創世記
■ 創世記 ― 理の神と空の胎動 ―
はじまりに、“何もなかった”。
そこには空もなく、大地もなく、光も闇もなく、名すら存在しない、ただの「無」があった。
その無の中心に、ひとつの意志が芽吹いた。
それは、声でも言葉でも祈りでもない。
ただ――「存在したい」という、曖昧で、だが確かな原初の衝動だった。
この意志が世界に最初の震えをもたらした。
それが“理”である。
やがて理は七つの響きを生み出し、それぞれが輪郭を持ち、名を持ち、姿を持った。
彼らこそが、七柱の神々(セプティム)である。
風、大地、火、水、光、闇、雷――七つの理を司る原初の神たちは、まだ形なき“空”に向かって、それぞれの法則を注ぎ込んだ。
この「空」こそが、神々が創造した最初の“世界”であり、
いわば存在が歩むための地平線であった。
神々は、それぞれの理に従って「空」に形を与えた。
風の神アエラは、空に息を吹き込み、風を巡らせ、時間の流れを作った。
大地の神テラ=グラスは、その風を受け止める地殻を創り、山脈を築き、地平を広げた。
火の女神フレイアは、地の底に炎を灯し、生命に脈動を与えた。
水の神アクアリスは火を鎮め、流れを与え、循環をもたらした。
光の女神ルミナはあらゆるものを照らし、存在を可視にした。
闇の神テネブラはその光に影を落とし、死と再生の概念を与えた。
そして雷の神エレクトロスが、空と地を結び、因果を動かす「進化の鼓動」を打ち鳴らした。
こうして、世界は形を持った。
七神の理によって空に“構造”が生まれ、
その構造の中で、あらゆる“可能性”が芽吹いていった。
その最たるものが――生命である。
神々は生命を“作った”わけではない。
彼らはただ、可能性の場を整え、理を放ったに過ぎない。
生命は、その理と空の交差点で自然に芽吹いた。
それが「人間」であり、「獣」であり、「妖精」であり、「龍」であり、「精霊」であった。
つまり、すべての存在は神々の夢の欠片である。
そして神々は、自らの存在が世界に過剰な影響を与えぬよう、
世界の核に“夢”として眠りについた。
風は空へ、大地は山へ、火は溶岩へ、水は海へ、光は太陽へ、闇は影へ、雷は心臓へ――
それぞれが世界そのものとなり、命の営みを見守る“理”へと溶け込んだ。
しかし、完全な調和とは、常に脆い。
長い時を経て、神々の影から生まれたもう一つの存在が、静かに世界に牙を剥く。
それが――魔神族である。
彼らは神々と同様、“理”としての性質を持つが、その在り方は対極だった。
神々が「創造」「循環」「可能性」「進化」を志向するのに対し、
魔神族は「崩壊」「静止」「否定」「終焉」を欲する存在だった。
まるでコインの表と裏のように、神々の理が強まるほど、その影として魔神族の理もまた深まっていった。
この世界が進化と成長を続ける限り、魔神族の“終わらせようとする力”もまた、強大になっていく。
そして、ある時――世界はその“終わり”に直面する。
それが、「終焉戦役」である。
魔神族の王、ヴァル・ゼルクが“終焉の理”をもって現れたとき、神々は眠りの中から覚醒することはなかった。
彼らはもう、自ら戦うことを選ばなかったのだ。
代わりに立ち上がったのは、世界に生まれた“命”たち――
すなわち、人間、異種族、精霊、竜、獣人……あらゆる存在たちだった。
彼らは神ではない。
理そのものでもない。
それでも、神々が残した“空”という舞台に立ち、
魔神がもたらした“終わり”という運命に対抗しようとした。
このとき、生命とは何だったのか?
それは、選ばれた者ではなく、自ら選ぶ者だった。
風に吹かれて進み、雨に濡れ、火に焼かれながらも、
己の意志で歩むことをやめなかった存在たち。
神々が用意した理に従うだけではなく、
魔神が定めた死に屈することもなく、
“生きたい”と、ただそれだけを叫ぶ存在。
命は、神でも魔神でもなかった。
だが、世界はその命のために揺らいだ。
終焉戦役。
それは、単なる大戦ではない。
それは、「理」と「反理」、すなわち神と魔神の交差点だった。
神々の眠りの中から響いた微かな意志と、
魔神族の叫びがぶつかったとき、
世界は一つの“境界”を超えた。
それは、理の塊である神と、
終焉の渇望である魔神が、
ひとつに交わる瞬間でもあった。
この接触は、単なる戦いではない。
それは、反発しながらも互いを補い合うものが、完全に混ざり合ってしまった瞬間だった。
あたかも、白と黒の絵具が渦を巻き、
境目を失ったように。
そして、その瞬間――
神は世界から姿を消した。
否、より正確には、神と魔神はその境界を失い、理も反理も“ただの力”となって、世界へと散った。
それが、世界の第二の転生、「神なき時代」の始まりである。
かつて、空に宿り、理を支配した神々は、
その力を肉体から切り離され、
神核という霊素の結晶となって、
世界の各地へと散った。
一方、魔神族の霊素もまた、世界に染み込んだ。
それは大地の毒となり、風の歪みとなり、
ときに病となり、ときに呪いとなり、
“理解できぬ死”として、命の背後に寄り添った。
こうして、理は世界から姿を消した。
もう誰も、風に祈ることはできず、
火に誓うこともできなくなった。
信仰は意味を失い、祝祭は形骸化し、
神の名は、かつての物語としてのみ語られるようになった。
この時代――
誰もが自由で、誰もが孤独で、誰もが無力だった。
神がいない。
魔神もいない。
だが、生命だけは生き残ってしまった。
それは、一見すると勝利のように見えた。
だが、神という支柱もなく、魔神という敵も消えた世界は、
まるで羅針盤を失った船のように、漂うしかなかった。
風は吹いても、どこへ進めばいいのかわからない。
光が差しても、誰を照らしているのか分からない。
炎は灯っても、心はもう燃え上がらない。
こうして、神なき世界の中で、
生命たちは初めて、“自己”と向き合うことになった。
かつては、神々の理が“正しさ”を与えてくれた。
かつては、魔神の存在が“悪”を定義してくれた。
だが今、正しさも悪も、誰にも決められない。
世界には、ただ「生きること」だけが残された。
――これは呪いなのか?
――それとも、自由なのか?
神々のいない世界で、
人々は初めて、「自らの意志で世界を形づくる」という責任を背負わされた。
その一方で、忘れられた神々の力――すなわち「神核」は、
再び世界に“理”をもたらすための鍵ともなり得る。
だが、それを集めるということは、
神々の沈黙を破り、かつての秩序を再起動させるということでもある。
また、霊素として残留する魔神の痕跡は、
いつ再び“終わり”の理を復活させるかも知れない。
すなわち、
神なき世界とは、「選択する世界」なのだ。
神を取り戻すか。
魔神を封じ続けるか。
あるいは、どちらも拒み、全く新しい理を描くか。
すべては、生き残った“命”の意志に委ねられている。
そして、神々の理も、魔神の負の遺産も、
いまなお、この世界のどこかで眠っている。
風のささやきの中に。
山の沈黙の下に。
古い祠の奥に。
空を裂く雷鳴の音の中に。
かつて“理”であったものたちは、
今もなお、この世界を見ている。
それが、理なき時代における、神と魔神の残響である。
そして命たちは、いまだその音に、気づこうともしていない。
ただ、“誰かが選び、誰かが動き出す”その瞬間まで――。




