第88話 境界の外へ
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……まったく、静かに生きることすら許されないとはな。
その現実がじわじわと胸の奥に沈んできた瞬間、なんだか目の前の景色が色褪せて見えた。
いや、色が褪せたというより――見えていたものの「意味」が変わった、って感じか。
俺の命ひとつで、世界がどうこうなる。
冗談みたいな話だが、リシェルの顔色を伺うあたりどうやら事実らしい。
俺が死ねば、神の心臓が再起動する。
そのとき魔神族の霊素もまた、“目覚める”可能性がある。
……つまり俺は――世界をぶっ壊すスイッチになっちまったってことだ。
「……ふざけた話だな」
思わず口を突いて出た言葉は、誰に向けたものでもなかった。
だがその言葉に自然と返答するように、ヴァインが静かに言った。
「皮肉でも、神罰でもない。ただの“結果”だよ。君が選んだ決断が、そこに繋がっていたというだけの話だ」
「選んだ……か」
確かにあれは“選択”だった。
あの夜、戦場のど真ん中で。
世界が裂け空が哭き、誰もが絶望の先にある死を覚悟していた、——終焉戦役の最後の夜。
俺は剣を捨て、霊素の渦の中へと飛び込んだ。
死ぬ代わりに“封印”を選んだ。
ヴァル・ゼルグの存在を、俺の肉体に縫い止めるという暴挙を。
それがあの瞬間に俺が選び得た、唯一の“答え”だった。
もしあれを選ばなければ、今のこの日常はなかった。
灰庵亭も、ライルも、山の空気も――何ひとつ残っていなかったかもしれない。
けれどその代償は、俺の身体そのものだった。
霊素の毒は目に見えぬ形で少しずつ俺を侵食し、やがて確実に死へと導くだろう。
俺はもうただ“死ねない”だけじゃない。“生き切ることすら難しい”存在になっている。
笑えるよな。
平穏を望んで剣を捨てたはずなのに。
誰も傷つけたくなくて、静かな世界を手にしたかっただけなのに。
結局俺の命ひとつが、“守りたかった世界”の命綱になっているだなんて――な。
「……だったら、俺に残された選択肢はなんだ?」
問いながらも、答えがないことは分かっていた。
死ねば終わるという救いもない。
生き続けることすら、ただの“保留”に過ぎない。
リシェルは答えず、ヴァインもまた黙していた。
代わりに静かに紅茶を啜っていたカイが、ぽつりと口を開いた。
「……もし、ゼンの中の“模写された心臓”が《アトム》と繋がってるってんならさ」
「?」
「逆も、あるんじゃないか?」
「逆……?」
「つまり、《アトム》に直接アクセスすれば、呪いの元を“断ち切れる”かもしれないってこと。ゼンが“模写構造”として繋がってるんなら、本体側から操作して、こっちの回路を止める手段だって……ゼロじゃないだろ?」
その言葉に、リシェルが小さく目を見開いた。
「……確かに、理論的には可能性がある。ただそれを実現するには、封印された《霊環塔》の深層部へと踏み込む必要があるわ」
「それは……つまり?」
「エル=グラーデに、もう一度行くということよ」
沈黙が落ちた。
それは、思いのほか重く、濃密だった。
あの終焉の地。
神の庭。
霊素が溢れ、“時間すら溶けた”戦場。
再び、あの場所に足を踏み入れる——
「……ふざけるな。あそこはもう禁域だろう?」
俺の声は低く、怒気すら混じっていた。
エル=グラーデは戦後、“特級封鎖指定区域”となった。
帝国軍、世界連合、各国魔導院――あらゆる勢力が立ち入りを禁止し、監視と結界を張り巡らせている。
それだけ危険で、制御不能な“世界の断面”なのだ。
「分かってる。でもここで何もしなければ、あなたはいずれ死ぬ。そしてその死が、世界を揺るがす“始まり”になる可能性がある」
リシェルの声音はいつになく静かだった。
だがその静けさの奥には、固い決意があった。
「選択肢は限られているのよ、ゼン。
このまま、誰にも何も告げずに静かに朽ちるのか。
それとも——自分の足で、未来を選びに行くのか」
リシェルは魔導記録層をそっと閉じ、机の上に置いた。
「少なくとも、私たちはそのための準備を始めている。
黒鐘局だけじゃない。第三魔導師団も、そして――旧蒼竜部隊の生存者たちも」
「……なに?」
「情報は少しずつ集まってる。魔神族の霊素残響。再活性化の兆候。そして《神の心臓》の動作痕跡。それらを繋ぐ線の中心にいるのは――あなたよ、ゼン」
俺は目を伏せた。
すでに、選ばされている。
そんな気がした。
だが、同時に。
(……本当に、俺にまだ“選ぶ”余地があるのか?)
ふと、胸の奥が熱を持った。
痛みではない。
もっと鈍く、もっと根深い“何か”が、静かに蠢いている。
まるで、その存在が喜んでいるかのように。
「……クソったれ」
そう呟いて、俺は立ち上がった。
「一つだけ確かめておく。
俺がエル=グラーデへ行き、アトムの根幹にたどり着いたとして。
“それ”を断てる保証はあるのか?」
「……ないわ」
リシェルは即答した。
「だけど、“何もせずに終わる”よりはマシだと思ってる。
あなたがそれを選ぶなら、私は支えるわ」
「……ヴァイン。お前は?」
観測者は短く目を伏せ、こう言った。
「君が進むなら、私は“記録する”だけだ。
だがそれは、“世界がどう変わるか”を見届けるということでもある」
「……そうかよ」
俺は顔を上げた。
カイの視線がぶつかる。
怒りでも哀しみでもなく、ただ真っ直ぐな光を宿した瞳。
「ついてきてくれるのか?」
「当たり前だろ。私はまだ、お前の店の料理を食えてねーんだぞ?この前言われた通り、わざわざ正規のルートで予約してやったんだ。死なせてたまるか」
吹き出しそうになった。
こんな時でさえ、こいつは軽口を忘れない。
だけど、それに救われた。
「……話はわかった。
だが、やるにしても今じゃない。
まずは、あの山に戻る。あそこが今の俺の“戦場”だからな」
カイが息を吐き、拳を握った。
「そうだな。団員たちも待たせてることだし、さっさと戻ろうぜ」
リシェルは目を細めた。
「……私もいつか行ってみたいものね。“灰庵亭”とやらに」
「…来なくていい」
応接室の空気が、わずかに緩む。
茶の香りがようやく戻ってきた。
俺は立ち上がり、黒鐘の重い扉を見つめる。
その先にあるのは、また新しい“静寂の崩壊”。
(……まったく、静かに暮らすってのは、どうしてこんなに難しいんだ)
セレスティアの夕暮れは、金と深緋の混じった空が広がっていた。
塔の陰が長く伸び、帝都の喧騒が少しずつ熱を失っていく時間帯。
俺たちは、黒鐘局を後にした。
飛空挺へと戻る途中、帝都の裏通りを抜けたあたりで、カイがふいに口を開いた。
「ってか……なんで今まで黙ってたんだよ。
お前がそんな爆弾抱えてるって知らなかったから……普通に、飯食って、焚き火して……」
「……言ったところで、面倒だろ?」
「面倒って、お前なあ……!」
カイが頭をかきむしる。
その様子を横目に、俺はため息をついた。
「誰にも話したくなかったわけじゃない。ただ、話したら全部動き出す気がしてな……」
「だったらなおさらだろ。言えよ、もっと早く。背負い込みすぎなんだよ。お前はいつも」
「背負うもんがある奴が、背負えばいい。そう教えてくれたのは――」
「私じゃねぇよ!」
「……そうか。なら多分、昔の俺だ」
「クソ……お前、いちいちムカつく喋り方しやがって……」
カイのぐちぐちは止まらなかったが、心配してるのはわかってる。
だから、黙って聞いてやった。
飛空挺〈ルミナ・ドレッド号〉が停泊している発着区が見えてくる。
夕暮れの空を背景に艦体が重々しく浮かぶその姿は、かつての戦場を思い出させるには十分だった。
「これからどうすんだ?」カイが訊く。
「帰るさ。灰庵亭にな」
「それはわかってるけど、そのあとだよ。行くんだろ?エル=グラーデに」
「ああ……そうしなきゃいけないらしいな。詳しくはまだ、よくわかっていないが」
「じゃあ、行くとしたらいつ行くんだよ。呪いが進行してるってんなら、少しでも早く――」
「カイ」
俺は言葉を遮る。
「俺は、自分の命を惜しむつもりはない。この呪いが俺自身の問題だけじゃないとしても、今は焦るべきじゃない」
「……っ」
カイが言葉を詰まらせたまま、黙りこくる。
俺は少しだけ視線を落とし、続けた。
「だが――」
飛空挺のタラップを上る。
出発の準備はすでに整っていた。
資料をバッグに収め、俺は船室へと向かう。
その手の中に、羊皮紙の上に書かれた複雑な文字の羅列と感触が、ありありと残っていた。
リシェルは言った。
“これは希望ではなく、可能性だ”と。
もしそれが――
“静かに、もう少しだけ生きるため”の可能性なら。
「……帰ったあとで改めて考える。あの資料も、あの“地図”も。今の俺にはやらなきゃいけないことがある。食堂を守ることも、野菜を育てることもそうだ。厨房の鍋で出汁を引いて、包丁を握る。それが今の俺にとっての“日常”だからな」
カイはしばらく無言だったが、やがて苦笑まじりに吐き捨てた。
「……クソ真面目親父かよ」
「お前が騒がしいだけだろ」
そうして俺たちは飛空挺の甲板を踏みしめた。
機関部が低く唸り、船体がゆるやかに浮き上がる。
俺のバッグの中、革綴じの資料がわずかに揺れた。
“エル=グラーデ”――かつての神々が住んでいたとされる場所。
その中心に建つあの塔の中に眠る“心臓”が、また新たな旅路の始まりになるのかもしれない。
だが今はまだ、その時じゃない。
帰る場所がある限り、俺の足はそっちを向く。
――灰庵亭へ、帰ろう。
静けさを守るために。今を生きるために。




