他人に迷惑をかけるのは悪
先日、とある記事を読みました。
その記事を書いたのは、私と同じ昭和生まれの方です。学生時代の行事について触れられていました。「やりたくなかったけど、真面目にやらないとクラスのみんなに迷惑かけるから」という理由で、真面目に取り組んだそうです。同じクラスのヤンキーもまた、真面目にやっていたとか。「俺らは好きなことやってるけど、人に迷惑かけないから」という意味のことを、そのヤンキーは言っていたそうです。
私は、ちょっと考えてしまいましたね。
以前「連帯責任という狂気」の章でも書きましたが、昭和生まれの世代は大なり小なり「連帯責任」の洗礼を受けていると思います。クラスにひとりでも課題をこなせない者がいた場合、クラス全員が殴られる……というような理不尽きわまりないシステムです。
そんなシステムの中で成長してきた結果、我々の中には「他人に迷惑をかけるのは悪だ」という考えが生まれます。まあ、当然ですね。ひとりのミスのせいで、クラス全員が体罰を受ける……こういう状況下で育てば、誰もがそんな考えに洗脳されていくでしょう。
今もはっきり覚えていますが、当時テレビで芸能人だか教育評論家の教授だかが、ヤンキーっぽい少年たちに向かい、こんなことを言っていたのです。
「他人に迷惑かけなきゃ、どんな格好してもいいし、何をしてもいい」
この言葉の裏にあるのは「他人に迷惑かける奴は、どんなに真面目に生きていようが悪だ」という理論なんですよね。
実際の話、この当時イジメに遭うような人間というのは……何かにつけミスが多く、クラスの足を引っ張る生徒が多かったように想われます。そう、他人に迷惑をかける奴は悪であり、イジメられても仕方ないという風潮だったのです。これこそ「イジメられる側にも原因がある」という理論ですね。その流れを作り出す一因になっていたのが、教師の連帯責任システムだったのです。
当然ながら、人には向き不向きがあります。また、生れつき不器用な人もいます。さらには、各種さまざまな特性を持って生まれた人もいます。そういう人たちには、頑張っても出来ないことがあるのですよ。その出来ないことを強制し、出来ないからという理由で同じクラスの全員に体罰を加え、クラスメートたちは出来ない者をイジメる。こんな負の連携があったのです。
イジメられた生徒は、当然ながら教師に相談しますが「直せるところは直して、強くなれ」「世の中には、もっと酷い目に遭っている人がいるんだ」「俺が子供の頃に比べればマシ」などと言うだけです。動いたとしても、首謀者と取り巻きを注意し握手させるだけ。ほとんどの場合「お前チクりやがったな」と、イジメはさらにエスカレートするだけですね。
その結果、出来ない子が不登校になってクラスから消え、教師にとって授業を進めやすくなる……こんなことが、当たり前のように起きていた時代たったのですよ。
結局のところ、授業について来られない奴はさっさと切り捨てるのが、昭和の教育だったのでしょうね。ひいては、出来ない社員はクビ……高度経済成長の裏側には、そうした一面があったのかもしれません。
そんな出来ないグループの子が、イジメから逃れる方法のひとつがヤンキーになることでした。
漫画『ホーリーランド』にて、吉井というヤンキーがこんなことを言っています。
「俺たちがヤンキーやるメリットって、街でデカイ顔が出来るくらいしかねえだろ」
本当に、その通りなんですよね。ヤンキーという人種は、結局のところ街や学校でデカイ顔をしたいわけです。つまりは、他人に迷惑をかけても何も言われない立場に身を置きたいのですよ。
当時は「他人に迷惑をかけない」という風潮がありました。が、ヤンキーという人種は例外なんですよ。ヤンキーは、迷惑をかけても注意されたりイジメに遭ったりはしません。なぜなら、彼らはキレて暴れるからです。あるいは、教室から出て行ってしまいます。結果「あいつに触れると面倒だ」という空気を作り出すわけです。そうすることで、どうにか己の身を守るのですよ。
私は、基本的にヤンキーは嫌いです。ただ、こうした環境ゆえにヤンキーにならざるを得なかった人間もまた、この当時はいたのですよ。
さすがに令和の時代にもなると、こうした「連帯責任システム」を取り入れる教師はいないでしょう。今の教育を悪く言う人も少なからずいるようですが、そういう人たちは当時の連帯責任システムや、それによって生まれる嫌な空気を知らないだけです。
また、各種の障害に対する理解も広まって来ました。画一的な教育ではなく、人の個性に合わせた教育を……というシステムが一般的になりつつあるようです。この一点だけでも、だいぶマシになってきたと思いますね。




