ラーメン戦国時代~織田信長考~
日本にラーメンが唐国より伝わったのは西暦630年、舒明天皇の頃であった。
当時最先進国である唐の文化である、ラーメン。
それを遣唐使で持ち帰ったことで、日本の朝廷には大規模なラーメンブーム(第一次流行とも言われる)が巻き起こった。
貴族らはこぞってラーメン作りに凝りだし、様々な工夫が行われて日本オリジナルのラーメンが花開いた。
俗に言う『国風文化』というものだ。
それぞれの家によって味付けを変えていたので『家系文化』とも言う。
やがてラーメンを尊い文化だとする考えは朝廷が治めていった地方の豪族、そして後の武士らにも伝わる。
戦の能力では武士らに敵わぬ朝廷は画策し、ラーメン至上主義を日本国中に広め、その文化で支配しようとした。
そうして武将とはより良いラーメンを作れる者、戦いとはラーメンを競い合うこと、そういった常識が浸透していった。
鎌倉幕府が北条の制定し『御拉麺式目』を元に、日の本の武士ではラーメンにて勝負を付けることが決められたことが決定的になったのである。
そして天下は幾度も起こったラーメン勝負によって、国が割れ、下剋上が起き、将軍家が分かたれ──
ときはまさに、ラーメン戦国時代へと突入していった。
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永禄3年(1560年)、ラーメン戦国時代の転機とも言われる戦いが起ころうとしていた。
戦場となるのは尾張国。そこを治めていた織田家は、西三河の領土を巡って駿河の今川家と長らく対立をしていた。
しかし織田家ではここ十年で、当主が病死(高血圧だった)、後継を兄弟が争い、徐々に今川家へと侵略を許していった。
そしてこの年、今川義元が大軍勢を率いて駿府を出発し、尾張国境へと向かってきていた。
対するは織田家の若き当主、織田信長。
昔からウツケと呼ばれていた、あまり重臣からは頼りにならないと思われている男であった。
駿河を本拠とする今川家の特色は、駿河湾から取れる魚介出汁をふんだんに何種類も組み合わせ使ったダブルスープラーメン。
一方で織田家が得意としたラーメンは尾張の味噌を使った味噌煮込み田舎ラーメン。(当時は豚骨は使われていなかった)
誰しもが戦の前に、勝負はあったと確信していたであろう。織田家の家臣すらも。
もとより名門今川家は京の公家衆と繋がりも深く、洗練されたラーメンを伝授されて駿府にて発展させてきた一門だ。
かたや織田家はどこの出とも知れぬ家柄であり、信長の家は織田の本家ですらない。(つまり暖簾分けということか)
伝統の味もなく、尾張国内の身内争いで鍛えてきた泥臭い味噌ラーメンだった。
更に今川義元は2万を越える軍団でラーメンの食材や道具を持ち込み、一気呵成に押しつぶすが如く攻めてきている。
一方迎え撃つ信長麾下の軍団は2千ほど。
これでは勝負にもなるまい。
尾張は以後、味噌を捨てて駿河ダブルスープラーメンの支配地に成り下がる。そう思われていた。
だが、信長は諦めなかった。
勝負を捨てなかったのだ。
それ故に奇跡が訪れたとも言われている。
「──敵将! 今川義元の首を討ち取ったぞぁぁぁぁあ!!」
高らかに信長の声が響いた。
「ええ……」と、今川軍の誰もが思った。
なんと信長はラーメン勝負にやってきた今川軍に奇襲攻撃を敢行。
霧の中で「そろそろリハーサルを兼ねてお昼にしようか」などと料理の準備をしていた今川軍本陣に突撃し、今川義元他今川軍の主だった武将という武将を斬り殺してしまったのだ!(訳注:『信長公記』より、信長の攻撃は10時から12時頃だったとされる)
これには残った今川軍の軍勢もたまげた。
いや、だって。
料理対決に来たのに槍と刀を持って、対戦チームを皆殺しにしてきたのだ。
そんなのありか?
今どき、農村が隣村と争うときだってラーメンで勝負するぞ?
進軍中の軍団が、そこらの村を乱取りして略奪を行うときも村の代表相手にラーメン勝負を行ってからやるぞ?
海の外から攻め込んできた元寇の元軍相手にだってまずラーメンを出したんだぞ?(たいそう困惑された)
勝負前にいきなり斬りかかるなんて大変失礼すぎて言葉が出なかったのだ。
もちろん、事前に信長がこのような蛮行をするとは敵方も思っていなかった。
ここ暫く争っていた、弟である信勝との家督争いも尾張の独特な赤黒い八丁味噌とか豆味噌で煮込んだ、うどんともほうとうとも似た田舎ラーメンで勝負していたのだ。
父である信秀の葬式で、ラーメンコショーを撒いたことでも有名だろう。
だと言うのに今回に限ってはいきなり首を取ったのだ。
意味わかんない。
とは思うものの、信長とて気が狂って行ったわけではなく大義名分があったのだ。
これは『御拉麺式目』に載ってあった、今では廃れている条文である。
『頭部を破壊された者は失格となる』
この項目を強制的に採用したのが、信長の斬首作戦であったのだ。
とりあえず今川軍は指揮官を失ったことで駿河に撤退し、当主の今川氏真に方針を窺う他なかった。
基本的にこの時代の軍というのは、武士(料理長)の下に足軽(料理補助)が数十人ほど編成されている者が集まっているのだが、信長の場合は殺る気満々の槍とか持った戦闘員のみを2000人も集めてきたのだ。(これにより信長は常備兵を用いていた、と広く知られる事実となっている)
幾ら数的優位にあれどそんな集団と争うことは想定していないのだ。逃げ帰ることしかできなかったであろう。
織田軍は相手の侵攻を止めたことになり、軍事的には勝利を収めたのである。
これに対して、周囲の戦国大名たちの反応は『無し寄りの無し』だった。
だってルール違反だもの。
その後、信長が浅井長政(琵琶湖アユ出汁ラーメンを得意とした)に裏切られたり、本願寺(般若スープ肉ラーメンを得意とした)と長く争ったり、足利義昭(佐野ラーメン)と敵対して信長包囲網と呼ばれる連合を組まれたりしたことは、そうしたラーメン勝負を裏技で勝利したことへの不信感から嫌われたという説が支配的である。
信長も領地のあらゆる方向から敵対されるのには非常な苦労をしたようで、汚名を濯ぐように真面目なラーメン勝負でどうにか対処せざるを得なかった。
比叡山をラーメン勝負で焼いたり、足利義昭をラーメン勝負で追放したり、浅井長政もラーメン勝負で頭蓋骨を出汁にしてやったりした。
そうやって、徐々に評判を取り戻して、「やっぱり信長もラーメン勝負はするんだ」と思われてきたのであったが……
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戦国の風雲児たる信長の勝負で次に有名になったのが、戦国最強とも謳われた武田軍との勝敗を決めた『長シナチクの戦い』であろう。
この頃、武田軍は武田信玄の子である武田勝頼を総大将として、領地を広げていた。
武田軍と武田勝頼の間には少々、戦略上の問題が存在していた。
武田信玄の時代に周辺諸国から恐れられたラーメンは、これこそが武田の正統派と言われる『風林火山ラーメン』であったという。
風……即ち風味。ラーメンに加える香味油での香り付け。
林……即ち竹林のメンマ。厳選された穂先メンマを活かしていた。
火……即ち焼豚のこと。甲州富士桜ポークを使用したきめ細やかな肉質のチャーシュー。
山……ええと、なんか山の幸とか……そういうの。
それらをハイレベルに組み合わせた無敵のラーメンで武田信玄は武威を示していた。
だが、後継に問題が発生する。
武田勝頼は元々、正統後継者ではなく嫡男が死んでしまい(信玄自らラーメン勝負で殺したとも)、やむを得ず当主に立った者であった。
それ故に信玄は遺言として「勝頼は孫に継がせるための中継ぎだから風林火山を使わせるな」と命じてしまったのであった。
大手のラーメン店を引き継いだのに店の味が使えない。そんな苦境に陥っていた。
また、勝頼の母方の実家筋である諏訪家の名物ハルピンラーメンも「勝頼は武田家の子だから」と嫌われて使うことはできなかった。
だが、武田勝頼は不運ではあったが非凡な武将であった。
店の味こそ使えなかったが引き継いだ騎馬軍団を利用したラーメンで、一気に武名を上げていたのだ。
ラーメン武士は戦場に食材や料理器具を運ぶために馬を使うものが多かった。特に甲州は牧場が多く、馬の扱いに長けた者が多かったので他国の軍団よりも多く馬を使っていた。
そこで勝頼が考案したのは、馬に乗り相手方に接近しつつ、同時に馬上で料理を行う手法だ。
麺を茹でる者。野菜を煮る者。スープを運ぶ者。丼にそれぞれ盛っていく者などを馬で突撃させ、相手が作る間もなく完成品のラーメンをお届けする。
更にそのラーメンにも工夫があった。
勝頼は武田家伝統の味を封印されていたが、それに匹敵する味を創作できるほどの器量は持っていなかった。
ラーメン自体の味は凡であったろう。
麺は太め、スープは繊細ではなくむしろ野趣な濃いめ、野菜や豚は茹でただけ、にんにくは摩り下ろしただけ、味の強い香味油をぶっかけただけ……
だが、速度とそして量がすごかった。
丼から富士山のように野菜と豚が盛り上がった厳ついラーメンであったのだ。
味は決してよくない。武田家と敵対した勢力の中には「豚の餌」とまで言う者もいた。
だがその完成品を渡されたら冷めぬよう、麺が伸びぬよう、急ぎ食べなくてはならない。
半端ない量のラーメンを。
急がねばロットを乱してしまうのだ。
そうすると、食わされた武将の中には「今日一日もうなにも食べたくない」とまで言わせるほどの満腹感が与えられ、実質的に敗北してしまうのである。
これが勝頼の強みだった。このラーメンを武田四郎勝頼から取って『四郎ラーメン』と呼んだ。
そして武士の多くは繊細で味が多角的なニューウェーブ系ラーメンよりも、ガツンと濃くてしょっぱくてニンニクが利いているやつの方がわかりやすくて良いという者だった。
これを使って武田勝頼は短期的に、かつての武田信玄が攻めて広げた以上の領地を手に入れたのであった。
さて、その武田勝頼は織田軍と、長篠城の近く設楽原にて決戦が行われることになった。
戦の前に勝頼は重臣らと如何に信長とラーメン勝負をするかの会議を行っていたという。
「織田軍はいかなるラーメンを決戦に用いてくるであろうか」
「殿。聞いたところによれば、織田軍は『てっぽう』を大量に仕入れているとか」
「ほう……」
てっぽうとは即ち、当たると死ぬと言われるフグを意味する言葉だ。
かつての田舎味噌ラーメンで尾張一国内にて争っていた信長ではない。
もはや天下人が見えている一流の大名である彼は、豊かな財政を用いて家来らと共に変幻自在なラーメンにてこれまで勝負を下していったのだ。
例えば柴田勝家の鬼ラーメン。羽柴秀吉の猿ラーメン。お市の妹ラーメン。なんかそういうのだ。
そして今回、信長直々にやってきて仕込みをしているはずだった。
「なるほど……名古屋の港は確かフグが有名であったのう。通称『名古屋フグ』」
名古屋フグとは正式名称をショウサイフグという種類で、名古屋から東ではフグ料理といえばこれを使うのが多かった。
ちなみになぜ名古屋フグと呼ぶかというと、食べて毒に当たると『終わり』だからである。
「フグは身の味は淡白ですが、干すとなんとも言えない出汁が出ると聞きますぞ。食べたことありませんが」
「ヒレも炙って酒に浸して飲めるほど良い出汁が出るとか。食べたことありませんが」
「内陸だからなあ、武田家」
武田家の弱点は海がないことで、魚介系に弱いことであった。
更には海への憧れも皆が持っているため、魚介のラーメンを食べると感動も強い。
信玄が今川と同盟を組んでいたのもそれを警戒してのことであったという。
「だが、フグは上品な味であろう! 我らの四郎ラーメン、此度はニンニクヤサイアブラマシマシカラメで先制すれば、その後の繊細な味わいなど舌が感じることもできぬわ!」
「おおおおー!!」
「てっぽう恐るるに足らず!!」
勝頼らは確かな勝利への道筋を見据えながら、信長との決戦に挑んだ!
「撃てええええ!!」
知ってた。
信長は突撃してきた武田騎馬ラーメン部隊を火縄銃3000丁でことごとく撃ち倒し、逃げ出す武田軍を追撃、1万以上の首を上げた。
勝頼は「うわあ」って思った。
味方も「うわあ」って思った。
他国の大名や朝廷も「無理寄りの無理」と評価した。
あと長シナチクってなんだったんだ? 歴史家は頭を悩ませた。
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その後も信長はやり口から人望を得られず、波多野、本願寺、松永、荒木など抵抗勢力や謀反などが乱発するのであったが、もはや天下人となった信長には小勢力の争いを片手間に次々に制圧していった。
もはやそういった者たちは、ラーメン勝負であっても織田家を揺るがせる者は居ない。
信長からすれば、お家の危機であった緊急事態にのみズルとして殺しを前提とした作戦を取っていたのであろう。普通はズルでもそこまでしないのだが。
本願寺を下し、武田を滅ぼし、後は毛利と上杉を攻め落とすのみ……
信長の日本統一はすぐそこまで迫ってきていた。
だが──このラーメン戦国時代でも有名な事件がここで発生する。
信長が京都、本能寺にて僅かな供回りと共に泊まっていた際にそれは起こった。
火縄銃の銃声と、夜闇を照らすほどの火矢が雨あられと本能寺へ降り注いだのだ。
「敵は本能寺にあり!」
と、兵たちへ呼びかけているのは織田軍の幹部であった明智光秀である。
謀反であった。
明智光秀はほぼ浪人の状態から織田家に仕え、信長に重宝されて一国一城を任せられるほど信任を得て、実質的なナンバー2とも言われるほどの重臣であった。
それ故に信長は、自分の兵力が少ないまま本能寺に泊まっていても、もし敵が攻めてきても近くに軍勢を率いた光秀がいるから大丈夫だろうと安心するほどに、光秀を信頼していたのだ。
だが、謀反された。
しかもラーメン謀反ではない。
ラーメン謀反とは主君に対してラーメン勝負を挑むことだ。ここ最近でも、荒木村重がラーメン謀反を挑んだが、村重の特製『道糞ラーメン(道端に落ちていたクソを煮込んだラーメン)』を信長は食べなかった。(一説にこれはラーメンに対する姿勢を確かめるための挑発であり、それを拒否したためまた信長の評価が落ちた)
今回の光秀はラーメン勝負を挑むでもなく、問答無用で本能寺に向けて火を放って出てきた者たちを火縄銃で撃ち殺していった。
「おのれ光秀! 勝負をせい勝負! 貴様の金柑ラーメンで、わしと正々堂々勝負せんかぁ!」
本能寺の中から信長の怒声が更に響いた。
「こんの……卑怯者めがぁぁ!!」
光秀は「お前が言うな」って思った。
光秀の家来たちも「お前が言うな」って思った。
光秀に謀反を頼んだ色々な勢力の面々も「お前が言うな」って思った。
そもそも、光秀が謀反を行ったのは彼個人の判断ではなく、信長のラーメン勝負を軽んじる素行を問題視した朝廷や幕府関係者、更には信長の他の家来たちから後押しされての謀反であったのだ。
ラーメンによる秩序を美徳としてきた日本社会。
そこで、ピンチだったら暴力で解決すればいいやという信長の考えは危険視されすぎたのである。
気分的には料理大会に気まぐれな殺人鬼が混ざっているようなものである。
そんな者に大会を優勝させるわけにはいかないと、多くの立場の者が願い、謀反を叶えられる光秀に託したのであった。
これは信長だけではなく、嫡男として薫陶を受けた信忠の排除も含まれていた。
信忠も甲州征伐では「とりあえず諏訪を焼き払って、その火でラーメン作れば大義名分は立つんじゃないか?」とか適当にノルマをこなすように、戦にラーメンを絡めればいいやという戦い方をしていたことが問題視されていた。
信長の影響でラーメンを軽視していたのだ。
このまま織田政権になればラーメン文化は暴力に塗り替えられてしまう。
そして光秀が同じくラーメン勝負を行わず暴力で解決する悪名を受けてでも、信長信忠親子を討ち果たす役目になったのであった。
この事件を称して『本能寺の味変』と呼ぶ。
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さてその後、主殺しの汚名を受けた光秀だったが、予め話を通していた秀吉とラーメン勝負にて敗北。
この勝負自体はお互いに本気でやったのだろうが、秀吉が一歩上手をいったのだろう。さすが中国帰りだけはある。
光秀はその後、死なすにはあまりにも悪いということで身分を隠して僧になったとも伝説が残る。謂わば……替え玉といったところか。
本能寺の味変にて、天下人となろうがラーメンを軽んじる者は排除されるという風潮も生まれたので、その後もラーメン勝負が続いてやがて秀吉が天下を取った。
危険視されている織田家の者たちはさり気なく排除されてもはや上には立てない立場に追いやられていったという。
一度、天下を平定してしまえば争い事がラーメンで解決するというのは楽なものであった。
秀吉も順風満帆、日本中を検地したり、余計な暴力装置となる刀や槍を回収したり、茶ラーメンで一世を風靡していた利休を切腹させたりと精力的に活動していた。
しかしながら朝鮮へと攻め入った際にはラーメン勝負が相手方に理解されず、多くの犠牲を出して撤退することになったが。(味方が2万人以上死亡したとも言われる)
やがて秀吉の後釜に徳川家康が付き、東西を割る大ラーメン勝負、大阪城をメイン会場にした冬フェア夏フェアなどを最後に、ラーメン戦国時代は幕を閉じた。
家康が興した江戸の幕府にて、日本は平和になってラーメン文化を発展させていくのであった。
ラーメン戦国時代。それは今でも様々な視点から語られる、魅力溢れる時代。
日本中でラーメン武将が群雄割拠し、多くのドラマあるラーメンが覇を競い合い、そして散っていく。
その時代の徒花、戦国の異端児とも言える織田信長──
彼には多くの謎が残されている。なぜ風聞の悪い破天荒な戦を行ったのか。それ以外でも、どうも信長はラーメン常識というものが欠けていたような行動を多々取っていたようだ。
農民出身の秀吉ですらこなせるラーメン勝負にキレがなく、強引か投げやりにラーメン勝負を行っていたような違和感を覚える研究者も多い。
そこをフィクションの理由付けとして、ラーメン社会通念の存在しない異世界から転生してきたのが信長で、最後までラーメンコモンセンスを理解できなかったゆえの失敗だったという小説も出された。
ただ、信長のラーメン文化への功績として、甘党であった彼はラーメンと一緒にソフトクリームを食べる習慣があった。その組み合わせが現代でも名古屋には残っている。
そういった方向性からいずれ信長の真意が判明し、再評価される時代が来るかも知れない。
今後の研究による吉報を期待しよう。吉法師なだけに。




