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知って変わる世界

相談室



 保健室で着替えるように促された私は、保健の先生が手渡してくれた安物の下着とジャージに着替えて、担任の先生の到着を待った。


「……あれ。あんた同じクラスの奴じゃない?」


 ソファの上で慣れない下着にソワソワしていると、後ろから女の子の声がした。


「えっと、あなたは……」


「あー、あたし與微愛。一応同じクラスだけど、ほら。保健室登校ってやつ」


「ああ、あなたが……」


 顔は知らないが、名前は知っていた。

 体の大きな赤服黄熊は、机を2つ並べて使っているのだけれど、そのうちのひとつは與微愛という生徒のものなのだと聞いたことがある。


「あんたは何しに来たわけ? 別に具合悪そうには見えないけど」


「……いえ、ちょっと。色々あって……」


「漏らしたんでしょ?」


「……っ!」


 バレてる。


「あれだけ一生懸命下着洗ってればね。なに? ナプキン忘れたの?」


「いえ、そっちじゃなくて……」


「ああ、そっち? 大本命じゃん」


 與微愛は空気が読めるのか読めないのかは分からないが、何やら納得した様子を見せてからは特に追求することもなかった。


「そう言えばさ、テストどうだった?」


「……。」


「あんまりよくなかったの? あんた結構頭良いって、三崎先生が言ってたけど」


 與微愛の言う「結構」という言葉がチクリとプライドに針を入れた。

 地理のテストも、結局最後まで終わらなかった。

 良くて70点と言ったところだろうか。


「多分今回も秋梔夏芽が1番だと思う」


「秋梔! いがーい。あの人頭いいんだね。確かに利口そうな顔してるかも」


「そうね。……私はついさっき、その秋梔夏芽に頭から水をかけられたけど」


「……? なんで?」


 私は矛先を秋梔夏芽に変え、自分の話題から話が逸れることに心底安堵した。別の人間を非難させ、自分の心を守ろうとする……そんな矮小な自分に嫌気が差す。


「……私が彼の靴を汚してしまったからだと思う。あの男、すごい怒ってて、そのままペットボトルを頭の上でひっくり返して……」


 思い出すだけで、体の芯が冷える。

 もしかしたら、これから先はクラスメイトが全員、あのような視線を向けてくるかもしれないのだ。


「なんか残念だなあ。彼、良い人そうだったのにー」


 與微愛は首を傾げてそう言うが、きっと彼女は秋梔夏芽にまつわる噂話のあれこれを知らないのだろう。

 あの時の彼の冷たい眼を見ればきっと彼女にも分かる。彼は完全に私を見下していた。


『大丈夫。俺が守るから』


「……っ!」


 ふと、彼が最後に言った言葉が頭に浮かぶ。


 いや。あんなの嘘だ。

 人の頭に水を掛けた人間の言うことじゃない。

 実際、彼の行動はクラスメイトの視線を集め、私の事はきっと今頃クラスで話題に上がっている頃だ。


 ……でも、それならあの言葉にはどんな意味があったのだろうか。


「もしかしたら……」


 いや、ダメだ。期待なんかするな。

 絶望は──これ以上、望みが絶えるのは耐えられない。



 それからしばらく経って、三崎先生に呼ばれ相談室へと向かった。

 まさか、自分が入学して間もないうちに、お世話になるとは思わなかった。


「なぜ呼び出されたかは分かってるな?」


「はい」


「なら話が早い。秋梔夏芽には既に話を聞いているが一応お前の口からも何があったかを話してくれないか」


「はい。……実は私、テスト中にトイレに行きたくなって、それで……漏らしちゃったんです」


 まるで拷問でもされているような気分だった。

 改めて口にすることで、心に刺さった刃が沈んでいくように、深く、深く──抉っていく。


「はあ……。そういう事か。続けてくれ」


 先生は何故か溜息を吐いてから促すと、私に話を続けさせた。


 私はありのままを語る。

 心が砕けそうだったが、それでも、何とか紡いだ。


「なるほどな、大体のことはわかった。だが、秋梔の証言とお前の証言はかなり食い違ってるようだ」

 

「えっ……」


 私は全てを語った。ならば嘘をついているのは秋梔夏芽の方だ。


「あの、先生信じてください! 私が言ったことは!」


「ああ。そうだな。お前が言ったことの方が正しいんだろう」


 先生は意外にもあっさりと、私を認めた。


「……庇われたな」


「庇う?」


 ですか?


「秋梔夏芽の証言はこうだ。『今回のテスト、御手洗のテストをカンニングさせるよう命令したが、約束を破られたため、水をかけた』と」


「なん、ですか……? それ……」


 まったく、意味がわからない。

 そんな約束、した覚えもない。


「守ってくれたんだろ? お前を」


 守る?


『大丈夫。俺が守るから』


「それって……」


「秋梔は敢えて視線を集めて、みんなが見てる前でお前に水をかけた。つまり、お前の服が濡れていたのは、秋梔が水を掛けたからだと、クラスメイトはそう思っているわけだ」


「そんな……っ!」


「あたしが教室に駆けつけた時、秋梔が怒鳴られながらも早急に床をモップ掛けしていた理由がようやく分かったよ」


 三崎先生はどこか呆れたような苦笑いを浮かべる。


「一応、席の近い奴らにも話を聞いたんだが、お前の失態に気付いている奴はいなかったな」


 それはつまり、私はただの被害者で、失態が全て帳消しになったということになる。


 秋梔夏芽が私を守ってくれた……。


「なんで……どうして? 私を庇ったところでメリットなんてないのに……」


 私は敵意を隠そうとしなかった。

 自分がどう思われているかくらい、本人だって気付いていただろう。

 なのに、なんで私を……。


 ……っ! いいや、そんなことより!


「先生、そしたら秋梔夏芽、あいつはどうなるんですか?」


 彼は私に水を被せ、自らに罪を被せた。


 それが善意であれ、真実を知らない人からすれば、その行いは罪だ。そして罪には罰が与えられる。このままでは秋梔夏芽も只では済まない。


「さあな。まあ今日中にでも職員会議で話し合われる事になるだろうが、あいつが入学して以来この学園に及ぼした影響を考えると、4ヶ月の謹慎が妥当だろうな」


 4ヶ月……。


 秋梔夏芽はただでさえ出席日数が足りていないはずだ。

 それを学校側が知らないはずがない。つまりは……事実上の退学勧告だ。


「私のせいで……」


「お前のせいじゃねえ。お前の為だろ」


「どっちも一緒です!」


 為と所為。彼の心の在り方を考えれば大きな差だが「退学」という結果の前にはどちらも同じことだ。


「このままだと本当に退学に……先生、何とかならないんですか?」


「あ? なんだよ? なーに必死こいてんだよ」


 先生は心底つまらなそうな顔付きで言う。


「お前、秋梔のこと嫌いなんだろ? ちょうど良かったじゃねぇか。それとも、自分が原因であいつが辞めるのが気に食わねぇのか?」


「……。先生、なんでそんな意地悪言うんですか。彼は私の恩人です。……こんな私を、私を庇ってくれたんですよ」


 彼の優しさが胸に染みてゆく。

 きっと私のことだ。こんな事故さえなければ、私は彼に対する態度を反省することもなかっただろう。彼の優しさに気付くこともなく、ただ憎き敵として、彼を遠ざけ続けていただろう。


 でも。今なら分かる。ちゃんと分かるのだ。


「優しいんです……。私が見てなかっただけで」


 ぽろぽろと涙が零れる。

 彼は努力する人が好きだと言っていた。

 頑張りが報われる世界であって欲しいと、そう言っていた。


「……彼の優しさが報われないなんて、おかしいじゃないですか。先生、どうか職員会議では真実を伝えてください」


「いいのか? お前に頼まれずとも、私は真実を語ることになるだろうが、お前のその発言は秋梔夏芽の為であると同時に、あいつの優しさを否定する行為だぞ?」


 確かに先生の言う通りだ。全て正論だ。

 先生はいつも正しいことばかりを言う。第三者としての客観的な立場で中立で物を言う。

 だから先生にそれを指摘されるのは本当に辛い。


「彼の優しさに救われた私がそれを否定しようとしてるんですから、酷い裏切りと言ってもいいです。わがままにも程があるでしょうね。でも、嫌ってくれていいんですよ。私の事なんて」


 彼が退学にさえならなければ、謝罪の機会も、やり直す機会も、これから幾らだって得ていくことができるのだ。


「お前にそこまでの覚悟があるのなら私も何も言うまい。生徒たちには話が漏れないようにはするが、他の教員たちに知られるという事は理解しておけ」


「……はい!」


「よし。ああ、それとな、お前のテスト完全に水没しちまって、答案の丸つけが出来ない状態らしい。悪いけど、明日の放課後に改まって再テストを行うから準備しといてくれ。朝比奈がテスト1日目に休んだからな。教科は違うが一緒に受けてもらう」


「 わかりました」


「んじゃあ、私はもう行くから。お前は保健室に行って早退の準備をしとけ。鞄は後で誰かに届けさせる」


 ひと通りの連絡事項を伝えたあと、先生は折り畳まれた紙切れを一枚机に置いて部屋を出ていった。


 私はそれを手に取って開くと、印刷したかのように綺麗な字が綴られていた。


『お水掛けてごめんね。再テスト頑張って!』


 そう。それは秋梔夏芽からの手紙。

 散々疑って、敵視して、信じれなかった彼からの。

 自分を犠牲にしてでも私の社会的命を救ってくれた彼からの。

 優しさの結晶だった。


「ははっ。おかしいよ。こんなに温かな人が本当にいるなんて……」


 堪えきれなくなった涙でくしゃくしゃになった手紙を胸に抱いて泣きじゃくる。


「ひぐっ、うっ……うあああああああん」


 今度こそ、私の心は砕けた。



お読みいただきありがとうございます。

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次話もよろしくお願いいたします。

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