いのちの初夜~北條民雄の遺産
今回、癩という言葉が頻繁に出てきます。この癩という言葉は、本来なら差別用語です。しかし、『いのちの初夜』を語る上で癩という言葉は避けて通れないので、あえてハンセン病ではなく癩の方を使います。
今回は、ある小説を紹介します。はっきり言って、ものすごく暗く重い作品です。仮に、同じ内容の作品をなろうに投稿したならば、確実に0ポイントでしょう。恐らく、なろう読者に『いのちの初夜』を読ませたら「暗い」「読みづらい」の一言で終わりでしょうね。ここには、読解力のない人が多いことはよく知っていますので。
下手をすると「率直な感想として、この作品では『なろう』では人気にならないと感じました。理由は、読んでいるとストレスを感じるからです。『なろう』の人気作品は、単純明快かつチートな力で、俺Tueeeeして、嫌な奴を叩きつぶしてっていう小説です。『なろう』の読者が求めているものと、この小説は真逆です」などという上から目線の感想をよこす失礼極まりない輩が出てくるかもしれません。ちなみに私は、こんな感想が来たら即座にユーザーブロックしますので承知しておいてください。
話を戻します。この『いのちの初夜』は、なろうウケとか考えている人には、むしろ読んで欲しくないですね。しかし……もし仮に、人生に傷つき、生きることに真剣に悩んでいる人がいたとしたら、そういう人たちにこそ読んでいただきたいです。
この作品を語るにあたって、避けて通れないのが「癩」です。本来ならばハンセン病と言わねばならないのでしょうが、あえて癩という昔の呼び方を使わせていただきます。
かつては結核などと並び、不治の病として恐れられた癩病。発病すると知覚麻痺、運動障害、神経麻痺、手足の変形などの症状が起きます。また症状が顔に出ると、眉毛が抜け落ちたり、鼻がそげ落ちたり、失明したりといった状態になることもあったとか。そのためか「癩にかかるのは、過去に悪事を行った報いだ」などという迷信が広まり「業病」「天刑病」などと呼ぶ人もいたそうです。
映画『もののけ姫』には、癩の患者と思われる病人の描写がありますが、彼らは「呪われた身ゆえ……」と言っています。そう、癩の患者は呪われた者という扱いだったんですよ。
国は、癩にかかった人を「癩予防法」により完全に隔離しました。癩と診断された時点で、患者は全て専門の療養所へと入院させられるのです。
この療養所ですが、入院して最初にすることは消毒です。持ち物全てと衣類と患者自身を消毒します。その後、所持金は施設内に預けられます。これは、患者を逃亡させないためですね。
しかも、外界との交流も非常に困難なのです。手紙はきっちり検閲されますし、そもそも外にいる家族や友人たちは、癩の人との関係を他人にひた隠しにしています。面会も出来たそうですが、来る者はほとんどいなかったとか。
もっとも、それも当然でしょうね。癩という病は当時、徹底的に差別されていたのです。身内に癩の人間がいただけで、家族全員がリンチされ皆殺しにされた一家もあったという噂も聞きました。そんな状況では、入院患者もうかつに手紙など出せないでしょうね。ましてや、面会に来てくれなどと言えるはずがありません。
その上、療養所には死体安置所と火葬場そして納骨堂が設置されていました。つまり、入院したが最後、死ぬまで……いや、死んでも外には出られないのです。
『いのちの初夜』の作者である北條民雄も、癩患者として療養所に入院していました。その中で、彼はこの作品を書き上げました。この作品、芥川賞候補になったそうです。しかし、北條が作家として本格的に活動していたのは、実質的に二年ほどだったようです。しかも、二十三歳の若さで亡くなりました。
物語は、主人公の尾田が療養所へと入院する場面から始まります。淡々とした描写で、患者に対する非人間的な扱いと尾田の絶望とが描かれていきます。やがて尾田は自殺を決意し、敷地内の林にロープを持って入っていきます。しかし、そんな彼の姿を、じっと見ている者がいました……。
ネタバレで申し訳ないですが、この作品のクライマックスは、尾田と先輩患者である佐柄木との会話でしょう。顔や体が崩れながら、それでも生き続けている……そんな重症患者を前にして、佐柄木は熱く語ります。
「あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間はそこから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも。あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。ひとたび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」
この後、佐柄木は自身がいずれ失明する身の上でありながら小説を書いていることを明かし、こう言います。
「盲目になるのはわかりきっていても、尾田さん、やはり僕は書きますよ。盲目になればなったで、またきっと生きる道はあるはずです。あなたも新しい生活を始めてください。癩者になりきって、さらに進む道を発見してください。僕は書けなくなるまで努力します」
さらに、佐柄木は言葉を続けます。
「苦悩、それは死ぬまで付きまとって来るでしょう。でも誰かが言ったではありませんか、苦しむためには才能が要るって。苦しみ得ないものもあるのです」
この『いのちの初夜』は、実は短編集です。他にも、家族が続々と同じ療養所へ入院してくる『癩家族』、最後に微かな希望の光が見いだせる『吹雪の産声』などなど、全てが重い作品です。またエッセイも収録されており、療養所のリアルな生活が描かれております。
もし、生きることに悩んでいる人がいたなら、一度くらいは本作品を手に取っていただきたいですね。もちろん、読書で悩みは解決しません。単なる現実逃避でしかないのかも知れません。しかし、こういう環境にいながら、それでも必死で文学者として生きた人間がいた……その事実を知ることは、決して無駄にはならないでしょう。
蛇足かもしれませんが、二十代の時、私は作家志望の知人にこの本を勧めました。すると「内容が暗くて読めなかった」という感想が来ました。現在、その知人は作家にはなっていません。これからも、作家にはならない気がします。




