私はふと思った。
(ゼン様も、この道を通ったのかな……)
蒼竜騎士団として旅立ったとき。
灰庵亭を作りに向かったとき。
仲間と馬を並べて笑っていたとき――
そんな情景が頭の中でふわりと浮かんで、胸がきゅうっと締めつけられた。
わたしは、ずっと“檻の中”で生きてきた。
けれどゼン様は、この世界を歩いてきたんだ。
――だから会いたい。
世界の風を知っている人に。
自由に生きて、自由に戦って、それでも笑っていた人に。
町の門をくぐる瞬間、わたしは思わず両手を広げて風を抱いた。
この風の向こうに、ゼン様がいる。
想像しただけで、また胸が高鳴る。
門をくぐった途端、空気が一気に変わった。
外の草原の静けさとはまるで違う、ざわざわとした生活の音が押し寄せてくる。
遠くで鳴る鍛冶屋の金槌の音、パン屋の窯が開閉する重たい音、行商人の呼び声、子どもたちの笑い声……それら全部が混ざり合って、街全体が大きな生き物みたいに息づいている。
「うわぁ……」
思わず声が漏れた。
ここは帝都ほど整然とはしていない。けれど――だからこそどこか温かい。
坂道の両脇には赤い屋根の家々が段々畑のように並んでいた。
上層の商人区画では色とりどりの布、籠に山積みの果物、光麦を焼いた香ばしい串パン、魔導具を並べた露店がぎっしり並んでいて、その間を人々がせわしなく行き来していた。
「活気がすごい……! 帝都の市場より賑やかじゃない?」
「ここは“東光路”の中継地ですから。旅人も商人も集まります」
クレアは淡々と答える。
けれど、その声音にはわずかな懐かしさが混じっていた。
――たぶん、彼女も騎士団時代に何度も訪れたのだろう。
街の中央には《レフレール大市》と呼ばれる広場がある。
魔導噴水の水柱が上がり、その周囲に旅商人、馬具屋、薬草屋、旅籠、簡易鍛冶場が所狭しと並んでいる。
「まずは食料の補給です。保存食と水袋。それと……」
「と?」
「山越えですから、保温用の外套と、靴底の強化具が必要です」
まるで軍支度じゃない……と思いつつ、私はクレアに連れられて屋台の間を歩く。
風が通るたび、どこからか焼いた麦の香りが流れ込んできて、胃がきゅうっと訴えてきた。
「……お腹、鳴ってますよ」
「な、鳴ってない! 今のは風の音!」
「風はそんな高い音を出しません」
くっ……だってしょうがないじゃん。こんな美味しそうな匂いがあっちこっちで漂ってるんだもん。
そんなわたしに見かねたのか、クレアはさりげなく露店の串パンをひとつ買って、何食わぬ顔で差し出してくれた。
「糖分は必要です。歩くのはケルヴァンでも、体力の消耗は激しいですから」
「……クレアって、優しいよね」
「…違います。これも仕事の一部です」
そう言いつつ、目が少しだけ柔らかくなっているのを私は見逃さなかった。
パンをひと口かじると、表面はカリッとして中はもちもちで、光麦特有のやさしい甘みがふわっと広がった。
「おいしい……!」
「レフレール名物です。光麦の質が帝都より良いので」
「へぇ……帝都より?」
「帝都はたくさんの農地を抱えていますが、この街は“質の良い農地”だけで回っていますから」
なるほど……と感心していると、大市の端に馬具屋が見えてきた。
店先には鞍や手綱だけでなく、ケルヴァン専用の風避け布、魔力駆動の蹄具などがずらりと並んでいる。
「クレア、あれって……」
「“滑降用の補助具”です。山道でケルヴァンの足が滑らないように魔導金属の板を付けるんです」
なんて便利なんだろう。
帝都では“危険な場所は誰かが整備してくれる”という前提で生きていたから、こういう“人が工夫して生きるための道具”を見ると感動すら覚える。
店主の老人が気さくに声をかけてきた。
「お嬢さん方、山に行くのかい? ケルヴァンの足なら、これを付けときな」
クレアは迷わず購入を決め、必要な荷物を淡々と指示していく。
店主の老人はクレアの動きを興味深そうに眺めていた。
必要な道具を一つひとつ迷いなく選び、革紐の強度まで指先で確認する様子は、素人のそれではない。
「ほう……お嬢さん、旅慣れてるな。東山道は荒れとるが大丈夫かね?」
クレアはわずかに会釈しただけで、余計なことは一切言わない。
「少し道が読めるだけです。山越えは慎重に行きます」
さらりと流すその声はいつもの冷静さを保っていて、老人の好奇心をうまくかわしていた。
身分を悟られないようにするための“彼女なりの返し”だ。
店主は「そりゃあ頼もしい」と笑い、渡した荷物の紐をぎゅっと締めてくれた。
「山の天気は気まぐれだ。嬢ちゃんも気をつけなよ」
私はこくこくと頷きながら荷物を受け取る。
つい「初めての遠出なんです」なんて言ってしまいそうだったが、咄嗟に口をつぐんだ自分を褒めたい。
荷物をリュックに詰め込みながら、胸の奥でそっと思う。
(わたしひとりだったら絶対無理だった……)
レフレールの街を歩くだけでもこんなに情報が多くて、…知らないことばかりで、いちいち目を奪われてしまう。
でも、全部が楽しい。
帝都では“与えられる生活”だった。
ここでは色んなことが“選べる”し、今日は何を食べよう、どの道を歩こうって、それだけで心が躍る。
それがどれほど自由で、どれほど幸せなことか……今更ながら痛感しちゃってるかも。
準備が一通り終わったころには、太陽は少し傾き、街の影が長く伸びはじめていた。
「クレア、ねぇ、どのくらいで着くの?」
「ケルヴァンで山を越えるなら……三日くらいです」
「三日!? 三日も!?」
「そうですね。大きい街には寄れませんし、とくにあそこは地形が複雑ですから」
「だからってそんなに…。もう足がパンパンなんだけど…」
「……歩いてるのはケルヴァンの方なんですけどね」
「気持ちの問題よ!気持ちの!」
あー、もう、クレアはほんと真面目。
でも頼りになる。
夜の野営では火を起こしてくれるし、道も完璧に覚えてる。
虫が出ても無表情で追い払うし、狼が来ても片手で撃退する。
ただ、問題は――
「ねえクレア、ちょっとくらい笑ってよ。旅って楽しいじゃない?」
「……ミナ様がが笑いすぎなんです」
「だって、やっと会えるんだもん!」
「“会える”だけで、満足できますか?」
「……うん。たぶん」
その“たぶん”の裏で、本当は会って抱きしめてもらって、「よく来たな」って言ってほしいなんて――言えるわけがない。
彼は英雄。わたしは、ただのわがままな王女。
きっと笑われる。でも、それでもいい。
もし、もう一度だけでもあの人の“あの笑顔”が見られるなら――
三日でも、十日でも、山を越えてやる。
だって、私はルミナスの第七王女、
光を求めて生まれた女だから。




