第81話 あの陰気な建物にか?
◇
帝都を離れる前に、ひとつだけ済ませねばならない用事があった。
「黒鐘局の本部に、寄っていこうと思う」
買い出しの合間に街を散策していた団員たちを呼び戻そうと、携帯式の魔導端末を操作していたカイに声をかけると、彼女は顔をしかめた。
「……あの“陰気な建物”にか? ま、お前が行くってんなら止めやしねぇが」
あの再会のとき、リシェルは最後にこう言っていた。
“何かあれば、こちらに”
何か――が、あるわけではない。だが、連絡を受けた以上、こちらから赴くのが礼儀というものだろう。あの女は、礼を欠いた相手には“それなりの報復”を平然と下す人間だ。
まあ、今回はそんな大げさの話にはならないだろうが、彼女が直々に俺に会いに来たということは、何か特別な事情や知らせがあるからなのだろう。
リシェル・ヴァーレン――
一言で語れる相手ではない。
かつて帝国の戦場と裏側を共に歩いた“同僚”であり、ある意味では“敵”でもあった。
帝国時代、彼女は情報局の中でも特に機密度の高い部門に属していた。
その仕事の性質上、誰とも親しくなることを許されず、言葉の一つひとつに罠を仕込み、笑みの裏には三重の刃を忍ばせるような女だった。
……だが、それでも俺は、彼女のことを信じていた。
いや、信じざるを得なかった、というのが正しいか。
戦場で剣を振るう俺の背後にリシェルの構築した高度な結界がなければ、守れなかった命がいくつもある。
逆に、俺の剣が前方の脅威を断ち切らなければ、彼女の術式も無力化されただろう。
――互いに、命綱だった。
ただし、互いに“それ以上”を望んだことはない。
俺は現場の人間、彼女は情報の人間。
戦い方も価値観も、進む道もまるで違う。
だが、だからこそ信用できた部分もある。
“お互いに分かり合えない”という前提の上に、奇妙な信頼が成り立っていた。
リシェルは冷たい女だ。
必要とあらば、誰であれ“駒”として切り捨てるし、言葉で追い詰め、感情を逆撫ですることを厭わない。
だがその一方で――彼女には強い信念がある。
「真実とは、語られないことで初めて完成する」
そんな彼女の座右の銘が示すように、リシェルにとって“言葉”は最も信用ならない武器であり、だからこそ、黙って支えるという選択肢を選ぶことに長けていた。
俺は何度も、彼女の沈黙に救われた。
そしてたぶん彼女もまた、俺の“余計な言葉のなさ”に救われていたのだろう。
あれから長い年月が経った。
帝国は変わり、俺たちもそれぞれの道を歩いた。
彼女がいま〈黒鐘局〉に籍を置いている理由は、俺には分からない。
だが、分からなくてもいい。
リシェルは変わっていない。
あのときと同じように、言葉少なに誰かの“真実”を守ろうとしている。
そう思えるだけで、ここに足を運ぶ理由としては十分だった。
帝都の午後は、相変わらず騒がしい。
中央市場を抜けて裏路地を南に曲がると、夕暮れ時の陽の光が急に薄くなる。街の喧騒が遠のき、代わりに空気そのものが冷たく沈むような場所――そこが、〈黒鐘局〉のある地区だ。
正式名称は「帝国中央情報省直属・監察執行局」。
だが、市井の者は誰もそんな長ったらしい名前で呼ばない。
“黒鐘”――この一語だけで、誰もが黙り込む。
俺もまた、久しぶりにその名を聞いた。
懐かしいというより、胃の奥が重くなる響きだ。
黒鐘局があるのは、帝都セレスティアの旧都市区、そのさらに外縁――かつて「賢者たちの塔区画」と呼ばれた静謐な一角だった。
ここはかつて、帝国魔導院の分室や、時の預言官、王族付きの秘術士たちが居を構えた場所だったという。だが、今ではそれらの建物のほとんどが解体・統合され、跡地には一際異質な建築が鎮座している。
その建物こそが、現在の黒鐘局――正式には「帝国中央情報省・監察執行局・第零管区塔棟」と呼ばれる施設だ。
周囲の景観は一言でいえば「静止している」。
帝都のどの区画も、昼夜を問わず活気に満ちているというのに、ここだけは時間が止まっているようだった。風が吹いても、木々の葉すら揺れない。鳥の鳴き声も聞こえず、人の足音さえも不思議と遠くに感じる。
歩道は滑らかに磨かれた白御影石。その隙間には、かつての区画名を記す古代帝語の刻印が消え残っている。魔導印が施された外灯は、昼でも淡く揺らぎ、まるで「ここがまだ生きている」と言わんばかりに街の表層から切り離された存在感を放っていた。
そして、その中心に聳える黒鐘局本部。
外観は塔というより、地脈に突き立てられた杭のようだった。十階建て程度の高さしかないのに、見上げると視界がすり潰されるような錯覚を覚える。表面は灰黒色の魔導金属と魔石で構成されており、建材はすべて“視線を逸らす”よう設計されている。よく見ようとしても、意識が滑るのだ。
窓はほとんど存在せず、唯一、正面の壁面に巨大な魔紋が刻まれている。
“鐘鳴の守人”――帝国の公式な記録では、“危機の予兆を鳴らす者たち”とされるが、現実には“音なき警告”を象徴する印だ。
周囲に立ち並ぶ建物群もまた、全てこの黒鐘局の施設だろう。
文書保存区、監察術式室、心理予測センター、迎賓応接棟。
それらが迷路のように繋がり合い、外部の地図には一切記載されていない構造を形成している。
だが、ここに足を踏み入れた者なら誰でも分かる。
――ここは「見せないため」の場所ではない。「知られたくないもの」を閉じ込めておく檻なのだと。
実際、俺のような元帝国関係者ですら、許可がなければ中には入れない。
帝国に仕えていた時代でさえ、黒鐘局に足を運ぶ機会はそう多くなかった。
そしてそのたびに、胃の奥が重くなるような居心地の悪さを感じていた。
「……ほんとに来るとはな」
受付前の石畳に足を踏み入れると、途端に全身の毛が逆立つような圧を感じた。
魔力探知、幻視封じ、精神波干渉――いくつもの層が重なった“結界域”。
戦場の最前線でも、ここまで徹底した防御はそうそうお目にかかれない。
さすが帝国直属。相変わらず息苦しい。
正面にそびえるのは、やはり灰黒色の塔。
陽の光を吸い込み、影すらも溶かすような無機質な建築。
正面玄関は建物の中心から微かに後退した位置にあり、厚みのある魔導扉がぴたりと閉じられている。その扉は金属でも石でもない、“何か”の複合材でできていた。見た目には動きの一切を許さないほどの完璧な静止状態――まるで、それ自体がこの空間の番人であるかのようだった。
扉の左右には、高さ三メートルほどの石柱が立っている。そこには古代帝語で何かが刻まれていたが、風化したのか、それとも意図的に魔導処理されたのか、判読はほとんどできない。ただ、柱の上部には、魔力を反射しない黒曜の球がそれぞれ据えられており、近づく者の“霊圧”を測っていることが直感で分かる。
俺が一歩扉へと歩み寄った瞬間、その球の一つが小さく振動した。音はしないが、空気が僅かに揺れる。
入口の床は他と異なり、わずかに踏み込んだ感触がある特殊な魔導石で構成されていた。表面には見えないが、踏むごとに足元から上へ“個体認証”の波動が走っているのが分かる。まるで、大地そのものが俺を識別しようとしているような、奇妙な気配が肌にまとわりついていた。
入口周辺の構造もまた独特だ。門の両脇には細い導線路が幾筋も刻まれており、それが施設全体の魔導結界へと直結しているようだった。一見して無機質な石造りの地面すら、すべてが“意味のある配列”で成り立っている。偶然を排した空間設計。それこそが、黒鐘局の在り方を如実に物語っていた。
この空間には、風も、埃も、感情すらも“入る余地”がない。
ただ情報と抑制だけが支配している。
それを知っているからこそ、多くの者はこの塔の名を耳にするだけで足を止めるのだ。
そして、そんな空気を引き裂くように――
その正面入口を守る二人の兵士が、俺に気づいた。
制服は黒と銀。表情は無い。
「立入禁止区域だ。身分を明示しろ」
声は低く、機械的。
俺は肩をすくめ、ゆっくりと鞄を探る。
「……これを見せれば通じるはずだ」
そう言って、懐から古びた金属札を取り出す。
表面には“帝国騎士団・蒼竜部隊”の紋章。
そして裏には、焼き付けられた一文。
――『蒼竜の守将、ゼン・アルヴァリード』。
衛兵の表情が一瞬だけ固まった。
互いに視線を交わし、確認の符を取り出す。
数秒後、門扉の魔導紋が淡く光を放った。
「……通行を許可する。リシェル局員より通達あり。“灰の男”を通せ、とのことだ」
「灰の男、ね……」
その呼び名がまだ生きているとは思わなかった。
半ば冗談のつもりで仲間がつけた通り名が、いまや帝国の符号になっているらしい。
どうも背中がむず痒い。
鉄製の門が音もなく開く。
中へと足を踏み入れた瞬間、まず感じたのは「沈黙の密度」だった。
音がない――というより、“音が存在してはならない”と定められているかのような空気。
壁も床も天井もすべて、無彩の石と金属、結界の膜で構築されているが、それは視認可能な範囲においてただ“異常がないように見える”というだけの話だった。
無音。無彩。無臭。
いや、そこに何も存在しないわけじゃない。むしろあらゆるものが、あまりに整然と“過剰に設計”されていて、結果的に一切の印象を残さない。
広々としたエントランスホールは、床も壁も天井も同じ灰黒の石材で統一され、質感さえも視覚から抜け落ちるような感覚に陥る。何もかもが“見られることを拒むため”に存在していた。装飾らしいものは皆無だ。代わりに、一定間隔で刻まれた魔導触媒の走査ラインが、無音で淡い光を放っている。
受付台は一つ。無人。背後には、霊力遮断結界と識別フィルターを兼ねた扉が聳えていた。
その向こうが応接階層――一般的な行政機関で言えば“公開領域”にあたるのだろう。もっとも、ここでは“公開”と呼べるほどの情報など、最初から無いのだが。
左右には、内包型階層構造へと続く回廊が広がっている。
壁の一部が“視認できる構造”に切り替わっている場所もあった。そこには黒鐘局独自の複合表示板が設置されており、文字でも絵でもない、魔素の揺らぎで構成された通知が漂っている。局員でなければ解読できない文脈――いや、情報というより、“意識への侵蝕”に近い何かだった。
内部構造は一見して“塔”とは思えない。
感覚的にはむしろ、垂直方向に折り重なった結界の層を降りていく、“精神の井戸”のような印象を受ける。
空間全体が、外界の時間軸とは微かにズレているような感覚もあった。
通路の壁は黒曜石のように滑らかで、歩くたびに足音が吸い込まれていく。
灯りは天井に埋め込まれた魔導光が淡く光を放ち、影すらも均等に整えられている。
廊下の端々では、黒衣の職員たちが書類や符を持って無言で歩き回っていた。
誰も俺に声をかけない。
ただ一瞬、すれ違うたびに視線の刃が頬をかすめる。
“元帝国最強の男”という肩書きは、どうやらまだ消えていないらしい。
――別に誇りたくもないんだがな。
廊下を進むごとに、景色が無言で変わっていく。
いや、変化しているというより、こちらの感覚が少しずつ“内部に順応させられていく”感覚。
おそらくこの空間自体が、訪問者の精神波長を読み取り、それに応じた視覚・聴覚・空間認識の最適化を行っているのだろう。
まったく、“らしい”施設だ。
壁面の一部には、魔導式の書類転送口や、記録封鎖された通路が並んでいた。
窓はなく、代わりに霊素循環パネルが空気と情報を制御している。
照明のように見える魔導燈は、実際には監視装置も兼ねているだろう。
監視されていない場所など、最初から存在しない――ここはそういう空間だ。
一つ、二つ、曲がり角を過ぎるたびに、背中に乗る視線の重さが増していく。
目に見える兵や職員だけでなく、構造そのものが俺という“異物”を感知し、包囲している感覚。
たとえば、廊下の端にある古びた書庫。
外見はただの扉だが、視線を落とすと周囲に“空間誤差を誘発する術式の断片”が散らばっていた。
中に何があるか――知りたいとは思わない。
知った瞬間、その“代償”を払うことになることは言うまでもない条理である。
空気の密度、歩幅のリズム、呼吸の深さすら、ここでは己の情報と成り得る。
俺はゆっくりと、慎重に歩いた。
無用な圧を与えず、だが、決して見下されることのないように。
帝国の旧き習わしだ。
ある部屋の前を通り過ぎると、薄く開いた扉の隙間から、精神干渉波の検出魔方陣が見えた。
淡い蒼と赤が交錯するそれは、対話内容すら記録する精密機構の一部であり、尋問室だろう。
だがそれすらも、表層の一部にすぎない。
黒鐘局は“答えを得るため”の施設ではない。
“問いそのものを存在しなかったことにする”ための場所だ。
それは、俺がいた戦場とはまったく異なる“静かなる戦い”の舞台。
そして――この地下構造こそ、その核心部。
気づけば、地上から三階層は下りていた。
階ごとに空気の質が変わるのは、結界密度の違いだろう。
情報封鎖レベルに応じて、物理干渉や記憶追跡の阻害機能が強化されている。
この階層では、おそらく“思考の軌跡”すら追跡・記録されている。
一歩進むごとに、精神が削られていくような感覚。
ここで長時間働く者たちは、人間としての感覚をどう維持しているのか……少し、恐ろしくもなる。
それでも。
この静寂の中に、一つだけ確かな存在があるとすれば――それは彼女だった。
長い通路の先にある階段下りたところで、見覚えのある顔が現れた。
無表情の中にも確かな威圧を纏う黒髪の女。
「……やっぱり来たのね」
リシェル・ヴァーレン。
局服の上に羽織るロングコートは、以前よりも深く闇を吸い込むようで、視線を逸らしたくなるほどの威圧を放っている。
だが、その口元はほんのわずかに――だが確かに、緩んでいた。
「何かあったわけじゃないが、呼ばれてたんでな」
「……そう。それで十分よ」
彼女の背後にある部屋は、局の中枢にして、外部者が足を踏み入れることのない場所だ。だが、今回ばかりは例外らしい。誰も咎める者はいない。いや、誰もが“ただの中年親父”ではなく、“英雄ゼン・アルヴァリード”を見ていた。
“あの人が来た”――
その無言のざわめきが、沈黙の中を確かに伝ってきた。
俺はため息を一つだけ吐き、足を進めた。
(……また静けさが遠のいた気がする)
黒鐘の鈴の音すら聞こえないその空間で、俺の心だけがわずかに揺れていた。




