第89話 明日からは通常営業
……はぁ。
山の空気が、心地いい。
帝都からの帰路を終え、俺はようやく〈ガルヴァの山郷〉に帰ってきた。
木々のざわめき、湿った土の匂い、遠くの小川のせせらぎ。たった数日のことだったが、なんだかすべてが懐かしい。
「ゼン親父ーっ!」
古民家風の建屋、——いや“灰庵亭”の裏手から、聞き慣れた元気な声が響いた。
走ってくるのは留守の間店を任せていた居候――ライルだ。
相変わらず顔に泥をつけて、鍋でも磨いていたのかエプロンが煤けている。
「おかえりなさいっす! カイ姐さんも一緒……あれ?」
「カイはもう行ったよ。目的は果たしたからな」
あいつとは、今日ここで別れを告げた。
さっきまでそこにはカイの飛空挺〈ルミナ・ドレッド号〉が浮かんでいた。
エンジンの轟きも今はもう、山の静けさに呑まれている。
別れ際、カイはいつものように肩をすくめ、片手をひらひらと振ってこう言った。
「また今度か。どうせすぐ、また厄介ごとに巻き込まれるだろ?」
「約束は守れよ」
「んぁ?」
「次はお前が仕事をする番だ。希少食材を世界中から集めて、俺の元に届ける。そう言ったよな?」
「……わかってるよ。しっかし、約束ってのは、守るのが一番めんどくさいんだよなぁ……」
言いながらもカイは最後にニッと笑って、団員たちの方へ手を振り、飛空挺の操縦席に戻っていった。
……あいつも変わった。
戦場でしか自分の存在価値を見出せなかった頃とは違う。今は、自分の空、自分の時間をちゃんと持ってる。それだけで、俺はもう十分だと思った。
……が。
「おっと、そうだそうだ、最後にもう一つ!」
エンジンが唸りを上げ始めたそのとき、カイが再び昇降梯子から身を乗り出してきた。
「ちゃんとレース、観に来いよー!」
「は? どうやってだよ。こちとら山の中で予約帳と格闘してる身だぞ」
「なんとかしろ、元S級冒険者だろーが! 観客席ひとつくらい自分で作れ!」
「どんな前提だ……」
呆れながら返すと、カイは満足げに笑って姿を引っ込めた。
そのとき、機関部の整備口が内側から開き、小柄な影がひょいと飛び出してきた。――技術士ロズだ。
「ゼンさんっ、これ……渡しそびれるとこでした!」
「なんだ?」
胸ポケットからごそごそと何かを取り出すと、彼女は丁寧に包まれた紙包みを差し出してきた。
「姉さんの写真です。こないだ海沿いのカフェで撮ったやつ。珍しく……水着なんですよ」
「……は?」
戸惑う俺をよそに、ロズは満面の笑みで続ける。
「姉さん、ゼンさんのことすっごく気にしてるのに自覚ないんです。だから、こういうの……持っておくといいかなって。ほら、“彼女のこと、ちゃんと見ておいてくださいね”って意味で」
「いや、いらない」
「うっわ、言うと思った。でもダメです。もう渡しました」
「いや、だからいらんって……!」
無理やり俺の手に押し付けられたその写真。こっそり見ると、確かにカイが浜辺でアイスを食ってる瞬間を捉えた一枚だった。しかも無防備な笑顔つきで。
「……どうやって撮ったんだこれ」
「ふふ、秘密です。でも、姉さんの“素”って貴重だから。ゼンさんなら持ってて損ないと思いますよ」
ロズはそう言ってひらひらと手を振り、機関部の昇降口へ戻っていった。その小さな背中にはなんとも言えぬ“姉想い”の執念と、ちょっと歪んだ情熱を感じた。
――全く、来るときも帰る時も騒がしい奴らだ。
「イグザスさんには会えたんですね!」
「会えたよ。おかげで色々あったがな」
空を飛び、かつての戦場の記憶を辿り、そして“静けさ”の意味を考えた旅だった。
だが俺にはやるべきことがある。今はここで料理を作り、美味いメシを求める奴らを迎えることだ。
「ライル。留守の間、仕込みとか全部見てくれてありがとうな」
「いえいえ、当たり前っす! 俺、親父の料理が好きだから!」
照れくさそうに笑うその顔に、思わず苦笑がこぼれる。
こういうところが、俺にはどうにも“放っておけない”。
玄関に荷物を置き厨房に向かうと、そこにはきれいに磨かれた鍋と、整然と並んだ調味料たちがあった。
ライルなりに一生懸命だったのが伝わる。
厨房に足を踏み入れた瞬間、ほのかに香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「――ああ、ええタイミングで帰ってきよったな。今ちょうど、炊き上がったとこや」
振り返ったのは、見間違えようのない屈強な体躯。麦藁帽子を引っ掛けたまま巨大な木蓋を片手で開け、土鍋から立ちのぼる湯気を嬉しそうに浴びていたのは、セナだった。
「……面倒をかけたな」
「いやいや、気にせんでええで。おかげでええ経験ができたわ。そろそろ昼やろ? 今日の定食、ええ感じや思うで」
灰庵亭の厨房に、セナが自然に立っている。まるで自分の田んぼの一角のように堂々と、落ち着き払って。
…任せた俺が言うのもなんだが、コイツには少し狭い厨房だな。
「何人来た?」
「昨日までで延べ百三十七人。ほとんどが帝都から来た予約客やけど、途中で天狗族の客が迷い込んできてな。案内して追い返すの大変やったわ」
「……天狗族って、お前、よく追い返せたな」
「俺が相手や言うたら、逆に土産置いて帰りよったわ。えらいええ羽根筆くれたけど……要るか?」
「いや、いらん」
湯気の向こうで、土鍋の中の星粒米が静かに揺れている。その炊き上がりは完璧だった。水加減、火の通り、蒸らしの時間。どれも、俺が普段炊くそれと遜色がない。
「……ありがとな、セナ。助かった」
「かまへんよ。お前の店は俺の米が一番ええ形で使われる場所やからな。そら、守らんわけにはいかんやろ?」
「やっぱりお前、宗教か何かに入ってないか?」
「“米魂教”や。信者は俺だけやけどな」
セナはそう言って笑った。豪快で、野太く、どこか無邪気な笑い声。だがその背中には確かな誇りがある。
俺は棚の上にある包丁を取り、切り場に立つ。セナが用意していた副菜の素材に目を通しながら、自然と口が動いた。
「……今日の定食はなんだ?」
「ほい来た。主菜はな、“赤茎山菜と干し星茸の土蒸し”。副菜に炊いた黒豆と、漬けといた紅根野菜。汁物は出汁を二番まで取ってあるから、味は保証つきや」
「……贅沢だな」
「帝都から来る奴らは、本当の意味での贅沢を知らんやつらが多い。せやから、“ほんまもんの食材”で自然の恵みを届けるべきやろ?」
厨房が静かに温まっていく。
かつて戦場で剣を振るっていた男が――いまや、こうして米と鍋で日常の風景や時間を支えている。俺はそんなセナの生き様に、どこか救われる思いがした。
「……ライル。今日の接客は任せていいか?」
「はいっす! メニューは“セナ親父スペシャル定食”ってことでいいですか?」
「やめろ、看板に書くなよ。へんに気に入られても困るからな」
「ええやんか。今回みたいなことがなくても、たまーに手伝いに来てやるで?」
セナが鍋の蓋をしめる音と、外から吹き込む山風の音とが重なった。
厨房には米の香りと、仲間の気配と、そして確かに“暮らし”があった。
――静けさの中に、今日もまた誰かの腹を満たす音が生まれようとしていた。
「明日から、通常営業の再開だな」
「っすね。……親父、なんか雰囲気変わりました?」
「旅すると色々あるもんだ。風に吹かれりゃ、塵も心も動くさ」
ライルがぽかんとした顔をする。その頭を軽く叩いて通り過ぎると、戸口の外、まだ見える空の端に目をやった。
「さて……仕事だ」
俺は厨房の戸を開け、明日の仕込みに取り掛かる。
まずは味噌樽の様子を確認。発酵は順調。
漬物石を上げると、香ばしい香りがふわりと鼻をくすぐった。
炊事場では湧き水が今も途切れず流れている。
山の神よ、今日も変わらぬ水をありがとう。
冷蔵棚には、ライルが干しておいた保存肉が丁寧に並べられていた。
見た目こそ粗雑だが、きっちり仕事はしてある。やるじゃねえか。
「ミラクリ茸は……お、ちゃんと保管してあるな」
干しミラクリ茸。香りが命の食材だ。扱いを間違えれば全損だが、完璧に乾いている。
ライルもだいぶ板についてきた。
明日は、定食にあれを使おう。
主菜はミラクリ茸と干し肉の炊き込み。
副菜は山菜の白和え、渓流魚の味噌田楽。汁物は焦香芋のすり流しだ。
……ああ、静けさってのは、こういう時間のことを言うんだな。
誰かが食べてくれるために、料理を考え、準備する。
それだけで、なんとなく心が落ち着いていく。
あの黒鐘局で見た“呪い”の資料も、今はただの紙切れだ。
死ぬかもしれない? それがどうした。
明日が来て、客が来て、腹いっぱい食って笑ってくれりゃ、それでいい。
「親父ー、手伝いましょうか?」
「おう。……お前、味見の舌も育てないとな。今日は出汁の取り方を教える」
「マジっすか! やったー!」
元気に駆け寄ってくるライルを見て、ふっと笑みがこぼれる。
この時間が、続けばいい。
誰にも奪われず、何にも縛られず、ただ料理を作り、誰かが喜んでくれる。
――俺は、やっぱり“隠居”がしたいだけなんだよ。
明日も、また誰かが「うまい」と言ってくれることを願って。
灰庵亭の、灯がともる。




