第83話 魔王と呼ばれた存在
……あれを、誰が最初に「魔王」と呼んだのかは知らない。
「虚無の王」だの、「災厄の象徴」だの、もっともらしい名前をいくつも付けていたやつもいたな。学者だか預言者だか、帝国の奥の院にいた連中は、揃いも揃ってありがたい名札を付けたがる。けど結局のところ、そんな呼び名なんてどうでもいいんだ。
俺は知っていた。そんな肩書きよりも――“奴”そのものの存在を。
《ヴァル・ゼルグ》。
それが、あいつの名だ。
終焉戦役――七年前。世界が、冗談抜きで終わる寸前だった時代の話だ。
帝国の首都圏が魔素に飲まれ、空が赤黒く染まり、各地で天災とも呼べない異常な現象が連続して発生していた。地が割れ、時が歪み、獣が狂い、民が眠ったまま戻らなくなる。あの頃、俺たちはそれを「魔神の目覚め」と呼んでいた。
七柱の魔神――飢餓、幻影、腐敗、無音、戦、時、抹消。すべてがこの世界の“基盤”にある概念を喰い荒らし、世界の理を根本から崩そうとしていた。
そのどれもが、帝国の精鋭をして「対処不能」と言わしめる存在だった。
だが、それらすべてを超越する存在がいた。
七柱を従える“原初の魔神”。
理を否定する存在。
そして、世界の終わりを象徴する意志――それが《ヴァル・ゼルグ》だった。
俺が奴のことを知ったのは、終焉戦役のはるか以前――まだ「ゼン・アルヴァリード」などという名が大陸に広がる遥か前のことだった。
当時の俺は、帝国に雇われたただの傭兵だった。肩書きもなく、戦場を渡り歩いて日銭を稼ぎ、飯と寝床とわずかな報酬だけを求めて生きていた。そんな折、ある地方で発生した“村落の消失”に関する調査任務を受けたのが始まりだった。
地図に記されていたその村の名は〈ベルシュナ〉。
標高の高い谷間に広がる、小さくも豊かな村だったと聞く。鉱石の採掘と養蜂を主産業とし、温厚な村長とその家族を中心に、数十の家族が慎ましく暮らしていたという。
だが、俺たちが辿り着いたとき――そこには、“何も”なかった。
いや、“焼け跡”ですらなかったのだ。村があったはずの場所には、地形ごと抉れたような大穴が広がり、地表は黒灰色に変色し、周囲の木々も、まるで数百年の時を経たかのように枯れ果てていた。まるで、「存在」そのものが“消された”かのように。
俺たちは最初、「大規模な魔導兵器の誤作動か」と疑った。だが、魔力残留は一切なし。生命反応ゼロ。生体組織の断片すら見つからなかった。
“なにか”が、すべてを丸ごと喰らったのだ。
同行していた魔導士が、呆然としたままこう呟いたのを覚えている。
「これはまさか……“黒魔法”……?」
魔導士のその一言に、俺は思わず眉をひそめた。
「黒魔法、だと?」
戦場で聞いたことはあった。けれど、それはあくまで噂話。都市伝説のように語られ、古文書にしか登場しない、いわば“禁句”の類だった。帝国の魔法研究機関でも、「検証不可能な仮説」として扱われていた記録がある。教本に載っていたのは、たった一行。
――黒魔法とは、“存在の反転”である。
その意味を、当時の俺はよく理解していなかった。火は火、氷は氷、光も闇も、魔法というのは「力を用いて何かを変化させるもの」だと信じていた。だが、黒魔法は違った。変化させるのではない。そこにあるものを、“なかったことにする”。
まるで、量子が逆位相でぶつかり合って消えるように。存在が存在と打ち消し合い、“無”へと至るように。
「反魔素の概念よ」と、魔導士は呟いた。「通常の魔法は魔素を操作して世界に干渉する。でも黒魔法は、魔素そのものを逆転させることで、“法則”を壊す。だから痕跡が残らない。“燃えた”んじゃない、“在った”という記録そのものが削除されるのよ」
俺は思わず、焼け跡すら残っていない村の中心に目を向けた。
すべてがあまりにも“きれいすぎる”。
そこに何があったのか、誰がいたのか。風景に“記憶”がない。まるで、時間と空間の隙間がぽっかりと空いたように、現実が滑落している。
「まるで存在が……呑まれたみたいだな」と、俺は吐き捨てた。
魔導士は頷きながらも、どこか怯えた目で空を見上げていた。
「もしこれが本当に“黒魔法”なら、使ったのは……人じゃない。そもそも、こんな規模で扱える存在がいるとは思えない。これは……」
その言葉の意味すら分からないまま、俺は夜の巡回に出た。なにか、見落としたものはないか。なにか感じ取れるものはないか。そう思って闇の中、静まり返った森を歩いていたとき――
“それ”に出会ったのだ。
月も雲に隠れた夜だった。霧が濃く、視界が五歩先すら怪しい。
ふと気配を感じ、振り返った先に、どの種族とも覚束ぬ奇妙な“女”が立っていた。
歳の頃は二十前後、上質な黒衣を身にまとい、獅子のように逆立った赤と黒の長髪を背に流し、口元には柔らかな笑みすら浮かべていた。宰相然とした気品と、完璧な身なり。だがその瞳だけは、どこまでも空虚だった。
「――ようこそ。静寂の跡地へ」
その声は妙に優しかった。だが俺はすぐに理解した。それが直感と呼べるものだったのかどうかはわからない。理屈とか感性とか、そんなものが丸切り頼りにならなくなるくらいの悪寒。
“こいつが、村を消した”。
——そんな得体の知れない気配が、ざぁっと脳裏に掠めた。それだけは、事実だった。
「名は?」と俺は尋ねた。半ば反射的に。だが、奴は笑って言った。
「名? そんなものは、生まれたときから持っていないよ――そうだな。君たちの「言葉」で言うなら、《ヴァル・ゼルグ (形なきもの)》。そういう形容だろうか?」
その瞬間、膝が震えた。空気が変わったのだ。重く密度が増し、呼吸が困難になるほどの圧。だが、それは魔力による威圧ではない。空気、空間、——しいては“世界そのもの”が奴を拒否しているような、異常な感覚だった。
この時、俺はまだ知らなかった。《ヴァル・ゼルグ》が人の姿を借り、各国に潜み、戦争の火種をばら撒いていたことを。〈ベルシュナ〉もまた、その計画の一部――ある実験の“失敗作”だったことを。
ただ本能で感じた。
この女は――世界に属していない。
俺たちのような人間や生物とは、まるでかけ離れている存在だ——と。
「……貴様、何者だ?」
そう問うと、彼女はあくまで丁寧な口調で答えた。
「私はただ、“正しい終わり”を求めているだけだよ」
……その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍った。
“正しい終わり”——それは、まるでこの世界にとって、俺たちにとって、終焉こそが約束された救いだとでも言うかのようだった。
言葉は穏やかだった。だがその響きの奥にある“空白”が、俺にはどうしようもなく恐ろしく感じられた。優しさと冷酷さ、理知と狂気、それらすべてが不気味なまでに調和していた。
そのとき俺は、何もできなかった。
剣を抜くことすら忘れていた。ただ立ち尽くし、目の前に立つ“それ”を見つめていた。というより、動けなかったのかもしれない。恐怖という感情では説明できない、もっと根本的な、存在を圧迫するような“異物感”に心と体が縛られていた。
なぜ言葉を交わせたのか、今でも不思議に思う。だがあの瞬間、俺はきっと“対話を許された”のだと思っている。おそらくそれは、あいつにとって「観察」の一環だった。実験動物に餌を与えるように、偶然居合わせた兵士の反応を楽しんでいたのだろう。
「終わりを恐れるのは、未熟な魂の証だよ」
――そう言った。
俺が何も言い返せずにいると、彼女はふと微笑んだ。いや、それは笑みとは似て非なるものだった。“口角が上がった”だけで、そこに感情は宿っていなかった。まるで、感情の模倣。人間という存在を観察したうえで、“こうすれば人間っぽく見えるだろう”という手順を機械的になぞっているような表情だった。
「君たちは、“変わる”という行為に夢を抱く。でも、変化は常に痛みと喪失を伴う。だったら最初から、変わることのない地平を作り出してしまえばいい。存在が生まれる前に、すべてのものが平等だった場所へ」
その声には、感情の起伏というものがまるで感じられなかった。ただ一つの無機質な音が、意思という器を借りて口を開いているような、そんな不気味な正確さ。音が消えるという感覚ではない。むしろ、音という概念が“初めからどこにも存在しなかった”と錯覚するほどの、根源的な空白。
「君たちは、終わることを恐れている。でも……その終わりをもたらしているのが、“君たちの側”だとしたら?」
問いかけるような声だったが、返答など求めていなかった。
「選択肢などは初めから存在しない」とでも言うように、ただ淡々と。
言葉が続いた。
「あらゆる生は祝福されるのに、あらゆる死は否定される運命にある。それはおかしいと思わないかい?」
どこまでも淡々とした声だった。…だが、その言葉の裏にある確かな“意思”が、徐々に俺の中に染み込んでくるような感覚があった。
「“生きる”というのは、緩やかに死んでいくということでもある。本来そこに“終わり”というものはないんだ。ようは早いか、遅いかだけ。そこに意味などあるのかい?永遠の生も、永遠の死も、等しく同じ「時間」の中にあるというのに」
俺は震える声で、かすれたように返した。
「言ってる意味がわからないが…」
《それ》は笑った。口元を僅かに綻ばせただけの、感情なき表情で。
「……なら、証明してごらん。君たちの“生”が、どこまで続けられるのか」
そして、その言葉を最後に――
森の一角が、沈んだ。
まるで地面ごと“削除”されたかのように、音もなく気配もなく、——ただ、静かに。
俺の左腕が肩口から消えかけていたのに気づいたのは、その直後だった。咄嗟に魔力を凝縮し、霊素で対抗、なんとか組織の消失を食い止めたが――それでも数ヶ月間、左腕の感覚は戻らなかった。
後日、帝国のある研究室を中心とした外部調査が始まり、複数の“偽装された人物”が各大陸にて暗躍していた事実が明るみに出た。その中の一人――テネブル大陸を支配していた闇の皇国の宰相 《イヴ・ベルゼブブ》こそが、後に魔神族の王と呼ばれるヴァル・ゼルグ本人だったことは、終焉戦役の末期に明らかとなる。




