第86話 黒き炎の果てに
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俺の体には、あの戦争の最終局面で封じた奴の霊素が今も眠っている。“死”の呪いというのは、——つまりそういうことだ。
見た目にはまだわからない。だが、皮膚の奥では確実に黒痣が広がっている。
それが意味するのは、“時間の問題”だということだ。
「……どうするつもりなんだ?」
俺がそう問いかけると、リシェルはしばらく黙った後、静かにうなずいた。
彼女はもう知っている。俺の中に何が封じられているのか。
そしてそれがこの世界にとって、どれほどの危険を孕んでいるのかを。
「あのときあなたが“帝国のために礎となった”ことを、私は忘れていない。いま助ける手段があるのなら、私はそれを――」
「……いや、俺はいい」
彼女の言葉を遮って、俺は再び茶を啜った。
「人はいずれ死ぬ。俺も例外じゃない。ただどう死ぬかは、——自分で選びたい」
リシェルはしばらく黙っていた。
その視線が胸の奥に杭のように突き刺さっていたのを、俺は無視できなかった。
だが、心の中で揺れるものはなかった。
この決意は、戦火の中で幾度となく死線を越えた末にようやく得たものだったから。
そのとき部屋の隅にいたカイが、重たく沈黙を破った。
「……おい。ちょっと待て。死ぬ? どういうことだよ、ゼン」
カイの声はこれまで聞いたことがないほど低かった。
……そうだ。俺は、まだ彼女には何も話していなかった。
この身体に刻まれた呪いのことも、終焉の地で何を代償にしたのかも。
俺は静かに茶碗を置いた。
そして何も言わずに視線を落とし、数秒だけ沈黙を守った。
リシェルもまた、言葉を挟まなかった。
彼女はすでに、すべてを知っていたからだ。
――静けさが支配する応接室。
やがて、俺はゆっくりと口を開いた。
「……七年前、最後の戦いの相手が誰だったか、覚えてるか?」
「終焉戦役。魔神族の侵攻だろ? でも、私が聞いた話じゃ……」
「表向きは“世界連合の勝利”だ。だが実際は――」
言葉を止めた瞬間、記憶が一気に押し寄せてくる。
黒き炎と瘴気に包まれた荒野。崩れ落ちた空中都市。
聖域が沈み、魔の門が開いた、——あの夜。
あのとき、世界は崩壊の瀬戸際にあった。
七大陸を結ぶ魔導基盤が次々に崩壊し、聖域と呼ばれた地は灰に還った。
帝国の飛行艦隊は半壊。
蒼竜部隊の生存者は、俺を含めてたった三人。
第五魔導師団の連隊も、イグザスの飛行実験隊も、半数以上が帰らなかった。
ルミナ帝国を中心とする旧同盟諸国、そして反帝国連合の再編成によって構築された“世界連合軍”が、最終戦線に向けて布陣していた。
グラシアとルミナスの国境に浮かぶ聖域〈エル=グラーデ〉。それはかつて神々が住んでいた地とされ、七大属性の均衡を保つ魔導基盤の中核であり、“神の庭”と伝えられる古代文明の礎だった。
だが、その均衡は、すでに破られていた。
いや、正確には――破らされたのだ。ヴァル・ゼルグの手によって。
七大大陸を結ぶ魔導回路網が各地で不安定化し、地脈が逆流し始める。
蒼竜部隊は急遽、〈エル=グラーデ〉の防衛任務を命じられ、バラム高原の飛行砦から出撃した。
敵は魔神族。その数は予測不能。だが当初は、これまでの小規模な交戦と同様、物理的な戦闘が主体になると予想されていた。
だが――違った。
現地に到達した時、既に戦場は戦場ではなかった。
地平線がねじ曲がり、空は逆流し、炎は凍りつき、時間が断絶していた。
騎士団の魔導機が空中で回転したまま停止し、術者の詠唱は無音のまま喉で凍りついた。
「……空が、喰われたんだよ」
俺がそう言うと、リシェルの瞳が細くなる。カイは沈黙を守ったまま視線を下げた。
言葉にできない――というより、言葉が通じない種類の出来事だった。
それは戦闘ではなかった。現象だった。
そして、その現象の中心にいたのが、《ヴァル・ゼルグ》。
あのとき初めて、完全な姿を見た。
音もなく、ただ“そこにいた”。
雷鳴もなく、咆哮もなく、咎もなく、——ただ風景の一部のように。
炎も、
風も、
生命も、
理すらも。
すべての魔力構造が、あの空間では意味をなさなくなった。
俺たちは戦えなかった。
仲間の声が届かない。魔術の詠唱が断ち切られる。剣が振り下ろされる前に柄ごと消える。
それが、“存在を削る”という力だった。
世界の理に反した、“無”そのもの。
俺自身の能力ですら、あのときは通じなかった。
俺がその“力”を受け止めきれたのは、奇跡だった。
いや――奇跡ではなく、“代償”だ。
「……あのとき、俺はヴァル・ゼルクの霊素を封じた。
あれを消滅させれば、世界の基盤そのものが崩れる。
だから俺の体を“器”にして封印したんだ」
カイの目が、見開かれる。
魔神は肉体では滅びない。
霊素、つまり魂の根源ごと処理しなければ、いずれまた復活する。
だがそれを消し去れば、世界そのものの魔導構造が崩壊する危険があった。
だから、俺は“器”となることを選んだ。
「封印……って、それじゃ――」
「そうだ。俺の中には、まだ奴の残滓が眠ってる。
霊素は世界の根源に繋がる“負の回路”だ。
それを抑え込むために、俺は魔力を失った」
言いながら、俺は袖口に手をやった。
薄い痣が手首の下にかすかに浮かんでいる。
まるで墨が滲むように、静かに広がる黒。
「……これは、“死の呪い”だ。
封印の代償として、霊素が少しずつ肉体を蝕んでいく。
その終わりは、“無”だ。魂ごと消える」
カイは言葉を失っていた。
リシェルもまた、表情を崩さずに沈黙している。
「そんな……なんで黙ってたんだよ」
「言ってどうなる。
俺が死のうが生きようが、世界は回る。
それに――」
俺はほんのわずかに笑った。
「この体がまだ、料理の匂いを感じるなら、それで十分だ」
リシェルが、静かに資料を閉じた。
「……あなたらしいわね。
でも、“無”に還るということは、記憶も存在も、全てが消えるということ。
あなたが生きた証すら、世界から失われる」
「それでいい。
俺は“世界を救った英雄”じゃない。
ただ、今を生きていたかっただけだ」
短い沈黙。
やがて、カイがゆっくりと立ち上がった。
「ふざけんなよ!
そんなの納得できるかッ…!」
勢いのままに飛び出たその声が、静かな応接室の空気を裂いた。
いつもの陽気さも軽口もない。ただ、剥き出しの怒りと焦りがあった。
俺はその怒鳴り声を真正面から受け止めながらも、彼女から目を逸らせずにいた。
カイが怒るのも当然だ。
だが、それでも。
「……納得してくれなくていい。だが、俺はそう決めたんだ」
そう言った俺に、彼女は歯を食いしばる音すら隠そうとしなかった。
拳を握りしめたまま、テーブルの角を軋ませる。
沈黙が、再び部屋を支配しかけたそのとき――
「……ならば、どうして君をここに呼んだと思う?」
低く、響くような声だった。
ヴァイン・レクタスが、初めて会話に割って入った。
彼は茶器に手を置いたまま、俺を見ていた。
否――観ていた。
あの瞳だ。
すべてを視るあの眼差しに、俺は一瞬だけ呼吸を止めた。
「……リシェルが君を黒鐘局へ招いたのは、君の呪いをただ外から傍観するためじゃない。その“呪い”に関する調査の進展があったからだ」
俺は反射的に視線をリシェルに向けた。
彼女は微かに頷いた。
「調査の進展、というのは……」
俺が問いかけるよりも先に、リシェルが黒革の鞄から一枚の透明な文書筐体――魔導記録層を取り出し、机の上にそっと置いた。薄く光る板面の上には、魔力触媒によって封じられた幾重もの結界が編み込まれており、見る者によってその情報の層が異なるように設定されている。リシェルが指先で軽く触れると、静かな蒼光が応接室を照らした。




