ただし美男美女に限る
先日、『ヴァイオレット・エヴァガーデン』なる作品を初めて観ました。泣けるアニメNO1、という評判の作品です。
ストーリーを簡単に説明しますと、優秀な兵士だった主人公の少女が戦争で両腕を失い、自在に動く義手を付け手紙の代筆屋として第二の人生を歩んでいく……というものです。正直、泣きはしませんでしたが面白かったですね。絵も綺麗ですしキャラも美しく、ストーリーも心温まるものでした。この作品に対し、文句をつける気は全くありません。
ただ、観ていてふと思ったのですよね。もし、主人公の少女が戦場で失ったものが両腕ではなく、顔の美しさだったらどのようなストーリーになっていたのだろうか、と。
皆さんは、フランケンシュタインという作品をご存知でしょうか……と聞くと、大半の人は「ああ、あの首にボルトが刺さった大男の怪物ね」と答えるでしょう。
まあ、なろうに作品を読みにくるような人なら、それが間違いであることはご存知でしょうね。フランケンシュタインとは、怪物を作った博士の名前です。怪物には、そもそも名前すらないんですよね。作中では「モンスター」つまり怪物としか呼ばれていないのですよ。ちなみに上のイメージは、もともとボリス・カーロフが映画にて演じたものです。そのインパクトがあまりにも強すぎ、未だに残っているわけなんですね。
このモンスターの実像もまた、世間一般のイメージとは大幅に異なります。知能は低く、馬鹿力だけが取り柄と思われているようですが、実は知的なんですよ。原作では、文学的センスを存分に発揮しており、初めて見たものや聞いたもの感じたことなどを雄弁に語っております。そう、モンスターは普通の人間より遥かに高い知能の持ち主なんですね。
しかも、人間など簡単に捻り潰せる怪力の持ち主でもあります。肉体面でも知能面でも、人間を超越した存在なんですよ。
にもかかわらず、モンスターは徹底的に疎外されます。彼は、最初のうちは人間に敵意を持っていたわけではありません。実際、盲目の老人とは心を通わせていたのです。しかし、目の見える者たちは、彼を見てこういいます。
「怪物!」
人間から見れば、醜い顔を持つ彼は怪物でしかないのです。モンスターには、優れた知能もあります。心もあります。人と交流することも出来ます。にもかかわらず、人は彼を怪物としか扱いません。
創造主であるフランケンシュタイン博士から呪われ、名前すら付けてもらえず、出会った人々から迫害され……その環境は、モンスターを本物の怪物へと変えていくのです。
やがてモンスターは、罪のない人間を次々と殺していきます。彼は、まさに「名前のない怪物」でした。
以前、こちらのエッセイで『ロボット刑事』(テレビ放映されたものではなく漫画版の方です)を紹介しました。
この作品の主人公であるKは、タイトルの通りロボットであり刑事です。凄まじい戦闘能力を持っていますが、モンスターと同じく内面は人間そのものなのです。優しく繊細な心の持ち主であり、悪口を言われれば傷つきます。暇な時は、詩を書いたりもします。
にもかかわらず、外見は金属製のロボット……機械の体を持つがゆえに、Kは他人から疎外されます。人間に憧れ、人間に近づきたいと願い、しかし人間からは差別されます。守るべきはずの人間から「このゼンマイ仕掛けが」「あなたは、人間ではないのですから」などと心ない言葉を吐かれます。さらには創造主から「お前なんか創るんじゃなかった!」などというセリフを吐かれたりもします。フランケンシュタインと共通する部分は多いですね。
そんなKは、作品の終盤にて覚醒します。
「僕は人間として生きることはやめた。機械として、機械の誇りを持って、機械らしく戦う……人間の持つ精神が生み出す悪と戦うために!」
このセリフを見ればわかる通り、Kは人間ではなく、兵器として生きることを決意しました。己の生きる意味を、ようやく見出だしたのです。迷いを捨て去り、完璧な戦闘マシンとして戦う姿は、読者に清々しさすら感じさせるものでした。
自分の生きる意味を見いだせた……この点において、Kはモンスターより幸せだったといえるでしょうね。ヴァイオレットとは真逆の生き方を選んだことにもなります。
もし、ヴァイオレットが戦場にて負傷し、犬神家の青沼静馬のごとき顔となっていた場合、果たしてどんなストーリーになっていたのでしょうね。周囲から疎外されたのか、はたまた受け入れられていたのでしょうか。それはわかりませんが、外見の醜さについて語る上で、避けて通れない作品があります。
昔、『エレファントマン』という映画がテレビで放映されました。生れつきの奇形の顔と体を持つジョン・メリックの半生を描いた名作です。幼い私は見終わった後、複雑な感情に襲われたのを覚えています。醜い主人公に対する生理的な嫌悪感と、その嫌悪感を覚えたことに対する罪悪感とで、ものすごく暗い気分になりました。
ところが、翌日の学校では「エレファントマン気持ち悪いよな」「本当だよ」「あんな気持ち悪い顔で気取ってんじゃねえよ」みたいな感じでした。さらには「俺はエロホンマンだ!」などと言って笑っているバカ野郎までいました。感動したと言っている子は、ひとりもいないように見えました。
また、当時の映画館でエレファントマンを観た人は「感動してる人はひとりもいなかった。みんな、ジョン・メリックの気持ち悪い顔を見たがってただけ。見世物小屋みたいなノリだった」と言っておりました。さらに「当時のテレビCMでは、ジョンの素顔を映さないようにしていた。だから、ほとんどの観客はあいつの顔見たさに映画館に行っていた。宣伝する側も、それが狙いだったのは間違いない」とも言っておりました。
まあ、全ての人がそんな見方をしていたわけではないでしょうが、見世物小屋のノリでエレファントマンを観ていた人が少なからず存在したのは確かです。
残酷な話ですが、モンスターやKやジョン・メリックのような外見では、どう頑張っても疎外されるのでしょうね。この生理的な嫌悪感というものは、簡単に克服できるものではありません。こればかりは、生き物の本能にも通じる部分ですからね。この意識を改革するには、シャアのコロニー落としに匹敵するレベルの何かが必要なのかもしれません。
さらに言うと、多様性の時代などと言いながら、こちらの方はあまり取り上げられていない気がするんですよね。知的障害者や身体障害者やLGBTQの方が、マスコミから取り上げられやすいのは確かです。
また、エレファントマンや『マスク』(エリック・ストルツ主演の方)、『ジョニー・ハンサム』といった異形の顔を持つ主人公の作品は、地上波では放送されにくくなってきているようです。このあたりも、コンプライアンスなのでしょうか。もっとも、『グーニーズ』も「スロースの顔がコンプライアンスにひっかかる」などと言われていましたが、少し前に放送されております。ただし、グーニーズは子供向けで、しかも差別的なシーンはなかったのが理由かもしれないですが。
話がどんどんズレてきたので、そろそろ結論を書きます。泣ける作品を作るなら、主人公を美女か美男にしろということなんでしょうね。私も今後は、醜いヒロインなど登場させず美女ばかりが登場する作品を描きたいです。でも描けないのが悲しいところですね。




