オリンピック観てません
最近、東京オリンピックの盛り上がりが凄い……かどうかはよく知りませんが、とりあえずメダルは取れているようですね。実のところ、観ていないのでわからないです。正直いうと、日本人がメダルを取ったとしても別に嬉しくはありません。
先日ツイッターで「日本人がメダルを取っても嬉しくない奴は、日本が嫌いな人間だ」という呟きを見かけました。なんというか、本当に短絡的な意見だなぁと思いましたね。前回もそうでしたが、どうも物事を簡単かつ断定的に考え結論づける人が、SNSでは目立つ気がしますね。日本人がメダルを取ったのに喜ばないのはけしからん! 非国民だ! とでもいいたげな同調圧力には、本当にげんなりさせられます。
ちなみに私は、日本という国は好きです。ただ、オリンピックそのものに興味がないだけです。オリンピック開催するかしないかでマスコミが騒いでいた時、別にやってもやらなくてもいいというスタンスでした。
個人的に、柔道やレスリングやボクシングといった格闘技オリンピック代表の身体能力やトレーニング方法にはものすごく興味はありますし、機会があれば自分の力がどこまで通じるかスパーリングしてみたい思いはあります(秒殺されるのはわかっています)。
しかし、友人でも知り合いでもない人のために、わざわざ時間を割いて試合を観たいとは思いません。私は、そんなに暇ではないのです。まして、サーフィンだのスケボーだのといった見たこともない上に興味もない競技がメダルを取ったと聞いても「ふうん、そうなんだ。凄いねえ」で終わりです。たとえるなら、名も知らぬ日本人タレントが海外で賞を取った……そんな感覚ですね。それを「日本が嫌いだから」と勝手に結論づけられても困ります。
何が好きか? と同じく、何が嫌いか? 何に興味がないか? という部分も個性だと思うのですよ。
例えば私は、とある工業高校エッセイが大嫌いです。実際、九〇年代という平成になったばかりの時代をリアルに東京都立の底辺工業高校で過ごしていた者からすると、あのエッセイは本当に嘘ばかりなんですよね。ひとつひとつ挙げていくとキリがないので、最も重要な事実だけを挙げさせていただきます。
当時は都内にて『都立高校改革推進計画』なるプロジェクトが進行しておりました。そのプロジェクトの中には、来たる少子化の時代に備えて都立高校の数を減らしていこう……というものがあったようです(建前は違いますが)。進学率の低い底辺高校は、他の学校に統合されるか廃校にされています。私のいた高校も、今では廃校になっております。
そのせいか、当時の都立高校は生徒を退学にすることに容赦がなかったですね。とある工業高校などは、四年で二百人の退学者を出したこともあったとか。私のいた学校でも、一年生の段階で二十人以上が退学になっていた記憶があります。何が言いたいのかといいますと、あのエッセイに書かれているようなバカな連中は、当時の都立高校では即座に退学だということです(私立は知りませんが)。
あと、これは底辺高校あるあるなのですが……校内で堂々と悪さをするようなバカは、入学して最初の夏休みが終わる頃には、ほとんどが退学もしくは自主退学しています。二学期が始まると、ゴソッといなくなっていますね。残るのは、ある程度の常識と節度を持った連中です。節度とはいっても、退学や停学にならない程度に上手く悪さをする……という意味ですが。ですから、件のエッセイに登場するようなバカな連中が三年まで残っているということは、底辺高校ではありえないのです。
あのエッセイに書かれている嘘や矛盾点を挙げていくと、キリがないのでここまでにしておきます。ただ、私はリアルの底辺工業高校に実際に通っていました。そこでの生活は、本当に大変だったのですよ。そうした本物の体験をしている私からすると、嘘だらけの漫画チックな内容で取ってつけたような終わり方をしているエッセイを「実話です」などと書かれていたりすると、本気で腹が立つわけです。私がリアルで過ごしてきた三年間の努力をバカにされたような気になるのですよ。しかも、向こうは信者が多いので実話だと信じている人間が多いのが、なおさらイラッときます。
もっとも、これは他の人には絶対に理解してはいただけないでしょうね。正直、ここまで書き連ねても、大半の人には「いや、そのエッセイ嘘かもしれないけど、関係ない奴なんだしほっときゃいいじゃん」「ただの嫉妬じゃねえの」と思われることでしょうね。
逆のことも言えます。例えば、私はある短編でコンビニのバイト店員が妖怪の少年に廃棄する弁当をあげる……というシーンを描きました。ところが実際には、大手コンビニでは廃棄する弁当を店員が持ち帰ることは禁止されているそうです。コンビニの店員をされている方々がこの作品を読んだ場合「赤井の奴、いい加減なこと書いてるな」と、イラッとくる可能性はあります。
しかし、そうした事情を知らない人はなんとも思わないでしょう。仮に知ったとしても「フィクションなんだから、そんな細かいことどうでもいいじゃん」となるかも知れません。
結局のところ、何が好きかと同じく、何が嫌いかも立派な個性なんですよね。己の生きてきた人生経験、そこで培われてきたものの表れであり、一生懸命に生きてきた証であると思います。一生懸命に生きてきた経験があればこそ、その経験に照らし合わせて「それ違うだろ」というものに対し怒りが込み上げてきたりするのではないかと。
傍から見れば、つまらないことに対し怒っている人……そこには、その人にしかわからない理由があります。特に小説を書くような人間は、そうしたこだわりが人一倍強いのではないでしょうか。おそらく、これを読んでいる皆さんにも、そうした部分はひとつやふたつあるでしょう。
それを「嫉妬」「人間としての器が小さい」さらには「日本が嫌いだから」などと簡単に結論づけるのは、あまりにも短絡的ではないかと思うのですよ。「赤井はスキンヘッドである。バイきんぐ小峠もスキンヘッドである。安田大サーカスのクロちゃんもスキンヘッドである。よって、日本人男性はみなスキンヘッドである」という結論と同じくらい短絡的ではないかと。
そんなわけでして、「みんな仲良くは無理だし、誰も傷つけない表現も無理。だけど、多様性は尊重しなきゃならないから嫌いな奴には近づかないようにしよう」くらいのスタンスでいるのが無難ではないでしょうか。今回は、フワッとした文章ですみません。




