千江皇后陛下の想い
1666年春が舞台になります。
死病に罹って、末期の状況にある千江皇后陛下(史実で言えば、徳川千姫)は末期の会話を、美子中宮陛下と交わすことになります。
「本当なら、年下で弟子の私が看取る筈なのに、逆になりましたね」
「そう言われれば、そうですね」
「子どもが親に先立つのが、最大の親不孝だとか。弟子が師匠に先立つのも、同じことかもしれません」
「そんなことを言う必要は無いわ。ある意味では、掠奪婚を私が働いたのだから」
「でも、それは私から認めたことですし」
私は末期の息を吐きながら、美子様と話をしていた。
そう美子様だ。
私にとって、美子中宮陛下は、本来ならば許せない恋敵なのだろうが。
どうにも憎むどころか、感謝の念が湧いてしまう御方なのだ。
私が夫、今上(後水尾天皇)陛下と結婚したのは、完全に政略からと言っても過言では無かった。
私というか、徳川家に対して、当時は皇太子殿下だった今上(後水尾天皇)陛下との縁談が、持ち掛けられたのは、それこそその当時、核兵器の開発に世界三大国(日本、北米、ローマ)が狂奔しており、更には宇宙開発の美名の裏で、核兵器を搭載した大陸間弾道弾や潜水艦搭載弾道弾の開発を、世界三大国が推進していたことから、徐々に高まりつつあった世界の大国対立の緩和を図るためだった。
だが、もう一つの理由があり、実際には、そちらの理由の方が大きかったらしい。
今上(後水尾天皇)陛下が、当時は鷹司信尚の妻だった美子中宮陛下に横恋慕したのだ。
当時14歳、それこそ中学3年生の男子が、19歳の大学2年生の人妻に恋するようなモノなのだが。
夫に言わせれば、
「本当に一目惚れに近かった。猪熊教利が、猪熊事件を起こしたのも当然だ、と考えた程だ。いや、光源氏が藤壺中宮に恋した、のと同じかもしれない」
とのことで、美子中宮陛下(当時は、言うまでもなく鷹司(上里)美子)は、その横恋慕から夫の目を覚まさせようとして、私との縁談を推進する事態が起きたのだ。
そして、私と夫は、婚約から結婚へと進むことになった。
更に言えば、北米共和国で生まれ育った私は、文芸の知識等が不足しており、完子姉さんの伝手を頼って、美子中宮陛下に、そういった面での指導を婚約中に仰ぐことになり、師弟関係が結ばれたのだ。
そして、その教育を受ける中で、私は師にもなる美子中宮陛下の人柄等に魅了されて、「お姉様」と呼ぶようになったのだ。
その後で始まった結婚生活。
夫は、私を皇后として重んじて大事にしてくれたが、その一方で、美子中宮陛下への想いを諦めきれない日々を送っていて、懸命に彼女に相応しい男になろうと自分を磨いていた。
その状況に妻として、私は嫉妬心を抱いたが、その一方、「お姉様」なら仕方ない、という想いが自分の中で浮かんでならなかった。
何しろ、傾城傾国の美女どころか、美子中宮陛下は、白面金毛九尾の狐の化身だ、という噂まで流れる程の才色兼備の女性である。
私とて人並み以上の美貌を誇るが、美子中宮には、とても勝てないと自認せざるを得ない。
更に様々な才能、文学、音楽において共に名手である一方、政治的才能となると。
私の異母弟の広橋正之が、
「自分が首相を務めるよりも、美子中宮陛下が首相を務めた方が良かったでしょうね」
と私に言う程なのだ。
(尚、広橋正之の政治的才能だが、紛れもなく徳川家の血を承けており、北米共和国初代大統領の徳川家康の孫にして、第三代大統領の徳川秀忠の息子に相応しい名政治家と周囲が認める程で、実際に12年に亘って、日本の首相を務めて、国内外に名声を轟かせたのだ。
それ故に、私の弟の徳川忠長が却って歪んでしまい、精神を病んで、大事件を起こした程だ。
だが、その広橋正之さえ、どうにも勝てない、と自認するのが美子中宮陛下なのだから)
私は色々と劣るのを認め、美子中宮陛下と競い合わなかった。
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