第85話 世界の終わりに咲く花を
……あの戦争をどう呼ぶべきか、未だに言葉を見つけられずにいる。
「大陸間戦争」「終焉戦役」「統一戦争」……どれも綺麗すぎる。実際のそれは、もっと無様で、もっと汚く、もっと絶望的だった。
数多の都市が焼かれた。
空は黒く、風は熱を帯び、海ですら死臭を纏っていた。
最初に崩れたのは、イグニス大陸北部の工房都市群だった。
ルミナ帝国の“加護なき徴税”に反発した鍛冶ギルドたちが蜂起し、
その支援を受けた“独立派技術者軍”が、帝国軍の補給路を焼き払った。
最初は“対話”で済むはずだった。だが、帝国の現地司政官は命令を無視し、制圧を命じた。
焼けたんだ、すべて。
職人も、子供も、工房も。
炎の神に仕える民が、自分たちの手で築いた都市を、自分たちの怒りで破壊した。
それを見たとき、俺は初めて“取り返しのつかない段階”に入ったことを理解した。
次に壊れたのは――空だった。
それは文字通りの意味だ。
大気を満たす風も、空を駆ける翼も、空賊たちの自由な軌跡も、すべてが破壊された。
始まりはアエリス連邦の一部都市による“航路の自由宣言”だった。
帝国による飛空域制限と通商検閲に反発した空商連合が、制空圏へ突入したのだ。
彼らは戦うために飛んだのではない。
本来は、空を選び、風と生きる者たちだった。
だが、帝国はそれを“反乱”と見做し、即座に空軍を差し向けた。
数日と経たぬうちに、青空は黒煙と爆風の迷路になった。
飛空艇が群れをなして落ちてゆく姿を、俺は空の端から見ていた。
風の祝祭として知られていた〈航界祭〉の当日だった。
それまで、空賊も商人も技師も、空に生きる全ての者が一堂に集い、空神アエラに感謝を捧げていたというのに――
その空は、瓦礫となって崩れた。
機体が落ちる音。
裂ける帆。
風に溶けていく叫び。
そして、沈黙。
空を生業とする者たちの半数以上が、その戦火の中で命を落とした。
俺が知っていた空賊団――〈灰翼の矢〉、〈ノルヴァ航路隊〉、〈ルミナ・ドレッド号〉の姉妹艇……
どれも、帰らなかった。
そして、海もまた、応えた。
ネプトラの潮流。
それは長らく、中立の象徴だった。
だが帝国はその信義すら破った。
“密輸の可能性あり”という名目で、帝国魔導艦が巡礼航路を封鎖し、交易船を次々に拿捕した。
これに怒った海王国ネプトリアは、“自衛”の名の下に潮の護衛艦隊を編成し、帝国沿岸都市に反撃を開始。
封鎖、破壊、浸水――
なかでも、帝国南部の港湾都市アルマル=セレが水門を破られ、神殿ごと飲み込まれたのは象徴的だった。
潮が引いたとき、戻ってきたのは波ではなかった。
赤黒い水。
膨張した死体。
折れた祭壇。
祈りの跡だけが、濡れた石畳に残っていた。
あの日、俺は船の上からその光景を見ていた。
「流れはすべてを洗う」――
それがアクアリス潮教の教義だったはずだ。
だが、その潮流は、血と腐臭を撒き散らしていた。
もし本当に水の神が見ていたのなら、あれを“浄化”と呼べるはずがない。
テネブル大陸――
そこは最初から、静かに腐っていた。
戦火が広がる前から、闇の地では裏社会の武装が進行していた。
“影の神官団”と呼ばれる者たちが、帝国中枢の情報を漏洩し、暗殺や暴動を煽っていた。
名目は“民のため”、“自由のため”だったが、その実態は《ヴァル・ゼルグ》の指導下にあった。
情報、思想、感情、歴史――あらゆるものが歪められ、浸食された。
誰が敵で、誰が味方なのか、見分けがつかなかった。
村の老婆が、帝国の密偵だった。
教会の神父が、魔導自爆装置を隠していた。
市場の少年が、俺に手紙を渡した――それが爆符だった。
“影の解放戦線”と名乗る武装組織は、自らの行動を「正義の粛清」と呼んだ。
いや、奴らが使っていたのはもっと巧妙な言葉だった。
「自由」だ。
自由のために人を殺し、
自由のために真実を塗り潰し、
自由のために、自由そのものを破壊していった。
……そういう時代だった。
いや――そう仕向けたのが、《ヴァル・ゼルグ》だった。
世界は、緩やかに“自壊”していった。
帝国の支配が崩れ、反乱が拡大し、各大陸がそれぞれの正義を掲げて戦い始めた。
だが俺には、もう正義が何かなんてわからなかった。
ただ、戦っていた。
生き残るために。
守れるものが、まだあると信じるために。
だが、どれだけ剣を振るっても――
どれだけ仲間を守っても――
どれだけ街を救っても――
翌日には、別のどこかで、同じ地獄が繰り返されていた。
街が陥落し、
橋が焼け落ち、
子供が泣き叫び、
兵士が命乞いをして、
神殿が爆発し、
民が祈る。
だが祈りは届かない。
神々は、もう答えない。
俺は剣を振り続けた。
その手に、かつての信念はなかった。
戦う理由を考えれば、きっと潰れてしまう。
だから、“考えないこと”を選んだ。
俺はただ、“止めるために”戦った。
“終わらせるために”。
……だが、誰も止まらなかった。
止めようとすら、しなかった。
それこそが――あいつの望みだったんだ。
人が人を殺し、
信仰が裏切られ、
理想が武器に変わり、
言葉が毒となり、
希望が猛毒に転じる。
それが、《正しい終わり》。
あいつが語った、“静かな破滅”の風景だった。
……だが、それでも、俺は信じた。
剣に。仲間に。
そして、自分の手が届く範囲にだけは、
まだ“守れるもの”があると。
だから、俺はあの最終戦場に立った。
そして、あいつを封じた。
命の代わりに――“死の呪い”という、決して消えぬ代償を以て。
……その代償を、俺は今でも背負って生きている。
山の静けさの中で、風の音を忘れぬように。
“静けさ”だけを、手放さないように。




