第46話 潮風の港町
「わあっ、海だあ……」
今日の目的地である港町に到着する直前、思わずそんな言葉が出てしまうような光景に出くわした。
眼前に広がるのは、どこまでも続く大海原。草花に縁取られた道の向こうから、濃い青一色の海面に生じる白い波の音がここまで聞こえてきそうだ。
「夏海の世界にも海があるのか?」
「ありますよ。でも、ここみたいに綺麗なところはあまりないんですけど」
環境破壊に物申したくなるほど、その光景は圧巻だった。眩しい陽光を反射して輝く波は絵に描いたように美しく、そよぐ潮風が臨場感を演出してくれる。
適当に撮影した写真を並べただけで個展が開けそうな海岸線には、一切の不純物が存在していない。インドア派のあたしは、名前に海の字を持っていながら海に来たことなんてほとんどない。
けれど、今は素直に喜びを感じている。目前の美しい景色もその一因なんだろうけど、何よりも大きい理由になっているのは。
「夏海、楽しそうだな」
向けられる微笑に、また一回り理由が大きくなる。信頼できる人と見る景色は確かに違う意味を持つ。
「世話になる宿は海沿いにある。そこからの景色も抜群だぞ」
「じゃあ、早く行きましょう! えっと……あっちでしたっけ」
「よく知っているな。地図を覚えているのか?」
「全部じゃないですけど、テオドラさんに迷惑かけないでついてけるくらいには」
「そうか……少しは頼ってくれてもいいんだけどな」
「……えっ?」
途端に言葉を詰まらせるあたしたち。チラチラと窺う流し目同士がぶつかって音でも立てそうだ。
テオドラさんが固まっているということはさっきの言葉に何か深い意味があったということで、それを意識した途端にあたしも鏡写しのように硬直してしまう。
吹く風はとても弱いのに、なぜだか顔の向きが少しずつ変な方へ持っていかれてしまう。海に来て泳ぐのは視線ばかりだ。
「と、とりあえず宿へ向かうとしよう」
「そ、そうですね」
未だ互いの様子を窺う素振りを崩せぬまま、あたしたちはギクシャクと歩を進める。磯の香りで錆びるような部品なんて人体にはないはずだけど。
歩いていると周囲の景色が徐々に変わっていく。自然の色が薄れ始め、人工的な建物が行く手に見えてきた。人の気配は感じられず、海風とは違う冷たさが漂っている錯覚さえ感じてしまう。
一見すると来る場所を間違えたかと思うほど辺鄙な雰囲気だけど、もちろんそんなことはない。ここが港町の倉庫が集まる一角だということは予習済みだ。このまま突っ切った先に市街地がある。
倉庫がレンガ造りなのは異世界でも共通なのだろうか。無機質さが溢れる建物たちに囲まれて歩く。あたしたちの足音がよく聞こえるくらい静かで、なんとなく振り返ってみたけど誰もいない。
それはあたしにとって幸運なことなのか、むしろ誰かいた方が意識を散らすことでこんなことにはなっていなかったかも。そんなことを考えたら一体どっちがいいのかなんてわからない。
だけど、結果として今の状況は正直そんなに嫌じゃない。むしろ嬉しいくらいだ。これはもう、テオドラさんと二人きりだとも言えるんじゃないだろうか。
少しだけ余裕が生まれたので、落ち着いた風でテオドラさんに目線を向けてみる。歩き方は普通だけど、横目でチラチラこちらを窺っている。あたしは逸らさずじっと見ていたので、視線が何度も衝突と離別を繰り返していた。
あんなに忙しく目を動かしたらあたしなら酔っちゃいそうなんだけど、さすがテオドラさんは三半規管も強いようだ。あとなんだか警戒心が強い小動物みたいでますます目が離せない。
「んー……」
短い唸りの理由は簡単。さっきまで変な歩き方をしていたせいで微妙に開いたテオドラさんとの距離が気になったのだ。万が一はぐれてもいけないし近付いておこう。
あ、テオドラさんが瞬きの回数を増やした。目にゴミでも入っちゃったのかな。取ってあげたいけど、そろそろ人通りが目立ってきたから言い出しにくい。
結局そのまま眺める形になってしまう。近くで見るテオドラさんの横顔は、やっぱり見ていて飽きなかった。
――――
街並みの色は次第に喧騒を強くしていき、ラクスピリアにも負けないほどの繁栄が視界を占めるようになる。港町に人や物が集まるのはどこでも常識なのだろう。
潮風が吹く方へ目を向ければ広がる青い海。そして、反対側に広がるのは緑の山。まるで自然の要塞だ。あえてこういう立地を選んで町ができていったのかもしれない。
二つの自然に挟まれたこの町は、海からの人や物を集めるだけではなく、山道を進もうとする旅人に安全な道や宿を提供する役目を持っている……というのも事前に得た知識。
ここは絶好の場所に設けられた拠点と言うべきか。一石が四鳥くらいになっている。
「着いたぞ。ここが今日の宿だ」
あちこち眺めていたあたしの目は、テオドラさんの言葉に反応して一点を向いた。
「ここが……」
海に面した道沿いの宿は周囲よりも一回り背が高く、景色が楽しめるという言葉に嘘はないと確信させてくれる。
それより、外壁を見上げたせいで口が開いて間抜け面になってしまった。テオドラさんに見られていないだろうか。
こんな時はどうする。そうだ、話題逸らしだ。
「出張の時は、確かよく使わせてもらうんでしたっけ?」
「ああ、今日もいつものように話は既に通してある」
その言葉通り、宿の門をくぐると従業員らしき人が何人も待ってましたとばかりに頭を下げてきた。要人を迎えるみたいな態度に面食らいそうになるけれど、考えてみれば外交官って要人そのものだと思い立って踏みとどまる。
「これはこれはテオドラ様、お早いお着きで」
と、歓迎の列から一人の女性が踏み出した。髪を後頭部でまとめ上げて上品な着物に身を包む姿は、二時間ミステリードラマに出てきそうな旅館の女将さんそのものだった。妙な事件が起きないことを祈る。
「お待ちしておりました。日頃のご愛顧感謝いたします」
しゃなり、とした礼は美しいの一言に尽きる。やはりこの人がここの責任者か。着物で正確な体格はわからないけど、スレンダーな印象を受ける。年齢はあたしの母より少し上くらいだろうか。
言葉と共に差し出された手と、そこへ自然な流れで荷物を渡すテオドラさん。わあ、常連って感じがする。
「今回もよろしく頼む」
「それはもちろんです。ところでテオドラ様には珍しくお連れの方がいらっしゃるとか」
テオドラさんに向けられていた女将さんの視線があたしを捉える。探るような視線に、つい足が竦む。
だけど、いつまでも戸惑っていたらテオドラさんに迷惑がかかってしまう。人見知りなんて言ってられないぞ、とあたしも一歩前に出て頭を下げる。
「テオドラ様のリトリエ、光浪夏海と申します。本日は、どうかよろしくお願いいたします」
ゴテゴテな堅苦しい挨拶なのは自分でもわかっているけど、なにぶん慣れていないのでこれが精一杯だ。
この後どう続けようかなと思いながら顔を上げると、女将さんがすべてを理解していますよ、とでも言いたげな優しい表情をしていた。
「これはこれはご丁寧に。わたくし、当旅館の女将を務めさせていただいている者でございます。どうぞお見知り置きを」
ひとまずあたしの行動は間違っていなかったようだ。ほっと一安心。
「ナツミ様、お話はお伺いしております。なんでもジリオラ様がお呼びになった異世界の方だそうで」
どうやら、通してある話というのはそこまで網羅しているらしい。口下手な自分に鞭打つ必要がなくなったことに安堵しつつ、やっぱり名前の発音が少しおかしいと苦笑する。
「わからないことなどございましたら、遠慮なくわたくしどもにお申し付けください。遠路はるばるのご来訪、歓迎いたします」
「は、はい、こちらこそ」
かしこまった雰囲気に慣れてないのが丸わかりな軽めの礼をして、意識を散らすように視線を泳がせる。
女将さんの服装が和風だから内装も旅館っぽいのかと思いきや、透明なガラスや大理石みたいな壁が際立つ洋風の様相なのはミスマッチでもなんでもなくて異世界じゃ普通のことなんだ。きっとそうだ。
「部屋の準備はできているな?」
「はい、ご案内いたします。ナツミ様、お荷物を」
すっ、と向けられた手はふっくらと柔らかそうな質感を保ちつつも、旅館を切り盛りしてきた年季を感じさせる。
そこへ荷物を渡すのが普通なんだろうし、それが女将さんの仕事なのだ。けれど、あたしの手は鞄を離すどころか逆に強く握り締めている。
「えっと、大丈夫です。そんなに重いものでもないですし」
なんでそんなことを口走ったのだろう。考えより先に言葉が出たのはなぜだ。
重くないのは本当だ。あたしの荷物なんて着替えと細かい私物くらいしかないから大したことない。むしろテオドラさんの荷物の方が仕事関係のあれこれが入っているから、重さはもちろん重要度合いは比べるまでもない。
他に思いつく理由と言えば、なんとなく強がってみたとかこの鞄は元々テオドラさんの私物をこの出張がいい機会ってことでプレゼントされた思い出の品だとか色々浮かぶけれど、この中で考えるなら前者の理由が大半だろう。むしろなぜ後者の考えが浮かんだのか再度自分に問いかけたい。
「さようでございますか。それではお部屋までご案内を」
「待て、私も荷物を自分で持とう」
「えっ、しかしそれではテオドラ様が」
「いいんだ。大して重くもない。自分で持てる」
戸惑う女将さんから荷物を取り返すテオドラさんの様子は、見ていてなんだか微笑ましくなる。
そこには、いやそれ絶対重いよねとか急にそんなこと言い出して子供みたいだな――などと絶対口にはできない思いがあるのであたしは今それを必死に隠している。
まさかテオドラさんが強がったとか、あたしと一緒のことをしたいとか考えたなんてことはないだろう。そういう気分だったのかもしれない。テオドラさんって、たまに突飛なことをするところがあるから。
「夏海、行こうか」
振り返るテオドラさんの顔はなんだかやけに得意気だ。あたしの気がつかない間に何か仕事でも一つ成し遂げたのだろうか。
ともかく、この顔は嫌いじゃない。そんな目で見られたら嬉しいやら照れるやらで自然と頬が緩んでしまうので、頷いて返事をしながら表情を隠す。
――――
部屋は旅館の最上階に用意されているそうだ。さすがは特別待遇。
階段だったらさぞ大変であろう道のりは、一階奥にある特殊昇降機、つまりはエレベーターを使わせてもらった。便利な異世界だ。
体が上層へと持ち上げられている最中、あたしの思考はだた一つのことに集中していた。その根拠は、このエレベーターが奥まった位置にあることだ。普通の宿泊客はこちらへは来ないのだろう、というか来られないはず。
その推測はエレベーターを降りてすぐ確信へと変わる。
深々としたお辞儀であたしたちを迎えるボーイさんらしき人は黒服に身を包み、豪華なシャンデリアと赤絨毯に彩られたロビーへと導いてくれる。ここは本当にさっきの旅館と同じ建物なのか。
どう贔屓目に考えても場違い感が半端ない。無言の存在感で雰囲気を示してくれる静寂が、痛いほどにその事実を突きつけてくる。
「どうした、夏海?」
歩を鈍らせているあたしに気付いたテオドラさんが振り返る。ついさっき見せてくれた得意気な顔ではなく、わずかな心配を滲ませた表情に申し訳なくなる。
「いえ、なんでもないです」
こんなことで怖気付いてどうする。あさってにはフリアジークの偉い人に会うんだぞ。女将さんには悪いかもだけど、これは練習だと思ったっていいじゃないか。
早足気味にテオドラさんのもとへ近寄る。待ってくれていたおかげで、すぐに手が触れるくらいの距離になった。
あたしが追いつくのを待ってから歩き始めたテオドラさん。その手があたしの体に軽く当たってしまうのは必然だったのだろう。
「あっ」
小さな声は静かな空間で予想以上に響いたように感じられた。前を歩く女将さんは振り返ることなく進んでいるけど聞こえなかったのだろうか。それともあえてスルーしてくれたのか、あたしにはわからない。
確かなのは間近にいたテオドラさんには聞こえていたということだ。再度あたしの顔を見ながら、感触が残っているであろう手を中途半端な位置で止めている。
「……っ」
例えるなら、それは馬の目前に吊るされた人参だった。単純なあたしは、それが逃げてしまう前に手を伸ばして掴み取った。
慣れない空間にいる不安が、テオドラさんと一緒だという温もりに溶けていくのを感じる。
「夏海……」
テオドラさんは一瞬だけ驚いた様子を見せたけど、すぐに慣れ親しんだ優しい笑みに変わった。重なった手を体の横に下げながら、しっかりと繋ぎ直してくれる。
そして気付く。下げられた場所がちょうど荷物の陰になるところで、周囲からは視認しにくいであろうことに。
多分これも無意識というか偶然なのだろうとは思う。けれど、不意に生まれた二人だけの秘密は確かにあたしの心を落ち着けてくれた。
部屋に着くまでの短い戯事でも構わない。それが消えてしまう前に、深く心に刻み付けておくだけだ。




