第87話 神の心臓
幾何学的な文様が静かに浮かび上がってゆく。複数の術式層が重なり合いながら回転し、その奥から数列化された魔素データと、立体的な構造図が次々と現れては消える。そしてそこに映し出されたのは、複雑な模様を持つ「量子波形グラフ」だった。
「……これは?」
俺が問いかける前に、リシェルは淡々と応じた。
「ある研究機関から提出された最新の魔素干渉データよ」
リシェルの手の動きに呼応するように、魔導記録層が淡く回転し、新たな層が展開される。そこには、“ある巨大な地形”を中心とした魔導地図と、霊素の流れを示す波形分析が立体的に表示されていた。
「昨年、帝国魔導研究機構の一部が、第六霊境宙帯の観測網の残骸から異常な信号を検出したの。これがその記録よ」
俺たちは目を凝らす。画面に表示されているのは、断続的な霊素パルス。そのリズムは不規則で、どこか生体の脈動を思わせる不気味さを孕んでいた。
「この波形、どこかで見覚えがあるでしょう?」
リシェルの言葉に、胸の奥がわずかにざわついた。そうだ、これは――
「……俺の中の、霊素と……同じ、だな」
「正確には、ほぼ同一。解析結果では、95%以上の一致率を示している。つまり――」
リシェルは言葉を区切り、ヴァインへと視線を移す。
「……発信源は、エル=グラーデの最深部――霊環塔と推定されている」
ヴァインの口からその名が発せられた瞬間、胸の奥に封じ込めていた記憶の底が、わずかに揺れた。静かだったはずの意識の水面に、ひとしずくの波紋が広がる。そこに映ったのは、風に揺れる浮島の輪郭、霞がかった光の柱、そして――終わりを予感させる静寂の塔だった。
エル=グラーデ――それはかつて、“神の庭”と呼ばれた地。
かつて神々は、“秩序の理”として「空」を開き、世界に降り立ったとされる。
火・水・風・土・光・闇・雷――七つの根源属性は、ただの自然現象ではなく、彼ら神々そのものの意思が結晶化した存在だった。
それぞれの神は属性に応じた世界の柱を築き、地脈と空脈を繋ぐ魔導基盤を構築し、“理の層界 (アーケイン・レイヤー)”を生み出した。
その中心に位置したのが――エル=グラーデである。
この浮遊大陸は、単なる空中都市ではない。七属性が交差する世界の“座標原点”であり、神々が最初に形を与えた場所。
神話の文献によれば、エル=グラーデは「始まりの庭」または「神の工房」とも呼ばれ、神々が初めて“形”を試みた場所であり、最初に“時間”を流した場所でもある。
帝国歴以前の古代文献にすら、その全容はほとんど記されていない。数多の宗教・神話体系では「光の門が開かれる聖域」とされ、一部の学派では「この世界が物理的に成立するための原点座標」とも語られてきた。それほどまでに特異で、神秘で、そして――禁忌だった。
だが俺たちは、七年前。終焉戦役の最中に、そこに足を踏み入れざるを得なかった。
理由は単純だった。
“あそこ”で何かが起きていた。
正確には、魔神族の中枢――ヴァル・ゼルグが“セプティマ融合計画”の最終段階を発動させようとしていた。そしてその鍵が、エル=グラーデの最深部にある“神の心臓 (アトム)”に隠されていたのだ。
浮遊大陸エル=グラーデは、構造的にはひとつの自立都市国家に近い。だが、通常の都市とは規模も概念も異なる。
空中に浮かぶ巨大な大地は、幾層にもわたる魔導基盤で支えられ、外周には円環状の居住区域や管制塔が配置されている。都市そのものがひとつの巨大な術式陣であり、風・雷・光の属性魔力を利用した浮力制御と安定化フィールドによって静止軌道を維持している。
そして、その中心――あの“終焉の塔”。
正式名称を「霊環塔」といい、塔全体が霊素の流動を制御・変換・安定させる巨大な精製機構で構成されていた。
かつての魔導文明期においては、この塔が世界の“魔力循環”そのものを調整していたという。
これは七神の力を分散させず、安定的に世界に供給するための制御装置であり、言わば神々の意志を代行する自動心核だった。
アトムは七つの神殿から送られる属性霊素を霊環塔で受信・変換・調和し、世界全体に再配布するシステムであり、その存在こそが「理の均衡」の根源とされていた。
この装置が存在していたからこそ、世界は“昼と夜”“命と死”“秩序と進化”といったリズムを保っていられた。
だが同時に、それは――“世界を再構築する鍵”でもあった。
つまり、あの塔の機能が完全に停止すれば、世界各地の魔導流が崩壊し、文明レベルのバランスが崩れる。逆に、塔を掌握する者は、世界そのものの構造に干渉できる。
終焉戦役当時、ヴァル・ゼルグがその塔を拠点に選んだのは、まさにそうした世界の根幹に“手を伸ばす”ためだった。
「結論から言うわ。――《神の心臓 (アトム)》は、まだ“動いている”可能性がある」
リシェルの言葉に、応接室の空気が目に見えて変わった。
魔導記録筐体に浮かぶ淡い蒼光が、まるで部屋全体の温度を下げるかのように冷たく揺れる。
俺はその言葉をすぐには理解できなかった。
いや――理解したくなかったのかもしれない。
「……動いている、とはどういう意味だ?」
俺の問いにリシェルは淡々と資料を操作し、魔導記録筐体の表示層を一段、さらに一段と深く潜らせる。
やがて浮かび上がったのは、より細かな霊素波形の観測データと、結界遺構に刻まれた“魔導応答”。
どれも俺には専門的すぎて読み切れないが、ひと目で異常な“何か”が記録されているのは分かった。
「このデータは、帝国旧中央大学魔導研究機構が封印していた記録よ。
本来、あの塔は七年前の崩壊で“完全に停止”したとされていたわ。霊環制御系も、浮遊基盤も、属性循環も――あらゆる系が壊滅状態にあったはずだった。ただ――その深部から、未だに微弱な霊素干渉が観測されている。
しかもそれは自然崩壊による残響ではない。“意図されたパルス信号”に近いものなの」
「意図された、だと……?」
俺の声がわずかに低くなる。
魔導装置や術式は、基本的に“意志”によって起動し維持される。
自然の魔力流とは異なり、一定のパターンで霊素が循環しているということは、何者かがそれを“動かしている”ということだ。
「そしてこれが、問題のコアよ」
リシェルは指先で筐体の中心を示した。そこに表示されていたのは、“霊素同期パターン”の解析図。
「……これは」
「そう。あなたの体内から検出された“霊素干渉波”と、霊環塔から観測された信号波が――ほぼ“完全な同位相”で一致している」
俺は言葉を失った。
「つまり……?」
ヴァインが代わりに口を挟んだ。
「ゼンの中にある“呪い”は、静的な封印ではなく――今も《神の心臓 (アトム)》と何らかの形で“繋がっている”ということだ」
リシェルは頷く。
「つまり、この呪いは“個人の枠を超えた構造体”だということ。
ゼン、あなた自身がいまや、“無意識のうちに心臓と繋がってしまっている”可能性があるの」
リシェルの表情がわずかに曇った。それは感情というよりも、厳密な情報提示の直前に浮かぶ“警告”だった。
彼女が指先で魔導記録層の表示を操作すると、さらに一段深い階層に新たな図面が現れる。そこには、霊素波形と魔導符式の融合図――だが、何より目を引いたのは、中央に大きく描かれた“心臓”を模した術式構造だった。
「ゼン、あなたの体内にある霊素の回路……それは、単なる封印構造じゃない。最新の解析では、これが《神の心臓 (アトム)》の“模写”構造であることが分かったの」
「……模写?」
「そう。つまり、あなたの体内には“もう一つの心臓”が形成されている可能性がある。霊素に反応し、同調し、代替として機能する“擬似心臓”が」
俺の眉がわずかに動いた。
「それがどういう意味を持つか分かる?」
リシェルの問いかけに、ヴァインが代わって答えた。
「もし君の中に形成された霊素構造が《アトム》の模写であるなら、封印はもはや“静的な収容”ではない。逆に《神の心臓》と完全に同期し、双方向に魔導情報を“交換し続けている”状態となる。これは単なる呪いではなく、“新たな神経接続”のようなものだ」
リシェルが補足する。
「つまり、ゼン。あなたは今、世界魔導網における《アトム》の“分岐端末”になってしまっている可能性がある。自覚がなくとも、あなたの生命活動そのものが、《アトム》の残骸を“生かし続けている”――そんな構造よ」
俺の喉が僅かに詰まる。
封印とは、封じることではなかったのか。
あの戦場で俺が行ったことは、まさしく“ヴァル・ゼルグの霊素を断絶する”ための最終手段だった。だがそれが逆に、霊素を“移植”し、《神の心臓》と連結してしまった――そういうことなのか?
「模写」とは何か。単なる似せ物ではない。魔導理論においては、“霊素の波形”と“構造形式”が一致すれば、それは「本体と同等の機能を持つ擬似装置」として扱われる。つまり――
俺の体内には、《神の心臓》の代替機関が形成されてしまっているかもしれない、というのだ。
では、《神の心臓 (アトム)》とは何なのか?
それは、終焉戦役の最終決戦の地、《エル=グラーデ》に存在していた巨大魔導装置の動力源であり、世界魔導網の中枢神経にして、霊素の循環を調整する“原初の制御核”だった。言うなれば、この世界の「魔力循環の心臓部」。神々が築いた魔導基盤の中心にして、七大属性のバランスを支える“霊素律動装置”――それがアトムだ。
そして、あの男――ヴァル・ゼルグが目指していたものは、この《神の心臓》を掌握し、自らを第八の神とすることだった。
七大属性を統合し、セプティムの座を超越した“八柱目”を創り出すためには、世界魔導網の書き換えが必要だった。つまり、世界の魔力の流れそのものを変える必要があった。
そのために必要だったのが、《アトム》だったのだ。
「封印によって霊素を絶ったと思っていたが、実際には《アトム》の中核機構を生かしたまま、あなたの肉体に“リダイレクト”された。言い換えれば、あなたの存在そのものが“魔導代替心臓”になってしまっている」
「……それが問題の本質か」
俺は低く呟いた。
「ゼン、このままでは君の“死”がトリガーになる危険がある」
ヴァインが静かに言った。
「君の肉体が完全に“消滅”したとき、君の中にある霊素構造が断絶する。その瞬間、接続されていた本来の《神の心臓》が――神々の意思や霊脈が、数千年の眠りから“再起動”する可能性がある」
「……っ」
心臓の鼓動が一拍、遅れた。
それはつまり、俺が死ねば、あの“終焉の塔”が再び動き出す――
そして、この体に封じられたヴァル・ゼルグの残響までもが、再び世界に影響を及ぼすかもしれない。
「この呪いは、君一人の問題ではなくなった。もはや“封印”の代償ではなく、“生存による延命措置”と化している。君が生きている限り、世界は《アトム》を監視下に置けるが――君が消えれば、すべてが“解放”される」
リシェルは、静かに言った。
「……だから、あなたに死んでもらっては困るのよ、ゼン」
その言葉が、深く、重く、胸に突き刺さった。
――つまり、死ぬことすらできない。
“俺”が生きている限り、世界は静かに回る。
だが、死んだ瞬間に――すべてが再び、回り始めてしまうのだ。




