表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
114/197

第89話 明日からは通常営業


挿絵(By みてみん)




……はぁ。

山の空気が、心地いい。


帝都からの帰路を終え、俺はようやく〈ガルヴァの山郷〉に帰ってきた。

木々のざわめき、湿った土の匂い、遠くの小川のせせらぎ。たった数日のことだったが、なんだかすべてが懐かしい。


「ゼン親父ーっ!」


古民家風の建屋、——いや“灰庵亭”の裏手から、聞き慣れた元気な声が響いた。

走ってくるのは留守の間店を任せていた居候――ライルだ。

相変わらず顔に泥をつけて、鍋でも磨いていたのかエプロンが煤けている。


「おかえりなさいっす! カイ姐さんも一緒……あれ?」


「カイはもう行ったよ。目的は果たしたからな」


あいつとは、今日ここで別れを告げた。

さっきまでそこにはカイの飛空挺〈ルミナ・ドレッド号〉が浮かんでいた。

エンジンの轟きも今はもう、山の静けさに呑まれている。


別れ際、カイはいつものように肩をすくめ、片手をひらひらと振ってこう言った。


「また今度か。どうせすぐ、また厄介ごとに巻き込まれるだろ?」


「約束は守れよ」


「んぁ?」


「次はお前が仕事をする番だ。希少食材を世界中から集めて、俺の元に届ける。そう言ったよな?」


「……わかってるよ。しっかし、約束ってのは、守るのが一番めんどくさいんだよなぁ……」


言いながらもカイは最後にニッと笑って、団員たちの方へ手を振り、飛空挺の操縦席に戻っていった。


……あいつも変わった。


戦場でしか自分の存在価値を見出せなかった頃とは違う。今は、自分の空、自分の時間をちゃんと持ってる。それだけで、俺はもう十分だと思った。


……が。


「おっと、そうだそうだ、最後にもう一つ!」


エンジンが唸りを上げ始めたそのとき、カイが再び昇降梯子から身を乗り出してきた。


「ちゃんとレース、観に来いよー!」


「は? どうやってだよ。こちとら山の中で予約帳と格闘してる身だぞ」


「なんとかしろ、元S級冒険者だろーが! 観客席ひとつくらい自分で作れ!」


「どんな前提だ……」


呆れながら返すと、カイは満足げに笑って姿を引っ込めた。


そのとき、機関部の整備口が内側から開き、小柄な影がひょいと飛び出してきた。――技術士ロズだ。


「ゼンさんっ、これ……渡しそびれるとこでした!」


「なんだ?」


胸ポケットからごそごそと何かを取り出すと、彼女は丁寧に包まれた紙包みを差し出してきた。


「姉さんの写真です。こないだ海沿いのカフェで撮ったやつ。珍しく……水着なんですよ」


「……は?」


戸惑う俺をよそに、ロズは満面の笑みで続ける。


「姉さん、ゼンさんのことすっごく気にしてるのに自覚ないんです。だから、こういうの……持っておくといいかなって。ほら、“彼女のこと、ちゃんと見ておいてくださいね”って意味で」


「いや、いらない」


「うっわ、言うと思った。でもダメです。もう渡しました」


「いや、だからいらんって……!」


無理やり俺の手に押し付けられたその写真。こっそり見ると、確かにカイが浜辺でアイスを食ってる瞬間を捉えた一枚だった。しかも無防備な笑顔つきで。


「……どうやって撮ったんだこれ」


「ふふ、秘密です。でも、姉さんの“素”って貴重だから。ゼンさんなら持ってて損ないと思いますよ」


ロズはそう言ってひらひらと手を振り、機関部の昇降口へ戻っていった。その小さな背中にはなんとも言えぬ“姉想い”の執念と、ちょっと歪んだ情熱を感じた。


――全く、来るときも帰る時も騒がしい奴らだ。



「イグザスさんには会えたんですね!」


「会えたよ。おかげで色々あったがな」


空を飛び、かつての戦場の記憶を辿り、そして“静けさ”の意味を考えた旅だった。

だが俺にはやるべきことがある。今はここで料理を作り、美味いメシを求める奴らを迎えることだ。


「ライル。留守の間、仕込みとか全部見てくれてありがとうな」


「いえいえ、当たり前っす! 俺、親父の料理が好きだから!」


照れくさそうに笑うその顔に、思わず苦笑がこぼれる。

こういうところが、俺にはどうにも“放っておけない”。


玄関に荷物を置き厨房に向かうと、そこにはきれいに磨かれた鍋と、整然と並んだ調味料たちがあった。

ライルなりに一生懸命だったのが伝わる。


厨房に足を踏み入れた瞬間、ほのかに香ばしい匂いが鼻をくすぐった。


「――ああ、ええタイミングで帰ってきよったな。今ちょうど、炊き上がったとこや」


振り返ったのは、見間違えようのない屈強な体躯。麦藁帽子を引っ掛けたまま巨大な木蓋を片手で開け、土鍋から立ちのぼる湯気を嬉しそうに浴びていたのは、セナだった。


「……面倒をかけたな」


「いやいや、気にせんでええで。おかげでええ経験ができたわ。そろそろ昼やろ? 今日の定食、ええ感じや思うで」


灰庵亭の厨房に、セナが自然に立っている。まるで自分の田んぼの一角のように堂々と、落ち着き払って。

…任せた俺が言うのもなんだが、コイツには少し狭い厨房だな。


「何人来た?」


「昨日までで延べ百三十七人。ほとんどが帝都から来た予約客やけど、途中で天狗族の客が迷い込んできてな。案内して追い返すの大変やったわ」


「……天狗族って、お前、よく追い返せたな」


「俺が相手や言うたら、逆に土産置いて帰りよったわ。えらいええ羽根筆くれたけど……要るか?」


「いや、いらん」


湯気の向こうで、土鍋の中の星粒米が静かに揺れている。その炊き上がりは完璧だった。水加減、火の通り、蒸らしの時間。どれも、俺が普段炊くそれと遜色がない。


「……ありがとな、セナ。助かった」


「かまへんよ。お前の店は俺の米が一番ええ形で使われる場所やからな。そら、守らんわけにはいかんやろ?」


「やっぱりお前、宗教か何かに入ってないか?」


「“米魂教”や。信者は俺だけやけどな」


セナはそう言って笑った。豪快で、野太く、どこか無邪気な笑い声。だがその背中には確かな誇りがある。


俺は棚の上にある包丁を取り、切り場に立つ。セナが用意していた副菜の素材に目を通しながら、自然と口が動いた。


「……今日の定食はなんだ?」


「ほい来た。主菜はな、“赤茎山菜と干し星茸の土蒸し”。副菜に炊いた黒豆と、漬けといた紅根野菜。汁物は出汁を二番まで取ってあるから、味は保証つきや」


「……贅沢だな」


「帝都から来る奴らは、本当の意味での贅沢を知らんやつらが多い。せやから、“ほんまもんの食材”で自然の恵みを届けるべきやろ?」


厨房が静かに温まっていく。


かつて戦場で剣を振るっていた男が――いまや、こうして米と鍋で日常の風景や時間を支えている。俺はそんなセナの生き様に、どこか救われる思いがした。


「……ライル。今日の接客は任せていいか?」


「はいっす! メニューは“セナ親父スペシャル定食”ってことでいいですか?」


「やめろ、看板に書くなよ。へんに気に入られても困るからな」


「ええやんか。今回みたいなことがなくても、たまーに手伝いに来てやるで?」


セナが鍋の蓋をしめる音と、外から吹き込む山風の音とが重なった。


厨房には米の香りと、仲間の気配と、そして確かに“暮らし”があった。


――静けさの中に、今日もまた誰かの腹を満たす音が生まれようとしていた。


「明日から、通常営業の再開だな」


「っすね。……親父、なんか雰囲気変わりました?」


「旅すると色々あるもんだ。風に吹かれりゃ、塵も心も動くさ」


ライルがぽかんとした顔をする。その頭を軽く叩いて通り過ぎると、戸口の外、まだ見える空の端に目をやった。


「さて……仕事だ」


俺は厨房の戸を開け、明日の仕込みに取り掛かる。


まずは味噌樽の様子を確認。発酵は順調。

漬物石を上げると、香ばしい香りがふわりと鼻をくすぐった。


炊事場では湧き水が今も途切れず流れている。

山の神よ、今日も変わらぬ水をありがとう。


冷蔵棚には、ライルが干しておいた保存肉が丁寧に並べられていた。

見た目こそ粗雑だが、きっちり仕事はしてある。やるじゃねえか。


「ミラクリ茸は……お、ちゃんと保管してあるな」


干しミラクリ茸。香りが命の食材だ。扱いを間違えれば全損だが、完璧に乾いている。

ライルもだいぶ板についてきた。


明日は、定食にあれを使おう。

主菜はミラクリ茸と干し肉の炊き込み。

副菜は山菜の白和え、渓流魚の味噌田楽。汁物は焦香芋のすり流しだ。


……ああ、静けさってのは、こういう時間のことを言うんだな。


誰かが食べてくれるために、料理を考え、準備する。

それだけで、なんとなく心が落ち着いていく。


あの黒鐘局で見た“呪い”の資料も、今はただの紙切れだ。

死ぬかもしれない? それがどうした。

明日が来て、客が来て、腹いっぱい食って笑ってくれりゃ、それでいい。


「親父ー、手伝いましょうか?」


「おう。……お前、味見の舌も育てないとな。今日は出汁の取り方を教える」


「マジっすか! やったー!」


元気に駆け寄ってくるライルを見て、ふっと笑みがこぼれる。


この時間が、続けばいい。

誰にも奪われず、何にも縛られず、ただ料理を作り、誰かが喜んでくれる。


――俺は、やっぱり“隠居”がしたいだけなんだよ。


明日も、また誰かが「うまい」と言ってくれることを願って。

灰庵亭の、灯がともる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ