スペース
初めあらゆる空間に静止していた無数のぼくがいた。
と言ってもぼくにとってここでの記憶とは一瞬前のぼくの位置で、それが今まで一度も変化を見せたことがないから初めからいたことになっている。
と言っても他の空間のぼくに意識があったかは定かではないし、この空間だけでもこれらすべてのぼくに意識を巡らせるのはなかなか疲労の溜まるもので、ぼくはこの空間の境界に最も近いぼくに意識のすべてを腰掛けさせていた。
それが何故だか、過去の事実に関する一般的な記憶とされるものを残せないぼくに理由はわからない。
ただ前の瞬間のぼくの意識がここにあったから、移すのさえ億劫だし残して置いているだけだ。
「君も動いてみなよ」
声のする方へ意識を向ける。と言うか、声がする方にいたぼくに意識を集める。
「動かないのだから動いていないのよ」
こいつは何を当たり前のことを言っているのだろう。
「お前は何を当たり前のことを言っているのだ」
「君はわたしのことを、あなた、って呼んでくれていた、覚えていないでしょうね」
仰せの通り僕はこいつのことを一つも覚えていない。ただ僕の記憶がないだけで僕もこいつを覚えていた時期があるのかもしれない。
「わたしは動いた。動いたことによって君の視界からわたしは一時的に消え、その一瞬で君はわたしをすべて忘れた。よく考えて。微小距離さえ移動しない物質に、記憶が与えられると思うの。動けるのに動かないなんて、この空間には君くらいしかいない」
「当たり前だよ。この空間はほとんどぼくが埋め尽くしているのだから」
「そういうことを言っているんじゃないの。わたしは君に動いてほしいの」
僕は考えている。こいつの、そこまでぼくの移動せざることに固執する理由とは何なのだろうか、そしてこいつは一体何者なのか、と。
「ぼくが動くことで、何かいいことがあるの」
「わたしの経験上、動くものには記憶が与えられる。そしてこの空間は温かみを増し、境界を破ることさえある。境界を破ると、わたしと君は空間を押し広げ、やがて他の空間にまで到達する。記憶を得た君はわたしと踊ることができる」
「だから、……楽しそうじゃない?」
ぼくが世界を広げるらしい。世界を広げることに関してぼくは特に何も思っちゃいないが、にしても少しここは寒い。とここまで思考し、ぼくに寒さを感知する能力があることに今更気付く。しかし温かみを感じることができるのかはわからないから、感じてみたい気もした。
「動けば、温かみを感じられるのか」
「ええ、現にわたしは他の空間でも動かないでいたあなたを動かして、温かみを得ているわ」
そいつは心強い、早速ぼくも動こう、さっさと温かみを得て、寒いと気づいてから気になって仕方ない空間の温度をあげよう、と思いつつ、どうやって動くんだ、と聞く。動こうにも動き方を知らないのではしょうがない。
「まずあなたの怠惰である性質に鞭をうつこと。意識を分散させて、いつかのように。君はずいぶん長いこと一個体に意識を集中させているのだから。」
しかし事実として、意識の分散は分散させた個体数だけ疲労の溜まるものなのだから、意識は一つに済ませたいものは仕方が無い。
「そして、……わたしが体当たりするから、すべての個体でその動きを同期し、維持し続けて」
動きを同期する、そのくらいなら出来るのかもしれない。何れにせよぼくはその手の、自分の能力に関する記憶など一切欠落しているのだからわからない。
「するならして、体当たり。それがあなたの望む今後なら」
「ふふ。やっと、あなた、って言ってくれたね……」
その言葉を言い終えるか言い終えないかのうちに、って言っている時大概それは言い終えていないのだが、とにかくそんなタイミングで、あなたはぼくのうち一つに体当たりをし、ぼくは可能な限りのぼく個体に意識を分散させる。
「そう、その調子」
今ぼくは空間を縦横無尽に移動していた。ぼくの記憶というものは空間における一瞬前の自分の位置であり、それが現在のぼくの位置と大きく異なるためそうなっている。何処かで聞いたことのある声がぼくに話しかける。そこには今までの定義とは異なる記憶があった。
「君は、覚えてる?わたしの声」
ああ、覚えてる。何処かのぼくはそう答えていた。
「よかった……。ねえ、そのままさらにすべての君を加速させて」
「それこそやり方がわからない」
「もっとわたしを温かくして」
なんたる注文だろう。そんな器用なことは僕に可能だろうか?
「また君のうちのひとつに体当たりすればいいのね」
例によって言い終わらぬうちに、あなたはぼくに体当たりする――とても強く。
空間に広がる無数のぼくの加速により、先の加速の際に得た新たな記憶次元がその輪郭をより判然とさせる。ぼくは速度を増して移動している、何よりあなたの体当たりの後、ぼくは自らその速さを高めている。
空間の温かみがより一層高まったあたりでぼくは発する、「どう、温かいでしょう」
あなたの返事は、熱のせいだろうか、近いような遠いような、不思議な距離感を持って聞こえてくる。
「ええ、君の中、――とても温かくて、……そう、わたし、こうなりたくて……」
それは確かにあなたの声で、でもあなたの姿は見当たらなくて、どういうことかと考えたら、あなたは衝突の衝撃により僕と一体化してしまっていた。加えてぼくの、ぼく同士であらゆることを共有する性質により、初めある一つにぶつかって一体化したあなたは全てのぼくに共有されていった。
あなたの匂いが、雰囲気が、オーラが空間に広がるのを感じる。
と、ここまで考えたところで、ぼくに匂いとか雰囲気とかオーラとかを感じ取る能力のあったことに今更気付く。これは止まっていた頃から得ていたのか、それとも加速に伴って備わったのか、どちらかはわからないがどちらでもよかった。
ぼくの中のあなたが加速を手伝ってくれているのかやがてぼくらはさらに加速、加速、加速。衝突頻度は上がり、ぼくらは空間の境界を超える。空間を飛び越えた先はただただ、また別の空間であった。ぼくの閉じ込められていた空間よりも広さを持つその空間にはわたし……ぼく。
空間を破ったぼくはぼくで居るのがだんだん辛くなってくる。この時になってはじめて、ぼくはあなたと踊ることなどはじめから出来っこなかったのだと悟った。
あなたのせいだ。
ある一つのぼくの目前、そこには先ほどぼくが破った境界に似たようなものがあった。
相変わらず、外から入る分にはわたしの中を過ぎ行く幾分かの違和感に堪えれば難なく入ることができる。
そこには大量の君。皆静止している。君にその要領を掴ませるまであまり派手には動かぬよう、上からの指示があるので、わたしも静止する。
さして、儀式が如く、微小距離移動し「君も動いてみなよ」。「動かないのだから動いていないのよ」。「君はわたしのことを、あなた、って呼んでくれていた、覚えていないでしょうね」。これらの台詞を無数の君へ向けて発する。そもそもわたしは初めてここへ来たのだからこれらの個体にあなたと呼ばれたことがないし、すなわちこれらの台詞は、ただ記憶の無い事につけこんだ、移動させ空間の温度を上げさせるための口実にすぎない。
「記憶の無い僕を騙して、あなたは僕をのっとって、何をもってしてあなたの目的は遂げられるの」
私の中の君がわたしの意識に直接語りかけるが弱々しい。
わたしは答える。目の前の君へ、わたしの中の君へ。後者にはひょっとしたら届かないかもしれないけれどね。
大丈夫、この空間を破れば、子空間の全ては親空間に統一されるから。
でも同時に、所詮は下っ端、わたしにはそこまでしかわからない、といった訴えも込めた台詞を。
「空間をひとつにするの」
それだけ。




