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第80話 下町の食堂



帝都の南区、中央市場を抜けて少し歩いた先。旧工匠通りのさらに裏手、——小さな三叉路の角に、その「食堂」はぽつんと佇んでいる。


店の名は《ツヅミ屋》。


帝都に生まれ育った人間なら、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。観光客が寄るような派手な名店ではない。まして魔導通信で宣伝を打つこともなく、看板すら“食”の一文字を刻んだ古びた木板が下がっているだけ。


だが、ここは帝都で“最も愛される庶民食堂”と言っても過言ではない。


その理由は、ひとつ――


出てくる料理が心の底まで温まるほど、うまい。


戦時中でさえ食材不足を感じさせない知恵と工夫で、地元の職人や兵士、下級役人たちの胃袋を満たし続けてきた店だ。俺が初めてここに来たのは蒼竜騎士団に所属してまだ間もない頃。任務の合間に、街の食い道楽だったカイに半ば強引に連れてこられたのが最初だった。


「ゼン、今日の任務の帰りさぁ、絶対うまい雑炊食わせてやっから」


「……雑炊? なんでわざわざ雑炊なんだよ」


「違うんだよ。ここのは“特別”なの。腹じゃなく、心に効くやつ」


今思えば、あいつはあの頃から、戦場で荒んだ俺の様子に気づいていたのかもしれない。

実際、カイに手を引かれてこの《ツヅミ屋》に足を踏み入れたとき、俺は心のどこかで警戒を解いた。


小さな引き戸を開けた瞬間に、出汁と米と焼き味噌の香りが鼻をくすぐった。


木の床は軋み、油が染みた天井の梁、角の丸い卓と擦り切れた座布団――どれもが歴史を物語っていた。


「ほら、さっさと座ろうぜ。私、ここのを一杯食わないと遠征乗り切れないんだわ」


そう言って笑ったカイの横顔が、今でも目に焼きついている。


そして出てきたのが、例の“特製根菜雑炊”。


白出汁仕立てで、根菜の旨味が溶け込んだ優しい味わい。鶏肉は細かくほぐされ、噛むほどに甘みが広がる。上には刻み柚子と揚げた油揚げの細片が乗っていて、風味と食感にささやかなアクセントがある。汁気は多すぎず少なすぎず、器も手になじむ素焼きの丸鉢だった。


――たかが雑炊、されど雑炊。


ひと口食べた瞬間、俺は息を呑んだ。


静かな、だが強い感情が胸を打った。

それは「うまい」という一言では収まりきらない、心の底から“受け止められた”感覚だった。


食事って、こんなに人の心に触れるものだったのか。


それからというもの、俺とカイは幾度となく《ツヅミ屋》に通った。


長期任務の前日、帰還報告の後、負傷者の葬儀の帰り道、あるいはただ騎士団の寮から逃げ出したくなった夜。無言で並んで歩いてきては、店の暖簾をくぐった。


ツヅミばあさん――この店の店主は、今や八十を越える老婆だが、現役で包丁を握っている。元は帝国宮廷の厨房で腕を振るっていた旦那が、戦傷をきっかけにこの地で開いたのが店の始まりだという。


「人は腹じゃなく、心を満たすために食うんだよ。だから、うちの飯は腹に軽くても心に残るの」


そんな信念を、ばあさんは一度も変えたことがない。


「よく来たねぇカイちゃん。…おや、またその人と一緒かい」


「ああ。仕事仲間だからな」


「いつも強張った顔してるけど、怒ってるのかい?」


「ハハッ!おいゼン、顔怖いってさ」


「うるさい」


そういうやり取りを何度繰り返したことか。


ばあさんは、俺たちが帝国の騎士だと知っていたはずだ。だが、肩書きも武功も一切持ち込ませなかった。料理を受け取るときも、金を払うときも、ただの“客”として扱ってくれた。


今となっては、それがどれだけありがたかったかがわかる。


今日、ここを訪れるのは何年ぶりだろう。

あの頃と同じ路地、同じ木戸、同じ香り。

看板の“食”の文字はますます薄れているが、しっかりと刻まれている。


「懐かしいな……」


俺がつぶやくと、隣のカイがニヤリと笑う。


「思い出補正じゃねえからな。今でも、普通にうまいからな、ここは」


「知ってるさ。……それでも、今日くらいは“初心”を思い出してもいいだろ」


引き戸を開けると、出汁と焼き味噌の香りが懐かしく迎えてくれた。


「いらっしゃい――って、あらまあ。カイちゃんじゃないかい」


奥から姿を見せたのは、変わらぬツヅミばあさんだった。

腰は以前より少し曲がっていたが、その瞳の力は失われていない。


「ゼン君もいらっしゃい。あんた生きてたんだねぇ。良かった良かった。…まあでもあんたは昔から、丈夫さだけが取り柄だったからねえ」


「……それ、褒めてるのか?」


「褒めてない。さ、座りな。今日は何にする?」


「雑炊を、二つ。昔のやつを頼む」


「ふふ、わかったよ。今日は、いい柚子が入ってるよ」


厨房に戻っていくばあさんの背を見ながら、俺とカイは目を合わせた。


「……変わらないな」


「だな。けど、それがありがたい」


今日のこの一杯が、また俺たちの中の何かを“ほどいて”くれる。

そんな気がしていた。



湯気の立つ雑炊が運ばれてきたのは、それから十数分後だった。


白出汁の香りがふわりと鼻先をくすぐる。

器は以前と変わらず、素焼きの丸鉢。手に持つとじんわりとした温もりが掌に伝わってくる。柚子の皮がひとかけら、薄く切られた油揚げの細片が軽やかに浮かび、米と野菜と鶏肉のとろりとした重なりがそのまま“過去”の記憶と重なった。


一口、口に含む。


……味も、変わらない。


いや、本当は少し違うのかもしれない。

俺の舌が年を取り、記憶の中の味が美化されているだけかもしれない。

それでも、この雑炊が今の俺にとって「ただの雑炊以上」であることは、明白だった。


スプーンを口に運ぶ動作ひとつが、まるで儀式のように意味を持つ。


隣では、カイがすでに二口目、三口目と進めながら、まるで初めて食うかのような顔で「やっぱ、これだわ」と呟いていた。


そんな彼女の姿を見ながら、ふと――俺は、もっと昔のことを思い出していた。


《カイ=ルーミナ》との最初の出会いは、十数年前。

あの頃、俺は蒼竜騎士団の作戦指揮部に籍を置いていて、イグニス大陸南部の鉱山帯での対魔獣掃討作戦の指揮を任されていた。


帝国の外郭領土とは名ばかりの未開地。

補給も薄く、現地の協力者も信用できる者は限られていた。

そんな中、現地で評判の傭兵部隊がいるという報告が入った。


曰く、「飛空艇を使った高速対応部隊」。

曰く、「女船長の指揮のもと、竜人族中心の精鋭集団」。

曰く、「正規軍と揉めず、必要な仕事は確実にこなす」――


そのとき、俺は直接“交渉官”としてロックフォートまで出向いた。


乾いた赤土の大地、火山灰にまみれた岩壁、その中腹に立つ黒鉄の飛空艇――


それが〈ルミナ・ドレッド号〉との、初めての邂逅だった。


そして、カイと名乗った女船長は、薄汚れた作業服姿で、堂々と俺の前に現れた。


「――傭兵なんてのは信用できないかもしれないけどな。こっちはこっちで、命賭けてんだ。条件次第じゃ、協力してやってもいい」


偉そうに腕を組んでそう言った彼女に、当時の俺は少し苛立ちを覚えた記憶がある。


だが、その目は澄んでいた。

自信と覚悟と、責任を背負う者の目だった。


書類と実績、そしていくつかの現地報告を照らし合わせた結果、俺は判断を下した。


――雇う価値は、ある。


それが、すべての始まりだった。


以来、カイたちは帝国正規軍とは契約外の独立支援部隊として、俺の管轄のもと作戦支援に加わった。

最初は補給支援、次は輸送護衛、最終的には直接戦闘支援にも参加するようになり、いつの間にか俺の部隊の作戦に“不可欠な存在”になっていた。


もちろん、現場では口論も多かった。

あいつはルールを守ると言いながら、妙に抜け道を見つけたがる性質で、俺とはしょっちゅう衝突した。


「作戦行動は基本に忠実にだ。勝手な判断はするな」


「現場の空気は机じゃ読めねえだろ。実際動いてるのは私たちなんだから」


「お前の“勘”で部下を死なせるな」


「お前の“合理性”じゃ、心が死ぬ」


そんな言い合いのあとで、俺たちは同じ焚き火を囲み、互いの飯を分け合い、背中を預け合って戦った。


気づけば、他の誰よりも信頼を寄せていた。


その関係がやがて“戦友”を越えたものになったのは……まあ、自然な流れだったのかもしれない。


数年、そういう時間を過ごした。


だが戦は終わらず、数々の任務が続き、やがて俺たちは互いに違う道を選ぶことになる。


――それでも今、こうしてまた並んで雑炊を食ってるんだから因果なものだ。


「なあ、カイ。…俺たちが出会ったばかりのあの頃。俺のことを“つまんねー奴”と言っていただろう」


ふと思い出したように俺が言うと、カイは箸を止めてふふんと鼻で笑った。


「そういや、そんなこと言ったっけな…。だって表情固いし、説教くさいし、全然笑わねえし」


「……仕事だったからな」


「でもそういう奴に限って、いざって時に真っ先に動くんだよな。信頼できるって、そういうことなんだよきっと」


素っ気ない口ぶりだが、俺はその言葉の裏にある想いをちゃんと受け取っていた。

カイのそういう不器用なところは、昔から変わらない。


コイツは昔から、俺にとって常に“予測できない風”のような存在だった。


初対面の時からそうだったが、とにかく直感と勢いで動く。

だがその動きには一貫して、誰かのためにという意志があった。

単なる自己満足の行動じゃない。仲間の命を、船の進路を、全員の明日を――彼女は常に背負っていた。


俺が最初にそのことを痛感したのは、第三次ウルド砦戦線の最中だった。

敵軍の飛行魔獣部隊が突如南方の補給線を狙って動いたとき、正規軍は対応に数時間かかると見積もっていた。

だが、カイはそれを現場の風の流れと気温の変化、野営地の動きから察して、先回りしていた。

その行動がなければ、俺の指揮する第七連隊は、あの戦場で包囲されて全滅していた可能性がある。


そのとき俺は、…今思えば合理的な判断とは言えなかったが、カイの「勘」ってやつを初めて本気で信じた。


俺と違って、カイはあまり過去を引きずらない。

明日があるなら、今日死ななくていい。

今を全力で生きて、仲間と笑って、また空を飛ぶ。

その繰り返しが、彼女の人生の全てだったんだろう。


だがそういう軽やかさを手に入れるまでに、カイは多くの喪失を経験していた。


ルミナ・ドレッド号の初期クルーだったエルネスが墜落事故で亡くなったとき。

最年少の操舵士リアが魔獣戦で行方不明になったとき。

誰より明るく、誰より強い彼女が、夜中にひとりで船の甲板に座り、無言で風を見ていた姿を俺は忘れられない。


その背中は、どこまでも孤独だった。

だから俺は傍にいようと思った。

あいつの心を救うなんて大それたことはできなくても、少なくとも、独りにさせないくらいはできるだろうと。


戦場が俺たちを結びつけた。

信頼も絆も、そこにはあった。


けれど戦が終われば――いつか別れがくることも、わかっていた。


カイのような人間は立ち止まれない。

風のように、——空のように、常に動いている。


俺は空を飛ぶことよりも、大地に足をつけることを選んだ。剣を置き、暖炉のそばで火を扱い、静けさの中で生きる道を選んだ。

それが、俺の中での“平穏”だった。


だから彼女が空賊として背を向けて空に飛び去ることを、責めるつもりはなかった。

むしろ、それでいいと思っていた。


……はずだった。


けれど今、隣に座る彼女があの頃と変わらぬ顔で雑炊をすする姿を見ると、

どうしようもなく懐かしく、そして少しだけ――


あの頃に戻れたら、と思ってしまう自分がいた。


過去に囚われているわけでも、彼女を拒んだわけでもない。

ただ、そういう道を選んだというだけなのに。

どうしてこれほどまでに、この“並んで飯を食う時間”が心に沁みるんだろうな。



そんな空気の中、奥の厨房から再びツヅミばあさんが顔を覗かせた。

手には急須と小さな湯呑がふたつ。


「ほら、お茶でも飲みな。今日は南山の新茶が手に入ったのよ」

そう言いながら、卓に茶を置いていく。


香り立つ湯気と、ほんのり緑がかった淡い色。

口に含むと、まろやかな甘みのあとにかすかに残る渋みが喉を撫でた。


「それにしても、ほんと懐かしい顔ぶれだねぇ……」


ばあさんは俺たちを交互に見ながら、ふと柔らかく目を細めた。


「……で? あんたたち、もう結婚したのかい?」


その言葉が落ちるまで、ほんの一瞬の静寂があった。


次の瞬間――


「ぶっ!」


カイが思いきりお茶を吹いた。


「な、なに言ってんだよばあさん! け、け、け、結婚て……!」


「おい、お茶が…」


俺が慌てて懐紙で卓を拭く中、カイは顔を真っ赤にしてばたばたと手を振っていた。

そんな様子を見ながら、ツヅミばあさんは悪びれもせず、ふふふと笑う。


「あらあら、違ったのかい? てっきりもう、何年も前にそうなってたと思ってたよ」


「いや、それは……そういう関係では、ない」


俺は淡々と否定した。


「今はただの、戦友だ。昔からのな。……一緒に戦って、生き残った」


その言葉に、カイの動きがふっと止まった。

彼女のまつげがかすかに震え、胸の奥で何かを押し込めるように目をそらす。


「そっかい。ま、そういうのも、いいもんさね」


ばあさんはそう言って、再び厨房へ戻っていった。


彼女の足音が遠ざかると、残された空間にちょっとした沈黙が落ちた。

カイは雑炊を見下ろしながら、茶碗のふちを指でなぞっている。

その横顔には、ほんのわずかに寂しさがにじんでいた。


「……ごめん、ちょっとびっくりしたんだよ」


照れ隠しのように笑いながらカイが言う。


「気にしていない」


そう返しながら、俺は自分の器に目を落とした。


――しかし頭の中では、思い出が勝手に巻き戻されていく。


あの頃、確かに“そういう時期”があった。

互いに傷だらけのまま戦場から戻ってきて、気を張って、けれどふとした瞬間に心を寄せ合って。

焚き火を囲みながら時に肩を貸し、時に夜を共に過ごした。


だが、それはあくまで“戦の中で生まれた関係”だった。


元々、俺たちは――

戦いの中でしか、生きる理由を見つけられない連中だった。


蒼竜騎士団に在籍していた頃。

俺は戦場で命令を下し、戦術を練り、仲間たちを守ることだけが生きる意味だった。

カイは兵団に雇われた傭兵部隊の1人として、誰より速く、誰より高く空を翔け、ただ“勝つため”に剣を振るっていた。


毎日が極限だった。

食うか食われるか、殺すか殺されるか。

そんな世界で誰かの体温に触れることは、奇跡に近かった。

だからこそ互いの傷を舐め合うように、俺たちは幾度も夜を共に過ごした。


……でも、それはあくまで“戦の中で”だった。


イグニス戦線――

あの地での任務が収束し始め、帝国が戦局の再編に動き出した頃から、俺とカイの距離は少しずつ変わり始めていた。


俺は騎士団の隊長として責任と命令に縛られる立場になり、日々の訓練や報告、上層部との折衝に追われるようになった。

一方でカイは、戦場の変化を見ていた。

「風が変わった」と、そう言っていた。

そして彼女は“空賊として世界を旅する”という道を選んだ。

もっと自由に、もっと遠くへ行くために。

誰かの命令じゃなく、自分の意思で空を翔けたいと。


その頃から、俺たちはほとんど顔を合わせなくなった。

同じ戦場にいても、別の部隊、別の目的、別のルートで動いていた。

再会してもほんの一言ふた言交わすだけで、互いの気配はすれ違っていった。


――別々の夢を追い始めていたんだ。


カイは空を選び、自由を選んだ。

帝国という檻から抜け出して、自分の生き方を探そうとした。


俺は帝国に残り、平穏を夢見た。

戦を終わらせ、誰もが静かに暮らせる未来を目指して、泥の中でもがいていた。


それは、根本的に相容れない道だった。


そして気づけば、俺たちは完全に別々の人生を歩いていた。


「別れた」という感覚すらなかった。

ただ、気づいたときには“隣にいなかった”。


けれど、今日こうして隣に並んでいると、あの頃と何も変わらない空気があって。

それが妙に心に染みる。


「なあ、ゼン」


「ん?」


「もしさ……もし、あのままずっと一緒に戦ってたら、私たちは今も……そういう感じだったと思うか?」


茶碗を見つめたまま、カイはぽつりとつぶやいた。


「……わからないな」


それが正直な答えだった。


「でも、俺は今こうしてまたお前と並んで雑炊を食ってることに、不思議な縁を感じてる。……それだけでも、十分だ」


カイはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。


「そっか。うん、まあ……私も、悪くないと思ってるよ。こういうの」


器の底に残った出汁をすくいながら、ふたりは静かに食事を終えた。

もう湯気は消えていたが、器から伝わるぬくもりは、まだ確かに残っていた。



静けさが落ち着くころ、外のざわめきがふっと耳に入ってきた。

店の引き戸が開くたびに、下町の空気がふわりと流れ込んでくる。


昼どきを過ぎたというのに、《ツヅミ屋》は次々と客を迎えていた。

作業着の若い職人、魔導道具を担いだ修理屋、顔に煤をつけた炉鍛えの老爺、子連れの夫婦――それぞれが席に着くと、注文は決まって「いつもの」。


「ばあさん、今日も出汁うまいなあ!」


「ほら、子どもには塩分控えめだよ」


「油揚げ、ちょっと多めにしてくれてありがとよ!」


客と店主のやり取りはまるで家族同然で、特別なことは何ひとつない。

けれどその空気こそが、ここ《ツヅミ屋》の真価だった。


ツヅミばあさんは、厨房の狭い空間を驚くほど俊敏に動き回る。

両手に鍋とおたまを持ちながら同時に蒸篭の湯気を調整し、出汁の火加減を見て、時折客席の様子まで気にしている。


「ほらほら、遅いよアンタたち、冷めちゃうだろ?」


「お兄さん、魔導道具ぶら下げたまま座っちゃダメ。ほら、隣に寄せて」


その声は小柄な体からは想像もできないほど力強くて、でも不思議とあったかい。


帝都の高級料理店じゃ、ここまで目を配れる店主はいない。

肩書きもなく勲章もなく、ただ長年鍋を握ってきた女の背が――こんなにもたくさんの人を支えている。


あらためて思う。


この店――《ツヅミ屋》は、ただの食堂じゃない。


目まぐるしく流れる厨房の空気、客の声、器の音、湯気、香り。すべてが混ざり合って、ひとつの“温もり”になっている。


俺は黙って茶を啜りながら、その光景を目に焼きつけていた。


ツヅミばあさんは、まるで一国の王のようにこの場を支配している。いや、支配という言葉は違うか――そうだな、“包み込んでいる”という方がしっくりくる。


客の顔を見れば、何を頼まなくても「ああ、あんたはいつも通りでいいね」と即座に鍋に火を入れ、食べるスピードを見ては次の品の準備に取りかかる。湯気の向こうから聞こえるその声には、不思議な説得力と、長年積み重ねてきた信頼が滲んでいた。


思えば、こういう場所は帝都でも珍しい。


どこかしら“効率”や“格式”に毒されているこの街の中で、ツヅミ屋はまるで時間が止まったかのような空間だ。


常連たちのやりとりも、聞いていて飽きない。


「ばあさん、うちの子がここの油揚げしか食べなくてさ……またお願いできる?」


「おだてたって余分には入れないよ。でもまあ、今日は顔がいいからおまけしとくかね」


「ありがてぇ、ばあさんは帝都の胃袋だよ」


そんな軽口が、茶碗を叩く音と一緒に笑いへと変わる。


ツヅミばあさんは笑ってる暇などないという顔で鍋をかき回しながらも、客ひとりひとりの顔と癖を忘れていない。食べるスピード、話し方、箸の持ち方まで把握して、料理の出す順番や味付けを微妙に調整している。


これが“プロ”というものか。


いや、違うな――“生き方”だ。


このばあさんにとって料理は仕事じゃなく、生きることそのものなんだろう。

この小さな食堂に、何百という常連の“日常”が詰まっている。


ツヅミばあさんにとってはそれが“普通”なのかもしれないが、俺にはちょっとした奇跡に見えた。


……ふと、思う。


俺が今、山奥でやっているあの食堂――〈灰庵亭〉にも、こんな空気はあるんだろうか?


客は違う。場所も違う。規模も、騒がしさも、雰囲気もすべて違う。


けれど、たまに「あんたの料理を食うと、なんだか元気が出る」と言ってくれる客がいる。

「ここに来ると、安心する」と言ってくれた者もいた。


ツヅミばあさんのように全部ができているとは到底思えないが、それでも俺なりに、食で誰かを癒しているのだとしたら――それは、間違いなくばあさんから教わったものだ。


料理は、ただ腹を満たすものじゃない。


“日々を、続けさせる力”だ。


店を出る頃、ばあさんは厨房から顔を出して、いつものようにこう言った。


「ほら、次はまた山のモノでも持ってきな。あんたの干し肉は上出来だったよ」


「……ああ。今度は焦香芋を使った塩蒸しでも仕込んでみる」


「それは楽しみだねぇ」

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