第78話 風と香りの交差点
ある程度、食材は買えた。
干し果実、魔導漬けの根菜、塩干の魚。保存のきく品は揃いつつある。
……だが、まだいくつか欲しいものがあるな。
それにしても、この中央市場の活気は、いつ見ても賑やかで――
「……目が回るな」
喧騒。熱気。ざわめき。石畳を埋める靴音と商人の声が、建物の壁面に反響して波打つ。空気そのものが午後の慌ただしさを運びながら、朗らかな街の熱気を少しずつ沸き立てているかのようだった。
北の市場通り――帝都セレスティアでも屈指の活気を誇る食材街へ足を踏み入れた瞬間、まず目に飛び込んでくるのは道沿いにずらりと並ぶ青果の山だ。山積みにされた根菜、色とりどりの果実、霧の香りをまとった葉野菜たちが、どれも今朝採れたばかりの命のかたまりのように輝いている。
店先には魔導保冷布が張られ、立ちのぼる冷気の中で皮の張った野菜たちが艶やかに並べられている。帝都の陽射しをやわらげるための大布が頭上にかけられ、ところどころから陽光がこぼれ落ちては果皮の上で星のように光る。
「親方、これ見てくれよ! 今朝届いたばっかの“渓谷大根”だ。霧締めのやつ!」
「いい太さだな。長く浸けても煮崩れないタイプか」
「さすが、“噂の山里亭の料理番”は目が利く!」
「だからその呼び名やめろっての……(料理番ってなんだよ…)」
仕入れの男と商人が笑い合い、重たそうな籠を台車に積み替えていく。大根の白、山葵菜の緑、石栗芋の黒褐色。背後の棚には、標高の高い尾根で採れた「浮根蓮」が丁寧に水苔に包まれて並べられていた。空中に浮かぶような段丘でしか育たないこの根菜は、薄く削るとほんのり青みを帯びた透明になり、煮込むととろけるような甘みを放つ。
通りの中央では果物売りの老女が、剥きかけの“花蜜果”を小さな銀盆に盛り声を張っていた。
「冷やし花蜜果だよ〜! 水出しで甘くしてあるよ〜! ひと切れ食べてっておくれ〜! 今日は西の農家から届いたばかりだよ!」
柑橘系の香りが風に乗り、観光客らしい旅人たちが足を止める。傍らには小型の魔導冷却器が据えられ、試食用の果実が氷霧の中でひんやりと冷やされていた。
子どもが指をさし、母親が笑い、老女がうれしそうに果実をひとつ手渡す。果肉の淡い朱色が陽に透けてきらめいていた。
道の向かいでは、干し野菜専門の屋台が煙とともに賑わっていた。魔導乾燥炉で仕上げられた干しトマトや山菜のパックが積まれ、手頃な保存食として兵士や旅人が買い求めていく。荷運び人らしき若者が、肩に縄をかけたまま干し根菜の串を片手に噛みしめていた。
「ここの干し蓮芋、前より香りが強くなったな」
「今年は霧の締まりが良かったってさ。空気が澄んでたら、干すだけで味が変わるのさ。山ってのは素直だよ」
そんな会話がごく自然に交わされるあたり、帝都の市場とはいえ“土地を知る人々”の通い場であることがうかがえる。
香辛料の通りはすでに通り過ぎたが、こちらはまさに“生活の味”を支える現場だ。素材そのものの息づかいを感じる通り。派手さはないが、日々の営みと技術が凝縮された、帝都の胃袋そのもの。
さらに進むと、山畜の精肉店や、乾燥豆を扱う専門屋台が見えてくる。水で戻すだけで魔力耐性が整うという“青魔豆”、風の尾根で育てられた“鳴き麦”など、風土と密接に結びついた食材が並んでいた。どれも旅の空では手に入りにくいものばかりだ。
「……やっぱり、ここは“帰ってきた”感じがするな」
誰に言うでもなく、俺は呟いた。
この雑多で濃密な市場の空気こそが、帝都という大都市の“心臓”そのものなのだと、改めて思う。
まるで都市そのものが太い動脈のように脈動して、誰もがそこに集い、血のように流れていく。
生気と喧騒と欲望と、——そして時々、ほんの少しの温もり。
この帝都北部の第三供給帯北セクター――正式名称「帝都物資流通管理総合区画〈第3北連絡回廊〉」は、帝国内でも最大規模の食材取引ゾーンのひとつであり、流通・補給・集積の主要ハブとして機能している。
市場の最北端に位置するこの地域では、帝都行政庁の監督のもと、食料、調理用資材、保存容器などが分単位で搬入・出荷されており、日常の膨大な物流が支えられている。
構造は三層に分かれており、地上層には帝都登録業者による生鮮市場ブロックが広がる。ここでは地元農場や近隣集落から直接仕入れた青果・水産物などの販売が行われる。地下層には帝都物流庁直轄の冷温保管倉庫群と、税関管理下の保管エリアが設けられ、長期保存や特殊流通品の処理が日常的に行われている。さらに空中層には、飛空挺専用の貨物ターミナルが浮遊し、地方都市や軍用補給拠点との連絡輸送が継続的に実施されている。
俺が立っているのは、地上層の第二区画――通称“青果直販帯・第二小路”。
ここは、特に消費サイクルの早い根菜類・葉野菜・果物などの流通拠点として機能しており、旅の商人や都市部の料理人、帝都軍の食糧管理官まで、多種多様な買い手が肩を並べる場所だ。
石畳が整備された細長い通路の両脇には、規格化された青果台と簡易冷蔵棚がずらりと設置されており、各屋台では今朝収穫されたばかりの野菜や、魔導冷却を施された果実が山のように積まれていた。
「……さて、次は、例のあれだな」
俺が探しているのは――
ひとつ、“月芒の米粉”。
グラシア大陸の月明草の種を細かく挽いたもので、しっとりした餅のような食感が得られる。
灰庵亭ではこれを使って、山菜の蒸し団子を作るのが常連客に評判だった。
そしてもうひとつ、“獣脂凍晶油”。
高山の魔猪から採れる脂を、霜晶魔法で結晶化させた高級保存油。
ただし――これがある店は限られている。
「……あの頃と、変わってなければ……」
俺は市場の奥、半地下に降りる小道を抜ける。
地面は石畳。壁に設置された魔導燈が淡く揺れている。湿気と匂いが混ざり合い、空気は濃い。
地下への小道は、表通りの喧騒とは打って変わって静かだった。
石畳に刻まれた車輪の痕と、荷運び人が落とした野菜の葉くずが、ここが今でも物流の通路であることを物語っている。道幅は人二人が並んで通れる程度。両側には老朽化した煉瓦壁が迫り、ところどころ苔が湿りを含んで光っていた。
頭上には魔導燈が不規則にぶら下がり、紫がかった淡い光が照らす。まるで薄暮の中を歩いているような錯覚を覚える。ここは、帝都北部の“腹の底”とも言える場所だ。市場に出回る食材や資材の一部は、この裏路地の地下区画を通じて、直接貯蔵庫や卸売店へと繋がっている。
足元に敷かれた金属管――これは魔力冷却水の循環管だな。ひとつ誤れば蒸気で火傷するやつだ。こうした危険な設備の露出も、表通りではまず見かけない。だが、この地下ではそれが当たり前で、むしろ“裏口”であることの証明のようなものでもある。
「……ずいぶんと久しぶりだな」
呟きながら、かつての記憶がよみがえる。
騎士団時代、補給任務の帰還ルートとして、俺は何度となくこの道を通った。表の市場が混雑している時、あるいは戦地へ急ぎの物資を送る時。物資管理官たちと無言で荷を交わし、時には深夜の市街地で闇商人を牽制する役目も担った。
地下の空気は冷たいが、生臭くはない。むしろ湿り気と木の箱、布袋に詰められた保存物の匂いが混ざり合い、どこか懐かしく胸の奥に静けさを灯すような落ち着く香りが鼻を掠めた。戦場の土や血より、よほど人間的な気配がある。
通路の突き当たりには、傾いた石段がある。左手の壁には薄れて読みにくくなった案内板。「帝都補給管理局・登録第七出張所(旧)」と書かれていた跡と、かすれた巡回記録の刻印。今では誰も正式名称など使わないし、ここに来る者は皆そういう名があったことさえほとんど知らない。風と埃にさらされて、誰の記憶からも静かに剥がれ落ちていった名残だけが、寂れた石の肌にしがみついていた。
石段を降りると、ひとつの広い空間に出る。かつて倉庫として使われていた区画だ。天井の鉄骨は露出しており、そこから垂れ下がる鎖や滑車が、重たい荷を吊るすための設備だったことを思い出させる。床には一部木の足場が組まれ、中央にぽつんと小さな店構えが見えた。
雑然とした棚、鉄製の扉、古びた木札――
そして、その頭上に掲げられた手彫りの看板がかかっていた。
『霜谷交易所』
この景色を見た瞬間、自然と口角が上がった。
ここはかつて、帝国騎士団時代に補給ルートを通していた卸店のひとつ。
表向きは一般向けの雑貨屋だが、裏口での“特殊取引”に応じてくれることで有名だった。
十年近く経っているはずなのに何ひとつ変わっていない。いや、変わらなすぎて不安になるほどだ。
看板の下にはかすれた文字で“開店中”と書かれた板が掛けられていた。扉に手をかけると、キィ、と油の切れた蝶番の音が響く。
鼻を突くのは乾いた穀物と古い薬草、獣脂、そして少量の油煙が混じり合った、どこか懐かしいにおいだ。
足を一歩踏み入れると、奥から鈍い音が聞こえた。木箱を動かす音。作業台の引き出しが閉まる音。そして――
カウベルの音が鳴る。
「……っと。懐かしい顔じゃねえか」
「相変わらず、地下に籠ってるか」
現れたのは、ふくよかな体躯に無精髭をたくわえた中年の男だった。年季の入った作業上着を羽織り、ゆるく膨らんだ腹回りと動作にはどこか間延びした余裕がある。だが、その目だけは鈍っていなかった――静かな色を宿しながらも、取引の場では一切の虚を許さぬ冷徹さを秘めた、老練な佇まい。
名をベランという。かつては帝都補給管理局に属し、帝国各地の補給路を設計・統括していた物資管理官だった。政軍両方の補給線に関与し、幾つもの前線基地を空腹から救った男でもある。
今はその肩書を捨て、半ば隠れるように暮らしながら、限られた者にのみ出入りを許す“裏の仕入れ屋”を営んでいる。公式には隠居の身だが、彼の倉庫からは今も珍しい保存食や、中央通達前の転流品が密かに流れ出ていく。
帝国の帳簿に載らぬ流通をつなぐ、目立たぬ背骨のような存在――それが、今のベランだ。
中は相変わらず薄暗いままだ。照明魔石は必要最低限しか灯されておらず、棚の隙間からは木箱と麻袋が覗いている。整然と並べられているわけでもないが、雑多とも違う。要所要所に“わかる者にだけわかる”高級食材や調理道具が忍ばせてある。通路の奥には冷却区画。旧式の魔導冷却炉がまだ現役で稼働しており、半透明の保冷シートが低く唸りを上げていた。
「変わらないな、ベラン。昔と同じ匂いがする」
「はは、褒め言葉として受け取っとくよ」
彼は元は帝国軍の後方支援隊にいた男だ。地位もあったし、交渉力もあった。ただし軍の中では煙たがられていたタイプだった。規則より効率を重んじる現場主義で、時には独断で前線に必要な物資を回していた。その結果何度か査問も受けたと聞くが、それでも前線の兵士たちからの信頼は厚かった。
俺も何度か、彼に“無茶な注文”を通してもらったことがある。
ある作戦前夜、限界集落の補給線が崩れ、隊に食料が届かなかった時。俺が直接霜谷交易所の裏口を叩きに行って、たった数時間で必要な保存糧と水精包をかき集めてくれた。
「誰かが腹をすかせてんのに、帳簿の都合で動けねえなんて、俺は御免だからな」
そう言って、荷車を自分で引いて来た姿は今も忘れられない。
そんな男が、今はこの狭い地下で隠居のように商売をしている。いや、“静かに戦いを続けてる”と言うべきか。
棚の中段には、乾燥香草、粉末スープ材、精製された魚醤。背の低い箱には、もう帝都では製造していない“旧帝標準規格の携行糧”がこっそり積まれていた。あの味が今も手に入るとは。
「……いい品揃えだな」
つい漏れた言葉に、ベランが肩をすくめる。
「もう誰に言っても通じねえ“昔話の品”ばっかだけどな。それでも、欲しがる奴がいる限りは置いておくさ。お前みたいにな」
壁際の小棚には封魔印付きの高級瓶が並ぶ。これが“凍晶油”のストックだ。一本だけ蓋にかすかに魔素の歪みがあるやつがあった。時間が経ちすぎて気化しかけてる。そう伝えるとベランはうなずいて、奥から“まだ生きてるやつ”を持ってきた。
彼の手元には腐りも割れもない“選別眼”がまだ宿っていた。
この店のような場所が、帝都にまだ残っていてくれたこと。それだけでも、今日来た意味はあったと感じる。
「噂は聞いてるぞ、ゼン。山奥で食堂を営んでるんだって?」
「…なんでお前のところまで」
「噂はすぐに広まるもんだ。とくにこの街ではな」
「全く、…いい迷惑だ」
軽口を交わしつつ、俺は商品棚を覗き込む。
「月芒の米粉、あと凍晶油はあるか」
「あるにはあるが、最近はなかなか手に入らなくてな。油のほうは一樽だけ残ってる」
「買う。銀貨で問題ないか?」
「あいかわらず潔いな。支払い方法は任せる。なんなら、期限なしでツケておいても構わんぞ?」
ベランが奥の棚から、緑青の瓶を取り出してくる。
霜のような模様が瓶の表面に浮かび、蓋には封魔印が刻まれていた。
これが“獣脂凍晶油”――一滴でも強烈な旨味と香りが広がる、いわば“静かな爆薬”のような調味油だ。
肉料理、特に冷製保存肉の加工には最適だ。
「……助かる」
「礼はいいさ。昔世話になった礼だと思ってくれ。で、今日は帝都に長居する気か?」
「……いや。すぐ帰る。俺はもう戦場にはいない身だ。お前と同じように、暗い場所で隠居してる身だからな」
ベランがふっと笑う。
「戦場ってのはどこにだってあるさ。あったかい暖炉の前や狭い台所の上でもな。鍋と火と腹を空かせた客がいりゃ、そこは十分に戦場だ」
「……それは……そうかもしれんな」
そう言って瓶を受け取り、俺は袋を背に市場へと戻った。
上空には飛空挺が行き交い、遠く尖塔の先から鐘の音が響いてくる。
帝都の一日は、まだ終わらない。
だが俺は、そろそろ静かな山へ帰る時間だ。
(……もうひとつだけ寄るか)
目指すは、かつての知り合いが営む茶葉商。
あの人がまだ、あの香りを扱っていれば――
灰庵亭の次の一皿に、少しだけ“帝都の風”を加えることができるかもしれない。
俺は群衆の流れに逆らうように、細い路地へと足を踏み入れた。




