第82話 相変わらずだな
リシェルに案内されるまま、俺は黒鐘局の内部深くへと足を進めた。
すれ違う人間はほとんどいない。たまに見かける職員も無言で淡々と歩き、誰一人として俺たちに視線を向けてこない。だが、その無関心すら訓練された“業務姿勢”であることが、かえって内部の緊張感を物語っていた。
……そういえば、昔ここを訪れたときもこんな雰囲気だった。
帝国騎士団の名目で諜報関連の情報提供に来たのが、もう十年以上前だ。当時の俺はまだ若く、こうした空間の“意味”を深く理解できていなかった。ただ、黒鐘局の中に入った瞬間から、心拍が自然と一つ落ち着いてしまったのを覚えている。安心ではない。逆だ。逃げ道がないと本能が察して、無駄に動かないよう身体が自動的にセーブをかける――あのときのあの感覚が、今になって再びよみがえる。
リシェルは相変わらず無駄のない足取りで角を曲がり、階段を降り、幾つもの自動結界を通過していく。彼女の所作からして、この階層は彼女自身の管理下なのだろう。外部者の俺が同行しているにも関わらず、一度も身分確認もされなければ同行者記録の登録もなかった。つまり――それほどまでに、彼女の信用と裁量がこの場所では確立されているということだ。
やがて、少し天井の高い廊下に入った。ここだけは古い構造を維持しているらしく、壁面にはかつて魔導院が使用していた頃の装飾――幾何魔紋と詠唱記号の痕跡がうっすらと浮かび上がっていた。現代の結界層とは異なり意匠性が残っている分、どこか人の手の温度を感じさせる。
「こっちよ」とリシェルが振り返りもせずに言う。
まるで彼女自身がこの塔の一部であるかのように躊躇なく黒鐘局の迷路を進んでいく様子には、もはや畏怖すら感じる。俺には到底真似できない。…いや、真似する気もないが。
やがて長い廊下の突き当たりに無骨な鉄扉が見えてきた。鍵穴も、取っ手も、装飾もない。ただ魔力に反応する薄い痕跡が、そこが“入口”であることを物語っている。
リシェルが静かに指先を翳すと、鉄扉が無音のまま左右に開いた。
その扉の奥にあったのは、昔一度だけ訪れたことのある円形の応接室だった。
中には豪奢な絨毯と古代式の木彫家具、そして中央には湯気を立てる茶器がすでに用意されていた。香りは高山産の紅茶――帝都でも特に貴重な品だ。
応接室の空気は、外の冷たい廊下とはまるで別物だった。
ほんのわずかに漂う香気――高山紅茶の揺れる蒸気。その奥に、空気ごと視線を射抜いてくるような“何か”の気配がある。リシェルの視線がふとわずかに横に流れたとき、俺はようやく気づいた。
部屋の一角、窓も時計もない空間の中心に、ひとりの男が立っていることに。
ヴァイン・レクタス――第三魔導師団の師団長。“観測者”と呼ばれる男だ。
…相変わらず、まるで彫像のような静けさと存在感だった。髪は淡い銀青で、肩にかかる長さ。その一筋一筋が空気に溶け込むように揺れている。ローブは透光性のある霊布で仕立てられ、光を受けても影を落とさない。瞳は――特に左目。あれは、目を合わせると過去を覗き見られるような、不思議な“深さ”があった。
「久しぶりだな。ゼン。茶でもどうだ」
彼は、まるで時計の針が止まったまま、静かに進み続けていたような佇まいで、俺に言った。
その声は低く柔らかく、それでいて否応なしに耳へ届く、不思議な響きだった。言葉に強制力があるわけでもない。ただ、聞いた瞬間に“従わざるを得ない気持ち”にさせる何かがある。
俺は軽く頷き、リシェルと視線を交わす。彼女もまた、なにか少し警戒を解いたような、微細な変化を顔に浮かべていた。
「……あいかわらず、気配をうまく消す男だな」
「それは錯覚だよ。君が久しぶりに“観測される側”になっただけだ」
ヴァインの言葉に、俺は苦笑した。
彼は昔からこうだ。必要最低限の言葉しか使わないくせに、そのすべてが核心を突いてくる。感情でなく、計算で会話を構築するような男だった。
だが、感情がないわけじゃない。むしろ彼の内部には誰よりも深い“感情の圧縮”がある。だがそれは滅多に外へは出てこない。観測することに徹し、自らは決して映らない鏡のような男――それが、俺にとってのヴァイン・レクタスという人間だった。
彼とは過去に直接戦場を共にしたことはないが、情報連携や作戦解析の場面で、何度か支援を受けたことがある。リシェルとも相性がいい……いや、似ているのかもしれない。互いに“言わないこと”が、最も多くを語る人間同士という点で。
「君がここに来たということは、静かに山奥で暮らしているというわけではなさそうだ」
ヴァインはわざとらしくそう言ってから、湯を注ぎ始めた。
茶の香りがまた、濃くなっていく。
俺はゆっくり椅子に腰を下ろしながら、肩の力を抜く。
「……まあな。放っておいても、なぜか騒がしさの方からやってくる。俺が求めている“静けさ”は、いつも誰かに破られるらしい」
そのとき、リシェルがさりげなくティーカップをひとつ差し出してくれた。
俺は黙って一口飲み、深く息をついた。苦味と香りの奥に、どこか土と霧の香りが混じっていた。
……ヴァインがここにいるというのは、偶然ではないだろう。
黒鐘局と第三魔導師団は、表向きには異なる組織に見えるが、実態は情報と視認の連携という点で密接な繋がりがある。リシェルが“黒鐘”の中心で機密と交渉を担うとすれば、ヴァインは“翠翼の眼”――帝国の全域に張り巡らされた“視覚の網”を司る存在だ。
彼のような男が、わざわざ応接室で待っていたということは……。
(何かが、繋がっているのか)
――そう考えるのが自然だった。
第三魔導師団。“翠翼の眼 (エメラルド・サイト)”。
帝国軍のなかでも特殊な位置づけにある、対幻術・霊視解析の専門部隊だ。部隊というより、“観測機関”に近い。戦場で剣を振るうよりも先に、敵の陣形・魔力流・幻影結界を視認し、解読し、破る。あらゆる錯覚と誤認を排し、真実の輪郭だけを見出す――それが彼らの任務だ。
ヴァイン・レクタスがその師団長を務めているのは、当然の帰結だった。
師団長――この肩書きが、帝国軍の中でどれほどの意味を持つかを純粋に理解している者は案外少ない。
帝国の軍制は非常に複雑で、騎士団・正規軍・魔導師団・外交武装機関など、多岐にわたる戦力が階層的に構築されている。その中でも「魔導師団」という枠組みは、いわば“超常の戦場”を担当する者たち。各師団にはそれぞれ“異常な専門性”が求められ、治癒、召喚、結界、幻術、雷撃、時間操作……常人には扱いきれないような術式体系を極め、それらを“戦術”として成立させるために存在している。
その師団長となれば、もはや一個戦線を単独で支配しうる戦力となり、戦闘力も、思考力も、統率力も、そして何より――“存在そのものが戦略”になっているという点に着目しなければならないだろう。
——文字通り彼らは、“人の限界”を超えている存在だった。
俺は過去、それぞれの師団長と顔を合わせたことがある。時に戦場で、時に作戦会議で、あるいはほんの短い協議の場で。
どいつもこいつもあまり積極的に関わりたくはない、“一癖も二癖もある連中”だった。
ヴァイン・レクタスの“視る力”はすでに話した通りだが、それ以外にも、記憶に焼きついて離れない連中がいる。
たとえば、第一魔導師団“白翼師団”のセリス・リューウェル。白銀の結界術師。帝都を覆う都市結界の維持管理を一手に引き受けてる女だ。表情は氷のように整い、言葉も鋭利な刃のように選ばれていた。俺のような“前線の兵士”を前にしても、決して態度を変えることはなかった。それはあの終焉戦役の戦線の場でも同じだ。誰を前にしても決して自らの感情を表には出さず、態度や言葉を「選ぶ」ようなことはしない。
一度だけ、彼女と共同で“聖域災害”の鎮圧にあたったことがあるが……あのとき展開された結界の多重構造と防壁術式は、正直、俺の理解を超えていた。まるで都市そのものが生きているかのように、結界が自律して動いていた。あれを操る人間が味方にいると思うとどれだけ心強く、…ぞっとしたことか。
第二魔導師団“紅の大盾”のハルザン・ゴルヴァ。あいつは……まあ、見た目どおりの怪物だったな。全身をマグマのような魔力装甲で包んで突進してくる様は、もはや魔獣の領域だ。戦術もへったくれもない豪腕でありながら、戦場での生存率は異様に高い。何より、“味方を死なせない”ことに異常なまでのこだわりを見せる。
俺が一度、作戦上のミスで部下を失いかけたとき、あいつは一言だけ言った。
「背中の数は、失う前に数えとけ」
重くて痛い言葉だったが、今でも胸に残ってる。
五師団の師団長、グラハム・レオニード――“雷の獅子”。
俺が蒼竜騎士団に在籍していた頃は、直属の上官という立場で何度も合同演習を指揮してくれた。風と雷を融合させた剣術は、見ているだけで身体が震えるほど鋭く、美しかった。音速で斬撃を走らせ、雷鳴の余韻と共に空を駆けるあの戦いぶりは、まさに“空の王”にふさわしい。
強さだけではない。背中の見せ方、仲間の鼓舞の仕方、戦況の読み……どれも一流だった。部下からの信頼が他の誰よりも厚かったのは、当たり前と言えば当たり前だろう。
そして……第十一師団、“時環の巡礼者”のアル・シェイド。
時間術に特化した師団――という時点で、もう理解を超えているが、彼はその頂点に立つ“未来の計測者”だった。
一歩先を読む、という次元じゃない。“一歩先を確定させる”。その異常な予測力は、もはや預言に近い。作戦中、俺が出した行動指示に対して彼がこう言ったことがある。
「その選択は、四つ先の分岐点に不整合を起こします」
……意味がわからなかった。
しかし、その“分岐点”で本当に部隊が窮地に陥り、彼の予言通りの対処で事なきを得た。
あの瞬間、「この世界には、別の時計で動いている奴がいる」と思った。
師団長たちは、それぞれが“異なる現実”を生きている。
“戦う”ということの意味も、“守る”ということの覚悟も、俺とはまるで違う重みを持っている。だからこそ、俺は彼らと正面から戦いたくない。敵としても、味方としても“使える”というより“頼らざるを得ない”存在ばかりだったからだ。
――その中で、ヴァイン・レクタスは最も“距離のある存在”だった。
理解できそうで、できない。
見えているようで、見られている。
まるで、俺の中の過去までも全て透けているような視線。
彼自身が“霊素を視る”力に極端に特化した術者であり、その左目には過去の記憶や思念の残響を視認し、追体験できる“霊素の写像”能力があるとされている。噂では、彼が一度でも訪れた場所は、その空間の記憶を“巻き戻して再生”できるらしい。
俺は戦場で彼の術を見たことはないが、終焉戦役の最中、俺の作戦行動が敵方にほぼ露見せずに進行できたのは、ヴァインの後方支援による“視界遮蔽”の援護があったからだと後から聞いた。
つまり、“視る”だけではなく、“視られないようにする”のも彼の術の範疇だ。
副団長のエリカ・ラヴィスという術師もまた、幻術の分野で知られた女性だった。敵の精神に“見せたくない現実”を植え付けることで、錯乱や戦意喪失を引き起こす技の使い手。表向きの作戦記録には残らないが、彼女の“幻”に惑わされて部隊全体が機能不全に陥った敵の例は、いくつも存在するらしい。
だが、第三魔導師団の真価は、そうした個の術ではなく“全体観測”にある。
戦場の空間全体を“俯瞰視”し、誰が、どこで、何をしているか――そうした俯瞰情報を全指揮官に共有する。まるで軍隊全体が一つの意識で動いているかのような統率。それを可能にしているのが、ヴァインの“千瞳照準”と呼ばれる全方位観測術式だった。
彼ほどの男が、…いや、一師団の師団長ともなる男が、偶然この席に居合わせていることなど、普通はあり得ない。
何かしらの目的があり、それがリシェルの用意した席の“延長”にヴァインが座っているという形になった。そう考えるべきだ。
「……さて。今日の用件について聞かせてもらおうか」
そう切り出した瞬間、俺自身が少しだけ息を詰めているのが分かった。
まあ、聞くまでもない。分かっている。分かっているからこそ、わざわざ言葉にする必要があった。
あえて知らぬふりをして、目の前の女――リシェルを見る。
黒鐘局で幾多の裏案件をくぐり抜けてきた諜報官のくせに、こういうときだけ匂い立つような静かな笑みを浮かべやがる。
案の定、彼女はくすっと喉の奥で笑い茶碗を置くと、ゆったりと立ち上がった。
黒革の鞄から封を施した一枚の封筒を取り出す。その動きひとつが、まるで何かの儀式のように厳かだ。
「……とぼけなくてもいいのに。あなたなら、もう気づいてるでしょう?」
その声音は相変わらず淡々としていたが、どこか優しさが滲んでいた。
いや、これは優しさじゃないな。“確認”だ。俺が目をそらしているかどうか。
机の上に置かれた封筒には、複数の封印符が重ねて貼られている。
魔導符の層が深いほど、触れられたくない真実が中身に眠っている。
その符の色合いを見ただけで、俺は内容を察した。
「魔神族の……霊素に関する研究資料か」
呻くように言うと、リシェルは頷き、椅子へと腰を下ろした。
「正確には、“霊素干渉による死の呪い”と、その構造に関する理論式よ。
最近、旧中央大学魔導科の非公開アーカイブから回収されたもの。
あなたの体に今も眠る“それ”と一致する記録もあったわ」
そう言う彼女の瞳は、いつもの紫紺よりも深く沈んで見えた。
やはり――か。
俺は小さく息を吐く。
“呪い”と呼ばれて久しいものの正体。
誰に聞くでもなく、誰に話すでもなく、胸の奥底でずっと共にしてきた“何か”。
三年前からずっと、俺はこれと向き合ってきた。
初めて異変に気づいたのは、灰庵亭を始めて一年目の春だった。
朝、味噌を練っているときだ。
左手の指先の感覚が、ふっと消えた。
痺れや凍えじゃない。
痛みが消えるのとも違う。
――そこに自分の手が存在しないような、妙な虚ろ。
「疲れか」と思った。歳を取ったのも事実だし、農作業に仕込み、狩りに薪割りと身体を酷使し続けていた。
そのときの俺は、真面目にそう思い込んでいた。
だが、違和感は季節が巡るたびに増していった。
ある夜は、眠りについたはずの耳に言葉ではない“音”が入り込んできた。
音とも呼べない、波とも呼べない。
呼びかけるような、命令するような、ただの気配が胸の内を撫でて消える。
それが、一度や二度じゃなかった。
朝になれば、何事もなかったかのように身体は動く。
店も回せるし、狩りもできる。
誰が見ても健康そのものだろう。
――だが、俺は知っていた。
この身の奥に、“何か”が棲みついている。
帝国の医官に診せたこともある。
だが返ってきたのは、よくある分析ばかりだった。
「霊素の乱れ」
「魔導因子残渣」
「戦場帰りに出る幻聴の類」
その程度だ。
だが、彼らには見えない“深部”が俺には見えていた。
時折、胸の中心が焼けるような熱に包まれる。
いや、焦げるのとは違う。
炎ではない。
魂が削られるような、不快とも恐怖ともつかない熱。
逆に、魂そのものが外へ引き裂かれそうになる瞬間もある。
肉体が傷むのではなく、存在が削られるような――そんな感覚。
その原因がいつから、何がきっかけだったのか。
表向きは「分からない」と言ってきたが、本当はずっと知っていた。
あの夜だ。
世界の終わりを覚悟した、終焉戦役の最後の夜。
仲間たちの叫びも、空が割れた音も、地響きも、すべてが混ざり合ったあの戦場。
魔神族、——その強大な力の源にある霊素が暴走し、存在そのものが崩れ落ちていく中、俺は“盾”としてその力を受け止めた。
本来ならば、受け止めきれずに消えていたはずだ。
“世界の盾”なんて大層な呼び名の割に、実際はただの人間だ。
限界を超えれば壊れる。
だが、そのとき――俺は“何か”を受け入れてしまった。
意志があったかどうかも分からない。
死にたくなかったからか、仲間を守りたかったからか、それともただ“そこにあったから”なのか。
理由は、もう覚えていない。
ただ、確かなことはひとつ。
あの瞬間から俺の中には、俺ではない何かが棲むようになった。
それが“呪い”と呼ばれている理由は、外から見れば単純な話だ。治癒も効かず、祓いも届かず、時間とともに静かに蝕まれていく。魔術ではなく、医学でもない。理解されず、分類されない。だから、——呪い。
けれど俺にとっては、もっと感覚的なものだった。
これは、“他者”の気配だ。俺ではない何かが、俺の中に息づいている。
時折、風が止まり、世界が静寂に包まれるとき――それは微かに目を覚ます。
まるで俺が“何か”を思い出すのを待っているかのように。




