「アルジャーノンに花束を」のパン屋にいた面々とヤンキーの共通点
つい最近、Xで『アルジャーノンに花束を』の話題が出ましたが……中に、こんなコメントがありました。
「『アルジャーノンに花束を』で知能が元のレベルになった主人公がパン屋に戻って、新入りに意地悪された時、以前からいたパン屋の面々がその新入りにめちゃくちゃ怒ったとこ好き」
見た瞬間、このポスト主は幸せな人なんだろうな……と思いましたね。私は、このシーンは友情だの仲間だのといった言葉に対するアンチテーゼだと思うのですよね。
このパン屋の面々の行動は、はっきり言うと「俺の見ている前でチャーリーをいじめるのは許さねえ。なぜなら、俺が不快だからだ」という思いから……以外の何物でもないと思います。
手術により知能が高くなったチャーリーに対し、パン屋の面々は劣等感や恐怖感を覚え店から追い出します。
が、チャーリーの知能は元に戻ってしまいました。そこで、安心して仲間扱いできるようになったわけです。いや、仲間というよりは玩具扱いに近いかもしれません。少なくとも「安心して自分より下とみなせる存在」になってしまったことは間違いありません。
だからこそ、新入りがチャーリーをいじめた時に皆が怒ったのは……「俺らの玩具で勝手に遊ぶんじゃねえ」という意識からの行動なんですよ。
要は、優越感からの行動なんですね。さらには、新入りに対するマウント取りのような意識もあったかもしれません。いずれにせよ、感動するシーンではないですね。
さらに悲しいのは、パン屋の面々の行動に対し、チャーリーが「ともだちはいいものだな」という感想を抱くのですよ。
知能が高い頃のチャーリーなら、確実に彼らの行動の裏にあるものを見抜けていたはずでした。
ところが、今のチャーリーは表面だけの優しさを見抜くことができません。パン屋の連中の優越感や自己満足からの行動を友情ゆえの行動と信じ「ともだちはいいものだな」と感じる……なんか、やるせない気分になりますよね。
さて、ヤンキーという人種は、たまに弱い者いじめをしている連中を止めたりします。場合によっては、殴ったりもします。
そんな場面を見て「きゃああヤンキーのヒロシくんカッコいい」みたいに思う女子も少なからずいたりするのですが……実のところ、これもまたパン屋の面々と同じ意識からの行動です。「俺より弱い癖に、俺の目の前でいじめなんかするんじゃねえ」という気持ちなんですよ。
彼らは、正義感からいじめを止めているわけではありません。単純に「俺より弱い奴が、俺の目の前ていじめをしている」ことが不快なんですよ。だから、彼らはいじめを止めます。場合によっては、いじめをしていた奴を殴ります。
しかし、その行動の根底にあるのは……優越感や自己満足さらにはマウント取りのような意識です。まあ全てがそうとは言いませんが、九割方がそうでしょう。
少なくとも、そんな正義感の強い人ならば、最初からヤンキーなとやっていません。
ですから、こんな行動を見て「ヤンキーというのはいいものだな」などと思わないようにしていただきたいです。
最後になりますが、私はかつて知的障害者たちのいる職場でアルバイトをしていました。このエッセイの百九二話『ある企業で見た障害者たち』でも、その当時のことを書いています。
そのバイト時代ですが……一度、かなり不快な会話を聞いてしまいました。社員と、ギャル風バイトが何やら話していたのですが……社員の方は、社会人デビューしたイキリオタクみたいな奴なんですよね。まあ、社員はこんな奴ばかりでした。
その社員が笑いながら「障害者がこんなミスをした」という話をしているんですよ。もちろん、そこに温かみなどありません。ただただ、笑い者にしているという感じでした。
で、ギャル風バイトの方はというと……「ガイジうけるぅ」などと抜かしながら、ゲラゲラ笑っていたのですよね。この時は、久しぶりに人を殴りたくなったのを覚えています。
ただ、今こうして書いていて思ったのですが……私のこの時の怒りも、結局はパン屋の面々の怒りと似たようなものだったのかな、ということですね。
余談ですが、この時のことがあるせいか「オタクに優しいギャル」みたいなものが登場するマンガやアニメを観ると、私はたまらなく不快になります。




