表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
103/197

第79話 昔の記憶ってやつは


挿絵(By みてみん)




細い路地を抜けた先、石畳の影に、小さな店が佇んでいた。


帝都の中心街――その華やかな喧騒から外れた、旧都区の裏通り。

城塞時代の名残を残す石造りの建物が軒を連ね、道はくねくねと曲がりくねっている。

陽光の届きにくいこのあたりは、昼でもどこか薄暗く、壁に這う蔦や窓辺に置かれた古びた植木鉢が時の流れを物語っていた。

舗装の粗い石畳には雨の名残かうっすらと湿気が残り、歩くたびに靴の底がかすかに音を立てる。


ここには派手な看板も、客引きの声もない。

ただ、通り過ぎる風の中にふと混じる微かな香り――

それが、この場所の存在を知る者たちだけに与えられたささやかな手がかりだった。


一歩、また一歩と進むにつれ、かすかに漂う茶葉の香りが濃くなってくる。

炙られた霧香草と白葉茶の、柔らかな甘みを含んだ香り。

それはまるで記憶の奥から引き出されるような感覚で、胸の奥に残っていた何かを静かに揺らした。


この通りのことはよく覚えている。

任務の合間、ほんのわずかな自由時間をもらったとき。騎士団の喧騒から逃げるようにして、俺は何度かこの裏道に足を向けたことがあった。

喧騒とは無縁の、誰にも見つからず、誰にも話しかけられずに済む静かな道。

疲れた身体と心を引きずるようにして、いつもこの先にある店を目指していた。


そして今日も――

変わらぬ景色の中に、あの店は確かにそこにあった。


看板はない。ただ、軒先に吊るされた乾燥茶葉の束とほのかに立ち昇る香りが、その存在を知らせてくれる。


「……変わってないな」


この店――茶房 《暮霞ぼか》。

帝都でも知る人ぞ知る、隠れた茶葉専門店だ。

外観は地味そのものだが、取り扱う茶葉の質と品揃えは一流で、かつて帝国の将官たちが極秘で通っていたほどだ。


看板すらないその佇まいは、まるで自らの存在を隠すかのように静かで、知らない者にはただの古びた民家にしか見えない。建物は二階建て。石と漆喰で構成されたその外壁にはところどころ蔦が絡み、雨風で摩耗した軒が時の流れを感じさせる。入口には薄い藍色の暖簾がひとつ垂れ下がり、風が吹くたびにかすかに揺れていた。


目印になるものといえば、軒先に吊るされた乾燥茶葉の束と、鼻をくすぐるように立ち昇る柔らかな香気くらいのものだ。その香りに誘われて近づける者だけが、この店の存在を知ることができる。


帝都の表の通りには煌びやかな茶舗や高級茶会用の専門店が並ぶが、あれらとは全くの別物だ。ここには豪奢さも格式もない。あるのは静けさと香り、そして確かな技術と目利き――それだけだ。


だが、それこそがこの店の“本質”だった。


かつて、帝国軍の高官や情報局の連中、一部の騎士団上層部などごく限られた人間だけがこの場所を知り、そして信頼していた。軍務の重圧を背負う者にとって、この店の一杯の茶がどれだけ救いだったか。戦場では魔力も剣も物資も重要だったが――心を保つには、香りと静けさが必要だった。


俺が初めてここを訪れたのは、まだ蒼竜騎士団の副長だった頃だったか。


表向きは物資調達の名目だったが、…本当はただ、束の間の休息に落ち着ける“ほんの少しの静けさ”が欲しかっただけだ。喧騒も命令も期待もない、ただの時間を。任務の帰還報告を終えたあとのほんの一時間だけを使ってこの路地を歩き、そしてこの扉をくぐった。


中に入ると、床は油の染み込んだ古木の板張りで、歩くたびにきしむ音がする。壁際には無数の木箱が積まれていて、茶葉の名前が手書きで記されている。棚には、南山高原の白葉、霧深林の黒露茶、焔鉱山脈の火香茶、東方の蓮香緑など、帝国中から選び抜かれた茶葉がずらりと並ぶ。


魔導燈の灯りは抑えめで、照明ではなく“雰囲気”を照らすような優しい光だった。香りは常に三重奏。茶葉、古木、干し草。それが重なり、溶け合って、時間の感覚すら曖昧になる。


ここで淹れられる一杯は、決して技巧を誇るものではない。だが、茶葉の選別、湯温、抽出時間、器の選び方――すべてに一分の隙もない。


そして何より、この店を特別たらしめるのは、店主・クラウリアの存在だ。


彼女は、かつては帝国の情報局にも出入りしていたと言われている。諜報の仕事をしていたか、それとも単なる茶の納入業者だったか――真相は定かでない。だが、軍の誰もが彼女の淹れる一杯を“戦場の静けさ”と呼び、ある者は「この一杯のために生きて戻る」とすら言っていた。


俺も――きっと、そうだったのだろう。


……あの頃は時折、戦場から戻るたびにここを訪れていた。


香りを、静けさを、そして――


「いらっしゃ……って、あらまあ」


奥から現れたのは、あの人だった。

淡い紫の羽織を着た、上品な佇まいの女性。年齢は五十を超えているはずだが、その眼差しには凛とした鋭さがある。


「……ゼン。あんた、生きてたのね」


「まるで死人みたいな言い方だな」


「だって、あの後ぷっつり音沙汰がなくなったんだから。噂は聞いてたけど、まさか本当に“山奥の食堂”やってるとは思わなかったわ」


「……噂はいつも勝手に歩く」


苦笑しながら、俺は腰を下ろした。

店内は相変わらずの静けさだ。

陽が落ちかけた外と違い、室内は柔らかい橙の魔導燈が天井を照らし、干し草と茶葉、そして古木の香りがゆるやかに満ちていた。


「今日は、何を探しに?」


「あの香りが欲しくてな。……白霞香はっかこう、まだ置いてるか」


「あらまあ、また渋いのを」


白霞香。

南山高原で採れる白葉茶に、霧香草を乾燥燻蒸した特級茶。


口当たりは軽く、飲み終えた後にだけ、静かに花の香りが余韻として残る。

食後にふさわしい一杯。

俺の――そして、かつて共に戦ったある仲間の“お気に入り”でもあった。



茶葉棚を見渡せば、相変わらずの面構えだ。


どれも派手さはないが、一つ一つに確かな“顔”がある。

「これは気分を整えたいとき用、これは心を鎮めたいとき、こっちは、眠れない夜に効くやつだ」と、俺の記憶の中に、それぞれの効能と香りが結びついていた。


目を引いたのは、淡い青灰色の陶器に詰められた《藍露らんろ》。

山深くの冷霧地帯で育つ青葉種のひとつで、気温が低いほど甘みと香りが引き立つという変わり種だ。香りは控えめだが、湯を注ぐとふわりと濡れた苔のような清涼感が立ち上がり、舌の上では微かに果実の酸味を感じさせる。

気候の合わない都市部では滅多に扱われず、この店にあるのが不思議なくらいだった。


「《藍露》、まだ置いてたのか」


「ええ、こっそりね。好きだったじゃない、あんた」


「……ああ。戦の後、夜営の前に飲むと眠りが少しだけ深くなった気がした」


もう一つ、視線が止まったのは《鉄晶香てっしょうこう》。

鉄分を多く含む岩地帯で育つ、土香の強い濃厚な茶だ。どちらかといえば“茶”というより“薬湯”に近いが、身体の芯に染み込むような苦味と熱が疲れた肉体に心地よく残る。剣士や傭兵の間では“明日の一撃を生き延びる茶”と呼ばれていたこともある。


「今でもこれ、重宝してる奴らいるんじゃないか?」


「いるわよ。昔の騎士団員がね。隠居しても膝は痛むらしくて」


笑うクラウリアに俺もつられて笑う。


棚の端、木箱の陰にあったのは《陽燃ようねん》――

これもまた一風変わった一品だ。香ばしい焙煎香の中にわずかな甘みがあり、味はどちらかといえば“焦がし穀物”に近い。肉料理の後の口直しや、雨の夜に温めて飲むのが最適だ。かつてある戦友が、「この茶がないと故郷の夢を見ない」と言って、常に携帯していたのを思い出す。


「これもまだあるのか」


「もちろん。あの人の分も含めて、少しずつ残してるのよ」


一杯の茶に思い出が宿る――なんて言葉は、詩人のたわ言だと若い頃は思っていた。

だが今なら、わかる気がする。


俺が戦場で、そして今、山奥の庵で淹れている茶はただの嗜好品じゃない。

誰かを迎える準備であり、自分の中の何かを保ち続けるための“儀式”なんだ。


「……騎士団にいた頃のこと、時々思い出す?」


「……まあな。こうして帝都に来ると、余計にな」


彼女は俺の目をじっと見つめていたが、やがて穏やかな微笑を浮かべて茶葉を棚から取り出した。


「今年のは出来がいいわよ。標高も香りも、申し分ない」


手渡された小袋をそっと鼻に近づける。

――香りが記憶を連れてくる。


「……これは、いい。少し多めに貰っていく」


「もちろん。ゼンの淹れるこの茶、また誰かの疲れを癒してくれるといいわね」


茶葉を袋に詰めながら、クラウリアは小さく言った。


「……でも、気をつけて。あんたの料理もこの茶も、人の心をほどくわ。ほどけすぎて、戻れなくなることもあるのよ」


「……ありがたい忠告だが、今さらほどくほどの心も残ってない」


「謙遜するふり、下手ね。昔から」


俺は小さく笑って、代金を払った。


袋の中に香りが残る。

それは、言葉にならない想いの記憶。

剣では救えなかったものも、料理や茶で少しだけ和らげることができるかもしれない。

……それを“救い”と呼べるかどうかは、わからないが。


店を出ると、午後の光がしんと降りてきて、街はひととき穏やかな色をしていた。


「ゼンー! そろそろ次行くぞー!」


遠く、カイの声が聞こえた。


「今行く」


俺は静かに返事をして、袋を背負い直した。


帝都での買い出しはこれで終わりだが、俺たちはこのあと“ある店”に寄ることにしていた。



陽が傾きはじめた帝都の空は、うっすらと橙色に染まりつつあった。

細くくねった旧都の路地を抜けると、視界が少しだけ開けた。


石畳の道沿いに連なる建物は、どれも年季の入った漆喰壁と石造りの基礎を持ち、屋根には藍染の瓦が整然と並んでいる。窓枠には錆びかけた鉄格子と手入れの行き届いた鉢植え。帝都の喧騒とは違うゆっくりと時間が流れるようなこの通りは、あの頃と何も変わっていなかった。


歩きながら、ふと石畳の割れ目に咲いた小さな白い花が目に留まった。

――フィオナが「かわいい」と言ってた雑草だ。


あいつは戦場でもこんな花を見つけては、そっと立ち止まるような心根のやさしい女だった。


道の脇には小さな広場もある。子供たちの笑い声が響き、軒下では老婆たちが座って干し野菜の選別をしていた。その光景はどこかガルヴァの山郷にも似ていた。だが、帝都の空は、あの山の澄んだ空とは違っていくぶん重たく湿っていた。


歩を進めながら、俺は何度か視線を背後に送った。

カイはまだついてきていない。


……あいつ、相変わらず寄り道が多いんだよな。


帝都に来ると、毎回どこかの鍛冶屋や整備工房に顔を出しては誰彼構わず話し込み、ついでに「これカスタムできねぇか?」とか言い出す。

今朝も魔導推進装置の反応率がどうとか、飛行板の反応翼の改良がどうとか、延々と整備士相手に議論していた。


――いつまで経っても変わらない無邪気な様子は、らしいと言えばらしいが。


こうして街を歩いてると、不思議と昔の“硬さ”が少しだけ抜ける気がする。

あの頃は何もかもに力が入っていた。背負いすぎて、見えなくなっていたものが多すぎた。


帝都の南区へ向かう道中、中央市場を抜け、旧工匠通りへ差し掛かる。

そこは、鍛冶職人や魔導工房、錬金素材の精製場が密集していた一角。黒ずんだ建物に赤銅の煙突、焼け焦げた看板。

今でも煙と鉄の匂いが入り混じり、通りは常に活気に満ちていた。



…ふん。


昔の記憶ってやつは、思いがけないところで顔を出す。


袋に詰められた白霞香の香りが鼻をかすめた瞬間、ふと――この街を、カイと並んで歩いたあの頃のことが、まざまざと蘇った。


——あの頃、まだ俺が蒼竜騎士団に入りたての、若くて肩肘張ってた時代。

自分が世界を背負ってるなんて思い上がってた時代でもある。

その頃の俺は、帝都という街が嫌いだった。

人が多くて、道は入り組んでて、騎士団の連中はやたらと喧しくて。

けど――そんな俺をいつも引っ張ってくれたのが、カイだった。


「ほら、乗れって。今日は気晴らしに行くぞ」


そう言って、彼女はいつも自慢げに魔導車両を指差していた。


正式名称は忘れちまったが、俺たちはそれを「スパークリング・モグラ号」なんてふざけた名で呼んでいた。

全長一間ちょっと、黒鉄製の流線型フレームに、魔導コアを搭載した単座二輪式――要は、音だけはうるさいが走りは滑らかな、帝都でも珍しい高速魔導バイクだった。

カイの手によってカスタムされ、爆音と共に疾走する姿は、当時の路地裏キッズたちの憧れだったとか。


その後部座席に、当時の俺はしぶしぶ乗っていた。あくまで「しぶしぶ」だ。

いや、乗るたびにどこか楽しかったのは認めるが、なにせあいつの運転はとんでもなく荒い。信号は無視、段差は加速で突っ切る、魔導制動はギリギリまで引っ張る。命がいくつあっても足りねえっての。


「結局お前も楽しそうじゃねーか。やっぱこーゆーの好きだろ?」


「楽しんでねぇ。顔が引きつってるだけだ」


そんなやり取りをしながら、帝都の飲み屋街をあっちへこっちへと流した。

カイが行きつけにしていたのは、旧都の中でもとびきり濃ゆい連中が集まる酒場だった。

傭兵上がりの親父が切り盛りするカウンター、天井に吊るされた乾ききってない干し肉、壁に打ちつけられたナイフの跡。


そこでは、英雄も貴族も関係ない。ただ、戦場を知る者たちが無言で杯を傾けていた。


カイはというと顔馴染みの傭兵たちと笑い合いながらも、時折俺のことを気にして隣に戻ってきては「ちゃんと飲めてるか?」なんて気遣ってくれたもんだ。


俺はそんな彼女の横顔を、どこか眩しく思っていた。


……あの頃、確かに少しだけ、未来を信じていた気がする。

誰かと一緒に生きていく未来とか、戦いの果てにある平穏とか――そういう漠然としたものを、カイの背中を見ながらぼんやりと想像していた。


けど、現実はそれを許さなかった。

戦場はいつだって誰かを連れていく。

俺たちが一緒に過ごせた時間なんて、指で数えるほどしかなかった。


それでも、帝都のこの空気、この路地、この茶の香り――

あの頃の記憶が染みついた場所に戻ると、不思議と時間が少しだけ巻き戻ったような錯覚を覚える。


「ゼンー!ちょっとこっち来いよ!いいもんがあるぞ!」


……まったく、昔と変わらずうるさい。


俺は袋を背負い直し、振り返らずに応えた。


「時間がないんだ。さっさと行くぞ」


このあとの予定は、かつて俺たちが夜な夜な飲み歩いた飲屋街の一角にある店。

変わってないといいが――変わっていてもいい気もする。

あの頃と違って、今の俺にはもう一度向き合いたいものがある。


剣でもなく戦でもなく、ただ――

ひとりの人間として、“あの人”と並びたいと思っている。


ほんの少しだけ、そんな気分だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ