処罰感情
シルベスター・スタローン主演の映画『コブラ』にて、主人公のマリオン・コブレッティがスーパーに立て篭もった殺人犯を撃ち殺すシーンがあります。直後、「犯人にも人権がある!」と訴えるレポーターに向かい、こう言い放ちます。
「殺された人の家族にも、同じことが言えるのか」
これは、娯楽アクション映画のワンシーンとしては申し分ないでしょう。一般市民の感情としては、悪い奴は死んで当然! というものでしょう。
犯罪の被害者は、加害者が憎い……それは当然のことです。ましてや殺人事件の被害者家族ともなると、加害者を自らの手で殺してやりたいと思うのも、当然のことでしょう。
ただし、個人が自らの感情のみで復讐をした場合、たいがいエスカレートしてしまいがちです。一発殴られれば、一発殴り返す……というわけにはいきません。
かつて人気ドラマにて、流行語にもなった有名なセリフがあります。
「やられたらやり返す。倍返しだ!」
これは、被害者の感情をよく表わしています。自分は悪いことをしていないのに、こんな目に遭わされた。ならば、もっとひどい目に遭わせる……このような感情が生まれるのは自然の成り行きです。
では、もっとひどい目に遭わされた加害者はどうなるでしょうか。この時、加害者は被害者感情を抱きます。俺は、ここまでやっていないのに……という思いが生まれます。結果、復讐の連鎖となってしまうわけですよ。
実際、ヤンキーたちの喧嘩というのは一度で終わらないケースがほとんどです。初めは、末端の者同士の揉め事だったのが……お互いの友人や先輩というような連中をも巻き込んでの戦争と化してしまうことはありがちです。たいがいの場合、ケツモチと呼ぼれるヤクザや半グレか出てきて収めたりするのですが……中には、リンチ殺人に発展してしまったケースもあります。
聖書にも、こんなエピソードがあります。ヤコブという男の家族が、とある町を訪れました。ところが、ヤコブの娘ディナは、町の権力者の息子に乱暴されてしまうのです。話を聞いたディナの兄であるシメオンとレビは激怒し、町の男を皆殺しにしてしまいました。
さて、人間には処罰感情というものがあります。悪いことをした者は、罰を受けるべきだ! という感情です。アクション映画などは、ほとんどがその処罰感情をくすぐるような展開になっていますよね。
小学生の頃に、ある二時間ドラマを観ました。午後三時過ぎに学校から帰って来た時、再放送されていたものを偶然に観てしまったのですが、かなり異質な作品でしたね。
ストーリーは、とある一家が子供を預かったことから始まります。ところが、預かった子供が事故死してしまい、子供の家族から訴えられてしまうのです。詳しい内容ほほとんど覚えていないのですが(タイトルすら覚えていません)、はっきり覚えているのは、事故死させた一家に対する電話や手紙の描写でした。相手の家族からではなく、報道により事件を知った無関係な人たちからのものです。「お前ら、何てことをしたんだ!」「子供を死なせるとは何事だ!」というような怒りの電話や投書により、平凡な一家が精神的に追い詰められていくシーンがあったのですよ。
最終的に、両家は和解した……ような記憶があるのです(記憶があやふやなので間違っているかもしれません)が、そこでとんでもない事実が明かされます。事故死した子供の家族宅にも、電話や手紙が多数きていたのてすよ。「他人に子供を預けたお前が悪い」「事故死なのに訴えるとは何事た」という内容のものが全国から届き、こちらも苦しんでいたのです。
内容そのものより、見知らぬ人々からの悪意で追い詰められていく姿は、どんなホラー映画より強烈な印象を残しましたね。調べてみると、ネットのない時代でもこうしたことは珍しくなかったそうです。事件の加害者家族はもちろんのこと、被害者家族にまで手紙や電話が来ることがあったとか。処罰感情のあらわれなのでしょうが……この手の感情は、簡単に暴走してしまうようですね。
話題は変わりまして、映画『ダーティハリー2』の話をさせていただきます。このシリーズは、過激な捜査で上から睨まれている刑事のハリー・キャラハンが様々なものと戦いながら難事件を解決していく……というストーリーです。まお、最終的には犯人を銃で撃ち殺すことが多いですね。
ここで紹介するのは二作目ですが、ちょっと異色なんですよね。裁判で無罪を勝ち取り、法の手を逃れた犯罪者を次々と始末していく集団が現れます。ハリーは、この連続殺人事件を追うのですが……中盤で、犯人側からハリーに接触してくるのですよ。その正体は、なんと数人の白バイ警官でした。
彼らは、ハリーに仲間になるよう言ってきます。しかし、ハリーは断りました。
「俺は法律を守る。今は不完全な点があるとしても、いつかは変わってくれるはずだ。それを信じる。お前らみたいなのが好き勝手にやりだしたら、世の中はどうなる? 裁くのは俺たちじゃない、法律だ」
このセリフ、娯楽アクション映画としては弱い気がしなくもありません。悪人を撃ち殺してスカッとしたい! というのが観客の求めるものでしょう。
ただ、個人的にこの作品は印象に残っております。犯罪が起きれば素顔と名前を晒した姿で悪人を射殺し、マスコミから叩かれ上から疎まれ『ダーティー」なる不名誉なあだ名まで頂戴しているハリー。一方、表面的には普通の警官として活動していながら、闇夜に紛れて悪人を始末し、証拠は全て消し去り、誰からも糾弾されることなく安全地帯から「正義」を行う白バイ警官。両者には、厳然とした違いがあるのですよね。
ちなみに、この悪人を狩る白バイ隊員ですが……実は、日本の漫画『ワイルド7』のパクリという噂を聞きました。確かにワイルド7の方が先に出ているようですが、パクリは言い過ぎではないかなと思います。
もうひとつ、必殺シリーズにおいて中村主水のデビュー作となる『必殺仕置人』の第一話で、主水の言ったセリフを紹介します。
「向こうか悪なら、俺たちはその上をゆく悪にならなきゃいけねえ。俺たちゃ悪よ。悪で無頼よ。磔にされてもしょうがねえくらいだ。だがな、こう悪い連中をお上が目こぼしするとなりゃ、そいつらを俺たちが殺らなきゃならねえ。俺たちみたいなロクデナシでなきゃ出來ねえ仕事だ」
これを見ればわかる通り、当時の必殺シリーズには、裏のテーマがありました。法を無視して悪人を殺す以上、自分たちも悪人の側に身を置くことになるのだ……というものです。事実、かつて放送されていた必殺シリーズは、最終回にて主人公および周囲の人間が悲惨な目に遭って解散……というケースが多いですね。これまで悪人を殺してきた以上、自身もまた悪人として何らかの報いを受ける……その部分が、きっちり描かれていた気がします。
最後に、アニメ『クレヨンしんちゃん』の野原ひろしは「正義の反対は悪じゃない。別の正義だ」と言っていました。裏を返すと、悪の反対側にいるのは、また別の悪……そんなケースが、実は少なくないのかもしれませんね。
今回ほ、ここで終わります。いつにも増して、まとまりのない話ですみません。




